良寛(りょうかん)さん

良寛(1758−1831)は、江戸時代後期の新潟県の僧侶です。
すぐれた漢詩や和歌の才能がありましたが、正直で、生涯も持たず、ひょうひょうとした生き方をしました。
子供と遊ぶのが好きで、かくれんぼで子供が帰っても一人で隠れていた逸話は有名です。
お金や名誉を求めず、子供と遊びながら正直に生きると、一体どんな人生になるのでしょうか?

良寛の小さい頃

良寛は、越後(新潟県)の出雲崎という港町に生まれました。
名前を山本栄蔵といいます。

当時、佐渡島で金が出たので、毎日のように出雲崎の港に船が着き、大変にぎやかでした。
お父さんは山本左門といって、出雲崎の名主でした。
名主というのは村長のようなものです。
名主であるばかりでなく、学問があって和歌や詩を作り、江戸や京都にまで名が知られていました。
栄蔵は小さい頃から素直で、正直な子供でした。

ヒラメになると信じる正直さ

小さい頃の栄蔵には、叱られたとき、叱っている人を下から見上げてにらむ上目遣いのクセがありました。
あるとき、父親から、
親の顔をそんなふうににらむ子は、ヒラメになってしまうぞ
といわれました。
じっと聞いていた栄蔵は、おいおい泣き出して、やがて家を出て行きました。

夕方になっても帰ってこないので、みんなが探しに行くと、
浜辺に突き出ている岩の上にいるのが見つかりました。
おーい、栄蔵さま、何しておいでになるんだ
と呼びかけると、
ああまだおれはヒラメになっていないんだね
と言います。
みんな何のことかわからず、
栄蔵さま、キツネにでも騙されたんじゃないかね。
しっかりしなされ
」というと、
そんなことないもん。さっきお父さまが、
お前のような目つきで親の顔をにらむとヒラメになるって言ってたもん

栄蔵は、魚になった場合に備えて、海岸に来ていたのでした。
このように、栄蔵は小さいときから、
心配して探しにきた人々があきれかえるほど、正直でした。

本の好きな子供

そんな栄蔵は、小さい頃から本が好きでした。
家には沢山の本があったので、一人で読みふけっていました。
あるお盆の日、本を読んでいる栄蔵を心配したお母さんが、
あなたもたまには気晴らしに盆踊りでも行ってきなさい
と言いましたが、本から目を離さず、生返事ばかりで少しも動きません。
将来名主になるのですから、盆踊りに行くのも社会勉強ですよ
というと、わかりました、と出て行きました。

やがて夜になって、お母さんが庭をみると、
広い庭の灯籠の下に人影がありました。
名主の家はお金持ちですから、
泥棒に違いない
と思ったお母さんは、座敷のらんまにかけてある薙刀を手にとり、
庭へパッと飛び降りて、
泥棒、そこを動くな!
と叫びました。

すると、悲しそうな声で、
ごめんなさい、お母さん
と出てきたのは、栄蔵でした。
『論語』を夢中で読んでいたのでした。

昼あんどん

こうして
10歳から学問を始め、
15歳で元服します。
しばらく結婚したこともあったのですが、家庭の事情で半年ほどで別れることになりました。

18歳で名主の見習いになりました。
しかし栄蔵は「昼あんどん」といわれていました。
昼あんどん」とは、昼間につけた明かりのように、
ぼんやりして役に立たないことです。

その頃、出雲崎の漁師と役人の間に争いがおきました。
名主の見習いになった栄蔵が漁師の所へ行くと、
気の荒い漁師たちが、話し合いをしていました。
栄蔵が、
みなさん何か不服がおありのようで
というと、
税金が高すぎてよぅ、お前さんは金持ちだからわからんだろうが、
おれたちは自分でとった魚もくえねえんだ

名主はみなさんの味方ですから、みなさんの言い分を役人に伝えましょう。
不平不満を聞かせてください

そうか、それなら税金が高すぎて生きていけないから、
税金を半分にしろと言ってくれ

そうですか。これから伝えてきましょう
栄蔵は、役人の所に行って、その通りに伝えました。
役人から
それで漁師に何と言ってなだめたのだ
と聞かれると、
名主はみなさんの味方ですから、これから役人にお願いしてきますと言いました
さすがに昼あんどんといわれるだけあるわい
どうしてですか
名主は武士と同じように刀をさしているじゃろう。
漁師が騒いで言うことを聞かなければ2〜3人その場でぶった切るのじゃ。
そのために刀をさしているのではないか

わたしには人は切れません
話にならん。だから昼あんどんと言われるのじゃ

栄蔵は、すぐに自分に名主はつとまらないと思い、
名主を弟の由之(よしゆき)にゆずって、出家してしまいました。

10年間の厳しい修行

最初に入ったのは光照寺(こうしょうじ)という禅宗でした。
そこの玄乗(げんじょう)和尚の弟子となり、「良寛」という名前をもらいました。

やがて良寛22歳のときに、国仙和尚という名高い僧侶が光照寺を通りかかりました。
立派な師匠につきたいと思った良寛は、国仙和尚の弟子となり、
托鉢しながら信濃(長野県)から江戸、京都を通って、備中(岡山県)の円通寺に入りました。

円通寺へ来てから厳しい修行が続き、
7年目の29歳の時、お母さんが亡くなった知らせがありました。
一旦越後に帰省した後、また3年間、熱心に修行を続けました。
この時、托鉢に回ったときの良寛は、晩年のニコニコ顔と違い、
無口でにこりともせず、真剣な表情で修行に打ち込んでいました。
やがて円通寺に来てから10年経ち、
33歳のときに印可(いんが)を受けます。
禅宗で一人前の僧侶になったという証明書です。

国仙和尚は、ゆくゆくは円通寺を継がせてもいいと思っていましたが、
良寛にその気持ちはありませんでした。

全国行脚へ

翌年、国仙和尚が亡くなると、円通寺を出てお釈迦さまのように全国を旅して歩きます。

当時、徳川幕府を倒そうと考えていた人たちが京都に集まっており、
良寛のお父さんも参加していました。
やがて1795年、良寛が39歳の時、
お父さんが京都で桂川に身を投げたという知らせを受けます。
良寛は京都へ行った後、真言宗の高野山に登りました。
その後、奈良県の吉野山へ行きます。
やがて43歳のとき、故郷の越後の国に帰ったのでした。

越後の良寛

質素な暮らし

越後に帰ると、弟が名主を務めていましたが、
良寛は近くのを借りて貧しい暮らしを始めました。

近所を托鉢して貧乏な暮らしの中でも、
良寛はいつもニコニコして和歌や俳句を作って暮らしていました。

この頃になると、だんだん良寛を尊敬する人が現れ始めます。
その中には、お百姓、寺子屋の先生、お店の主人、庄屋もあれば、侍もありました。
やがて、国上山(くがみやま)の「五合庵(ごごうあん)」という庵に住めるように世話をしてもらいました。

五合庵は、昔国上寺(こくじょうじ)にいた万元(まんげん)和尚が、隠居して住んでいた庵です。

五合庵」という名前は万元和尚は、毎日五合ずつ国上寺からお米をもらっていたのが由来です。

良寛を尊敬する人から、お米や味噌や野菜の布施を受けて暮らし、
たくほどは 風がもてくる 落ち葉かな
という俳句を作りました。

山の中の住まいなので、ご飯を炊くくらいの落ち葉は風が持ってきてくれる
という意味です。

子供と遊ぶ良寛

良寛は、子供たちからも「良寛さま、良寛さま」と呼ばれ、
親しまれていました。

良寛としても、一番好きなことは、子供と遊ぶことでした。
托鉢の途中でも、子供と手まりをついたり、おはじきをしたり、おにごっこをしたりしました。

良寛はこんな歌を歌いながら子供たちと踊ることもありました。
山寺の
和尚さんは
まりはつきたし
まりはなし
ネコをかんぶくろに
ねじこんで
ポンとつきゃ
ニャンとなく
ニャンとなきゃ
ポンとつく
ポポンポンとつきや
ニャニャンニャンとなく
ポンニャンポンニャン

春の日を、一日中手まりをついて暮らしたという歌も残っています。

霞立つ 長き春日を子供らと 手まりつきつつ 今日もくらしつ

子供が帰ってもかくれんぼ

有名なのは、かくれんぼの逸話です。

ある日、5〜6人の子供たちがかくれんぼをしていました。
近くを通りかかった良寛が
良寛さまも一緒にやろう」といわれると、
喜んで仲間に入りました。

が道端の木の幹に顔を押しつけている間に、
良寛は薪小屋の中に隠れて息を殺していました。
ところがいたずら小僧たちは、
このままみんな帰ったら良寛さまはどうするだろう
と悪巧みして帰ってしまいました。
良寛はそんなこととはつゆ知らず、隠れています。
するとやがて薪小屋に誰かが入って来ました。
おや誰だい、そこにいるのは?
その家のおかみさんが薪を取りに来たのでした。
あら良寛さまじゃあまりせんか。そんな所で何をしておいでです?
と尋ねると、あわてた良寛は、
しーっそんな大きな声を出したら、に分かってしまうじゃありませんか
とひそひそ声で言うのでした。
おかみさんは笑い出すと、
良寛さま、なんてもういませんよ。
子供たちはずっと前にどこかへ行ってしまいました。
あなたは正直なお方じゃなあ

良寛は恥ずかしそうに薪小屋から出てきたのでした。

五合庵に泥棒が入ったら?

子供と一緒に一日中遊び回った良寛は、
夕暮れになると、あわてて五合庵に帰ってきます。
ある晩、疲れ切って寝ていると、
泥棒が入りました。
良寛は大金持ちだ
というがあったのです。
ところが五合庵に入ってみると、盗るものは何もありません。
米びつもからっぽでした。
良寛はそのときふと目を覚まして、泥棒が入っているのに気づきました。
そして、目を開けたまま、大きないびきをかき始めます。
良寛が目を開いていることに気づかない泥棒は、
良寛の掛け布団をそっとはがして、それを持って逃げて行きました。

良寛はむっくり起き上がると、雲に隠れていた月が顔を出しました。
あっはっは、泥棒め、あの月を盗むのを忘れていったわい
と嬉しそうに笑いました。

良寛はきれい好き、整理整頓や掃除洗濯はしっかりとしていたのですが、
明くる日、布団が干していないので、五合庵に尋ねてきた人に、
どうしたのか聞かれました。
良寛が泥棒にくれてやった
と言うと、やがて村中に五合庵に泥棒が入ったことが知れ渡りました。
ひどいやつもあるものじゃ。
良寛さんは、では大金持ちじゃが、泥棒はそれを信じたのじゃろう。
本当は布団を買うお金もあるまいに

相談した村人たちは、すぐに新しい布団をお布施したのでした。

良寛の逸話

殺されかけたら?

良寛はいつもニコニコして怒らないということで有名でした。
あるとき、村一番の暴れん坊の渡し守の権蔵が
お前はすぐ怒る、良寛さんを見習ったほうがいいよ
といわれました。
良寛は怒らないのか
うん、怒らない
なら良寛を怒らせてやろう
それからというもの権蔵は、
良寛を怒らせるチャンスを虎視眈々と狙っていました。

ある日、良寛がひょっこり渡し場にやってきて、
向こう岸に渡してもらえないかと言います。
権蔵は待ってましたと船に乗せました。
やがて川の真ん中まで来たとき、権蔵はわざとよろめいて、
棹で水面を叩きました。
良寛に水しぶきがかかります。
良寛は少しも嫌な顔をせず、
権蔵さん、いくら船を漕ぐのが上手でも、油断すると川へ落ちる。
気をつけなされ

と言います。
おれが川へ落ちるというのか。そんなことあるものか
権蔵は腹を立ててふねをゆすり、良寛を川へ落としてしまいました。

良寛は泳げないので、アップアップしながらバタバタしていましたが、
やがて動かなくなると、ブクブクと沈んでいきました。
さすがの権蔵も、
いけねえ
とあわてて川へ飛び込み、良寛を船にすくい上げました。

良寛は、息を吹き返すと、権蔵にお辞儀をして
権蔵さん、ありがとう。死ぬところじゃった。
あなたは私の命の恩人じゃ

とお礼を言ったのです。
権蔵は、怒ると思ったらお礼を言われ、拍子抜けしてしまいました。
なるほど良寛は偉い
権蔵もすっかり感心したといわれています。

ライバルの僧侶に対しては?

五合庵からあまり遠くないところに、智海坊という僧侶が住んでいました。
智海坊は、自惚れ強く、越後で自分が一番えらい僧侶だと思い込んでいました。
ところが謙虚な良寛のほうが評判がいいのが面白くありません。
良寛を憎みきって、いつかぎゃふんと言わせてやろうと思っていました。

ある日、酒によって、五合庵に乗り込んで行くと、
中から船頭の権蔵の声が聞こえます。
なんじゃ坊主、権蔵に殴られたいのか
村一番の暴れ者にはかなわないと逃げ出しました。
ふもとへ向かって駆け下りていくと、
途中で、良寛が石に腰をかけて休んでいました。

これは珍しい、智海坊さん、五合庵に来られたか
良寛は、どんなお客さんでも好きでした。
ちょうどよかった、五合庵に行って一緒にこれを飲みましょう
ととっくりを高くかかげました。

五合庵には権蔵がいるので智海坊がためらっていましたが
智海坊さん、あなたはお酒好きだと聞いてますよ、まあいらっしゃい
といわれると、断り切れずについて行くことになりました。

五合庵に帰ると、権蔵が川へ突き落としたお詫びに来ていました。
良寛が、「川へ落ちたときは、命を助けてくれてありがとう」とお礼を言うと、
権蔵は心を打たれて涙があふれてきました。
そして、いろりに火が入ると、権蔵も智海坊も酒好きなので、みんな仲良く酒盛りが始まったのでした。

お金を拾って喜ぶ

良寛は、ある人から
道でお金を拾う程嬉しいことはありませんよ
と聞くと、早速実行にうつします。

ある日の托鉢の帰り、田舎道で、
自分のお金を道へ落して拾って見ました。
ところがサッパリ嬉しくありません。
こりゃ変だわい。あの人はを言ったのかなあ
と思って、もう一度お金を道端へおとして拾って見ますが、
少しも面白くも嬉しくもありません。
もう一度やってみよう
と思って三度目にお金を落して見ると、
お金が草むらの中に転がり込んで見えなくなりました。

良寛は驚いて探し回ったが見当たりません。
そのうちに日が暮れて、雨が降って来ます。
良寛は真剣に探し求めましたが、見つかりませんでした。
それがふと足もとにあったのを発見して非常に喜びました。
なるほどお金を拾うのは嬉しいものだわい!
と独り言をいって喜んだといわれます。

人の言葉を愚直に信じる人だったのです。

晩年に若い女性が訪ねてくる

良寛は60歳も過ぎるとだんだん体が弱くなり、山の上の五合庵を往復するのは大変になってきました。
そこで61歳の時、ふもとの木村元右衛門のはなれに移ります。

良寛は、沢山の漢詩や和歌を作りましたので、その作品にふれて敬愛の念を懐いていた女性がいました。
それが貞信尼(ていしんに)です。
小柄な美人でした。

良寛が70歳の夏、30歳の美しい貞信尼が、
木村家の離れを訪問しましたが、良寛は留守でした。

貞信尼は和歌と手まりを置いて帰ります。
師常に 手まりをもて 遊び給うと ききて奉るとて
これそこの仏の道に遊びつつ
つくやつきせぬみのりなるらむ

良寛が返歌を送ります。
つきて見よ ひふみよいむなここのとを
とをとおさめてまたはじまるを

つきて見よ」とは、また来なさい、ということです。

そして秋、ついに会うことができました。
貞信尼は、あこがれの人にあえて夢のようだと、
このような歌を詠んでいます。
はじめてあひ見奉りて
君にかくあひ見ることの嬉しさも
まだ覚めやらぬ夢かとぞ思ふ

そして、仏教や歌について良寛から教えを受け、弟子となりました。

こうし良寛が75歳で死ぬまでこの交流は続いたのでした。

死なない祈祷

ある時80才になるお金持ちの老人が良寛のもとへ訪ねてきました。
私は今年80才になりましたが、まだやってゆきたい仕事もあり
色々と心残りがございますので、もう少し長生きしたい。
そこで和尚さんは非常な御高徳なお方ですから
一つ長命のご祈祷をお願いしたいと思って参上しました

すると良寛
ハイハイさようか、一体何才位まで長生きしたいのじゃな。
それがわからないと祈祷したくてもできないでな

実はどうにかして100歳まで生きたいと思っています
100才ですか、あと20年ですよ。
 101才になればお迎えが来ますがそれでよろしいか

じゃもっとお願いできますでしょうか
遠慮せずに一体何才まで長命したいのか言うてみなさい
ハイでは150才のところをお願いします
じゃ150才でよろしいかな
と良寛。
念を押されると老人狼狽して次第に長命祈祷をせり上げてきました。
良寛おかしさをこらえて
どうじゃ、いっそのこと無量寿の祈祷をしてはどうじゃな
え?死なぬ祈祷がございますか、ではそれでお願いします
と言ったそうです。

この死にたくないというのが、人間の本音でしょう。

良寛の辞世

良寛の辞世については幾つかの説があります。
一つは、良寛が重病になったとき、何か心残りはないかと聞かれ、
死にたくない」と答えました。
辞世は?」と聞かれると、
散る桜 残る桜も 散る桜
と答えています。

もう一つは、良寛の最後の病のとき、
看病していた貞信尼が
生き死の 境放れて 住む身にも
 避らぬ別れの あるぞ悲しき

と詠むと、
裏を見せ 表を見せて 散るもみじ
と返歌しています。
これは、貞信尼の歌集「(はちす)の露」の最後のほうに
掲載されていますが、
貞信尼は、これは良寛の歌ではないけれど、
良寛の生き様を表してありがたいとして掲載しています。

もう一つは、
良寛に 辞世あるかと 人問はば
   南無阿弥陀仏といふと答えよ

という歌があり、これも辞世といわれます。

最後の信仰は阿弥陀如来

辞世を南無阿弥陀仏と言っているように、
生涯悟りすましたような生き方をしてきた良寛でしたが、
死が近づくと、阿弥陀如来の本願を求めるようになっていました。
新潟県は親鸞聖人が流刑にあわれた地で、浄土真宗が盛んなので、ご縁があったのでしょう。
このような歌も詠んでいます。
愚かなる 身こそなかなか 嬉しけれ
 弥陀の誓いにあうと思えば

そして、こうも歌っています。
草の庵に 寝ても覚めても申すこと
 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

阿弥陀如来の本願こそが、この世に生まれた甲斐であった、
とも歌っています。
不可思議の 弥陀の誓ひの なかりせば
   何をこの世の思ひ出にせむ

最初は禅宗出家した良寛でしたが、これはもう禅宗ではありません。

そして、死んで阿弥陀如来極楽浄土へ往くことを喜ぶ身となったのです。
われながら うれしくもあるか 弥陀仏の
   います御国に いくとおもえば

阿弥陀如来の本願とは、どんな人でも生きているときに苦悩の根元を断ち切って、
死ねば極楽浄土往生させるという法のことなのです。

ではすべての人が救われる道とは?

では良寛が最後求めた、どんな人でも断ち切られたなら、
本当の幸せなれるという「苦悩の根元」とは 何なのでしょうか?

それこそ仏教の真髄ですので、
わかりやすく小冊子とメール講座にまとめておきました。
ぜひ見ておいてください。

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