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方便とは?

よく「嘘も方便ほうべん」といわれますが、方便とは何でしょうか?
方便」はもともと仏教の言葉ですが、方便で不幸になる人もあれば、幸せになる人もあります。
方便は、私たちが幸せになるためにはなくてはならないものなのですが、色々と誤解されていて、これを誤解すると本当の幸せにはなれなくなってしまいます。

そこでこの記事では、仏教でいわれる本当の方便について、
1.よくある誤解と仏教でいわれる方便の意味
2.なぜ方便があるのか
3.仏教の方便と世間の手段の違い
4.方便はなくてもいいのか
5.具体例
6.本当の幸せになれない理由
7.方便が分かるのはいつ?
という7つの観点から方便について詳しく解説します。

よくある誤解と方便の意味

方便ほうべんというと、「も方便」という言葉が思い浮かびます。
そのため、方便を嘘のことだと思っている人があります。
例えば子供が学校に行きたくないとき、
お腹が痛い」と嘘をついて、後から
嘘も方便だよ
と裏で舌を出したりします。
しかしこの方便の使い方は間違いです。

方便」は、もともと仏教の言葉です。
例えば、有名な『法華経ほけきょう』の前半の14品の中心は、2番目の「方便品ほうべんぼん」です。
ほん」というのは章のことで、前半14章のうちの2章目が、方便の章ということです。
(ちなみに『法華経』については、「法華経の教え・誰も教えてくれない法華経の秘密」に分かりやすく解説してあります)

方便」は、もともとインドの「ウパーヤ」という言葉を翻訳した言葉で、目的に「近づく」という意味です。
目的に近づける手段を方便といいます。

仏教の辞典を確認すると、このようにあります。

方便
ほうべん[s,p:upāya]
原語のウパーヤは接近する、到達するという意味の動詞から派生した語で、方法や手段の意。
方便は一般に、衆生しゅじょうを導くためのすぐれた教化方法、巧みな手段を意味する。

方便のサンスクリット語のウパーヤの元の動詞というのは、近づくという意味のウパ・イ(upa√i)です。
それが名詞になってウパーヤですので、方便は、目的に近づける手段ということです。
この仏教辞典に書いてあることは間違いではないのですが、
辞典では分からない重要な特徴がありますので、
それも含めて分かりやすく解説していきます。

なぜ方便があるのか

なぜ方便があるのかというと、目的を果たすためです。
仏教では目的のことを「真実」といいます。
真実」に対する言葉が「方便」です。
仏教でいわれる真実は、言葉を離れた変わらない幸せの世界です。
それでその言葉を離れた世界に導くために、方便が必要となります。
(このあたりの仏教で説かれる目的地と、そこへ導く手段については、
仏教の教えの基本を簡単に解説」にもっと分かりやすく書いてあります)
真実に近づけ、真実を体得させるのに絶対必要な手段を方便といいますので、真実がなければ方便が出てくるはずがありません。
目的がなければ手段がないようなものです。
方便から真実が出てくるのではなく、真実から方便が出てくるのです。

例えば、東京にいる人が、京都に行きたいとします。
目的地は京都です。
目的地が決まってから、電車で行こうか、車で行こうかと手段が出てきます。
目的地がアメリカなら、飛行機で行こうか、船で行こうかとなります。
目的地が隣の家なら、歩いて行こうか、自転車で行こうか、車で行こうかとなります。

手段というのは、目的を果たすためのものなので、目的から手段が出てくるのです。

ですから、真実と方便はセットです。
真実だけあって方便がない、ということもなければ、方便だけあって真実がない、ということもありません。
真実があれば方便がありますし、方便があれば真実があるということです。
仏教に教えられていることは真実と方便だけであり、真実と方便だけを教えられたのが仏教なのです。

仏教の方便と世間の手段の違い

方便は、一応は目的地へ導くための手段なのですが、仏教の方便には、世間でいう手段と違うところがあります。
世間でいう手段は、それを向上させて行くと、手段が役立って目的を果たせます。
例えば、大学に入るためには学力を高めて行くと、合格できます。
仕事で結果を出すためには、能力を高めていけば、結果が出てきます。
世間の手段は、使えば使うほど、それが役立って、目的が達成できます。

ところが、仏教の方便は、真実の世界に入るには、最後は捨てなければなりません。
ブッダは『中阿含経ちゅうあごんきょう』に、これをいかだにたとえられています。
向こう岸へ行くには、いかだに乗らなければなりませんが、いかだを降りなければ向こう岸には到着できません。
しかし、いかだがなければ向こう岸には行けないのです。

また、ビルを建てるには足場が必要ですが、ビルを建ててしまえば足場は要りません。
しかし、足場がなければビルは建たないのです。

これを知った20世紀最大の哲学者の一人、ウィトゲンシュタインは、主著『論理哲学論考』の最後に、このように記しています。

梯子を登りきった者は梯子を投げ棄てねばならない。
私の諸命題を葬り去ること。
その時世界を正しく見るだろう。

これは、ウィトゲンシュタインが、仏教を学んで自分の哲学に取り入れたものです。
ブッダが2600年前に説かれていることが、20世紀の哲学に大きな影響を与えているのです。

このように方便は持ったままでは真実に入れませんので、真実に近づけるには、必ず方便が必要ですが、方便は捨てなければ真実に入れないのです。

方便はなくてもいい?

しかし方便は捨てなければならないからといって、方便が必要ないということではありません。
世間では、方便というと軽く考えられていて、あってもなくてもいいもののように思います。
しかし仏教では、あってもなくてもいいものではありません。
私達を変わらない幸せに近づけ、変わらない幸せにするのに絶対必要な手段をいいます。

生まれつき真実の世界に出ている人はありません。
真実の世界を知らずに苦しんでいます。
そこで真実の世界へ導くために、仏様がなされるのが方便です。
方便は、私たちを真実の世界に近づけ、入れようとされた仏様の必要不可欠の手段なのです。

これを「従仮入真じゅうけにゅうしん」といいます。
これは「仮より真に入る」と読みます。
」とは方便のことで、目的を果たす手段です。
」とは、真実のことです。仏教の目的である真実の世界のことで、変わらない幸せのことです。

自分で真実に入れる人は誰もいませんから、私たちは方便からしか真実に入れないのです。

真実の世界に出るのに方便なんかいらない
という人がありますが、方便なしに真実に入ることはできません。
真実と方便はセットですから、方便がいらないというのは真実もいらないと言っているようなものです。
方便を馬鹿にしていたら真実の世界には出られません。
私たちは、方便から真実に入るのです。

後藤艮山の処方

例えばこんな話があります。
江戸時代の有名な漢方医に、後藤艮山こんざんという名医がいました。
ある真夜中、一人の女性が訪ねてきます。
よろず屋の嫁でした。
先生、一生のお願いです。毒薬を一服盛ってください
ただならぬ様子で懇願するので、
何に使うのか」と尋ねると、
お義母さんに死んでもらうのです
と言います。

昔から嫁と姑は犬猿の仲になりがちです。
よく心得ていた艮山は、断ったら嫁が自害する、と思い、
よし、わかった
と30包の薬を処方します。
そして神妙に、
1服で殺しては、あなたがやったとすぐバレる。
あなたははりつけ、私も打ち首。
そこでこの30包を毎晩一服ずつ飲ませるのだ。
30日目にコロリと死ぬように調合した

喜んで帰りかける嫁に、なおもこう諭します。
わずか30日の辛抱だ。
お義母さんの好きなものを食べさせ、やさしい言葉をかけ、
手足をよくもんであげなさい

それから嫁は、毎晩言われたとおりに実践しました。

1ヵ月目の夜、いつものように手足をもみ終わると、
急にお姑さんが立ち上がり、驚く彼女に両手をついて、こう言った。
今日はあなたに、謝まらなければならないことがある。
今まできつくあたってきたのは、代々続いた、このよろず屋の家風を早く身につけてもらうためだった。
それがこの1ヵ月、あなたは見違えるように生まれ変わった。
よく気がつくようになってくれた。
もう何も言うことはありません。
今日かぎり、一切をあなたに任せて、私は隠退します

自分の心得違いを強く後悔し、お嫁さんは艮山先生のところへ駆けこみます。
先生、一生のお願いでございます。
毒消しの薬を、早く、早く、作ってください

涙ながらに、両手をついてたのむ嫁女に、艮山先生は大笑い。
心配ない。あれはただのソバ粉だよ

後藤艮山は、仏ではありませんので、これはただの例えですが、
艮山とお嫁さんの目的地はまったく違います。
もしお嫁さんの考え通りに、毒薬を処方して姑さんを毒殺すると、
お嫁さんも苦しむことになります。
そこで、もっと幸せな状態へ導くために、
一応はお嫁さんの考えに合わせて薬を調合するものの、
お嫁さんの想像をはるかに超えた、まったく別の幸せへと導く教えを説いたのでした。

このように私たちは、怒り愚痴の心によって、
放っておいたら自ら苦しい方へ苦しい方へと向かっていってしまいます。
そこで仏のさとりを開かれたブッダが、一見私たちの考えに合うことを言われて、
実際には人間の想像もできない、すばらしい幸せの世界へ導こうとされます。
それが方便です。

キサー・ゴータミーへの方便

ブッダの時代にも、こんなことがありました。

キサー・ゴータミーという若くて美しい女性に、一人の幼子が生まれました。
生きる喜びいっぱい育てていたのですが、
ある日、子供を家に寝かせたまま外へ行く必要ができてしまいました。
用事を済ませて家の近くまで帰ってくると、子供の泣き声が聞こえます。
どうしたの!?
と慌てて家に駆け込むと、大蛇が現れて、我が子をぐるぐる巻きにしています。
必死で大蛇に立ち向かい、追い払っているうちに、
我が子は泣き止んで、ぐったりしてしまいます。
ようやく蛇を追い払うと、子供はピクリとも動きません。
大丈夫?どうしたの?
どんなに揺さぶっても、話しかけても何の反応もありません。
もう死んでしまっています。
ですがキサー・ゴータミーは、気絶しただけに違いないと思います。
半狂乱になって、近所の人に助けを求めますが、来てくれた人は、みんな
これはもう死んでる」とか
もう息をしていない
と言います。

絶対にそんなはずはないので、キサー・ゴータミーは子供を抱いて、村中の人に
どうしたら、この子は返事をしてくれますか?
と聞いて回ります。
村の人たちは、それはもう無理だと首を振ります。
キサー・ゴータミーは、どんなに無理だと言われても、何とかならないかと、
村から村へ、街から街へずっと尋ね回ります。
するとある人が哀れに思い、このお母さんの気持ちはよく分かると
お釈迦さまという尊い方がおられるから、お釈迦さまなら目を覚まさせてくれるかもしれない
とアドバイスします。
喜んだキサー・ゴータミーは、一目散にブッダのところへ走って行きました。

ブッダの元へたどりついたキサー・ゴータミーは、
お釈迦さまー、この子の目を覚まさせてください。
またにっこり笑うようにしてください

とお願いすると、ブッダは驚くべきことに、こう言われます。
それでは元通りにしてあげよう。
それにはケシ粒が必要だ。
それをもらってくれば元通りにすることができる。
ただし、そのケシの実は、今まで死人を出したことのない家からもらったものでなければならない

それを聞いたキサー・ゴータミーは喜んで、
分かりました、すぐもらってきます
とケシの実をもらいに歩きます。
ところが近くの家で尋ねると、
いやー、ケシの実はあげるけど、この間母が死にました
「それならダメなんです」
また次の家に行くと、
ケシ粒ならあるけど、この間子供を亡くしています
「それならいいです」
どんなに訪ね歩いても、死人を出したことのない家がありません。
キサー・ゴータミーは、一軒一軒、村から村へ、街から街へ回りましたが、
とうとう死人を出していない家は一軒もありませんでした。
やがてキサー・ゴータミーは、
ああ、人は生まれたら必ず死ぬものだ。
死なない人は一人もいないのだ。
うちの子も死んだのだ

と初めて気がついたのです。

それで子供を抱いたままブッダの所へトボトボと戻ると、
お釈迦さまー、申し訳ありませんでした。
愚かなことをお願いしました。
この子は死んでおりました

と泣き崩れます。
キサー・ゴータミーよ、分かったか。
この世は無常の世界。人は必ず死なねばならぬのだ。
死んだ者は仏といえども、どうすることもできない。
だがそう言っても、そなたは聞けなかったであろう

はい、私はこれだけ苦労しないと、この真実を知ることのできない愚か者でございました
泣き臥したキサー・ゴータミーは、やがてブッダのお弟子になったといわれます。

すべてのものは移り変わっていく。
生まれた者は必ず死に帰す」といわれると、
そんなことは分かりきっていると思うかもしれませんが、
私たちは自分のことになると、
その分かりきったことが分からないのです。
それでブッダは、私たちに真実を知らせるために、
方便を用いられるわけです。

幸せになれないのは方便を知らないから

仏教では、この真実と方便がわからないから、変わらない幸せになれないのだと教えられています。

真・仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。

如来広大の恩徳を迷失す」とは、変わらない幸せになれないのだ、ということです。
」とは真実、「」とは方便のことです。
知らざるによりて」というのは、知らないから、ということです。
何が真実やら何が方便やら、真実と方便を2つとも知らないから、本当の幸せになれないのだと教えられているのです。

では、真実と方便は、いつ知らされるのでしょうか?

真実と方便はいつ分かるの?

真実と方便は、同時に分かります。
私は方便は分かるけど真実は分からない、とか
私は真実は分かるけど方便は分からない、ということはありません。
真実の世界に出た瞬間、方便が方便と分かりますから、方便だけが分かるとか、真実だけが分かるということはありません。分かるときは、2つ同時に分かります。

その真実と方便の水際が、変わらない幸せになる瞬間です。
それまでは、目的も手段も分からないということです。

それはちょうど、夢を見ている時、
私は夢を見ている」ということは分かりません。
ああ夢だったな」と夢が夢と分かるのは目が覚めた時です。
真実が分かったときに、方便が分かります。

真実に入れば誰でも分かるのですが、真実に入らなければ、真実も方便も分かりません。
ですから、方便が必要ないと言っている人は、真実も分かっていないのです。
目覚めた人だけが、夢だったと分かります。
夢を見ている間は、夢を見ていることも分かりません。
真実が分かっていないと、方便は使えるものではないのです。

ブッダは、私たちを真実の世界へ導くための方便として、一切経七千余巻といわれる仏教の教えを説かれているのです。
では、ブッダが導こうとされている本当の幸せとはどんなものなのか、
どうすれば本当の幸せになれるのかについては、電子書籍とメール講座にまとめておきました。
一度見てみてください。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生

日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか一人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。インターネットの技術を導入して日本仏教学院を設立。著書2冊。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと奮戦している。

仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者3千人、メルマガ読者5万人。ツイッター(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能

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