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浄土真宗の教えとは?

東本願寺
東本願寺

浄土真宗とは、親鸞聖人の教えられた現代日本最大の宗派です。

浄土真宗の教えを正しく聞けば、どんな悪人でも、すべての人が
修行も座禅も、瞑想も心のコントロールもなしで、
そのまま変わらない幸せになれます。

そのことは、浄土真宗で特に重視する
浄土三部経」に説かれています。

「浄土三部経」とは、『大無量寿経だいむりょうじゅきょう』『観無量寿経かんむりょうじゅきょう』『阿弥陀経あみだきょう』の3つで、
ブッダの説かれた七千余巻の一切経の中でも、
すべての人が救われる法が集中的に説かれたお経です。

ところが多くの人が誤解しているのは、浄土真宗は、
阿弥陀如来を信じて念仏を称えたら死んだら極楽へ往ける
という教えだろうと思っていますが、そうではありません。
このようなことを思っていると、救われなくなってしまいます。
では本当は、一体どんなことを教えられているのでしょうか?

浄土真宗とは

浄土真宗は、日本で一番門徒の数が多い宗派です。
(参考:仏教の宗派ランキング

簡単に浄土真宗について説明すると、開祖は、親鸞聖人で、真実の仏教を開顕された方です。

親鸞聖人について詳しくは、下記をご覧ください。
親鸞聖人の生涯・結婚しても救われる教えとは

しかし親鸞聖人ご自身は、一宗一派を開く意志はなく、お師匠の法然上人の教えをそのまま伝えることのみに生涯を貫かれました。
法然上人について、詳しくはこちらをご覧ください。
法然上人の生涯と浄土宗の教え・親鸞聖人との違い

しかし今日、法然上人を開祖とする浄土宗と浄土真宗では、教えの面で大きく異なるところがあります。
これは浄土宗を伝えた後世の人が、法然上人の教えの真意がわからなかったからでしょう。
浄土宗と浄土真宗の違いを知りたい方は、以下の記事をお読みください。
浄土宗と浄土真宗3つの違い・どっちが助かりやすい?

この記事では、浄土真宗の教えとはどういうものなのかわかりやすく解説します。

浄土真宗の教え

浄土真宗の教えは、当然、お釈迦様の教えが書き残されているお経の内容が根拠になっています。
浄土真宗も仏教だからです。
お釈迦様の教えに反したものは、仏教ではありません。
お釈迦さまは、七千余巻の一切経を説かれましたが、その中で、浄土真宗で最も大事にしているお経が3つあります。
その3つのお経は、「浄土三部経」と言われます。

浄土三部経

「浄土三部経」とは、『大無量寿経だいむりょうじゅきょう』『観無量寿経かんむりょうじゅきょう』『阿弥陀経あみだきょう』の3つです。

なぜこの3つかというと、お釈迦さまの説かれた七千余巻の一切経の中でも、いつの時代でも、どんな人も救われる法が集中的に説かれているお経だからです。
ですので、浄土真宗では、教えを学ぶときも、葬儀や法事で読まれるときも浄土三部経のお経を拝読する機会が多くなります。

それぞれのお経について詳しくは、以下からお読みください。
無量寿経(大無量寿経)の意味内容・あらすじを分かりやすく解説・
観無量寿経とは?意味と内容を分かりやすく解説
阿弥陀経の教えの要点を分かりやすく解説・全文の文字数、読み方と書き下し文

そしてこのお経の真意を、私たちにわかるように解説された親鸞聖人のご著書があります。
それが、親鸞聖人の主著の『教行信証』です。
『教行信証』は浄土真宗の根本聖典となっています。

浄土真宗の根本聖典:顕浄土真実教行証文類

浄土真宗の根本聖典は、『顕浄土真実教行証文類』6巻です。
これを『教行信証』と言われます。

絶対に変わらない幸福が存在することと、その本当の幸せまでの道のりが、明確に書かれています。
教行信証についてはこちらに詳しく書いてあります。
教行信証とは?構成と内容と分かりやすく解説

では教行信証に書かれている浄土真宗の教えはどういうものなのでしょうか?

浄土真宗の教えの本末

中国に「物に本末あり、事に始終あり」という言葉があります。
ものごとは、本から末にかけて聞かなければ分からない。
始めから終わりにかけて、順序正しく聞いて初めて分かるということです。

では、「浄土真宗の教えの本末」はどんなものかというと、
それを教えられたこんなたとえがあります。

ある所に病人がいて、苦しんでいました。
それを哀れに思って、医師が現れ、「必ず治してみせる」と立ち上がりました。
しかし、素手では治すことはできないので、大変な苦労をして、薬を作りました。
病人は、その薬を飲んで、全快しました。
全快したからお礼を言った、というものです。

病人→医師→薬→全快→お礼

病人がいたから、医者が現れたという部分をみると、
病人が本で、医者が末です。
こうして本、末、本、末、と進んで行きますから、
全体の本は病人で、末はお礼です。

このたとえは何を表しているのでしょうか?

浄土真宗の始まり

浄土真宗の教えの本末の始まりは病人です。
この病人とは私たち全人類のことです。
ブッダは、すべての人は重い病にかかっているとおっしゃっています。
病といっても、肉体の病ではありません。
心の病です。

日本人なら、戦争の頃は、芋のつるを食べて飢えを凌いでいたのが、
経済大国になって、食べものに困ることもなくなりました。

科学が進歩して技術大国になり、
昔はできなかったことが色々できるようになりました。
携帯電話で遠くの人と話ができるようになったり、
昔は手紙が2〜3日かかったのが、
電子メールは瞬時に届きます。

インターネットで、道路地図も、
電車の時刻表もすぐに分かるようになりました。

そのように、経済が豊かになって、科学が進歩しましたが、
幸せになれたでしょうか?

自殺者は増えて、毎年約3万人が自ら命を絶っています。

みんな、こんなに苦しいのは、
お金がないからだとか、
結婚していないからだとか、
地位がないからだと思って、
お金や結婚、地位、その他色々なものを求めています。

ところが、お金のない人も苦しんでいますが、
お金のある人も苦しんでいます。

結婚していない人も苦しんでいますが、
結婚している人も苦しんでいます。

地位の低い人も苦しんでいますが、
地位の高い人も苦しんでいます。

その他のものも同じことです。

それはなぜでしょうか?

心が病にかかっているからです。
熱があるとき、何を食べてもおいしくありません。
どんな山海の珍味もまずく感じます。

それは、食べ物のせいではありません。熱のせいです。
熱がなくなれば、梅干し一つでご飯が美味しく食べられます。

科学や経済が悪いのではなく、
問題は心の病にあるのです。
全人類は自覚がないのですが、
苦悩の根元を知らない限り、どんなに科学が進歩しても、
幸せになれません。

心の病と後生の一大事

では、心の病とは何かというと、死後がハッキリしない心です。
後生の一大事とも言われます。

私たちは、必ず死が訪れます。
早いか遅いかの違いだけで、千年も万年も生きている人はいないのです。

死んだらどうなるのでしょうか。
死後は有るのでしょうか。
無いのでしょうか。
有るとしたらどんな世界なのか。
100パーセントの行き先なのに、全くわかっていません。
真っ暗がりです。

未来が暗いままで、現在だけ明るく生きることは不可能です。
未来がはっきりしなければ、現在は安心できないのです。
それでは、現在も未来も幸せになれるはずがありません。
これほどの大問題はありませんから、「後生の一大事」と説かれているのです。

後生の一大事について詳しくは、こちらの記事をお読みください。
後生の一大事の意味と解決の方法とは?

そんな心の病で苦しんでいる私たちを、
何とか助けたいと立ち上がった
お医者さんがあったのです。

阿弥陀仏:心の病を治す唯一の医師

浄土真宗では偏に阿弥陀仏一仏が礼拝されます。
他の一切の諸仏、諸菩薩、諸神を礼拝することはありません。
これは阿弥陀仏が心の病を直す唯一の医師だからです。
阿弥陀仏とはどんな仏さまなのでしょうか?

阿弥陀仏の意味

阿弥陀仏の「阿弥陀」には、2つの意味があります。
まず「アミターバ(阿弥陀婆)」=光明無量という意味。
「光明」とは仏様のお力で、阿弥陀仏の光明は届かないところはありませんので、空間的に無限ということです。
次に「アミターユス(阿弥陀庾斯)」=寿命無量という意味。
阿弥陀仏の寿命は限りがないため、時間的に無限ということです。
阿弥陀は、空間的にも時間的にも変わらない、すべての人を本当の幸せにする真理を意味し、本来はそんな色も形もない、心も言葉も及ばない、言葉を離れたものです。

しかしそれでは私たちは認識できませんので、救うことができません。
そこで、私たちに分かるような形を現されたのが阿弥陀仏です。

阿弥陀仏についてもっと詳しく知りたい方は下記をご覧ください。
阿弥陀如来とは?簡単に分かりやすく解説

医者である理由

そんな病で苦しんでいる私たちを哀れに思われて、
大宇宙のたくさんの仏方が、次々と
助けてやりたいと立ち上がられたのですが、
とても助けることはできず、最後には見捨ててみんな逃げてしまったのです。
私たちは仏様に捨てられたということです。

これを『悲華経』には、このように説かれています。

煩悩多き衆生は賢劫の一千四仏が放捨する所
(漢文:諸衆生 多行貪婬瞋癡憍慢 悉當調伏於三乘中 是一千四佛所放捨者 所謂衆生厚重煩惱)

また、『不空絹索神変真言経』には、こうも説かれています。

十方三世の一切の諸仏菩薩摩訶薩の常に棄捨する所
(漢文:十方三世一切諸佛 菩薩摩訶薩 常所棄捨)

地球上で仏のさとりを開かれて、ブッダになられたお釈迦さまも、
大宇宙の仏方の一人ですから、
自分には私たちを助ける力はない
と自ら説かれています。

私たちは自覚がありませんが、
それほど私たちの罪やが重いということです。

そこで、大宇宙の仏方から見捨てられた極悪人ならば、
なおさら助けてやりたいと立ち上がってられたのが、
大宇宙のすべての仏の王であり、先生である
阿弥陀如来という仏さまです。

病気で近くの町医者に行ったとき、
そこの先生に治す力がなければ知り合いの大病院の先生に紹介状を書いてくれるように、
ブッダが紹介してくだされた、
私たちを救う力のあるお医者さんが、
阿弥陀如来という仏さまなのです。

それでブッダは、仏教の結論として、このように教えられています。

一向専念無量寿仏いっこうせんねんむりょうじゅぶつ

無量寿仏」とは、阿弥陀仏のことです。
一向専念」の「一向」とは一つに向きなさい、
専念」とは、専ら信じなさいということですから、
一向専念無量寿仏」とは、阿弥陀仏に助けてもらいなさい
ということです。

阿弥陀仏の本願

浄土真宗の教えで最も重要なお言葉の1つに、阿弥陀仏の本願があります。
本願は東西本願寺の本願です。
本願の意味は、誓願とも言われ、約束という意味です。
阿弥陀仏が私たちにお約束されているということです。

阿弥陀仏の本願は、全部で48あります。
これを阿弥陀仏の四十八願といいます。
ですが、親鸞聖人が阿弥陀仏の本願と言われたときには、18番目に誓われた18願であることがほとんどです。
なぜなら十八願こそ阿弥陀仏の本心が誓われた、最も大事な願だからです。
これが阿弥陀仏の本願のお言葉です。

たとい我仏を得んに、十方の衆生、至心に信楽しんぎょうして我が国に生れんと欲うて乃至十念せん。
もし生れずは、 正覚しょうがくを取らじ。
唯五逆と 正法しょうぼうを誹謗せんことを除かん。

(漢文 :設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法)

この阿弥陀仏の本願については、非常に深いので、詳しくは下記の記事をご覧ください。
阿弥陀如来の本願とは?

この阿弥陀如来のお約束を、分かりやすく現代語訳すれば、
「すべての人を必ず『信楽』の幸せにしてみせる」
という意味です。
信楽とは絶対の幸福のことであり、この阿弥陀仏の本願を、親鸞聖人は、平生業成と教えられます。

平生業成

阿弥陀仏の本願では、生きているときに絶対変わらない絶対の幸福にしてみせると約束されています。
この、絶対の幸福になったことを「信心決定」といいます。

このように、生きている時に、絶対の幸福になれますので、
浄土真宗の一枚看板を「平生業成」といいます。
平生」とは、生きているとき、
」とは、絶対の幸福、
」とは、完成する、達成するということです。

浄土真宗の教えを漢字四字で表された言葉が
平生業成」です。
仏教の宗派はたくさんありますが、
生きているときに救われる宗派は、他にありません。
平生業成」は浄土真宗の一枚看板なのです。

ですから宗教哲学者の柳宗悦氏は、仏教で救われるのは、
浄土真宗の人ばかりであることに驚いています。

もとより妙好人は仏教各宗派に現れるはずであるが、
なぜか真宗系の仏徒から圧倒的にたくさん現れてくるのである。
これには必ずや、何かはっきりした原因があるに違いないと思える。
(引用:柳宗悦『妙好人 因幡の源左』)

妙好人」とは、絶対の幸福を喜んでいる人です。
生きているときに救われるのは、浄土真宗だけなのです。

では、どうやって生きている時に絶対の幸福にするかというと、名号(南無阿弥陀仏)という薬によって心の病を治します。

名号(南無阿弥陀仏)心の病を治す特効薬

大宇宙の諸仏の先生である阿弥陀如来でも、
さすがに素手では私たちを助けられませんから、
長い間大変な苦労をして薬を作られました。

それが「名号」です。
名号とは、南無阿弥陀仏の六字です。
阿弥陀仏の苦しみ悩む私たちを何とか救ってやりたいという大慈悲心を
私たちに分かるように形を現されたものです。

戦争で、死んでゆく時、何というか。
天皇陛下ばんざーい」ではありません。
みんな「おかあさーん」と言って死んで行ったといわれています。

おかあさーん」というのは
」「」「」……という単なる文字ではないか、
という人はいません。
心です。

南無阿弥陀仏の名号も、阿弥陀仏の心です。
目に見えない仏心の顕現であり、阿弥陀仏の全生命がおさまっています。

この名号に、私たちの心の病を治す働きがあります。
私たちの心の病を治す特効薬です。

ですから親鸞聖人は「功徳の大宝海」といわれています。

名号・南無阿弥陀仏について詳しくはこちらの記事をお読みください。
南無阿弥陀仏とは・念仏の意味

本願成就文

名号が薬にたとえられる根拠は、本願成就文です。
本願成就文とは、下記のお釈迦様のお言葉です。

諸有の衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。
至心に廻向せしめたまえり。
彼の国に生れんと願ずれば、即ち往生を得、不退転に住す。
唯五逆と正法を誹謗せんとをば除かん。

(漢文:諸有衆生 聞其名號 信心歡喜 乃至一念 至心迴向 願生彼國 即得往生 住不退轉 唯除五逆 誹謗正法)

要約するとこうなります。
どんな人も、その名号を聞く一念に絶対の幸福(信心歓喜・正定聚不退転)に救う、ただ五逆と法謗の者は除くと、阿弥陀仏は誓われている。

この中で、「その名号を聞きて」と説かれているところが薬にたとえられる理由です。

本願成就文は、阿弥陀仏の十八願の解説書といわれ、十八願の真意をあきらかにされています。
親鸞聖人は教行信証で、このようにいわれる、浄土真宗の教えでは、最も重要なお言葉です。

「横超」とは、すなわち願成就一実円満の真教・真宗これなり。
(漢文:横超者即願成就一實圓滿之眞教眞宗是也)

「横超」とは阿弥陀仏の本願のことで、「願成就」というのが本願成就文のことです。
「一実」とはたった一つの真実、
「円満」とは完全無欠で欠け目がない、
「真教」とは真実の教え
「真宗」とは真実の宗教、ということです。

ですからこのお言葉を要約すると
「阿弥陀仏の本願を説き明かされた、釈尊の『本願成就文』の教えこそが、時空を超えた完全無欠の真実の教えである」
という意味です。
まだまだ深い意味をお話ししたいところですが、本願成就文についての説明は一旦ここまでとしてます。

次に、私たちはいつ名号の特効薬をいただけるのかというと、「聞即信」の一念です。

聞即信

聞即信は、浄土真宗の教えでは、極めて大切なお言葉です。
聞は、本願成就文では「聞きて」といわれている聞です。

真実の仏教を真剣に聴聞し、絶対の幸福(平生業成)の身になったとき、聞即信といいます。
浄土真宗では、真実の仏教の教えを真剣に聴聞することを勧められます。

「聴聞」とは仏教を聞くことですが、「聴」というきき方と「聞」というきき方があります。

聴とは

まず、「聴」というきき方は、耳で聞いて理解する、がってんするきき方です。
1+1は2、2+2は4というように、法話をきいて納得していくきき方です。

納得できない話は納得できるまで、重ねて聞かせていただきましょう。
仏教はすべて因果の道理の教えで貫かれています。
ですので、どんな人でも、聞けば必ず納得できる教えなのです。
教えを重ねて重ねて聞いて正しく理解し納得することかぼまず大切なことです。
これが聴聞の「聴」です。

聞とは

しかしただ聞いてさえいればいいのではありません。
親鸞聖人は聴聞の「聞」について、こう教えられています。

「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。
これを「聞」と曰うなり。

(漢文:聞者衆生 聞佛願生起本末 無有疑心 是曰聞也)

これは、「聞とは、阿弥陀仏の本願の生起・本末に、ツユチリほどの疑心もなくなったのを、聞というのである」ということです。
「聞」と阿弥陀仏の本願に疑い晴れた一念(即)に、心の病が治り、「他力の信心」(信)となります。

他力の信心

ですから、浄土真宗の教えの最も重要なところは、聞く一念で「他力信心」を獲得することです。

一念とは、他力の信心を獲得する何億分の一秒よりも短い時間をいいます。
他力の信心には必ず一念があります。
一念がなければまだ他力の信心を獲得していないということです。

信心と念仏の関係は「信心正因 称名報恩」です。

信心正因」とは「他力真実の信心一つで救われる」ということです。
これを親鸞聖人は『正信偈』に、こう教えられています。

正定の因は唯信心なり。
(漢文:正定之因唯信心)

「正定」とは、正定聚のことです。
「正定聚」とは、まさしく仏になるに定まった人たち、ということですから、これは「仏になれる身になる因は信心一つだ」ということです。

この信心とは、心の病が全快した、信心決定のことです。
生きている平生に信心決定して、
心の病を完治することが浄土真宗の真髄なのです。

このことを蓮如上人は、『御一代記聞書』にこう教えられています。

たのむ一念の所肝要なり。

「たのむ一念」とは、他力の信心を獲得した一念のことです。
「肝要」とは、要の中の要です。
浄土真宗に要はいくつかありますが、要の中の要は一つしかありません。
他力の信心を獲得した一念が、最も重要なところだ、ということです。

ただし、ここで間違い易いのは、
心の病が治った、絶対の幸福は、仏のさとりではない、ということです。

現生正定聚:仏のさとりを開く最短コース

浄土真宗で、生きているときに絶対の幸福になれることを、
仏になれるとか「即身成仏そくしんじょうぶつ
といっている人がありますが、それは間違いです。

浄土真宗を開かれた親鸞聖人は、このように言われています。

凡地にしてはさとられず 安養にいたりて証すべし。

凡地にしてはさとられず」といわれているのは
凡地」とは凡夫のいる所で、この世のことです。
この世では煩悩がなくなりませんので、名号を頂いて病が全快しても、
さとりの52位の一番上のさとりである仏のさとりは開けません。

ではどうなるかといいますと、51段目の「正定聚 しょうじょうじゅ」になるのです。
正定聚」とは、「」は人々ということですから、
」しく仏になるに「」まった人たちということです。

生きているときに正定聚になれば、
人間に生まれてよかった
という変わらない生命の歓喜が起きますから、
この正定聚を現代の言葉で絶対の幸福と呼んでいるのです。

この正定聚に生きているときになれることを
現生正定聚げんしょうしょうじょうじゅ」といい、
親鸞聖人が初めて明らかにされた
浄土真宗の教えの特徴の中の特徴です。

そして、生きているときに正定聚になった人は、
死んだらどうなるかというと、
安養にいたりて証すべし」といわれています。

安養」とは阿弥陀仏極楽浄土のことですから、
死ぬと同時に阿弥陀仏極楽浄土へ往って、
阿弥陀仏と同じ仏のさとりを得るのです。

他の宗派では、生まれ変わり死に変わり
修行をし続けないと仏のさとりは開けませんから、
浄土真宗が、仏のさとりへ至る最短コースです。

現当二益:いつ、何回救われる?

浄土真宗といえば、「死んだらお助け」と思っている人や、
逆に「生きているときのことを教えられたのが浄土真宗で、
死後のことは説かれていない
」という人がありますが、
どちらも間違いです。

ある人が、浄土真宗の8代目の蓮如上人のところへやってきて
阿弥陀仏の救いは1回ですか?2回ですか?
とお尋ねした時、蓮如上人はこのように答えられています。

一念発起のかたは正定聚なり、これは穢土の益なり。
つぎに滅度は浄土にて得べき益にてあるなりと心得べきなり。
されば二益なりと思うべきものなり。

一念発起」とは、一瞬で信心決定することです。
信心決定した瞬間、正定聚になるのは、穢土でいただく幸せです。
穢土とはこの世のことですから、生きているときに正定聚に救われます。

つぎに「滅度」とは仏のさとりのことです。
仏のさとりは、浄土で頂く幸せですから、死後のことです。

このように阿弥陀仏の救いは現在と死後の2回ありますから、
されば二益なりと思うべきものなり
二益だと思いなさいと答えられています。

これを「現当二益」といわれます。

現益」とは現世の利益、生きているときの救いです。
当益」とは当来の利益のことで、死後の救いです。
浄土真宗の救いは、現在と未来の2回あるのです。

ただし、死んで極楽浄土へ往って仏に生まれるには、
生きているときに信心決定して、絶対の幸福になっていなければなりませんから、
親鸞聖人は、生きているときの信心決定を強調されたのです。

では、『信心正因 称名報恩』の称名報恩とはどういうことなのでしょうか?

称名報恩:お礼の念仏

称名報恩」というのは、
称名」とは念仏を称えること、
報恩」とは、ご恩報謝のことです。

浄土真宗で、念仏は何かというと、
ただ念仏を称えさえすれば救われる、ということではありません。
心の病が全快した喜びから、
言わずにおれないお礼の言葉です。

救われた喜びから称えずにおれない念仏はお礼ですから、
御恩報謝のお礼の念仏なのです。

ですから、念仏さえ称えたら救われるのではありません。
信心決定が最も重要です。

そのことを、浄土真宗の8代目の蓮如上人は、こう言われています。

聖人一流の御勧化の趣は信心をもって本とせられ候。

これは、親鸞聖人の一生涯の教えの最も大事なポイントは、信心一つだということです。

そして念仏については、最後にこのように教えられています。

その上の称名念仏は如来わが往生を定めたまいし御恩報尽の念仏とこころうべきなり。

これは、念仏はお礼の念仏ですよ、ということです。
これが、「信心正因 称名報恩」なのです。

浄土真宗の教えの特徴

最後に浄土真宗でよく知られている特徴的な人物やご著書、行事をつけ加えておきます。

歎異抄

『歎異抄』は、浄土真宗のご著書の中で最も拝読され、明治以降、多くの知識人や日本の文化に影響を与えた書物です。
著者はいまだにハッキリしていません。
著者不明の本ですが、おそらくは親鸞聖人のお弟子の唯円であろうといわれています。

親鸞聖人がお亡くなりになった後、間違って説かれている教えを正すため、親鸞聖人から聞いたお言葉を記してあります。
浄土真宗の教えが切れ味鋭く書かれています。

『歎異抄』について詳しくは、下記をご覧ください。
歎異抄とは?本の内容を分かりやすく説明

正信偈

浄土真宗の門徒の家で、朝晩のお勤めとして拝読されているご著書です。
漢文ですのでよく間違えられますが、お経ではありません。
お経はお釈迦さまの説かれたものですが、『正信偈』は親鸞聖人の書かれた『教行信証』行巻の一部です。
また、お経はお経読みといわれる棒読みをしますが、『正信偈』の場合は、私たちが朝晩親しめるように、節もついています。

『正信偈』の内容としては、『教行信証』6巻の内容を要約されており、親鸞聖人の教えのすべてが凝縮されています。
絶対の幸福とはどういうものか、絶対の幸福にどうしたらなれるのか、余すことなく書かれています。

『正信偈』について詳しくはこちらのサイトをご覧ください。
全文解説しています。
「正信偈」入門講座

『正信偈』の中には、七高僧の功績についても詳しく書かれています。

七高僧

お釈迦様が亡くなられてから、仏教を正しく伝えてくださる方がいなければ救われなかったと、
親鸞聖人は仏法を正しく伝えてくだされた方に大変なご恩を感じておられます。

中でも浄土真宗では、お釈迦さまの教えを正確に伝えられた、インド、中国、日本の七人の高僧を、七高僧と呼ばれています。
それぞれ以下の方々です。

インド
龍樹菩薩、天親菩薩

中国
曇鸞大師、道綽禅師、善導大師

日本 源信僧都、法然(源空)上人

龍樹菩薩について詳しくはこちらをご覧ください。
龍樹菩薩

源信僧都については下記をご覧ください。
源信僧都と往生要集

法然上人について、詳しくはこちらに書いてあります。
法然上人の生涯と教え

覚如上人

本願寺3代目法主で、親鸞聖人の曾孫にあたります。
覚如上人は親鸞聖人から直接話しを伝えられた方と言われます。
浄土真宗の教えは、親鸞聖人から孫にあたる二代目如信上人へ直接伝えられ、如信上人から​​覚如上人へ面授口決されました。
面授口決とは、師匠から弟子に直接教えを伝えることをいいます。
覚如上人は、親鸞聖人から面授口訣で教えを伝えられたと言われます。

そして親鸞聖人の教えを的確に要約され、今日の浄土真宗の教えの基礎を固められた方です。
『口伝鈔』、『改邪鈔』、『執持鈔』などのご著書を書き残し、名文家でもありました。

蓮如上人

本願寺8代目法主で、浄土真宗の中興の祖と呼ばれ、浄土真宗の教えを日本全土に広められました。
今日浄土真宗が日本一の門徒数とされるのは、蓮如上人の功績です。
蓮如上人の書かれた『御文章』は、漢文の読めない門徒にわかるように仮名まじりでかかれたお手紙です。
ご著書は少ないですが、3頭の駿馬を乗り継ぎ、日本全全国津々浦々、正確な浄土真宗の教えを、最も多くの人に浄土真宗の教えが伝えられました。

これらご著者、高僧方によって伝えられた浄土真宗の教えは、阿弥陀仏の本願は、「他力の信心」による救いということを、重ねて明記しておきます。

浄土真宗の教えの出発点

ここまでお話ししてきたように、
浄土真宗の教えは、「念仏を称えたら死んだらお助け」ではありません。
浄土真宗の教えの本末はこうです。

病人(あなた)→医師(阿弥陀仏)→薬(名号)→全快(信心決定)→お礼(念仏

生きているときに信心決定して、絶対の幸福になれる」というのが浄土真宗の教えです。
そして念仏は、その救われた喜びから称えずにおれない
お礼の言葉です。

ところがそれを本末顛倒して、
お礼を言ったら、病気が治って、
病気が治ったら薬が出現して、
薬が出現したら医師が現れて、
医師が現れたら病人が現れる、
とすると、意味が分からなくなります。

病人がいるから、医師が現れて、病気を治す薬を作ります。
その薬を飲むと、病気が全快して、お礼を言うのです。

仏教は、病人がいたことが本で説かれていますから、
浄土真宗の本は、私が病人だ、ということから出発しています。
浄土真宗の出発点は、何をやっても、何を手に入れても、
自分が幸せになれずにいるということなのです。

自分が病人だという自覚がないと、
自分の心の病の恐ろしさを知らず、
仏教は分からなくなります。

そしてその心の病とは、怒り愚痴煩悩ではありません。
煩悩で苦しめられることになる、
根本原因があります。

では、その苦悩の根元は何かといいますと、
大変深い内容なので、以下のメール講座と電子書籍にまとめておきました。
まずは読んでみてください。
ここからが心の病が全快するスタートです。

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長南瑞生

長南瑞生

日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか一人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。インターネットの技術を導入して日本仏教学院を設立。著書2冊。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと奮戦している。

仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者3千人、メルマガ読者5万人。ツイッター(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能

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