一休さん(一休宗純)

とんち話で有名な一休さんは、テレビアニメでも大人気でした。
モデルは室町時代の僧侶、一休宗純(そうじゅん)(1394−1481)です。
天皇の血を引いているといわれますが権力が大嫌いで、持ち前の頭の良さで、権力者をやりこめます。
変わった言動が多く、数々の逸話が一休話として残されています。極めつけは、もともと禅宗だったのに、最後は浄土真宗に改宗したこと。一体何があったのでしょうか?

とんち小僧の一休

一休さんは天皇の子供

一休さんは、天皇の血を引いているといわれています。
お母さんは、藤原照子という人でした。
伊予の局といわれて、後小松天皇の御所で寵愛を受けていました。
それをねたんだ人から、
懐に短刀を忍ばせて、天皇の命を狙っている
を流されたので、嵯峨野にひきあげて子供を産みました。
それが一休さんです。幼名は千菊丸といいました。

千菊丸は、お母さんと乳母に育てられましたが、
6歳で京都の安国寺という大きな禅宗の寺に入れられ、
像外(ぞうがい)和尚のもとで暮らすことになりました。
そこで「周建(しゅうけん)」という名前をもらい、小僧の仲間入りをします。

小さい頃から賢かった周建には、沢山の逸話があり、このあたりのことが、テレビアニメにもなっています。本当は小さい頃は「周建さん」ですが、わかりやすいように「一休さん」と呼んでいるのです。

皮をつけたもの入るべからず

お寺には、夕方になると毎日やってくる人がありました。
織物屋の主人の久兵衛さんです。
久兵衛さんは、和尚さんと夜遅くまで碁を打って、なかなか帰りません。夜中の1時2時までいるときもあります。
朝早く起きる小僧達には実に迷惑でした。
そこで一休さんは、お寺の門に
皮をつけたものは寺に入るべからず。入ればばちあたるべし
と張り紙をしました。

久兵衛さんは、
「どうせ周建のいたずらだろう。
何か言ってきたら逆にやりこめてやろう」
と入って来ました。

すると案の定、周建が出てきて、
「張り紙はご覧になられましたか?」
と言います。
「はいはい、見ましたよ」
「お寺は仏様を御安置する清らかなところです。
殺生をした毛皮を着た人に入られると汚れますのでお帰り下さい」
「それはおかしなことです。
ほら、本堂にある、太鼓は皮がはってあります。
太鼓がいいなら私も入らせて貰いますよ」
「お待ち下さい。奥へ入ると頭を叩きますよ」
「それは無茶な」
「いえいえ、本堂の太鼓は、皮が張ってあるので、毎日ばちで叩かれているのです。
それでいいならお入り下さい。
さあみんな、太鼓のばちを持ってこよう」
小僧たちがわっと本堂へ走って行きました。
「いやいや参った。それなら帰ります」
こうして、久兵衛さんはたまにしか来なくなり、来たときは早めに帰るようになったといいます。

このはし渡るべからず

やがて久兵衛さんから、食事の招待がありました。
和尚さんと一緒に周建さんも、とあります。
一休さんは、
「この間やりこめたのにどうしてだろう」
と思いましたが、食事に招かれたときは、お寺では食べられないご馳走が食べられるので、喜んで久兵衛さんにお呼ばれすることにしました。

山の上から降りていくと、川の向こうに久兵衛さんのお宅があります。
ところが、橋の前に、
このはしわたるべからず
と立て札が立ててあります。

一休さんは、
「これは仕返しだな」
とピンときました。
和尚さんは、
「どこかが壊れて板が抜けるのかな。この橋を渡らないと久兵衛さんの所へ行けないし」
と困っています。

「和尚さま、大丈夫です。
私が試しに渡りますから、後をついてきてください」
と、ずんずん歩いて行きます。
和尚さんもこわごわついていきました。
無事渡りきって久兵衛さんの所につくと、
「あの立て札が見えませんでしたか?」
とニコニコしています。
「はい見ましたよ」
「なぜ橋を渡ってきたのですか?」
「はしを渡ってはいけないということなので、真ん中を渡って来ました」
久兵衛さんは和尚さんと顔を見合わせて、
「周建さんのまねをしていたずらしてみましたが、賢いのに驚きましたわい」
と笑いました。

将軍をやりこめる

一休さんのとんちは、だんだん評判になってきました。
やがて室町幕府の三代将軍、足利義満の耳にも入ります。
一休さんが8歳のある日、安国寺に将軍からの使いがきました。
「周建というとんち小僧を見てみたい。和尚と一緒に金閣寺に参れ」
和尚さんはびっくりして青ざめましたが、一休さんは
「すごいご馳走が食べられる」
と喜んでいます。

足利義満は、一休さんが生まれた年に将軍を降りて出家し、一休さんが5歳の頃から金閣寺に住んでいましたが、政治を執り行い、凄い権力がありました。
和尚さんは、
「うまく受け答えできなかったらどうなってしまうのだろう」
と夜も眠れないほど心配でした。

いよいよ当日、二人は広間に通されると、僧侶の姿をした足利義満が言いました。
「そなたが周建か。噂によればたいそう賢いそうじゃな。
それを見込んで一つ頼みがある」
「はい、何なりと仰せのままにいたします」
足利義満は近くの屏風を指さして
「実はこの絵の虎のことじゃ。
生きた虎のようにうまく描けておるのじゃが、夜になると本当に飛び出して、人にとびかかるので困っている。
周建よ、この虎をしばってはくれぬか!」
とニヤリとします。
周りの家来たちもあまりの無理難題に驚きあきれました。
和尚さんは、周建が何を言い出すか、心配でなりません。
周建は、
「承知致しました。それではすぐに虎をしばりますので、たすきと縄をお貸し下さい」
ぎょっとした足利義満は
「そうか、では誰かたすきと縄を持って参れ」
というと、家来があわてて持ってきました。

周建がたすきをかけて縄を持つと、屏風の前に進み出て、大声で叫びました。
「さあ、いつでもしばります。
どなたかこの虎を屏風から追い出してください」
「何?追い出す?」
「はい、夜になると飛び出すそうですが、今は私を恐れてか、飛び出してきません。
どなたか追い出してください」
これにはいかに権勢を誇る足利義満でも、返す言葉がありません。
にっこり笑った義満は、
「周建、もうよい。そなたの賢いのには感心したぞ」
「恐れ入ります」
隣で生きた心地がしなかった和尚さんは、ほっとしました。
こうして一休さんのとんちはますます評判になっていきました。

一休さんがやり込めるのは、商人や将軍だけではありません。
和尚さんさえもやりこめてしまいます。

和尚さんをやりこめる…時節到来

一休さんがやはり8歳の頃、外出した和尚さんの部屋へ行ってみると、兄弟子がオイオイ泣いています。
わけを聞くと、
「お師匠さんがいつも来客に見せて自慢されている足利将軍から貰ったというお茶碗、
いつか手に取って、ゆっくり見たいものだと思っていた。
留守の今日こそチャンスと箱から取り出して、つくづく見惚れているうちにどうしたことか、
落としてこんなになってしまったのだ」
と、真二つに割れた茶碗を両手でしきりにくっつけながら途方にくれて泣きじゃくっています。
「なあんだ、そんなことで泣いているのか。
だがな大変なことに違いはないが、こわれてしまったお茶碗だ。
今更クヨクヨしてもはじまるまい。
いやしくも禅宗の小僧たる者、瀬戸物の1つや2つこわした位で泣いては恥だ。
たとえどんなことがおきようと一滴の涙も見せぬのが禅僧のプライドじゃないか。
そりゃ泣けば茶碗が元通りになるのなら、大いに泣けばよかろうが、
いくら泣いてもどうにかなるものじゃなし、いい加減に泣き止めたらどうだ」

「そりゃ周建、理屈はそうじゃがいくら泣いてもどうにもならぬと思うから
余計に泣かずにおれんのだ。オレの身にもなってくれ!」

「気の小さい奴だな。とにかくお前は私の兄弟子だ。
兄弟のよしみということもある。
よし、オレがその茶碗こわしたことにしてやろう。
それなら泣くことはなかろう」

「本当かい周建、そりゃ有難い。
お前は平生からトンチがあるから、なんとかお師匠さんを丸めこんでくれ。
たのんだぞ周建。
その替り今度法事に出るオレの饅頭は、全部お前にやるからなー」

兄弟子の哀願に一休さん、出るやら出ないやら分らぬ饅頭を抵当に、
茶碗こわしのとが人役を引き受けます。
ところが一休さんは、壊れた茶碗を無雑作にたもとへポンと投げこんで、
そのまま本堂へ直行、いつものように遊びに無我夢中です。

夕方、像外和尚が帰って来ます。
早速、玄関に迎えに出た一休さんたちが、
「お師匠さま、お帰りなさいませ」
と、一斉に頭を下げました。
ニコニコ顔の和尚さんが気嫌よく言葉をかけます。
「おお周建か、今日もお前はいつもの悪戯ばかりやっていたのか」
「いいえいいえお師匠さま。今日は悪戯どころではありません。
一日中本堂で座禅工夫いたしておりました」
「なに、お前が座禅工夫とな。どうも怪しいものじゃ。
本当は本堂で寝ていたのではないか」
「とんでもございません、お師匠さま。
一心不乱に一日中座禅工夫しましたが、いまだに解けぬ難問がありまして‥‥‥」
「なんじゃ、その難問とは‥‥‥。言うてみよ」
「はい、それは人間すべて死なねばならぬのか、
中には死なずにおれるのか、生死是如何(しょうじこれいかん)、ということでございます」
「ううん、生死是如何か。それで周建、分かったのか」
「いやそれがまだ‥‥‥」
「そうか、お前は仲々の利巧者じゃが、まだ幼いのー。
 この際じゃ、ハッキリ知っておくのだぞ。
生あるものは必ず死す」とお釈迦さまも言われている。
 誰も死はまぬがれぬものなのじゃ。
お釈迦さまでも提婆でも、どんな英雄豪傑でもなー」
「死はそんなに恐ろしいものでございますか。
これで難問の一つが解けました。ありがとうございます」
「なんじゃ、まだ他に分からぬことがあるのか周建」
「はい。もう一つの難問は、この世の物は必ずこわれるものか、
中には永久にこわれぬ物があるのでないか。
物の生滅是如何(しょうめつこれいかん)、ということでございます」
「はは‥‥‥、利発者でもやはり子供じゃのー、
そんなつまらぬことを考えていたのか。
確と教えておこう。この世の一切の物は必ずいつかは滅するものなのじゃ。
これを是生滅法(ぜしょうめっぽう)とお釈迦さまは教えておられる。よくよく知っておきなさい」
「でもお師匠さま。特別に大切な物を大事に大事にしていても、
それでもこわれることがあるのでしょうか」
「そうじゃ。いかに大事な物でも時節到来と言うことがあってなー、
こわれる時節がくると必ずこわれるものなのじゃ」
「はあ!それではお師匠さま。
時節到来するとはなんと恐ろしいことでございますねえ」
「恐ろしいものじゃ。
仏さまのお力でもどうることもできぬのじゃからのー」
「これで今日一日苦しんだ難問のすべてを、よく分らせて頂きました。
生れた者は必ず死ぬ。形あるものは必ずこわれる。
これが大宇宙の真理でございますね」
「さようじゃ。もう間違いない道理なのじゃ」
「なるほど、してみると大事な人が死んだからといって泣いたり悲しんだりして心を乱さず、
大事な物がこわれたからといって怒ったりわめいたりせず、
時節到来ときっぱり諦めるのが悟りというものでございますね」
「さようさようお前の言う通りじゃ」
「ありがとうございましたお師匠さま。
それにつけても悟りの開けたお師匠さまの弟子である私達は、
なんと幸せ者でございましょうか」 「おいおい、そんなにワシをおだて上げても何も出ないぞ。だまらっしゃい」
「いいえ、お師匠さまから出されなくても、こちらから出させて頂きます。
実はかくのごとく時節到来いたしました」
すました顔で一休さんが、例の茶碗を袂の中から取り出して和尚さんの前に並べました。
驚ろいたが今さら叱るわけにもいかない和尚さんは、
もう、時節到来したか
ただ一言いったといいます。

一休さんの修行時代

そんなこんなで色々ありましたが、安国寺の像外和尚は、跡継ぎは一休さんしかいないと思い、本を読ませたり、質問に答えたりしていました。
一休さんがあんまり熱心に勉強するのでだんだん質問に答えられなくなります。
11歳頃から清叟仁(せいそうじん)和尚から学問を、慕哲(ぼてつ)和尚から漢詩を学びます。

一休さんの学問はどんどん進んで行くのですが、
和尚さんから、ちょくちょく
「たくさん学問をして偉いお坊さんになりなさい」
といわれます。
あまりにそう言われると、一休さんは、それは仏教の教えとは違うのではないだろうか、
と思い始めます。

当時、幕府は禅宗の寺を保護していました。
一番格上の寺が五山といわれる5つの寺、その次が十刹といわれる10の寺です。
これを「五山十刹(ござんじっせつ)」といいます。
幕府の保護があるのでお金はありましたが、住職を決めるのは幕府でした。
その上、第4代将軍義持になってから、住職になるには幕府にお金を納めなければならなくなります。
修行よりも、お金や地位を求める僧侶が多くなりました。
安国寺も十刹の一つで豊かな寺でしたが、やはり例にもれず、和尚さんはお寺を大きくしたいと考えていたのです。
ところがお金や地位で、幸せにはなれないと教えられているのが仏教です。
一休さんは、みんな自分のことしか考えていないことに気づいて、自分はそうはならないぞと心に決めたのです。

17歳で謙翁へ入門…宗純の名をもらう

処世術に力を入れる周りの僧侶たちに疑問を抑えきれなくなった一休さんは、17歳の時、安国寺を出て、西金寺の謙翁宗為(けんおうそうい)に入門しました。

謙翁和尚は純粋禅という禅を受け継ぎ、学問も修行もよくできた人でしたが、西金寺は幕府の保護はないので托鉢によって生活する非常に貧しい寺でした。
そこで厳しい修行を始めますが、1年ほどたったとき、謙翁和尚は病に倒れます。
托鉢をする上に、薬をもらってきて看病もする生活となりました。
そんな生活が3年ほど続いたある日、
「わしはもう長くはないが、そなたにはすべてを教えた。
今のうちに名前を授けよう。わしの宗為から一字とって『宗純』じゃ」
「宗純の名、ありがたくいただきます」
「今純粋禅を受け継いでいるのは、大徳寺の華叟宗曇(かそうそうどん)一人。
わしが死んだら華叟和尚を訪ねるがよい。
今は煩わしい寺住まいを嫌って琵琶湖畔にわずかな弟子と暮らしておられる」
こうして手厚い看病を続けたのですが、一休さんが21歳のとき、謙翁和尚は亡くなりました。

一休さんは西金寺に謙翁和尚を葬ると、魂が抜けたようになって、一度帰省し、華叟和尚の元に向かいました。
途中、生きる気力を失って、琵琶湖畔を歩いていたとき、琵琶湖に入っていって自殺をはかります。
ところが、心配して家からついてきていた乳母に助けられました。
こうして華叟和尚の寺へ着いたのです。

22歳で華叟に入門…一休の名をもらう

華叟に弟子入りを願い出た一休さんは、すげなく断られてしまいました。
禅宗では、祖師の達磨に弟子入りを願い出た二祖の慧可が、腕を切って入門を許された故事から、そう簡単に入門は許されません。
一休さんは、雪の降る中、5日間、門の前に座り続けました。
6日の朝、華叟和尚が門から外出します。
そこで弟子入りを願い出ると、和尚は弟子に
「水をかけて追い払え」
と命じます。

本当に水をかけられ、体の芯まで冷え切った一休さんでしたが、それでもそこに座り続けます。
昼頃になって華叟和尚が帰ってきたので、また弟子入りをお願いすると、
「なんじゃ、まだいたのか。わしの修行は厳しいぞ」
ついに弟子入りを許されたのでした。

こうして、また厳しい修行生活が始まりました。
華叟和尚のもとでは、托鉢に加え、内職もしました。
ひな人形に色づけしたりする手仕事です。
そんな修行が3年続いたとき、華叟和尚から公案が出されました。
公案とは、禅宗の修行をするときに考える謎かけです。
「禅宗の一派、曹洞宗を開いた中国の洞山という僧侶が雲水だった頃、遠き道のりを越え、ある有名な禅師を訪ねると『お前はどこから来た?』ときかれた。洞山が、山を越えてきた寺への道のりを答えると、『そんなことを聞いているのではない、棒で叩いてやりたい所じゃ』とといわれた。『どういうことでしょうか?』と聞き返すと『愚か者!』と一喝された。それを聞いたとき、洞山は悟りを開いた。何をどう悟ったか」

一休さんは答えが皆目わからないまま、修行を続けました。
ある日、琵琶法師の平家物語が聞こえてきます。
平清盛の寵愛を受けていた祇王が、仏御前にとって変わられ、出家した話です。
それを聞いていたとき、公案が解けました。
華叟和尚のもとへ行き、
有漏路より無漏路に帰る一休み
 雨ふらばふれ 風ふかばふけ

と詠みます。

有漏路」とは煩悩の多い苦しみの世界です。
無漏路」とは、煩悩のない悟りの世界です。
仏教の教えによって悟りを開けば、有漏路から無漏路へ帰る一休みだから、どんなことがあっても苦にならない
ということです。

それを聞いた華叟和尚は、
「なるほど、さすがじゃ」
と満足そうにうなずき、
「それならこれからは『一休』と名乗るがよい」
と一休の名前をいただき、その後も修行を続けます。

やがて26歳のある日、琵琶湖に小舟を浮かべてで夜通し座禅を組んでいると、真っ暗な中で烏が一声鳴きました。
それを聞いたとき、さとりを開いたといわれます。

このことを華叟和尚に話すと、
修行を終えた証明書である「印可」を授けられますが、一休さんは辞退します。
こうして修行を終えた一休さんは、やがて34歳のときに華叟和尚が亡くなると、旅に出て、数々のエピソードを生み出すのです。

大人の一休さんの逸話

一休さんと門番

一休さんが、京都の富豪から法要の招待を受けました。
前日に、たまたま前を通ったので、ちょっと立ち寄ると、一休の顔を知らない門番は、こわい顔してどなりつけました。
「これこれ乞食坊主、物がほしいなら裏から入れ」
「いやいやワシはちょっと、この家の主人に会いたいのだ」
「バカなことを言うな。おまえのような乞食に、この大家のご主人が会われると思うのか」
 みすぼらしい身なりから、てっきり乞食坊主と思っています。
「おまえは門番だろう。客人を案内するのが役目ではないか。
面会したい者がいると告げたらよい」
「なにを、なまいきなことをぬかすやつ」
 激昂した門番に、たたきだされた一休。
翌日、紫の法衣を身にまとい、お弟子を連れて門前に立つと、昨日の門番も、神妙に頭をさげて迎えています。
「ご主人、昨日は、たいへんご馳走になってのう」
 奥座敷に通された一休は、ニヤリと言います。
「へえ、昨日、お立ち寄りくださいましたか」
「ちょっと用件があってのう。主人に会いたいと言ったら、乞食坊主にご主人が会われるかって、追いだされましてなあ」
「それはそれは、知らなかったとはいえ、ご無礼いたしました。
どうしてまた、そのとき、あなたさまのお名前を、おっしゃってくださらなかったのでしょう」
 平身低頭する主人に、紫の法衣を脱ぎすてた一休さん。
「この一休には、なんの価値もない。
紫の法衣に価値があるのだから、この法衣に、お経を読んでもらったらよかろう」
法衣を置いてサッサと帰ってしまったといいます。

一休さんは、中身のない僧侶が紫の衣で着飾って、権勢を誇っているのを嫌って、身なりなんかで、人間の価値がわかるものではないのだから人は、決して身なりで判断してはならないと教えたのでした。

がいこつを持って京都の町を歩く

一休さんはこうした風変わりな言動で、人々に仏教を教えを伝えて回りました。
 ある年の正月、一休は杖の上にしゃれこうべをつけて、
ご用心、ご用心
と京都の町を歩きます。

「一休さん、正月そうそうなんですか」
と尋ねると、
門松は 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし
という歌を詠んでいます。

冥土」とは死後の世界のことです。
一日生きたということは、一日死に近づいたということですから、生きるということは、死へ向かっての行進であり、「冥土への旅」なのです。
年が明けると、みんな「おめでとう」「おめでとう」と言います。
しかし一年たったということは、それだけ大きく死に近づいた、ということですから、元旦は冥土の旅の一里塚なのです。 「うかうかしていると、人間はたちまちがいこつになってしまうぞ、ご用心、ご用心」ということです。

一切経の虫干し

一休さんがある夏、天台宗の比叡山に登りました。
丁度その日は年に一度の延暦寺の虫干でした。
一切経を吹く風を身に受けても功徳になるというので大津、坂本は言うに及ばず遠方からぞろぞろ参詣人が押しかけます。
一休さんは、これを見て、
「ワシの一切経も大分汗をかいたわい」
といいながら涼しい大樹のかげに入ってひと休みしているうちにウトウトと昼寝をしました。
叡山の山道で半分裸体の坊さんがねているので役僧が注意しようと近づくと何と一休さんです。
叱るわけにもゆかないので
「今日は一切経の虫干でたくさんの参詣者がありますので裸で午睡されては困ります」
と言いました。すると一休は
「叡山には紙に書いたお経より外にないとみえるな、この一休はメシも喰えば話もする。
法も説けば何でもする一切経じゃ。
あんた達は紙にかいた一切経をよむが体でよむことを知らない。
これでは仏教が衰微するのは当り前じゃ、ワシはその活きた一切経の虫干を今しているのじゃ」と喝破しています。

口をあけた一休さん

一休さんの智恵者の名声を憎んで、一人の男がやって来ました。
「なんでも御承知の和尚と伺いますが、お釈迦様の父上の名前を教えて頂きたい」
これを聞くなり一休は、大きな口を開けたきり、なんとも言いません。
何度聞かれても答えぬ一休を、男はクソミソに面罵します。
「あれしきのこと、なぜ答えられんのだろう。こちらから言ってやろうか」
隣室の小僧達はイライラしています。
男はブリブリ怒って、やがて立ち去っていきました。
早速、和尚の部屋へとび込んで
「あんなことぐらい、なぜ……」
と残念がる小僧達に一休は、諄諄と諭したといいます。
「あの男は、釈迦の父上の名を聞きに来たのではないのだよ。
オレを困らせに来たのだ。
浄飯王と答えたら、その父は、と来る。
それに答えると又、その父は、と来るのだ。
そうなるとオレだって知らぬわい。
すると、「なんでも知ってる一休とはじゃった」
と冷かし、口を閉じていたら、
「一休に尋ねたら、口も開かなんだ」
と言いふらすから、口だけは大きく開けていたのじゃ」
小僧達は、感服したといいます。

晩年の一休さん

一休さんは、63歳のときに京都の町の南20キロほどの所にある薪村の妙勝寺を再建し、近くに「酬恩庵」という庵をたてます。
ここは一休さんが晩年を過ごした庵で、今日、「一休寺」といわれています。
73歳のとき、応仁元年に応仁の乱が始まり、京都は戦火に包まれます。
五山はすべて焼かれ、安国寺も大徳寺も燃えてしまいました。
77歳のとき、目の見えない旅芸人の女性と知り合い、同棲するようになります。

81歳のとき、天皇の勅命を受けて大徳寺の住職になります。
酬恩庵に住みながら、大徳寺の再建に力を注ぎ、再建されても、大徳寺に住むことはありませんでした。
86歳の頃、自作の漢詩を集めた『狂雲集』をまとめます。
そして翌87歳の秋、病気が悪化してその生涯を閉じたのでした。

一休さんは、権力を嫌い、托鉢や内職で貧乏な暮らしをしながらも、人間の本質をありのままに見ようとする一生でした。

一休さんと蓮如上人

一休さんは、同時代を生きた浄土真宗の8代目、蓮如上人と交流がありました。一休より20歳年下の蓮如上人でしたが、一休は一目も二目も置いていました。数々の逸話が伝えられています。

馬じゃげな、そうじゃげな

金持ちで、午年生れの馬好きが、京都で一番の画家に素晴しい馬を描かせました。
それに偉い誰かに賛を頼もうと、一休さんに依頼すると、
馬じゃげな」と書いてきました。
「こんな立派に描いてある名馬を、誰れがブタやタヌキと見るものか」
と、高価な絵を代なしにされた富豪は大憤慨。

そこで今度は蓮如上人に
「見事な名馬に見事な賛を」
と泣きつきました。
心よく引き受けた蓮如上人、一休の賛の後に、
そうじゃげな
とつけ加えます。

富豪は飛び上って驚きましたが、
いくら立派に描かれていても、描いたものは描いたもの、本物ではありません。
「馬じゃげな、そうじゃげな」
と言うわけです。

お茶

蓮如上人の本願寺造営に、忙しそうに多くの職人が働いていました。
そこへ、破れ法衣を身にまとった一人の僧侶が、
普請の大きな木の上に立ってニヤニヤ眺めています。
仕事の邪魔になるので大工たちが、幾度も退去を勧めても少しも動こうとはしません。
困った棟梁が本願寺の役僧に訴えます。
いくら話しても一向に聞きいれないので手をやいた役僧達が、蓮如上人に報告しました。
「先ほどから、変な乞食坊主が、頭に草を冠って
工事場の木の上に立ってニヤニヤ笑っているので、
工事の邪魔になるからと幾ら言っても帰りません。
いかがしたものでございましょうか」
「なんとな。草を冠って木の上に立っている。
うん、それは一休に違いない。
お茶を一杯持って行けば帰るじゃろう」

早速、お茶を一杯持参すると、
「これは、どうも。さすが蓮如じゃわい」
と、ニヤッと笑って、飲んで帰りました。

後で蓮如上人に尋ねると、
「木の上に人が立って、草を冠っておれば、お茶という字になるだろう」
と、笑って答えたといいます。

一休さんと小鳥

ある時、一休さんが、小鳥を捕まえて、蓮如上人に、
この鳥は、生きていると思うか、死んでいると思うか
と聞きました。

生きていると言えば、きゅっと殺してしまいますし、
死んでいるというと、逃がして飛んでゆきます。
すると、蓮如上人は、本堂の階段に片足をかけて、
「一休、わしはこれからあがると思うか、降りると思うか」
と聞かれました。
その答えを聞いたら、同じように鳥について答えます。
これには、一休も答えられず、
「蓮如上人は、自分より若いけどなかなか勝てないな」
一目置くようになります。

曲がりくねった松

またある時、どこから見ても曲がりくねった松がありました。
そこに一休さんが、
この松をまっすぐに見た物に、金一貫文与える
と看板を立てました。

往来を通る人々が一貫文をもらっていこうと人だかりができます。
そこへ蓮如上人が通りかかると、
「蓮如様、あの松をまっすぐに見えないでしょうね」
と聞かれます。
「それではワシが一休の所へ行って、金一貫文もらってこよう」
と一休さんのもとへ蓮如上人が訪ねてきます。
ところが
「お前はだめだ。あの看板の裏を見てこなかったのか」
と追い返されます。帰って立て札の裏を見てみると、
但し本願寺の蓮如は除く
と書いてあります。
「そんなにおれのことがわかっているのなら、許してやろう」
そこへ人が集まってきて、
「蓮如さま、この松をまっすぐ見られたんですか」 「ああそうじゃ。
そなたがたは、曲がった松をまっすぐに見ようと曲がった見方をしておるのじゃろうが、わしは曲がった松じゃなぁ、とまっすぐに見た」

ふたある水に月は宿らじ

一休さんは、蓮如上人になかなか勝てないので、蓮如上人の書いたものを読みました。
すると、阿弥陀如来は、平等の慈悲を持たれた方だと書いてありました。
同時に、阿弥陀如来をたのまなければ助からないが、たのめば助かると書いてあります。
「これは平等とは言えないのではないか、よし蓮如を困らせてやろう」
一休さんは、蓮如上人に手紙を書きました。

阿弥陀には まことの慈悲は なかりけり
 たのむ衆生をのみぞ助ける

たのむ衆生」とは、他力信心を獲た人のことです。
他力の信心を獲た人だけ助けて、他力の信心を獲ない人は助けないのは、差別ではないか。
そんな差別をするのは、平等ではないから、まことの慈悲ではないではないか、ということです。

  

蓮如上人その時、このように一休さんに歌を送っています。

阿弥陀には、隔つる心は なけれども
 ふたある水に 月は宿らじ

月は海にもかげを宿す
池にもかげを宿す
お茶碗の中にも影を宿す
田んぼの中に肥だめにもかげを宿す。
広い海でも小さなお茶碗の中でも
きれいな茶碗でも汚い泥水の池にでも
月は平等にかげを宿す。
ちょうどそのように、あの人は善人だから、あの人は悪人だから
そんな差別の心はありません。平等のお慈悲です。

ところが、蓋がしてあるものにはうつらない
ということです。
月が悪いのではなく、蓋が悪いのだ、
ということです。
蓋があるというのは、他力の信心ではない、
ということです。
一休さんは、やりこめてやろうと思ったのですが、
またやられてしまいました。

無条件の救い

ある男が一休さんに尋ねます。
お和尚さん、無条件で助かりますか
「誰がそんな馬鹿なことを言ったかい」
「蓮如さんです」
「そうじゃろう、そんなこと言う者は。
じゃがなあ、念仏は尊いものじゃから称えよな」
「へい、念仏はそんなに尊いものですか。
一体、一日に何べん位称えれば助かりますか」
「そうじゃなあ、毎朝仏壇の前で三べんでよろしい」
「たったの三べんで助かるんですか」
「そうじゃ、毎日三べん続ければよろしい」 「そうか。こうハッキリ決めてもらうと、きまりがついて有難い。
どうも有難うございました」
と喜んで男は帰っていきました。

それから毎朝、その男は仏壇の前に坐って三べん、
真面目に念仏称え終ると、これで今日の分は済んだと、
安心して仕事にでかけました。
ところが、ある朝夜明けに近所に火事がありました。
とび起きて消火やら焚き出しやら、後始末やらしていて家に落ち着いたのが午前11時。
「しまった、三べん忘れてしもうた」
男は驚ろいて早速、一休さんの処へ駆けつけました。
「どうじゃ、毎日三べん欠かさずに続けているかな」
と一休さんに聞かれて、
「はい、それが昨日までは続けていたのですが今朝火事がありまして……」
と仔細を述べると一休さんは、こう言ったといいます。
火事で忘れるようなら地震でも、病気でも忘れる。
それじゃ、称えるよりも忘れる方が多いではないか。
そんなお粗末な奴は無条件の蓮如の処へ行け

一休さんの改宗

こうして一休さんは、蓮如上人から他力の教えを聞き、少しずつ惹かれていきます。

一休さんが晩年にまとめた『狂雲集』には、浄土真宗を開いた親鸞聖人の先生の法然上人についても
伝え聞く、法然はいき如来と
 蓮華上品台に安坐す
 智者は尼入道の如しと教え
 一枚起請、最も奇なるかな

と讃えています。

一休さんは宗派に寛容だったと言う人がありますが、そうではありません。
日蓮宗を開いた日蓮には、同じような漢詩を書いた後、
ぼうずぼうず小ぼうず まめの粉にぬりぼうず
と記しています。
真言宗を開いた空海に対しては、
高野山に登ったとき、
弘法大師いきほとけ 死ねば野原の土となる
という言葉を贈っています。

一休さんは蓮如上人のお友達ですので、すっかり浄土真宗びいきなのです。

やがて一休さんは、67歳のとき(寛正二年・1461年)
11月に蓮如上人のつとめた親鸞聖人200回忌に参詣し、
無条件で救われる教えのすばらしさに大いに感動しました。

そして「末世相応の心を」と題して
襟巻の あたたかそうな黒坊主 こやつが法は 天下一なり
という歌を詠んでいます。

この後一休さんは親鸞聖人の御影を欲しがったので、蓮如上人は当時の名のある絵描きに親鸞聖人のお姿をうつさせて贈ったので、この歌を書いて酬恩庵に保管したといいます。

なぜかというと一休さんはこの年、実は禅宗から浄土真宗に改宗していたのです。

一休さんの書いた『自戒集』には、
寛正二年六月十六日、大燈国師の頂相(肖像画)を本寺へかへして念仏宗となる
(一休『自戒集』)
とあります。

これは生涯変わらず、死の前年、87歳のときにまとめた『狂雲集』には、こうあります。
前年、大燈国師の頂相を賜うことをかたじけのうす。
予今衣をあらためて浄土宗に入る。故にここに栖雲老和尚にかえし奉る

禅門の最上乗を離却し、
衣をあらたむ、浄土の一宗僧。
みだりに如意・霊山の衆となって、
嘆息す、多年、大燈をくらませしことを

現在、蓮如上人の宗派は浄土真宗といわれていますから、浄土宗といっても今でいう浄土真宗のことです。
この漢詩は、仏教の中でも最高といわれる禅宗を離れ、浄土真宗の僧侶に改めました。
これまで分際もわきまえず如意庵や霊山徳禅寺(どちらも大徳寺の中にある)にいて、大徳寺を開いた大燈国師の法灯を乱していたことを恥じ、ため息をついています、という意味です。

そして、このような歌も残しています。
九年まで 座禅するこそ 無益なれ
 まことの時は 弥陀の一声
」(一休)
これは、浄土真宗で説かれる阿弥陀如来の本願は無条件で救われるのに、
禅宗の祖師の達磨が、壁の前で9年間、手足が腐るまで座禅をしたのは無意味なことだ、ということです。

最後に一休さんは、自分が死んだら中陰の式(四十九日の法要)は山科本願寺の蓮如上人にお願いして、浄土念仏の廻向をして欲しいと弟子の宗臨に遺言しています。
一休さんの死後、宗臨が蓮如上人にそれを伝えると、蓮如上人は
「私は生きているときに一休さんを導き終えたから、死んだ後に念仏の功徳による必要はない」
と答えています。

このことから、なぜ一休さんが、晩年に女性と同棲できたかがわかります。

普通、仏のさとりを開くと煩悩はなくなるのですが、そこまでいかなくても、愛欲の生活をしてしまうと、せっかく26歳のときに開いたさとりも崩れてしまいます。
ところが、蓮如上人の伝える阿弥陀如来の本願は、どんな人でも苦悩の根元を断ち切って無条件で絶対の幸福にするという法です。
これなら、出家の戒律を破り、男女で共に暮らしていても、ありのままで救われるのです。

では、阿弥陀如来の本願に断ち切られる、私たちの苦悩の根元とは何か、どうすれば苦悩の根元を断ち切られ、絶対の幸福になれるのか、

ということは、これこそが仏教の真髄ですので、
わかりやすく小冊子とメール講座にまとめておきました。
ぜひ見ておいてください。

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