浄土真宗の教えとは?

浄土真宗とは、親鸞聖人の教えられた現代日本最大の宗派です。

浄土真宗の教えを正しく聞けば、どんな悪人でも、すべての人が
修行も座禅も、瞑想も心のコントロールもなしで、
そのまま変わらない幸せになれます。

そのことは、浄土真宗で特に重視する
浄土三部経」に説かれています。

「浄土三部経」とは、『大無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の3つで、
ブッダの説かれた七千余巻の一切経の中でも、
すべての人が救われる法が集中的に説かれたお経です。

ところが多くの人が誤解しているのは、浄土真宗は、
阿弥陀如来を信じて念仏を称えたら死んだら極楽へ往ける
という教えだろうと思っていますが、そうではありません。
このようなことを思っていると、救われなくなってしまいます。
では本当は、一体どんなことを教えられているのでしょうか?

浄土真宗の教えの本末

中国に「物に本末あり、事に始終あり」という言葉があります。
ものごとは、本から末にかけて聞かなければ分からない。
始めから終わりにかけて、順序正しく聞いて初めて分かるということです。

では、「浄土真宗の教えの本末」はどんなものかというと、
それを教えられたこんなたとえがあります。

ある所に病人がいて、苦しんでいました。
それを哀れに思って、医師が現れ、「必ず治してみせる」と立ち上がりました。
しかし、素手では治すことはできないので、大変な苦労をして、薬を作りました。
病人は、その薬を飲んで、全快しました。
全快したからお礼を言った、というものです。

病人→医師→薬→全快→お礼

病人がいたから、医者が現れたという部分をみると、
病人が本で、医者が末です。
こうして本、末、本、末、と進んで行きますから、
全体の本は病人で、末はお礼です。

このたとえは何を表しているのでしょうか?

浄土真宗の始まり

浄土真宗の教えの本末の始まりは病人です。
この病人とは私たち全人類のことです。
ブッダは、すべての人は重い病にかかっているとおっしゃっています。
病といっても、肉体の病ではありません。
心の病です。

日本人なら、戦争の頃は、芋のつるを食べて飢えを凌いでいたのが、
経済大国になって、食べものに困ることもなくなりました。

科学が進歩して技術大国になり、
昔はできなかったことが色々できるようになりました。
携帯電話で遠くの人と話ができるようになったり、
昔は手紙が2〜3日かかったのが、
電子メールは瞬時に届きます。

インターネットで、道路地図も、
電車の時刻表もすぐに分かるようになりました。

そのように、経済が豊かになって、科学が進歩しましたが、
幸せになれたでしょうか?

自殺者は増えて、毎年約3万人が自ら命を絶っています。

みんな、こんなに苦しいのは、
お金がないからだとか、
結婚していないからだとか、
地位がないからだと思って、
お金や結婚、地位、その他色々なものを求めています。

ところが、お金のない人も苦しんでいますが、
お金のある人も苦しんでいます。

結婚していない人も苦しんでいますが、
結婚している人も苦しんでいます。

地位の低い人も苦しんでいますが、
地位の高い人も苦しんでいます。

その他のものも同じことです。

それはなぜでしょうか?

心が病にかかっているからです。
熱があるとき、何を食べてもおいしくありません。
どんな山海の珍味もまずく感じます。

それは、食べ物のせいではありません。熱のせいです。
熱がなくなれば、梅干し一つでご飯が美味しく食べられます。

科学や経済が悪いのではなく、
問題は心の病にあるのです。
全人類は自覚がないのですが、
苦悩の根元を知らない限り、どんなに科学が進歩しても、
幸せになれません。

そんな心の病で苦しんでいる私たちを、
何とか助けたいと立ち上がった
お医者さんがあったのです。

あなたの心の病を治す唯一の医師

そんな病で苦しんでいる私たちを哀れに思われて、
大宇宙のたくさんの仏方が、次々と
助けてやりたいと立ち上がられたのですが、
とても助けることはできず、最後には見捨ててみんな逃げてしまったのです。
私たちは仏様に捨てられたということです。

これを『悲華経』に
煩悩多き衆生は賢劫の一千余仏が放捨する所」とか、
不空絹索神変真言経』には
常に十方三世の一劫の如来、一切の菩薩の棄捨する所
とも説かれています。

地球上で仏のさとりを開かれて、ブッダになられたお釈迦さまも、
大宇宙の仏方の一人ですから、
自分には私たちを助ける力はない
と自ら説かれています。

私たちは自覚がありませんが、
それほど私たちの罪やが重いということです。

そこで、大宇宙の仏方から見捨てられた極悪人ならば、
なおさら助けてやりたいと立ち上がってられたのが、
大宇宙のすべての仏の王であり、先生である
阿弥陀如来という仏さまです。

病気で近くの町医者に行ったとき、
そこの先生に治す力がなければ知り合いの大病院の先生に紹介状を書いてくれるように、
ブッダが紹介してくだされた、
私たちを救う力のあるお医者さんが、
阿弥陀如来という仏さまなのです。

それでブッダは、仏教の結論として
一向専念無量寿仏(いっこうせんねんむりょうじゅぶつ)」
(大無量寿経)
と教えられています。

無量寿仏」とは、阿弥陀仏のことです。
一向専念」の「一向」とは一つに向きなさい、
専念」とは、専ら信じなさいということですから、
一向専念無量寿仏」とは、阿弥陀仏に助けてもらいなさい
ということです。

あなたの心の病を治す特効薬・南無阿弥陀仏とは?

その大宇宙の諸仏の先生である阿弥陀如来でも、
さすがに素手では私たちを助けられませんから、
長い間大変な苦労をして薬を作られました。

それが「名号」です。
名号とは、南無阿弥陀仏の六字です。
阿弥陀仏の苦しみ悩む私たちを何とか救ってやりたいという大慈悲心を
私たちに分かるように形を現されたものです。

戦争で、死んでゆく時、何というか。
天皇陛下ばんざーい」ではありません。
みんな「おかあさーん」と言って死んで行ったといわれています。

おかあさーん」というのは
」「」「」……という単なる文字ではないか、
という人はいません。
心です。

南無阿弥陀仏の名号も、阿弥陀仏の心です。
目に見えない仏心の顕現であり、阿弥陀仏の全生命がおさまっています。

この名号に、私たちの心の病を治す働きがあります。
私たちの心の病を治す特効薬です。

ですから親鸞聖人は「功徳の大宝海」といわれています。

では、私たちの心の病が治るとどうなるのでしょうか?

浄土真宗の一枚看板「平生業成」

私たちの心の病が名号によって全快すると、
生きているときに絶対変わらない絶対の幸福になれます。
この、絶対の幸福になったことを「信心決定」といいます。

このように、生きているときに、絶対の幸福になれますので、
浄土真宗の一枚看板を「平生業成」といいます。
平生」とは、生きているとき、
」とは、絶対の幸福、
」とは、完成する、達成するということです。

浄土真宗の教えを漢字四字で表された言葉が
平生業成」です。
仏教の宗派はたくさんありますが、
生きているときに救われる宗派は、他にありません。
平生業成」は浄土真宗の一枚看板なのです。

ですから宗教哲学者の柳宗悦氏は、仏教で救われるのは、
浄土真宗の人ばかりであることに驚いています。
もとより妙好人は仏教各宗派に現れるはずであるが、
なぜか真宗系の仏徒から圧倒的にたくさん現れてくるのである。
これには必ずや、何かはっきりした原因があるに違いないと思える

妙好人」とは、絶対の幸福を喜んでいる人です。
生きているときに救われるのは、浄土真宗だけなのです。

ただし、ここで間違い易いのは、
絶対の幸福は、仏のさとりではない、ということです。

仏のさとりを開く最短コース

浄土真宗で、生きているときに絶対の幸福になれることを、
仏になれるとか「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」
といっている人がありますが、それは間違いです。

浄土真宗を開かれた親鸞聖人は、
凡地にしてはさとられず 安養にいたりて証すべし
と言われています。

凡地にしてはさとられず」といわれているのは
凡地」とは凡夫のいる所で、この世のことです。
この世では煩悩がなくなりませんので、名号を頂いて病が全快しても、
さとりの52位の一番上のさとりである仏のさとりは開けません。

ではどうなるかといいますと、51段目の「正定聚 (しょうじょうじゅ)」になるのです。
正定聚」とは、「」は人々ということですから、
」しく仏になるに「」まった人たちということです。

生きているときに正定聚になれば、
人間に生まれてよかった
という変わらない生命の歓喜が起きますから、
この正定聚を現代の言葉で絶対の幸福と呼んでいるのです。

この正定聚に生きているときになれることを
現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)」といい、
親鸞聖人が初めて明らかにされた
浄土真宗の特徴の中の特徴です。

そして、生きているときに正定聚になった人は、
死んだらどうなるかというと、
安養にいたりて証すべし」といわれています。

安養」とは阿弥陀仏極楽浄土のことですから、
死ぬと同時に阿弥陀仏極楽浄土へ往って、
阿弥陀仏と同じ仏のさとりを得るのです。

他の宗派では、生まれ変わり死に変わり
修行をし続けないと仏のさとりは開けませんから、
浄土真宗が、仏のさとりへ至る最短コースです。

浄土真宗ではいつ、何回救われるの?

浄土真宗といえば、「死んだらお助け」と思っている人や、
逆に「生きているときのことを教えられたのが浄土真宗で、
死後のことは説かれていない
」という人がありますが、
どちらも間違いです。

ある人が、浄土真宗の8代目の蓮如上人のところへやってきて
阿弥陀仏の救いは1回ですか?2回ですか?」と尋ねると、
一念発起のかたは正定聚なり、これは穢土の益なり。
つぎに滅度は浄土にて得べき益にてあるなりと心得べきなり。
されば二益なりと思うべきものなり

(御文章)
と答えられています。

一念発起」とは、一瞬で信心決定することです。
信心決定した瞬間、正定聚になるのは、穢土でいただく幸せです。
穢土とはこの世のことですから、生きているときに正定聚に救われます。

つぎに「滅度」とは仏のさとりのことです。
仏のさとりは、浄土で頂く幸せですから、死後のことです。

このように阿弥陀仏の救いは現在と死後の2回ありますから、
されば二益なりと思うべきものなり
二益だと思いなさいと答えられています。

これを「現当二益」といわれます。

現益」とは現世の利益、生きているときの救いです。
当益」とは当来の利益のことで、死後の救いです。
浄土真宗の救いは、現在と未来の2回あるのです。

ただし、死んで極楽浄土へ往って仏に生まれるには、
生きているときに信心決定して、絶対の幸福になっていなければなりませんから、
親鸞聖人は、生きているときの信心決定を強調されたのです。

どうしたら救われるのか・浄土真宗の真髄

ですから、浄土真宗の教えの最も重要なところは、
他力信心」一つです。

信心と念仏の関係は、
信心正因 称名報恩」といいます。

信心正因」とは、
他力真実の信心一つで救われる」ということです。
これを親鸞聖人の『正信偈』には、
正定の因は唯信心なり」(正信偈
仏になれる身になる因は信心一つだ
といわれています。

この信心とは、心の病が全快した、信心決定のことです。
生きている平生に信心決定して、
心の病を完治することが浄土真宗の真髄なのです。

浄土真宗の念仏とは

では、念仏は何かというと、
心の病が全快した喜びから、
言わずにおれないお礼の言葉です。

救われた喜びから称えずにおれない念仏はお礼ですから、
称名報恩」といわれます。
称名」とは念仏を称えること、
報恩」とは、ご恩報謝のことです。

ですから、念仏を称えたら救われるのではありません。
信心決定が最も重要です。

ですから浄土真宗八代目の蓮如上人は、
聖人一流の御勧化の趣は信心をもって本とせられ候
と言われています。
親鸞聖人の一生涯の教えの最も大事なポイントは、信心一つだということです。

そして念仏については、最後に
その上の称名念仏は如来わが往生を定めたまいし
御恩報尽の念仏とこころうべきなり

お礼の念仏ですよ、と言われています。

浄土真宗の教えの出発点

ここまでお話ししてきたように、
浄土真宗の教えは、「念仏を称えたら死んだらお助け」ではありません。
浄土真宗の教えの本末はこうです。

病人(あなた)→医師(阿弥陀仏)→薬(名号)→全快(信心決定)→お礼(念仏

生きているときに信心決定して、絶対の幸福になれる」というのが浄土真宗の教えです。
そして念仏は、その救われた喜びから称えずにおれない
お礼の言葉です。

ところがそれを本末顛倒して、
お礼を言ったら、病気が治って、
病気が治ったら薬が出現して、
薬が出現したら医師が現れて、
医師が現れたら病人が現れる、
とすると、意味が分からなくなります。

病人がいるから、医師が現れて、病気を治す薬を作ります。
その薬を飲むと、病気が全快して、お礼を言うのです。

仏教は、病人がいたことが本で説かれていますから、
浄土真宗の本は、私が病人だ、ということから出発しています。
浄土真宗の出発点は、何をやっても、何を手に入れても、
自分が幸せになれずにいるということなのです。

自分が病人だという自覚がないと、
自分の心の病の恐ろしさを知らず、
仏教は分からなくなります。

そしてその心の病とは、怒り愚痴煩悩ではありません。
煩悩で苦しめられることになる、
根本原因があります。

では、その苦悩の根元は何かといいますと、
大変深い内容なので、以下のメール講座と小冊子にまとめておきました。
まずは読んでみてください。
ここからが心の病が全快するスタートです。

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