龍樹菩薩(ナーガールジュナ)

龍樹菩薩(ナーガールジュナ)は、西暦150年頃から250年頃にインドで活躍された方です。ブッダの説かれた空を理論的に解明し、その後の大乗仏教を基礎づけ、中国や日本では「八宗の祖師」と尊敬されています。「八宗の祖師」とは、あらゆる宗派の祖師ということです。一体どんな生涯を送り、何を明らかにされたのでしょうか?

龍樹菩薩の生涯

若くして当時のすべての学問を修得する

龍樹は、ブッダが亡くなってから700年後、南インドのコーサラ国(拘薩羅国)のバラモンの家に生まれました。

生まれつき頭が良く、一度聞いたらよく理解して、二度と忘れませんでした。
小さい頃にバラモン教の四吠陀という4つのヴェーダ聖典をとなえているのを聞いて、暗唱するようになります。
やがてインド中を旅して、天文学、薬学、錬金術、易学など、当時のありとあらゆる学問を身につけてしまい、全国的に名前が知られるようになりました。

龍樹には3人の親友がいましたが、みな同じように賢く、若くして勉強することがなくなってしまいました。
そこで、あとはみんなで女遊びをしようということになります。
初めは町でナンパする程度でしたが、だんだんそれでは満足できなくなってきます。
一番いい女はどこにいるか4人で話し合い、王様の後宮にいるはずだ、と話がまとまります。
ところが、後宮の女官に手を出すとなると、江戸城の大奥に忍び込んで、将軍の女に手を出すようなものですから、大変危険です。
まず隠身(おんしん)の術という透明人間になる術を習得し、それから王様の城へ忍び込むことにしました。

透明人間になって美女を手玉にとる

透明人間になって警備兵をすり抜け、後宮にたどりつくと、たくさんの美女たちがいました。
そこで楽しい一夜を過ごすと、毎晩のように後宮を訪ねて王様の側室たちと楽しむようになります。
ところが、約100日経つと王様に気づかれてしまいました。
王様が智慧のある大老に相談すると、
それは隠身の術を使っているのでしょう。その場合は、城内に砂をまいておけば、足跡がついてわかります
と答えます。
そこで王様は、城内にうっすらと砂をまき、数百人の警備兵を配置しました。
そうとは知らず、龍樹達4人はその夜も忍び込んできます。
いつもと違って砂がまいてありますがすっかり油断していました。
ザッザッザッザッと砂を踏んで進んでいくと、半分くらい進んだところで警備兵に取り囲まれます。
しまった、そういうことか!
気づいた瞬間、王様の「斬り捨てよ」の怒号が飛びます。
警備兵が空中に思い切り剣を振るうと、龍樹の親友の3人は次々と剣があたり、あっという間に死んで行きました。
非常に頭のよかった龍樹だけは王様の近くに駆け込みます。
当時、王様の近くでは剣を振ってはならないという法律があったのです。
4人の中でただ1人、龍樹だけが王様を盾にしつつ、命からがら脱出することができました。

仏門に入る

家に帰ると、龍樹は今まで一緒に遊んでいた親友たちが、全員目の前で死んでしまい、自分一人取り残されてしまいました。
仲のよかった友達の無常をまのあたりにして
もし自分だったら、どうなったのだろう
と戦慄します。
今までたくさんの女を手玉にとって楽しんできたから、その報いで大変なことになるに違いない
と死んだらどうなるかわからないことに驚きます。
この死の問題を解決するには、仏道を求めるしかないと、出家して戒律を受け、小乗(上座部)仏教僧侶となりました。
ところが、90日のうちに、すべてのお経を読み尽くしますが、解決は得られませんでした。
どこかに解決の法はないかと探し回りますが見つかりません。
ついにヒマラヤ山に入り、一人の年老いた僧侶に出会います。
その老僧から大乗仏典を授かり、小乗仏教から大乗仏教に乗り換えます。
仏教の教えの通りの修行に打ち込み、全部で52段中、41段のさとりを開きます。
ここまで到達したのは、地球上ではブッダに次いで人類第2位です。
それでもまだ解決が得られなかったため、諸国を求め歩きながら、仏教以外の宗教家と論争してことごとく打ち破っていきます。

生死の解決を果たす

やがて龍族の大龍という菩薩にめぐり会い、龍宮に導かれ、七宝の蔵から大乗無上の法が記された経典を授かります。
その教えを受けると、龍樹は90日の間に救われたといわれます。

その後は、インド中でバラモン教を始めとする仏教以外のあらゆる宗教を打ち破り、大乗無上の法を明らかにします。
このことは、実はブッダが『楞伽経』に予言されていたことでした。
このように説かれています。
未来世に当に我法を持つ者あるべし。南天竺国の中、大名徳の比丘あらん。その名を龍樹となす。能く有無の宗を破し、世間の中にして我が無上大乗の法をあらわし初歓喜地を得て、安楽国に往生せん

こうして、ある時は『中論』『大智度論』『十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)』などの書物を著し、ある時は諸国を支配する王様を仏教に帰依させます。
生涯を仏教を伝えることに捧げ、最後はあまりに激しく外道邪教を打ち破ったために、恨みを買い、殺されたといわれます。

龍樹は殉教されるほど命をかけて、どんなことを明らかにされたのでしょうか?

龍樹の空の思想とは?

すべてを否定した空の世界

龍樹菩薩といえば、空の思想が有名です。
例えば「世間を空なりと観ぜよ」(スッタニパータ)
とあるように、お釈迦さまはお経の至るところに空を説かれていますが、特に般若経で強調されています。般若経典の1つで有名な『般若心経』の「色即是空」などは大変有名です。

このお釈迦さまの説かれた空を、龍樹菩薩が理論的に解明したのが『中論』です。
これは『大智度論』や『十住毘婆沙論』の前提となっています。
では、『中論』にはどんなことが教えられているのでしょうか?

中論』の冒頭に、「八不」が説かれます。
八不」とは、「不生不滅、不常不断、不一不異、不来不出」と一応8つを否定されていますが、これだけに限りません。「」は、すべてのことで、空はすべてを否定した世界です。

対立した逆のことも含めて、あらゆることを否定されていくので、意味がわからなくなりやすいですが、一体どういうことなのでしょうか?

空とは因果の道理

空とはどんなことか、一言でいうと、因果の道理です。
龍樹菩薩の『中論』の冒頭には、空を表された「八不」をこのように、因縁であるといわれています。
不生にして不滅、不常にして不断、不一にして不異、不来にして不出なる、よくこの因縁を説き、よく諸の戯論を滅する仏を、我諸説中の第一なりと稽首して礼す」。
この「因縁」というのが因果の道理のことです。

因果の道理は仏教の根幹です。
因果の道理に立脚して教えを説かれたのがブッダです。
では因果の道理とは何かというと、この世のすべては、因と縁が和合して生じているということです。

例えば米の因は、モミダネです。ところがモミダネだけ机の上に置いておいても、米はとれません。
水や空気、温度、農家の方のお世話など、他にも色々必要です。
┌─┐
│因│
└┬┘┌─┐
 ├─┤果│
┌┴┐└─┘
│縁│
└─┘
」は直接原因ですが、このような因が結果になるのを助ける間接要因を「」といいます。

仏教では、因だけでも結果は現れませんし、縁だけでも結果は現れません。
因と縁がそろって初めて結果が現れると教えられています。

この因果の道理からしますと、すべてのものは因と縁がそろってできたものですから、固定不変の実体はありません。これを「」と、龍樹菩薩は教えられています。

固定不変の実体はどこにもない

因縁和合して生じるすべてを空ということを、龍樹菩薩は『中論』にこう説かれています。

因縁所生の法、我即ちこれ空なりと説く」(龍樹菩薩『中論』)

これをわかりやすく教えた歌に
引き寄せて結べば草の庵にて とくればもとの野原なりけり
というものがあります。

(いおり)」とはテントのようなものです。
野原で草を集めて上のほうで結ぶと、テントのようになります。
では、そのテントには変わらない実体があるかというと、そうではありません。草という因が、結ばれるという縁によって一時的にテントになっているだけで、結んでいた所がほどけてしまうと、またもとの野原になってしまいます。

車でも同じです。
車は、固定不変な実体かというと、そうではありません。数万の部品が組み立てられて一時的に車になっているのであって、壊れたり、分解されるともう車ではありません。バラバラになると、エンジンとか、タイヤとか、シートなどになります。では、エンジンは固定不変な実体かというと、そうではありません。もっと分解するとエンジンの部品になります。このようにどんどん分解していくと、原子になります。
それらはさらに素粒子で構成されていると説明されます。
その素粒子は現代物理学の標準理論では大きさはゼロとしています。(弦の振動状態として表す理論もあります)現代物理学でも固定不変な実体は出てきません。

この世のすべてが因と縁がそろって生じているとすれば、固定不変な実体はどこにもないのです。
これが「」です。

龍樹菩薩の『大智度論』にもこのようにあります。
この法皆因縁和合より生ずるが故に無性なり。無性なるが故に自性空なり」(龍樹菩薩『大智度論』)
無性」とは、固定不変な実体はないということです。
この世のすべては因と縁がそろって生じているために実体はない。これを「」という、ということです。

空によって明らかになること

では、空によって何を明らかにしようとされたのでしょうか。

因果の道理から、すべては空である、ということは、広い意味ではどんなことにも成り立ちますが、中でも私たちに最も大きな影響があるのは人間についてです。

そのことを「八不」の中の「不常にして不断」からみてみますと、これは「常見(じょうけん)」でもなければ「断見(だんけん)」でもない、ということです。

常見」とは、広い意味ではこの世の物や現象には何か実体があるという考え方です。このことを特に問題である私たち人間のことでいえば、死後も不変の魂が存在するという考え方をいいます。

キリスト教や神道をはじめ、ほとんどの宗教では死んでも不変の霊魂が続いて行くとしていますから常見です。ところが仏教では、因果の道理に立脚して、固定不変な実体は一切ないと説かれ、『常見』は間違いであると排斥されています。これが「不常」です。

空ということは死後はない?

一方「断見(だんけん)」とは広い意味では、すべての物や現象は存在しないという考え方です。
中でも私たち人間の問題でいえば、「死んだら無になる」と死後を否定します。
現代人の多くは、科学を唯物論と誤解して、この断見に陥っています。しかしこれも間違いです。
」は「」とは違うのです。
例えば一組の夫婦があります。因縁が離れれば、夫婦ではなくなりますが、誰もいなくなるのではありません。独身男性と独身女性になります。このように、縁が離れても、別の形で続いていくのが因果の道理ですから、仏教では、断見は間違いだと排斥されています。

たまに、空の思想を誤解して、空というのは、現象について言われたもので、人間のことを問題にしていないとか、死後の世界に固執してはならないと、死後を否定する人がありますが、それは間違いです。
龍樹菩薩の『大智度論』にはこう書かれています。
仏法の中には、諸法は畢竟空にしてまた断滅せず。
生死相続すといえども、またこれ常ならず。
無量阿僧祇劫の因縁は過ぎ去るといえども、また能く果報を生じて滅せず

もし諸法すべて空ならば、この品(般若波羅蜜経往生品)中に往生を説くべからず、いかんが智有る者、前後相違せん。
もし死生の相は実有ならば、いかんが諸法は畢竟空なりと言わん。
但諸法中の愛着、邪見、顛倒を除かんが為の故に畢竟空と説く。
後世を破せんが為の故に説くにあらず。
汝は天眼の明無きが故に後世を疑い、自ら罪悪に陥らんと欲す。
この罪業の因縁を遮せんが故に、種々に往生を説く

(龍樹菩薩『大智度論』)

不常不断」ですから、死後変わらぬ霊魂が存在するというのも、死んだら無になるというのも間違いなのです。

仏教では死んだらどうなる?

では死後変わらぬ霊魂が存在するというのでも、死んだら無になるのでもないとすれば、一体どうなるのでしょうか?

仏教では、私たちが生まれる前、果てしない遠い過去から、死んだ後、永遠の未来に向かって流れている永遠の生命を「阿頼耶識(あらやしき)」といわれます。
私たちが心と口と身体で何かの行いをすると、それは不滅の業力となって阿頼耶識におさまります。これを天親菩薩は
暴流の如し」(『唯識三十頌 (ゆいしきさんじゅうじゅ)』)
といわれています。

暴流というのは、大瀑布のことです。
阿頼耶識は一枚の滝のようなもので、遠くから見ると一枚の布のように見えます。
ところが遠くから見ると、小さな水滴が流れています。
そうやって変わり続けながら流れているのが阿頼耶識だと教えられています。
昨日とまったく別人ではありませんから「不異」です。しかしまったく同じでもありませんから「不一」です。このように変わりながら続いているので「不一不異」といわれるのです。

死んだ後、生まれ変わるときも同じです。
ちょうど、預金通帳を使い切ったときのように、通帳は新しいものに切りかわりますから「不一」です。しかし、残高は同じですから「不異」です。
肉体は別の肉体に生まれ変わりますが、死ぬまで蓄えた業力は消えずに因果の道理にしたがって、次の世界を生み出すです。

ですから、悪いことばかりしている人は、六道輪廻して永遠に苦しみの旅を続けなければなりません。
龍樹菩薩はまず『中論』によってこの生死の問題を明らかにされたのです。

では、この生死の問題をどのように解決すればいいのでしょうか?

龍樹菩薩はどのように救われたの?

龍樹菩薩は仏教を2つに分類された

ブッダの一生涯説かれた教えは、七千余巻の一切経にすべて説かれています。これを「八万四千の法門」ともいわれます。
それを龍樹菩薩は、大きく分けると2つになると教えられています。

仏法に無量の門あり。
世間の道に難あり易あり。
陸道の歩行はすなわち苦しく、水道の乗船はすなわち楽しきがごとし。
菩薩の道もまたかくのごとし

(龍樹菩薩『十住毘婆沙論』)

仏法に無量の門あり」とは、仏教には数え切れないほどの教えがある、ということです。
世間の道に難あり易あり」とは、世の中でどこかへ行きたいときも、大きく分けると、非常に辛い道と易しく行ける道の2つある、ということです。
陸道の歩行はすなわち苦しく」とは陸路をてくてく歩いて行くのは大変苦しい道だということです。山があれば山を登り、谷があれば谷を越え、色々な障害物を自分の足で越えて行かなければなりません。それは大変苦しい自力の道です。「難行道」というのはこのような道です。
もう一つの易しい道は、
水道の乗船はすなわち楽しきがごとし
といわれています。川を船で下るのは、自分で行くのではありません。船頭さんが船をあやつって行きたい所に連れていってくれます。船に乗って水道を行くのは大変気持ちのいい道です。「易行道」というのはこのような道です。
菩薩の道もまたかくのごとし」とは、世間の道と同じように、仏教にもたくさんの道があるが、難しい道と易しい道があると教えられています。
これが「難行道」の仏教と「易行道」の仏教です。

龍樹菩薩自身が救われたのはどっち?

龍樹菩薩は、初めは難行道の仏教を求め、自力で52段中、41段のさとりを開かれました。
これは、ブッダについで高い悟りです。
ところが、そんな龍樹菩薩でも、
私のような獰弱怯劣(ねいじゃくこれつ)の者は、とても進める道ではなかった
と知らされて、難行道を断念されています。
獰弱怯劣」とは、悪くて弱くて卑怯で劣っている者ということです。

そして、最後は易行道によって救われたといわれています。
易行道」とは、阿弥陀如来の本願によって、苦悩の根元を断ち切られ、生きているときに、絶対の幸福に救われる道です。
十住毘婆沙論』にはこのように説かれています。
阿弥陀仏の本願を憶念することかくのごとし。もし人我を念じ名を称じて自ら帰すれば、即ち必定に入りて、阿耨多羅三藐三菩提を得
必定」とは絶対の幸福のこと、「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)」とは、仏のさとりのことです。
阿弥陀仏の本願を憶念すれば、生きているときに、絶対の幸福になれるということです。

ですから龍樹菩薩自身、次のように阿弥陀仏の本願によって救われたといわれています。
人よくこの仏の無量力功徳を念ずれば、即時に必定に入る。この故に我常に念じたてまつる
即時に必定に入る」ですから、生きているときに絶対の幸福になる、ということです。
我常に念じたてまつる」ですから、龍樹菩薩が生きているときに絶対の幸福に救われた、ということです。
こうも説かれています。
心に阿弥陀を念じたてまつれば、時に応じて為に身を現ぜん。この故に我、彼の仏の本願力に帰命したてまつる
帰命」とは救われたということですから、龍樹菩薩は、阿弥陀仏の本願に救われた、と告白されているのです。

こうして八宗の祖師といわれてあらゆる宗派から尊敬される龍樹菩薩は、どんな人でも苦悩の根元が断ち切られて、本当の幸せに救われる、阿弥陀仏の本願を生涯明らかにしていかれたのでした。

ではその苦悩の根元とは何か、どうすれば苦悩の根元を断ち切られ、絶対の幸福になれるのかについては、仏教の真髄ですので、わかりやすく小冊子とメール講座にまとめておきました。
ぜひ見ておいてください。

関連記事

目次(記事一覧)へ