葬式の意味

現在、仏教というと、まず始めに葬式を思い出すほど、
仏教イコール葬式のイメージが定着し、
葬式仏教」と批判を受けています。
葬式とは一体何なのでしょうか?

葬式とは

葬式とは死んだ人を葬(ほうむ)る儀式です。
葬儀ともいわれますが、「」送「」礼の略で、同じ意味です。

親兄弟・子供など、家族が亡くなるほど悲しいことはありません。
一緒に過ごしてきたありし日々のことが色々と思い出されますが、
死は、もう二度とあえない永遠の別れとなります。

どんな人も、死を免れることはできません。
葬式は、故人との別れを惜しみ、
死後の世界への旅立ちを見送る儀式なのです。

では人生の最期、臨終を迎えてから葬式まで、
どんな流れになるのでしょうか?

危篤・臨終から葬式までの流れ

危篤、臨終から、葬儀までに何をするのかという流れを、
ここでは以下の10段階に分けて見てみましょう。

1.危篤
2.遺言
3.末期の水
4.死亡通知
5.安置
6.枕飾り
7.死に化粧
8.死に装束
9.葬儀社との打ち合わせ
10.通夜

それぞれどんなことをするのかは以下の通りです。

1.危篤

最近は病院で亡くなることが多いので、
医師から危篤を告げられると、
悲しみの中にも家族や直系の血族や
ごく親しくしていた親族には連絡して集まります。

2.遺言

危篤になっている人が何か言いたいときは、
枕元にいる人は書き留める用意が必要です。
意識がハッキリしていて、遺言状を作りたいというときは、
その準備をしてあげます。

3.末期の水

死期が迫ると、「末期の水」を取らせる習慣があります。
死に水」とも言われ、死の直前か直後に亡くなった方の唇を
割り箸に面を巻き付けたものや、小筆を使って
水で濡らします。

4.死亡通知

医師から臨終を告げられたら、
危篤を知らせるような人が周りにいなければ
葬式の日取りが決まらなくてもすぐに伝えます。

それらの人が集まったら、菩提寺に連絡を取り、
葬式の日取りを決めて、葬儀社に連絡します。

その他、亡くなった方の学校や会社、
関係する団体、隣近所にも知らせます。

5.安置

病院で息を引き取ると、一度、霊安室に運ばれます。
遠隔地での死去の場合は霊安室で通夜を行い、
火葬場に運んで遺骨だけ自宅に持ち帰って葬式という場合もありますが、
普通は自宅に運びます。

自宅へ帰ってくると、また自宅で亡くなったときは、
仏間か座敷に運びます。
その場合は、北枕といって、頭が北になるように寝かせます。
ブッダがお亡くなりになられるとき、
頭を北にされていたと伝えられるからです。

仰向けにして、「面布」といわれる白布を顔にかけておきます。

6.枕飾り

遺体を安置したら、枕元に小さな机を置き、白布をかけて
花瓶、香炉、燭台の三具足(みつぐそく)を用意します。
そして花を飾り、灯明をともし、香を焚きます。
そして、納棺までに僧侶に枕経をあげてもらいます。

7.死に化粧

納棺の前に、湯灌をして死に化粧をします。
湯灌は昔は文字通りお湯を使いましたが、現在ではほとんど使われず、
ガーゼや脱脂綿に含ませたアルコールで拭き清められます。
また、耳や鼻や口、肛門などら汚物が出ないように脱脂綿がつめられます。

その後、女性なら薄く化粧をしたり、
男性なら髭を剃ったりして死に化粧をします。

8.死に装束

その後、経帷子を着せ、三角巾を額にあてます。
三途の川の渡し賃といわれる六文銭の入った頭陀袋を首にかけます。
手には手甲をつけて、杖を用意します。
足には脚絆を巻いて、足袋、草鞋を履かせます。
浄土真宗の場合は、冥土の旅に出ると考えないので、
故人の好きだった服や浴衣を着せます。

そして、手に数珠をかけて合掌させます。

9.葬儀社との打ち合わせ

都市部では葬儀社に依頼するのが一般的になっており、
死亡通知、火葬場の手続き、車の手配、棺の用意、祭壇の写真など、
あらゆる世話をしてくれますので、
何を任せるのかを判断します。

日程は、午前中になくなった場合は、その日にお通夜、翌日に葬式となり、
午後に亡くなった場合は、翌日の晩にお通夜、その翌日が葬式となります。

親類縁者や故人の生前縁のあった人たちが
できる限り参列できる日取りを選びますが、
遺体の腐敗の問題があります。

そのため、「本葬」を後にして、身内だけの葬儀を行い、
遺体を火葬にする場合があります。
これを「密葬」といいます。

10.通夜

臨終から葬儀までの間に通夜が行われます。
肉身や縁の深かった人が集まり、
最後の一夜を静かに見守り、遺体の番をします。
このときは、特に故人の死を通して、
自分の人生にもやがて死がやってくることを考えさせられますので、
僧侶によっては、通夜の席で法話があります。
それによって、普段忘れがちですが、
誰にとっても100%確実な死の問題を
自分のこととしてとらえ、
生きる意味を見つめ直す縁になります。

その後、葬式となります。

葬式の流れ(式次第)

生ある者は必ず死に帰す
といわれるように、どんな人も、
最後は必ず死んでいかなければなりません。

葬式は、故人との最後の別れを惜しみ、
死後にはよい世界に生まれて幸せになって欲しいという
冥福を祈る意味があることでしょう。

それと同時に忘れてはならないのは、
やがて自分も死後の世界に行かなければならない
厳粛な無常を見つめて、人生を考える縁とすることです。

葬式の式次第自体は、宗派によって様々ですが、
一般的には以下のようになります。

1.遺族・親族・参列者入場、着席
2.導師入場
3.開式の言葉
4.読経
5.読経中に焼香
6.弔辞・弔電
7.法話
8.導師退場
9.遺族の挨拶
10.出棺

ところで、このような葬式は、
ブッダの説かれたお経に何か根拠があるのでしょうか?

ブッダは葬式をされなかった

仏教を説かれたブッダの当時は、
出家した人は、一般人の葬式は自分の親のみ
かかわることになっていました。

そのためブッダは、
お父さんの浄飯王が亡くなられたとき、
棺を担ごうとされたということや、
雑一阿含経』では、育ての親の棺を自ら担がれた
ということはありますが、それ以外では
葬式をされたことは全くありませんでした。

ご自身の死についは、
世は無常であり、生まれて死なない者はない。
今わたしの身が朽ちた車のように壊れるのも、
この無常の道理を身をもって示すのである。
いたずらに悲しんではならない。
……仏の本質は肉体ではない。
……わたしの亡き後は、わたしの説き残した法がおまえたちの師である

と説かれています。

さらに、ブッダがお亡くなりになるとき、
お弟子の阿難に、遺体をどうしたらいいか尋ねられたときには、
お前たはそんなことを心配しなくても、在家信者がやってくれるだろう。
出家の者はそんなことにかかわらず、
 正しい目的のために精進すべきだ

とお答えになっておられます。

ですから、現代の日本で、
僧侶が一般人の葬式を本職のようにしているのは、
だいぶ仏教の教えとは異なります。
仏教イコール葬式というのは、間違いなのです。

ではなぜ、日本の葬式は僧侶が行っているのでしょうか。

日本の葬式仏教の起源と歴史

日本語の「葬る」を「ほうむる」と読むのは、
放置するとか、放棄するという意味で、
古代の日本では、豪族は古墳を作ったりしましたが、
ほとんどの人は死体をそのまま捨てたり、
土葬にするのが一般的でした。

大化の改新のときの、葬式やお墓を無駄に大きくしないための
薄葬令」を見ると、一般人の死体は放置したり散乱したりしてはいけないと
定められていますので、当時はよく路傍にうち捨てられて散乱していたようです。

平安時代になると、仏教が広まっていき、
死んだら極楽浄土往生したいと思う貴族が増え、
仏式の葬式が増えてきます。
ただし仏教には、臨終の儀式で極楽へ往けるという教えはありません。

やがて室町時代くらいになって農民が自立すると、
一般人も葬式を行うようになります。
日本人は、死を穢れとして極端に忌み嫌う傾向にあるのですが、
この頃、僧侶が葬式を行うようになります。

一般的にはと檀家の関係の確立する江戸時代中期以降に
習慣として定着しました。

このように、葬式というのは、
仏教の教えには根拠がなく、
日本の習慣です。

日本の高僧たちの葬式に対する思い

ブッダは、2600年前のインドの方で
このような日本の習慣はご存じなかったのですが、
日本の高僧はどう言っているでしょうか。
3人見てみましょう。

1.真言宗の空海

真言宗の開祖、空海は自らの死期を自覚すると、
3月15日に弟子達を集めて遺言を残しました。
それを『遺告真然大徳等』にこう記されています。
まさに今諸弟子等、あきらかに聴け、あきらかに聴け。
われ生期今いくばくもあらず。汝らよく住して慎んで教法を守れ。
われ永く山に帰らん。われ入滅せんと擬するは、今年3月21日寅の剋なり。
諸の弟子等悲泣を為すことなかれ。
われもし滅すとも帰住して両部の三宝を信ぜよ

これは、空海もまた、ブッダと同じような態度で死を迎えているということです。

2.曹洞宗の道元

禅宗でも同じです。
曹洞宗の開祖、道元の言葉を弟子達がまとめた
正法眼蔵随聞記』によれば、
「忌日の追善中陰の作善なんどは皆在家に用うる所なり。
衲子(のうす)は父母の恩の深きことをば実の如くしるべし。
余の一切もまたかくの如しと知るべし。
別して一日をしめて殊に善を修し、
別して一人を分て廻向するは仏意にあらざるか」
とあります。

「衲子」とは、衲衣を来ている人のことで、
禅宗僧侶のことですから、道元が言っているのは、
死者の追善供養や中陰法要といった儀式は、在家の人々がやっていることである。
禅宗僧侶の場合は、父母に恩はもちろん忘れてはならないが、
特定の日の父母のために回向の儀式を行うことは、
ブッダの真意にそわないのではなかろうか、
ということです。
これはブッダの心を汲んで、僧侶に対して葬式や法事を戒めているように聞こえます。

道元は「修証義」の最初に
生をあきらめ、死をあきらむるは、仏家一大事の因縁なり
と言っていますので、曹洞宗では、仏教の問題とするところは、葬式ではなく、
自分が生死を解決して変わらない幸せになることだったのです。

3.浄土真宗の親鸞

日本で最大の仏教の宗派である浄土真宗を開いた親鸞聖人も、
私は亡き両親の追善供養のためには、一巻のお経も、
 一回の念仏もとなえたことがないのだよ
」とか、
私が死んだら、賀茂川へ捨てて、魚に与えよ
と言われています。

これは、ブッダが説かれた仏教の教えは、
死んだ人を供養するためのものではなく、
生きている人が、生きているときに本当の幸せになる
生きている人のための教えなのだから、
死んで葬式するよりも、
生きているときに仏教を聞きなさい、

ということです。

このように、ブッダをはじめ、一宗一派を開くような高僧方は、
葬式よりも、生きている人が生きているときに
本当の幸せになることを重視していたのです。

葬式の本当の意味は?

では、葬式は無意味で無駄なものなのでしょうか?
そうではありません。

現在の日本では、葬式が行われるとなると、
会社さえも休んで親戚一同集まってきます。
多くの人が集まる機会ですので、
仏教を聞くご縁にすれば、
正しい目的に向かうブッダの教えにもかない、
葬式が大変有意義なものになるのです。

仏教は、生きている人が幸せになるための教えですから、
葬式を行う意味は、
無常を観ずるは菩提心のはじめなり
と言われるように、 亡くなられた方をご縁に無常を見つめ、
すでに本当の幸せになった人は仏教を伝えるご縁とし、
まだ本当の幸せになっていない人は、
仏教を聞くご縁とすることです。

しかし、仏教を学ぶのに、葬式を待つ必要はありません。
仏教に教えられる、本当の幸せになれる道は、
小冊子と無料のメール講座にまとめましたので、
今すぐ、仏教の教えを知り、本当の幸せに向かうようにしてください。

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