バラモン教(ヒンドゥー教)と仏教の違い

バラモン教(ヒンドゥー教)と仏教は、どちらもインドで生まれた宗教です。中には仏教はバラモン教から生まれたので、似たようなものだろうと思っている人もありますが、この2つには様々な違いがあり、到底相容れません。一体どんな所が違うのでしょうか?
その違いを7つの観点から見てみましょう。

1.時代による変化

まず1つ目の違いは時代による変化です。

そもそもバラモン教というのは、仏教以前のヒンドゥー教に対して西洋の学者が名づけた名前です。
ですからバラモン教というのは、古い時代のヒンドゥー教のことです。

バラモン教というのは、紀元前2千年頃、西トルキスタンで牧畜を営んでいたアーリヤ人がインドに侵入し、紀元前1500年頃にすっかり征服しました。
アーリヤ人は、先住民を支配下にして農耕を学び、階級社会を作ります。

階級は、大きく分けて4つあります。
儀式をする司祭のバラモン(婆羅門)、
王族や武族のクシャトリヤ(刹帝利)、
商工業者のヴァイシャ(吠舎)、
奴隷のシュードラ(首陀羅)の4つです。
この4つに入れない最下層の人もありました。

さらにアーリヤ人は、インドの東の方にも侵入し、先住民も帰依させて社会に組み込みます。
こうしてアーリヤ人の宗教とインドの先住民の宗教が混ざったのがバラモン教です。

ですからバラモン教には、日本の神道と同じように、開祖はありません。
アーリヤ人の儀式や地元の神など、色々と混ざり合いながら、だんだんとできてきたものです。
そして仏教が広まったときに、一時的に衰退しましたが、その後グプタ王朝によって復興されました。
もともとバラモン教で一番偉い神はブラフマーだったのが、ヒンドゥー教ではヴィシュヌやシヴァになりました。
その後もヒンドゥー教の内容は変わり続け、今日に至ります。

それに対して仏教は、お釈迦さまが発見された真理なので、当時も今もこれからも変わりません。
もちろん伝え方や表現は時代に応じて変わりますが、内容はいつでも変わらない普遍的な真理です。

1つ目の違いは、バラモン教は時代によって変わりますが、仏教は変わらないということです。

2.民俗宗教と世界宗教

2つ目に、バラモン教は民俗宗教ですが、仏教は世界宗教です。
民俗宗教というのは、神道やユダヤ教のように、特定の民族だけの宗教です。
それは、民族の誕生神話や社会制度に深く結びついているので、他の民族にはとても受け入れられないのです。

ヒンドゥー教の場合も、神への儀式や祈りを中心としてはいますが、そうした宗教的な部分だけでなく、生活や文化、社会制度のすべてでした。
その一つが身分制度です。
生まれつきヒンドゥー教ではない他の宗教の人がヒンドゥー教に改宗することもできますが、そうすると、身分は一番下のシュードラにしかなれません。
これでは、他の文化に生まれ育ちながら、あえてヒンドゥー教に改宗しようとする人はほとんどありえないことでしょう。
ヒンドゥー教を信じている人は、現代では10億人以上いるといわれますが、生まれつきヒンドゥー教の民族が10億人いる、ということです。

それに対して仏教は、いつでもどこでも成り立つ普遍的な真理が教えられているため、民族の誕生神話もなく、時代も社会制度も問いません。
そのため、現代社会で仏教を信じる人は5億人程度といわれますが、中国や韓国や日本、スリランカや東南アジア、チベットやモンゴル、最近ではアメリカやヨーロッパなど、世界中のたくさんの民族に受け入れられています。

2つ目の違いは、バラモン教は民俗宗教ですが、仏教は世界宗教だということです。
ではなぜこのような違いが生まれたのでしょうか?

3.世界観(宇宙の始まり)

アーリヤ人の宗教は、捧げ物や生け贄を火で燃やす儀式を行い、に祈って幸せを願うというものでした。
バラモンたちは、独占的な専門知識としての儀式や呪文を複雑にしていき、それを整理してまとめたのが「ヴェーダ(吠陀)」です。
ヴェーダ」とは知識という意味です。
この時代にはまだ文字はないので、口伝で伝えられました。
ヴェーダには、
リグ・ヴェーダ(神々への讃歌)、
サーマ・ヴェーダ(歌詠)、
ヤジュル・ヴェーダ(祭詞)、
アタルヴァ・ヴェーダ(呪法)
の4種類があるので、四吠陀といわれます。

これら狭い意味でのヴェーダ文献がまとまると、紀元前800年頃、ブラーフマナという儀式の方法の補足がまとめられました。
これ以降は広い意味でのヴェーダ文献となります。
この時代になると、もともとは神に儀式で幸せをお願いしていたのが、儀式によって神を思い通りに動かすという考え方になってきました。
さらに、秘密の儀式の解説がアーラニヤカにまとめられ、その後、哲学的な部分がウパニシャッドに伝えられていきました。

これらのヴェーダは、文字ができてからも、インドの伝統として文字に書かれず、口頭で暗唱して伝えられたので、文字に書き残されたのは、16世紀頃のものもあります。

その中で、様々な宇宙創造神話が語られています。
ほぼ共通するのは、唯一最高の神が宇宙を創造したということです。
その最高の神は、原人とか、一切を創造した者とか、黄金の胎児とか、ブラフマー(梵天)とか、色々な名前で呼ばれます。

リグ・ヴェーダ』の一切を創造した者の神話では、原初の水が最初の胎児をはらみ、その胎児から一切が生まれます。

リグ・ヴェーダ』の黄金の胎児の神話では、大きな水が全てを胎児としてはらみ、火を生み始めた時、黄金の胎児が生じ、生命を生み、万物の主であり、神々に君臨する神となります。それが儀式を生みます。

リグ・ヴェーダ』の原人の場合は、最初は卵の中に眠っています。やがて目ざめて、世界が発生します。
その原人の口がバラモンになり、両腕がクシャトリヤになり、両モモがヴァイシャになり、両足がシュードラになります。

ヴェーダではありませんが、紀元前後にできた『マヌ法典』では、まず何の原因もなく存在する宇宙精神がまず原初の水を生み、種をまくと金の卵となり、そこにブラフマーが現れます。ブラフマーは、宇宙精神の変化です。
1年後に卵を割って世界と生命、森羅万象を作り出します。

このような宇宙創造神話が信じられていた時代でしたが、仏教では、因果の道理を根幹として宇宙創造は否定されています。
因果の道理とは、「すべての結果には必ず原因がある」ということです。
この因果の道理を認めますと、宇宙を創造した神がいた場合、「その神の原因は何ですか?」と聞くと答えられません。
仏教では、宇宙を創造した神もなければ、宇宙の始まりもありません。
無始無終(むしむしゅう)」といわれ、世界は始まりのない始まりから、終わりのない終わりへ続いています。

3番目の違いは、バラモン教(ヒンドゥー教)では、一切を創造した神が世界や生命を造ったのですが、仏教では、世界も生命も無始無終です。

4.差別と平等

ヴェーダ』ができてくると、それを補助する社会規範をまとめた法典が作られました。
その中でも最も完成度が高いとされるのが『マヌ法典』です。
マヌ法典』では、『リグ・ヴェーダ』による世界創造神話を出して、最高神の口からバラモン、腕から王族(クシャトリヤ)、モモから庶民(ヴァイシャ)、足から奴隷(シュードラ)が生じたと説きます。
このうち、バラモンとクシャトリヤとヴァイシャの3つだけをアーリヤと呼ばれるので、その下に位置づけられたシュードラはおそらく先住民だろうと言われます。

この生まれつきの4種類の身分差別をインドの言葉では「ヴァルナ」、英語では「カースト」、日本語では「四姓制度」などといわれます。
この身分差別は、生きている間は、変えることができません。
異なる身分の人とは食事も結婚もできません。
この4つの身分には、職業によるたくさんの階級差別がありますが、職業も変えることはできません。
そのため、身分の低い人の自殺を助長することにもなりました。

また、女性も『ヴェーダ』を学ぶことはできず、シュードラと同じ身分とされました。
マヌ法典』は大変な男尊女卑で、女性は不浄で邪悪であるとされ、娘時代は父に従い、結婚すれば夫に従い、夫が死ねば子に従う、「三従」が教えられています。
妻はシュードラと同じなので、アーリヤ人の夫と一緒に食事をすることもできず、ただ給仕をするだけでした。
また、夫が死んでも再婚は許されず、あとを追って死ぬ殉死の風習もあります。

こうして『マヌ法典』の社会は、『ヴェーダ』を学び、人生の通過儀礼を受けたアーリヤ人男性のみからなります。
社会の構成員は、『ヴェーダ』を学習し、人生の16の通過儀礼を受け、バラモンに贈り物をし、先祖を祭るべきことが教えられています。

ヒンドゥー教には、このような身分差別や男女差別が、現在も根強く残っているのです。

ところが仏教では、このような厳しい身分差別の社会にあって、すべての人は平等であると教えられています。
お釈迦さまは、『雑阿含経』に
かくの如き四姓はことごとく皆平等なり。何の差別かあらん。
まさに知るべし。大王、四種姓は皆ことごとく平等にして、勝如差別の異あることなし
」(雑阿含経)
と説かれています。

そしてお釈迦さまの十大弟子の一人でクシャトリヤ出身の阿難尊者は、シュードラの女性から水を貰って飲んでおり、身分差別も男女差別もありません。

4番目の違いは、ヒンドゥー教では、激しい差別がありますが、仏教では、すべての人は平等だと教えられているところです。

5.神の存在

ヒンドゥー教では、神への儀式が生活の基礎です。
結婚して家長になると、毎日5つの儀礼があります。
それは自宅の火で料理した食べ物を神々や先祖、人間へ供物として供えるもので、それが終わらないと食事はできません。
そして年間を通して、様々な儀礼を行うことになっています。

もともとのアーリヤ人のバラモン教では、天地創造の最高神はブラフマーでしたが、だんだん先住民の神も取り込んでいきます。
一時仏教が盛んになってバラモン教が衰退しますが、4世紀から6世紀のグプタ王朝がヒンドゥー教を保護したため、勢力を盛り返します。
そして、いつの頃からかは解明されていませんが、『ヴェーダ』の最高神であるブラフマーの勢力は衰退し、『ヴェーダ』にはほとんど出てこないもっと庶民的な神であるヴィシュヌやシヴァの権威が高まっていきました。
このブラフマーとヴィシュヌとシヴァがヒンドゥー教の三大神といわれ、さらに時代がくだると三神一体説も説かれるようになります。
その場合は、宇宙の創造をブラフマー、維持をヴィシュヌ、破壊をシヴァが司ります。

現代のヒンドゥー教の宗派は、大きく分けるとヴィシュヌ派か、シヴァ派の2つになります。これらは『マヌ法典』の四姓制度と、人生の通過儀礼は共通しますが、それ以外の教えは多種多様にわたります。

ヴィシュヌというのは、シヴァと並ぶ現在のヒンドゥー教の最高神です。
特徴としては民衆に一番親しまれているクリシュナという神などの色々な神々や、叙事詩のヒーロー、ラーマと同一視され、それらがヴィシュヌの化身だとされるところです。
それらの信仰を全部ヴィシュヌ派に取り込んで勢力を拡大し、ついには最高神になります。
仏教ではこれを毘瑟笯(びしぬ)とか毘紐天(びちゅうてん)といわれます。

シヴァは世界の創造と破壊をつかさどる最高神です。
ヴェーダ』には出てきませんが、『ヴェーダ』に出てくるルドラという神が前身だといわれます。
ところがやがて勢力を拡大し、あとからブラフマーとどちらが真の世界創造者か口論してブラフマーの頭の一つを切り落としたとか、ブラフマーが礼拝したという神話があります。
仏教ではこれを湿婆(しば)とか大自在天といわれます。

このように、ヒンドゥー教では、世界や人間を生みだしたような神や、その他のたくさんの神々が出てきます。

ところが仏教には、ヒンドゥー教のような性質の神は出てきません。
当時の人々が信じていたヒンドゥー教の神については、人間と同じように、輪廻をする迷いの衆生であると教えられています。

例えば、バラモン教で天地創造の最高神とされるブラフマー(梵天)については、天上界の一つである光音天(こうおんてん)で死んで、別の天上界である梵天(ぼんてん)に転生した衆生であると『長阿含経』にこう説かれています。
衆生あり福尽き、命尽き、行尽き、光音天より命終して空の梵天中に生ず。
すなわち彼の処において愛著の心を生じ、また余の衆生の共にここに生ぜんことを願う。
(中略)
先に生まれたる衆生すなわちこの念をなす、我この処においてこれ梵なり大梵なり。
我自然にあり、よく我を造る者なし。
我ことごとく諸義を知り、千世界をつかさどる。
中において自在にして最も尊貴となす。
よく変化をなし、微妙第一にして衆生の父たり。
我独り先にあり。余の衆生は後に来る。
後来の衆生は我の化成する処なりと
」(長阿含経)

これは、最初に梵天に生まれた衆生が、自分は誰にも造られたものではなく、一番偉くて、後に生まれる他の衆生を生んだと思い込んだ、ということです。
仏教ではこのように、神といっても迷いの衆生なので、神に対する儀式はなく、強いていえば唯一の祭りは花祭りで、お釈迦さまがお生まれになったことのお祝いです。

5番目の違いは、ヒンドゥー教では色々な神が出てきますが、仏教には出てこないということです。

6.運命の作られ方

ヴェーダの時代のバラモン教では、バラモンが呪文を唱えながら火を操る儀式を行い、神の力を授かって幸せを願っていました。
時代がくだってヒンドゥー教になるともっと庶民的になり、各家庭でも、富と学問の神・ガネーシャや、美と幸福の神・ラクシュミーなどの神の祭壇を設けて、毎日約30分の儀式で食事などの供物を供え、神の力を授かって、幸せを請い願います。
年間行事の儀式も多数あり、それ以外にも、何かの事業を始めるなど、特別な場合は、繁昌を祈願して儀式を行います。
神は、信者が神の像を飾り、供物を供え、崇拝する行為を、
「よくやった」と評価して、幸せを与えることになっています。

ところが仏教では、これらの神に祈ったり礼拝したり、帰依してはいけないと教えられています。
仏教では、ヒンドゥー教の神を「」といいますが、例えば『涅槃経』には、「余の諸天神に帰依せざれ」とあります。
これは神々に帰依してはならない、ということです。

薬師経』には「余天につかえざれ」とあります。これは他の神につかえてはならない、ということです。
般舟経』には、「天を拝し、神を祠祀(しし)することを得ざれ」とあります。
神につかえたり、拝んだり、まつってはならないということです。

そのほか、占いなどの迷信も否定されています。
華厳経』には「占相を離れ、正見を修習し、決定して深く罪福の因縁を信ずべし」と説かれています。
これは、占いをやめて、正しい見方になり、因果の道理を信じなさい、ということです。

なぜなら仏教では、幸せというものは、自分の行いによって、因果の道理にしたがって作られると教えられているからです。

因果の道理というのは「すべての結果には必ず原因がある」ということです。
では、私たちの運命にはどのような原因があるのかというと、こう教えられています。
善因善果(ぜんいんぜんか)
 悪因悪果(あくいんあっか)
 自因自果(じいんじか)」
ということです。
この「」とは「(ごう)」のことで、行いのことです。
これは、善い行いから幸せという運命が作られ、
悪い行いから不幸や災難が作られる。
自分の運命は、自分の行いが生みだしたものだ、ということです。
一言でいうと、すべては自業自得なのです。

このように6番目の違いとして、私たちの運命は、バラモン教やヒンドゥー教では神への儀式を中心に作られますが、仏教では自分の行いで作られるのです。

7.人生の解決方法

バラモン教の人たちは、儀式によって自らの願望を実現しようとしますが、究極の願いは、死後、天界に再生することです。
これを「生天(しょうてん)」といいます。
普通の人は、死後、別の生き物に生まれ変わってしまうので、儀式によって神の国に生まれることを願ったのです。
ところが、個人が供物として供えられるのは有限なので、やがて、儀式の効力が切れると言われるようになりました。
儀式の効力が切れると、天界で死んでしまいます。
この天界で死んでしまう問題を解決するために『ヴェーダ』の哲学的な部分をまとめられた『ウパニシャッド』には、宇宙原理である「ブラフマン(梵)」と、自己の本質である「」との一体が説かれます。これを「梵我一如(ぼんがいちにょ)」といいます。
この「梵我一如」によって、天界での不死が実現するのです。

仏教でも、神々の世界である天界はやはり死があり、輪廻する迷いの世界です。
ところが、梵我一如によって、天界にとどまることはできません。
なぜなら、お釈迦さまが仏のさとりを開かれて、大宇宙の真理を体得されると、因果の道理によって、「」も含めて、固定普遍の実体というものはないことが分かったからです。
これを「諸法無我(しょほうむが)」といい、一切に実体はないということです。
これは仏教の旗印「三法印」の一つです。

そこで仏教では、因果の道理にもとづいて、諸法無我を前提として私たちが輪廻する迷いの根本原因を明らかにし、それをなくすことによって、生死輪廻から離れ、未来永遠の幸せになることを教えられているのです。

このように7番目の違いとして、人生の解決としては、バラモン教(ヒンドゥー教)では、梵我一如を教えますが、仏教では諸法無我を前提として、苦悩の根元をなくして変わらない幸せになることです。

このように、バラモン教(ヒンドゥー教)と仏教の、天と地ほど違う7つのポイントを挙げてきましたが、まとめると以下の表のようになります。

バラモン教(ヒンドゥー教)と仏教の7つの違い

No. 項目 バラモン教(ヒンドゥー教) 仏教
時代性 時代によって内容が変わる 時代を超えて変わらない
地域性 社会規範を伴う民俗宗教 社会規範を超えた世界宗教
世界観 世界は神の創造したもの。 因果の道理に従って無始無終
差別 激しい身分差別と男尊女卑 すべての人は平等
宇宙創造の神をはじめとする神々 神は輪廻する迷いの衆生
運命の作られ方 神への供養の儀式 自分の行い
人生の解決 梵我一如 諸法無我を前提とした生死解脱

このようにバラモン教(ヒンドゥー教)は、神への儀式を中心とする民俗宗教ですが、
仏教はいつでもどこでも変わらない普遍的な真理を明らかにしています。
では仏教で教えられる、諸法無我を前提とした本当の幸せとはどんな幸せで、どうすれば本当の幸せになれるのか、ということについては、小冊子と無料メール講座にまとめてあるので以下のページからご覧ください。

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