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浄土宗の教えとは?

知恩院
知恩院

浄土宗は、平安時代の終わりに法然ほうねん上人の開かれた日本で2番目に大きい仏教の宗派です。

浄土宗の教えを正しく聞けば、仏教で末法まっぽうといわれる現代でも、修行も座禅も、瞑想も心のコントロールもなしで、この世は変わらない幸福になり、死ねば極楽へ往って仏に生まれます。

それが浄土宗のお経である、「浄土三部経」に説かれています。

浄土三部経」とは、お釈迦さまの説かれた七千余巻の一切経の中でも、いつの時代でも、どんな人も救われる法が集中的に説かれている『大無量寿経だいむりょうじゅきょう』『観無量寿経かんむりょうじゅきょう』『阿弥陀経あみだきょう』の3つです。

ところが多くの人が誤解しているのは、浄土宗というのは、
念仏さえとなえていたら死んだら極楽へ往ける
と教えられているのだろうと思っていますが、そうではありません。
このようなことを思っていると、極楽に往けなくなってしまいます。
では本当は、一体どんなことを教えられているのでしょうか?

なぜ浄土宗が必要なのか

浄土宗を開かれた法然上人は、最初、比叡山にのぼられて、天台宗てんだいしゅうの修行をしておられました。
ところが、どれだけ難行苦行に励まれても、到底さとりを開くどころではありません。
当時、すでにさとりを開けるような時代ではなかったのです。

それはなぜかといいますと、私たちがさとりを開くには、きょうぎょうが必要です。
これを「教行証きょうぎょうしょう」といいます。
」とは教えです。宝の地図のようなものです。
しかし宝の地図だけあっても、宝物は手に入りません。
地図の通りに進んで行く必要があります。

次の「」とは教えにしたがって行ずることです。
教えの通りに進んではじめて、目的地につきます。
」とはさとりのことで、仏教の目的地です。

ところがお釈迦さまは、末法になると、修行をする人も、修行をして悟る人もなくなると説かれています。

末法」とは、お釈迦さまがお亡くなりになって、1500年以上経った時代で、浄土宗を開かれた法然上人の時代も、私たちの生きている現代も末法の時代です。

末法とは?

お釈迦さまは、お亡くなりになった後の時代を4つに分けて、正法しょうぼう像法ぞうぼう末法まっぽう法滅ほうめつと言われています。

正法」 とは、お釈迦さまの死後500年で、教えも、行ずる人も、さとる人もあります。
像法」とは、正法の後1000年間で、教えと行ずる人はありますが、証る人はなくなります。
末法」とは、像法の後10000年間で、教えはありますが、行ずる人も、証る人もなくなるのです。
ちなみに末法の後は永遠に「法滅」といって、教えもなくなります。

表で表すとこうなります。

  時代
正法 釈尊死後500年
像法 正法後1000年 ×
末法 像法後10000年 × ×
法滅 末法後永遠 × × ×

このことをお釈迦さまは、多くの経典に説かれていますが、例えば『大集経だいじゅうきょう』にはこう説かれていると『安楽集』に教えられています。

我が末法の時の中の億億の衆生、行を起し道を修せんに、未だ一人も得る者有らず。
(漢文:我末法時中億億衆生 起行修道未有一人得者)

現在は末法ですから、私たちは修行したとしても、
誰もさとりを得ることはできない、ということです。

末法でも救われる唯一の道

法然上人の時代も末法ですから、天台宗で教えられる修行に励まれましたが、少しもさとりが得られません。
法然上人は、お釈迦さまはどこかに救われる道を説かれているはずではないかと、一切経七千余巻のおさめられた黒谷くろだに報恩蔵ほうおんぞうにこもって一切経を読まれ、比叡山を下りて奈良へ行っては、法相宗ほっそうしゅうの学者からは法相宗の学問を、華厳宗けごんしゅうの学者からは華厳宗の学問を学びとられました。

こうして「法然のような者でも助かる道がなかろうか」と探し求めて10年が経ち、20年が経ち、一切経を読まれること5回、ついに、すべての人を救うと約束された阿弥陀仏の念力が法然上人の胸に届いたとき、法然上人の闇黒の魂が、光明輝く絶対の幸福に、救われたのでした。
こうして、いかなる智者も愚者も、阿弥陀仏の本願を信ずる一つで、救われることが知らされ、浄土宗が開かれたのです。
法然上人43才のときでした。

浄土宗の教えをわかりやすく言うと

浄土宗の教えを分かりやすくいうと、
専修念仏せんじゅねんぶつ」です。
1回の「専修念仏」で救われます。
ただし「専修念仏」とは、他力念仏のことです。
自力念仏では救われません。
ある人が法然上人に、
念仏さえ称えれば極楽へ往けるんじゃないんですか?
とお尋ねしたときのお答えが、このように書き残されています。

問いていわく、
「称名念仏申す人は、みな往生おうじょうすべしや」
答えていわく
他力念仏往生すべし、自力念仏はまったく往生すべからず」

往生とは極楽へ往って仏に生まれることですから、自力念仏はどんなに称えても、極楽へは往けないのです。

(浄土宗の僧侶でも、とにかく死ぬまでひたすら念仏を称えれば極楽へ往けると思っている人がありますが、それは浄土宗を開かれた法然上人の教えとは異なり、大変な間違いですから注意が必要です)

では「他力念仏」とは何でしょうか?

他力の念仏とは

他力の念仏とは、他力によって3つの心がおこされて称える念仏です。
他力とは、阿弥陀仏のお力のことです。

3つの心とは『観無量寿経』に説かれる「至誠心しじょうしん」「深信じんしん」「廻向発願心えこうほつがんしん」の3つです。
これを「三心さんしん」といいます。

法然上人の主著の『選択本願念仏集せんちゃくほんがんねんぶつしゅう』には、
念仏の行者、必ず三心を具足すべき」とか
三心はこれ行者の至要なり
といわれています。
至要」とは、最も重要なポイント、ということです。

さらには「もし一心かけぬれば即ち生を得ず」(法然上人『選択本願念仏集』)と言われて、三心が一つでも欠けると往生できません。
必ず必要です。

この三心が起きるまでは、すべて自力念仏です。
自力念仏は何万回称えても極楽へは往けません。
生きているときに阿弥陀仏に救われて、三心をおこされて称える念仏が、他力念仏です。
他力念仏を1回でも称えれば、極楽へ往って仏に生まれます。

では阿弥陀仏に救われて、他力念仏を称える身になると、どうなるのでしょうか?

浄土宗の4つの実践

他力念仏を称える身になると、「四修ししゅ」をせずにおれなくなります。

四修ししゅ」とは、
恭敬修くぎょうしゅ
無餘修むよしゅ
無間修むけんじゅ
長時修じょうじしゅ
の4つです。

恭敬修くぎょうしゅ」とは、救われたら阿弥陀仏を敬い、礼拝せずにおれなくなってきます。
無餘修むよしゅ」とは、私を救いたもう仏は阿弥陀仏以外になかったとハッキリして、
救われた喜びが常に続き、阿弥陀仏を礼拝し、ほめたたえ、念仏を称えずにおれなくなってきます。
無間修むけんじゅ」とは、いつ死んでも極楽参り間違いなしとツユチリほどの疑いなくハッキリして、その心が死ぬまで続き、極楽浄土を思い浮かべて念仏を称えずにおれなくなります。
長時修じょうじしゅ」とは、上記の3つを、命延びれば延びただけ、せずにおれなくなることです。
救われた瞬間から、一回でも多く念仏称えなければもったいないと、念仏称えずにおれなくなります。

浄土宗の要

これらの浄土宗の教えは、法然上人の『選択本願念仏集せんちゃくほんがんねんぶつしゅう』に詳しく書かれていますが、浄土宗の教えの要は、法然上人が80才でお亡くなりになる時、勢観房せいかんぼうが特別の願いによって一枚の紙に遺言された「一枚起請文いちまいきしょうもん」です。
浄土宗では非常に重視され、一休さんなども誉め称えているものです。

そこには、このように教えられています。

もろこし・我が朝に、もろもろの智者達のさたし申さるる観念の念にも非ず。
また学文をして念の心を悟りて申す念仏にも非ず。
ただ「往生極楽のためには南無阿弥陀仏と申せば疑なく往生するぞ」と思いとりて、申すほかには別の仔細候わず。
ただし三心・四修と申すことの候ふは、みな決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候なり。

これを読みますと、ただ念仏を称えたら、極楽に往けると思えます。
それは称名を表面に強く出されて、他力の信心は深い所に書き記されているからです。

それはどこにあるのかというと、
「疑なく往生するぞ」と思いとりて』です。
他力念仏の要は、
「疑なく往生するぞ」と思いとりて
という信心を決定することです。
その疑いはれた決定信けつじょうしんに、「三心」も「四修」もおさまっているのです。

どうすれば信がえられるの?

その決定信については、
選択本願念仏集』に、こう説かれています。

生死しょうじの家には疑を以て所止しょしと爲し、涅槃ねはんの城には信を以て能入のうにゅうとなす。

生死しょうじの家」とは、私たちが家から離れて生きられないように、生まれ変わり死に変わり、永遠に迷いの世界を輪廻転生りんねてんしょうすることです。
涅槃ねはんの城」とは、極楽浄土のことです。
私たちが迷いを離れ、極楽へ行って仏に生まれるには、迷いの根本原因を断ち切られた決定信が、必ず必要です。

他にも、法然上人の『和語灯録わごとうろく』には至る所に教えられています。
例えば、こうあります。

唯今、弥陀の願の心は、かの如く悟れと云うにはあらず、ただ深く信心を至して唱うる者を迎えんとなり。

深く信心を至して」とは、信心決定しんじんけつじょうして、ということです。

また、このようにもあります。

それ煩悩悪業ぼんのうあくごうの病、極めて重し。
いかがこの名号みょうごうをとなえて生るる事あらんと疑いて、これを信ぜすば、弥陀の誓願、釈尊の所説、空しくしてそのしるしあるべからず。
ただ仰いで信ずべし

信ずべし」とは、信心を決定しなさい、ということなのです。

浄土宗には、本質的にはこのように、信心を決定しなさいと教えられているのです。

信心を決定するには、苦悩の根元が断ち切られなければならないのですが、
その苦悩の根元とは何かについては仏教の真髄ですので、電子書籍とメール講座にまとめておきました。
今すぐお読みください。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生

日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか一人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。インターネットの技術を導入して日本仏教学院を設立。著書2冊。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと奮戦している。

仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者3千人、メルマガ読者5万人。ツイッター(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能

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