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お地蔵さん(地蔵菩薩)

お地蔵さん
お地蔵さん

お地蔵さんは、日本中の道端に立っています。
昔話でも笠地蔵をはじめ、何々地蔵というお地蔵さんがよく出てきます。
また、各地のお寺にも地蔵の仏像があったり、とげ抜き地蔵、いぼ地蔵、子安地蔵、子育て地蔵、延命地蔵など、色々な地蔵が親しまれています。
また、特に関西地方では、毎月24日は地蔵会(じぞうえ)といわれ、お盆に近い8月24日を地蔵盆(じぞうぼん)といわれます。
また俗に閻魔大王はお地蔵さんの化身ともいわれます。
お地蔵さんは、地蔵菩薩ともいわれますが、一体どんな菩薩で、本当は何のためにいるのでしょうか?

笠地蔵

まず、お地蔵さんの昔話で有名なのは、日本各地に色々なバージョンで広く伝えられている笠地蔵です。
それはこんな話です。

昔々あるところに、仲良しのおじいさんとおばあさんが住んでいました。
おじいさんとおばあさんはとても貧乏だったので、年の暮れになっても、年を越す準備ができませんでした。
そこでおじいさんは、自分で笠を作って、それを売って年を越そうと思い立ちます。
おじいさんは5つの笠を作ると、大晦日の日、それを持って、町へ行きました。
その冬はとても寒く、雪まで降ってきました。

おじいさんは雪の中、ようやく町にたどりつき、一日かけて笠を売り歩きますが、大晦日で忙しいので、誰も見向きもしません。
とうとう一つも売れずに夕方になってしまいました。
おじいさんは「ばあさんに何と言おう」と思いますが、仕方なく帰途につきます。

六地蔵
六地蔵

帰り道、ふと見ると、道端の6体の地蔵に、雪が積もっているのを見つけます。
お地蔵さんには、笠もなければ前掛けもありません。
さぞかし寒いことだろう
と思ったおじいさんは、親切に雪を払って、自分で作った笠をかぶせてあげます。
最後の1体には、
笠は5つしかないからこれで我慢してくだされ
とおじいさんのてぬぐいで、ほっかむりをつけてあげました。

やがておじいさんが笠を持たずに家に帰り着くと、出迎えたおばあさんは、
売れたのかい?
と期待します。
いやすまん。一つも売れなかった
それじゃ笠はどうしたんだい
帰りに途中でお地蔵さまが雪をかぶっておられたから、笠をかぶせてきた
期待が外れたおばあさんはちょっと残念でしたが、おじいさんの優しさに、
そうかい、そうかい、それはいいことしたねぇ
と気持ちがほっこりしたのでした。

その晩2人は、年越し蕎麦も食べられず、正月飾りもできず、もちろんお餅もおせち料理も作れずに、除夜の鐘を聞いて床に就いたのでした。

ところが、みんなが寝静まった頃、遠くから、誰かが雪道をおじいさんの家に近づいてきます。
おじいさんが足音に目を覚ますと、
あのおじいさんの家はどこだ
と何人かが話し合う声が聞こえます。
おじいさんは、怖くなりましたが起き上がろうと思っても、手足がしびれて起き上がれません。
うちには盗るものは何もないぞ
と思っていると、外の人たちは、おじいさんの家の前で立ち止まり、
ここだ
と言う声が聞こえます。
続いて、玄関でドッシーンと大きな音がすると、声は聞こえなくなりました。
大きな音と共に金縛りがとけたおじいさんが玄関をあけてみると、たくさんのお米や、野菜、着物や金銀財宝が積んであったのです。
そして、遠くのほうには、6体のお地蔵さんが帰っていくのが見えました。

おじいさんのお布施した笠のお礼だったのです。
こうして、おじいさんとおばあさんは、末永く幸せに暮らしましたとさ。

これが、典型的な笠地蔵の話です。
この笠地蔵のポイントはお地蔵さんが、6体であることと、お礼をしに来られたというところです。

他にも、お地蔵さんにまつわることわざがあります。

お地蔵さんのことわざ

お地蔵さんにまつわることわざには、
地蔵の顔も三度」と
地蔵は言わぬが我言うな
が有名です。

地蔵の顔も三度」は「仏の顔も三度」と同じ意味で、温厚な人でも、しつこく嫌がらせをすれば腹を立てる、ということです。

地蔵は言わぬが我言うな」は、秘密の話をした時、相手に誰にも言わないように口止めしたのに、うっかり自分が口を滑らせて秘密を漏らしやすいので、気をつけなければならない、ということです。
こんな話があります。

昔あるところに、愚かな男がいました。
その男が村はずれを通りかかると、お地蔵さんにまんじゅうがお供えしてあります。
どうせお地蔵さんはまんじゅうは食べられないから、オレが代わりに食べてやろう
その男はお供え物のまんじゅうを全部食べてしまいました。
お腹がいっぱいになって気分がよくなった男は、ふざけてお地蔵さんに言います。
お地蔵さん、このことは秘密ですよ、誰にも言わないでくださいよ
するとお地蔵さんは、
わしは言わぬ。そなたこそ言うでないぞ
と言いました。
びっくりした男は、慌てて家に逃げ帰りました。

ところがその男は、石でできた地蔵が、物を言うのだろうかと思い始めました。
そこで友達に
村はずれに地蔵あるじゃん、あの地蔵、実はしゃべるって知ってた?
と言ってみます。
はあ?ばっかじゃないか?
地蔵がしゃべるわけないじゃん。何言ってんの?大丈夫?
誰も相手にしてくれません。
それで男は、
いや、本当だって。お地蔵さんにお供えしてあったまんじゅうを食べた時に、このことは誰にも言わないでくだされと言ったら、お地蔵さんが、わしは言わぬ、そなたこそ言うなってしゃべったんだぞ
お前、お供え物食べたの?
こうして愚かな男は、お地蔵さんではなく、自分で秘密をばらしてしまったのでした。

この男は自業自得なのですが、ここから「地蔵は言わぬが我言うな」ということわざになったのです。

このようにお地蔵さんは、昔話になったりして、昔から日本人に親しまれているのですが、地蔵菩薩というのはどんな菩薩なのでしょうか?

地蔵菩薩とは

地蔵菩薩とは、どんな菩薩なのでしょうか?
まず仏教の辞典を確認してみましょう。

地蔵
じぞう[s:Kṣitigarbha]
菩薩ぼさつの名。
原語の kṣitiは大地、garbhaは胎・子宮で包蔵を意味するところから<地蔵>と訳す。
地蔵十輪経に「よく善根を生ずることは大地の徳のごとし」と記すように大地の徳の擬人化で、婆羅門教ばらもんきょうの地神プリティヴィー(Pṛthivī)が仏教に組みこまれ、菩薩の一つとなったものと考えられる。
地蔵がさまざまの現世利益げんぜりやくをもたらすと共に冥府の救済者とされるのも、大地の徳の擬人化によるのであろう。
またインドに地蔵信仰のあったことは、インドの仏教論書に地蔵を讃える経典の文句が引用されていることから疑いない。

【主要経典と地蔵信仰】
<地蔵十輪経>(玄奘げんじょう訳、唐)、<地蔵本願経>(伝実叉難陀じっしゃなんだ訳、唐)、<占察善悪業報経>(伝菩提灯ぼだいとう訳、隋、偽経説が有力)を地蔵三経と呼ぶが、ことに十輪経と本願経に地蔵信仰の特色がうかがえる。
すなわち地蔵は、釈迦しゃか没後、弥勒みろく出世までの無仏の五濁ごじょく悪世の救済を仏にゆだねられており、地獄をはじめ六道を巡り、閻魔えんま以下さまざまに姿を変えて人びとを救うという。
地蔵が菩薩でありながら一般に宝珠ほうじゅ錫杖しゃくじょうを持つ比丘びくの姿(声聞形しょうもんぎょう)で造顕されるのも、かかる地蔵の本願を示すものである。
これら地蔵経典に加えて、日本では平安末期以後、地蔵を冥府の裁判を司る閻魔王の本地ほんじとする<地蔵十王経>や、延命福徳を与えると説く<延命地蔵経>なども偽撰され、民間では現当げんとう二世にせの利益絶大で親近感のある菩薩として広く信奉された。
なお、中国では僧形でなく五冠を被り、九華山きゅうかざんを聖地とする。

このように、地蔵菩薩についてとても簡単に説明されていますので、
ここでは辞典には書かれていないところまで、分かりやすく解説していきます。

地蔵菩薩の地蔵というのは、インドの言葉で、クシティガルバを中国の言葉にしたものです。
クシティというのは、大地のことで、ガルバは胎ということです。
大地のように生み出すもののことで、何を生み出すのかというと、
地蔵十輪経』に、こう説かれています。

一切の善法を生ずるところ、また大地のごとし。
(漢文:一切善法生處又如大地)

人々に善をしようという気持ちを起こさせるのです。

地蔵菩薩の菩薩というのは、まだ仏のさとりを開いておらず、仏のさとりを目指して努力している人のことです。

お地蔵さんは、たいてい僧侶の姿をしていますが、それというのも、『地蔵十輪経』にこう説かれているからです。

その時、地蔵菩薩(中略)神通力をもって声聞像を現す。
(漢文:爾時地藏菩薩(中略)以神通力現声聞像)

声聞というのは、お釈迦さまのお弟子のことで、僧侶のことです。

地蔵菩薩
地蔵菩薩

さらに、右手に錫杖をもって、左手に宝珠を持っているのは、
左手に宝珠を持ち、右手に錫杖を就り、千葉の青蓮華に安住す
と『覚禅鈔』に引用された『地蔵儀軌』にあるからです。

地蔵菩薩について説かれたお経は、唐の時代の、西遊記に出てくる玄奘が翻訳した『地蔵十輪経』、同じく唐の時代の『地蔵本願経』、隋の時代の『占察善悪業報経』の3つが、特に「地蔵三経」といわれています。

この地蔵菩薩は、56億7千万年後に、弥勒菩薩お釈迦さまの次の仏として現れるまで、仏のいない時代に、人々を導くように、お釈迦さまから依頼を受けています。

その時のことが、『地蔵本願経』に説かれています。

地蔵本願経の内容

ある時お釈迦さまは、忉利天(とうりてん)という天上界にやってきました。
それは、お母さんのマーヤー夫人に教えを説くためです。
マーヤー夫人は、お釈迦さまを出産されてすぐに亡くなり、天上界に生まれ変わっていたのでした。

お釈迦さまがマーヤー夫人のもとを訪れると、一緒に教えを聞きたいと思って、数え切れないほどの仏や菩薩やが周りに集まって来ました。

その時お釈迦さまは、傍らの文殊菩薩に言われました。
今ここに集まってきた者たちは、地蔵菩薩にかつて導かれた者やこれから導かれる者である
文殊菩薩は、
なぜ地蔵菩薩は、こんなに数え切れないほどの人を導くことができたのでしょうか?
とお尋ねすると、お釈迦さまは、
地蔵菩薩は50段の悟りを開いてから、大宇宙を粉々にして塵とし、それぞれの塵がガンジス河の砂の数となり、それを千倍にしたよりも長い間、生まれ変わり死に変わり、修行を続け、多くの人々を導き続けているからである
それからお釈迦さまは、なぜ地蔵菩薩がそんなに長い間人々を救い続けているのか、地蔵菩薩の過去を説かれるのでした。

地蔵菩薩の過去

長者の子

「遠い昔、地蔵菩薩は、長者の子供として生まれたことがあった。
その時、すばらしい仏とめぐりあうことができた。
そして、その仏がすばらしいのは、多くの人々を救ったからだと知り、自分も六道に苦しむ人々を救うという誓願を立てたのだ」

仏縁深い娘

お釈迦さまは、さらに過去世に話を進めます。

さらに遠い昔、地蔵菩薩は、仏がすでに仏教を説いて亡くなった後に生まれた、仏縁深い一人の娘であった。
その娘は仏教を学び、信じていたが、母親は、外道を信じていたので、親孝行なその娘は、お母さんに仏教の話をしていたのだが、まだ仏教を信じないうちに死んでしまった。
その母親は、外道を信じていたために、無間地獄に堕ちたのだ。

娘は、お母さんは因果の道理を信じていなかったから、地獄に堕ちたのではなかろうかと不安になった。
そこで、すでに亡くなった仏の仏像が安置されたお寺へ行って、毎日、母親の居場所が知りたいと願っていた。
ある日、空中から声がした。
私はすでに入滅した仏である。そなたの母親の居場所を教えよう。自分の目で確かめるがよい
娘は気がつくと、そこは、浜辺であった。
海にはたくさんの人々が浮き沈みし、海に住む鋼鉄の生き物に喰われている。
そこに一人のがやってきたので、娘は尋ねた。
「ここはどこですか」
ここは地獄へ続く苦しみの海である
「私は地獄に行きたいのです」
地獄に行けるのは、仏の威神力を持つ者と罪人だけである
「私の母が地獄にいるはずなのです」
心配するな。そなたの母親は、3日前に天上界に生まれ変わった。
それというのも、そなたが親孝行な心と、仏の教えを守り、仏に布施をしたからである

気がつくと、娘はもとの世界に戻り、仏像の前にいた。
仏様、私は恐ろしい地獄に苦しむ人々を見て参りました。あのような罪に苦しむ人々を、私は未来永遠、仏のさとりに導きたいと思います
という誓願を立てたのだ。

地蔵菩薩へのお釈迦さまの委託

お釈迦さまが地蔵菩薩の過去世の話を終えられると、周りに幾億兆の数え切れないほどの地蔵菩薩の分身が現れたのです。

たくさんの地蔵菩薩
たくさんの地蔵菩薩

地蔵菩薩は、苦しむ衆生を救い続けるという誓願を立てたので、あらゆる世界に分身が出向いていたのですが、それらの分身たちが集まって来たのでした。
あらゆる世界というのは、生きとし生けるものが輪廻転生を繰り返す、地獄界、餓鬼界畜生界修羅界、人間界、天上界の6つの迷いの世界です。

地蔵菩薩は、それらの世界で導いた者たちも一緒に引き連れてきたので、お釈迦さまの説法を聞く人たちは、ますます増えました。
それらの人々は、お釈迦さまのお言葉を一言も聞き逃すまいと固唾を呑んで真剣に聞きいっています。

その時お釈迦さまは、こう言われました。
生きとし生けるものたちよ、私はこれまで言葉を尽くしてすべての人が救われる道を説いてきたが、導ききれなかった者たちが大勢ある。
それらの者たちは、自らの造った悪業によって、地獄や餓鬼に生まれ、恐ろしい苦しみを受けることであろう。
だが、私の死後、弥勒菩薩が現れて次の仏になるまでに長い時間がかかる。
地蔵菩薩よ、その長い仏のない時代に、苦しみ悩む人々を仏のさとりへ向かわせるがよい

弥勒菩薩が仏になるまで、あと56億7千万年かかると説かれているので、その間の衆生救済をお釈迦さまは地蔵菩薩に託したのでした。

地蔵菩薩はまた一人の地蔵菩薩に戻り、泣いていました。
世尊、私ははるかな昔から仏に導かれ、仏の智慧と神通力を頂いてまいりました。その智慧と神通力によって、これからも私はあらゆる世界に赴き、人々を導き続けます。
どうかご心配にならないでください

お釈迦さまは、「善いかな、善いかな、私はそなたを助けるであろう。
そなたが過去におこした誓願を成就する時、仏のさとりを開くであろう

と言われました。

マーヤー夫人の疑問

その時、お釈迦さまのお母さんのマーヤー夫人は、
どうして地球上の人たちは、地獄へ堕ちて苦しむのでしょうか
と地蔵菩薩に尋ねました。

マーヤー夫人、それは地球だからではありません。
どんな世界の人も、自分の悪業の報いは受けなければならないのです

それを聞いたマーヤー夫人は、
地蔵菩薩よ、どうか地獄について教えてください
と尋ねます。

地蔵菩薩は、無間地獄に堕ちる、父殺し、母殺し、仏身より血を出す、三宝を謗り、お経を軽んずるなどの罪を説かれ、無間地獄の苦しみのありさまを説かれました。
そして、なぜ「無間」というのか5つの理由を説かれます。
1つには、時間的に絶え間なく苦しみが続くから無間。
2つには、1人でも何千人でも堕ちることができ、形に制限がないから無間。
3つには、絶え間のない苦しみが与えられるから無間。
4つには、生前の男女、貴賎、貧富などの差別なく苦しむから無間。
5つには、苦しんで死んでもすぐに生き返り、絶え間なく苦しむから無間。

このような恐ろしい苦しみのありさまを聞いて、マーヤー夫人は、何も言うことができず、深く愁いたのでした。

地蔵菩薩が果たせない誓願を立てる理由

地蔵菩薩がお釈迦さまの方へ向き直り、
お釈迦さま、私は、弥勒菩薩が仏になるまで、六道のすべての衆生を導き続けます。
どうぞご心配なきよう

と言うと、お釈迦さまはこう言われました。
地蔵菩薩よ。人々は、心が定まらない。ばかりやっていた者を導いて、ようやくを行ったかと思うと、またすぐに悪に走る。
そして苦しみ迷いの世界を輪廻するのだ。
それはあたかも逃がした魚が自ら網に入ってくるようなものだ。
だからこそ、私の憂いは深く、永遠に果たせない誓願を立てた地蔵菩薩に、未来を託すのだ

その時、神々がお釈迦さまにお尋ねしました。
「お釈迦さま、地蔵菩薩は、これまでも何度も誓願をおこして、たくさんの人々を導いてきました。
それなのになぜまた誓願をおこすのでしょうか」
地蔵菩薩は、はるか昔から衆生を導いてきた。
それにもかかわらず、まだ苦しんでいる人が数え切れないほどいる。
これからも、人々の悪業はからみあっていくばかりだ。
だから地蔵菩薩は、今また誓願をおこさなければならないのだ。
地蔵菩薩は、これからも相手に応じて法を説くであろう。
殺生する者には、命が短くなる報いを教え、
泥棒をする者には、貧乏になる報いを教え、
悪口を言う者には、身内に争いが起きる報いを教え、
怒る者には、醜くなる報いを教え、
布施をしない者には、願いがかなわなくなる報いを教える。
不幸な運命は、因果応報なのだ。
そなたがたも、そのように教えて人々を導かなければならない

このように、地蔵菩薩が繰り返し誓願を立てなければならないのは、私たちがなかなか仏教を聞かず、仏の教えに従わないからだったのです。

地蔵菩薩が人々を救う方法

このように、地蔵菩薩は、お釈迦さまがお亡くなりになってから、弥勒菩薩が現れるまで、苦しみ迷いの6つの世界である六道に赴いて、生きとし生けるものを救済します。
だから、笠地蔵が六体だったり、六地蔵といわれて、よく6体の地蔵が並んでいるのは、それぞれの分身が六道を担当していることを表しているのです。

たまに、地獄の閻魔大王は、地蔵菩薩の化身といわれることがありますが、必ずしもそうではありません。
大方広十輪経』に、地蔵菩薩は、堅固の誓願力によって、一切の衆生を救済し、色々な姿を現すと説かれていますが、その中に閻魔の姿にもなると説かれていますので、地蔵菩薩の分身は、閻魔大王の姿になれるということです。
死んで裁判を受けるときに、
実は閻魔さまは、お地蔵さんなんでしょ
と言ってなれなれしくしたら、実は地蔵菩薩の分身ではない、本物の閻魔大王の場合のほうが多いと思いますので、注意してください。

では地蔵菩薩は、数限りもない分身となって、どのように人々を救済するのでしょうか。
すべての人が救われるまで仏のさとりを開かないと自ら誓ったとはいえ、まだ自分が仏のさとりを開いていない地蔵菩薩が、人々に仏のさとりを開かせる力はありません。
ましてや悪ばかり造っている者は尚更です。

地蔵菩薩は、仏教の根幹である因果の道理を教えて、人々を導くのです。
地蔵十輪経』には、こう説かれています。

あるいは種々にもしは少、もしは多、吉凶の相を執じ、鬼神を祠祭して
(中略)
極重の大罪悪業を生じ、無間の罪に近づく者あり。

(漢文:或執種種 若少若多 吉凶之相 祠祭鬼神 (中略) 生極重大罪惡業 近無間罪)

吉凶の相を執じ」とは、占いのことです。
鬼神を祭りて」とは、死んだ人間や動物の霊魂が、人間に幸せや不幸を与えると信じて祀ることです。
このような自業自得の因果の道理を信じない行いをして、無間地獄に近づいてはなりませんよ、ということです。
そして、『地蔵十輪経』には、お釈迦さまがあらゆる善を6つにまとめた六波羅蜜などの善い行いが教えられています。
ですから、お地蔵さんが、とげを抜いてくれたり、イボをとってくれたりするわけではありません。
仏教では、因果応報の因果の道理が根幹ですから、善い運命が欲しければ、自分でいろいろな善い行いに努力しなければいけないのです。

そして、このような善に最高に励んだとしても、私たちは天上界に生まれるのが上限で、苦しみ迷いから離れて永遠の幸せになることはできません。
苦しみ迷いから離れるには、苦悩の根本原因を知り、それを断ち切らなければならないのです。

では、苦しみ悩みの根元はどんなもので、どうすれば断ち切れるのかについては、
それは仏教の真髄となりますので、電子書籍とメール講座にまとめてあります。
ぜひ一度見てみてください。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生

日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか一人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。インターネットの技術を導入して日本仏教学院を設立。著書2冊。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと奮戦している。

仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者3千人、メルマガ読者5万人。ツイッター(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能

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