真言宗とは

真言宗は、中国ではまだ宗派としてまとまらないまま伝わっていた密教の教えを
日本の空海が体系化して独立した日本の仏教の宗派です。

真言宗のお経は、『大日経』『金剛頂経』『蘇悉地経』の3つで、
これを「秘密三部経」といいます。
それに加えて『金剛頂経』の続きのお経である『理趣経』も読まれます。
理趣経』は、男女の肉体関係によって高い境地に達することができるという
大変な誤解を招く危険な内容を含んでいます。

一体、真言宗とは、どんな教えなのでしょうか?

真言宗の目的

仏教の目的は、仏のさとりを開くことです。
仏のさとりというのは、低いものから高いものまで、
大宇宙に52あるさとりの中で、最高の52段目のさとりです。

ところが、真言宗が現れるまでは、仏のさとりを開くまでに
大変な長い時間のかかる宗派ばかりでした。

法相宗では、三阿僧祇劫という果てしなく長い時間、
生まれ変わり死に変わりを繰り返しながら修行し続ける必要があります。

華厳宗でも、最短で3回の生まれ変わりが必要とされ、
現実には開祖の杜順を含めて誰もできず、3回どころではありません。

天台宗天台宗は、この世で成仏できるといいますが、
開祖の天台大師でも、52段中10段程度しかさとりを得られませんでした。

そこで、真言宗の開祖の空海は、
この身このままで仏のさとりを開く
即身成仏」が可能である理論を示しました。

真言宗の教えは、分かりやすく言うと、
即身成仏」の理論と、その実践方法です。

この世で仏のさとりが得られる3つの理論

空海は、この身このままで仏になれる
即身成仏ができる根拠を3つの観点から説明しました。

1つには六大、2つには四曼、3つには三密です。

1.六大

1つ目の六大とは、地大・水大・火大・風大・空大・識大の6つで、
物質と精神です。
物質というのは、地大・水大・火大・風大・空大の5つで、
現象の中に大日如来の力があるということです。

精神というのは識大で、大日如来の智慧です。
五大は、智慧によって認識されるので、
六大がとけ合って世界が成立します。
これを「六大無碍」といいます。
この「六大無碍」によって、大日如来と修行者が一体になり、
仏のさとりがえられます。

2.四曼

2つ目の四曼とは、大日如来の功徳を表す四つのマンダラのことです。

4つのマンダラとは、
1.大マンダラ
2.三昧耶マンダラ
3.法マンダラ
4.羯磨マンダラ
の4つです。

まずマンダラには、『金剛頂経』に説かれ、
大日如来の智慧を表す金剛界マンダラと、
大日経』に説かれ、
大日如来の慈悲を表す胎蔵界マンダラの2つがあります。

1つ目の大マンダラとは、この2つのマンダラに描かれる
諸仏菩薩がそれぞれの徳と姿を持っていることを言います。

2つ目の三昧耶マンダラとは、諸仏菩薩それぞれの本誓を表します。
諸仏菩薩は共通して何とか人々を助けたいと思っていますが、
本願が異なるので方法が異なります。
それを形で表わされた、薬師如来の薬つぼ、観音菩薩の蓮華、
不動明王の刀剣などの能力や本誓です。

3つ目の法マンダラは、種子マンダラともいいます。
仏のさとりは一つですが、
諸仏はそれぞれの機縁に応じてこの世に現れるので、
それぞれの固有の名前や性質があります。
それをサンスクリットの文字で表したのが「種子」です。
例えば大日如来の種子は「阿字」です。
このようにマンダラを種子で表したのが法マンダラです。

4つ目の羯磨マンダラとは、「羯磨」とはカルマのことで、
行為のことです。

諸仏菩薩は、人々を救うために、色々な行いをします。
立ったり、座ったり、色々な印を結びます。
これまでの3つのマンダラを前提とする、
このような変化を羯磨マンダラといいます。

真言宗では、諸仏や菩薩大日如来におさめて見ますので、
これら4つのマンダラによって大日如来の功徳を表します。
大日如来と一体になれば、これらの功徳と一体になるので、
仏のさとりを得ることができるということです。

3.三密

三密とは、大日如来の三業で、身密、口密、意密の3つです。

深い禅定の状態で、
手に印を結ぶ身業と、
口に真言を唱える口業と、
心に阿字を念じる意業の行者の三業と、
大日如来の三業とが相応すれば、
行者の身口意と仏の身口意が融合します。

すると、大日如来の三密が行者の三業に加持され、
入我我入して大日如来と行者が一体となり、
即身成仏できるというものです。
これを「三密加持」といいます。

このように、
六大が大日如来のものがらであり、
四曼が大日如来のすがたであり、
三密が大日如来のはたらきです。
こうして3つの観点により、
即身成仏の理論が明らかになりました。

具体的な実践方法と真言宗の2つの危険な点

この即身成仏を体得するための実践方法は観法です。
観法とは、心で何かを思い浮かべることです。
具体的には、阿字観や、月輪観、五相成身観などです。

この心が口に現れたのが真言を口に唱える念誦で、
体に現れたのが供養です。
念誦や供養には、色々な方法が定められています。

ところが、供養するときに、
インドの仏教以外の宗教で、
色々なものを火に投げ込んで神々に供養した
護摩」を取り入れているのが危ない点です。

本当の目的は即身成仏ですが、
やっていることは仏教以外の宗教と同じですので、
息災延命や除難招福などの現世利益を祈って
加持祈祷を始めると、色々な迷信を引き起こし、
人々の救いの道を閉ざすことになります。

また、危ない2つ目として、
理趣経』に説かれる男女の肉体関係も、
仏のさとりから観た煩悩即菩提であって、
即身成仏を果たさずに欲望を満たせということではありません。
自らの煩悩によって、因果応報、自ら苦しむことになります。

このように、真言宗では、
すべて自力仏のさとりに至るわけではありませんが、
大日如来の加威力を受持して加持成仏するには、
やはり大変な自力の修行が必要です。

実際やってみると?

真言宗によってさとりを求めた有名な人が
刈萱道心(かるかやどうしん)です。

元は加藤左衛門繁氏といって筑前、筑後、肥前、大隅、薩摩の
6ケ国の探題でした。

出家した理由

ある日、繁氏が花見をしていると、
桜の花びらがひとひら散って、
酒の盃の中に浮かびました。

それを見た繁氏は、
自分もこのようにやがて死んで行かねばならない
と深く無常を感じて家に帰りました。

ところがその夜、妻の千里と側室の須磨が、
琴を合奏しました。

表面は仲良さそうにしていますが、
障子に映った二人の髪の毛が大蛇となって噛み合っている
嫉妬の心のすさまじさを見て、
このように人を大蛇にする原因は皆自分にあると
重い罪悪に驚き、その夜ひそかに出家して、
高野山に入り、真言宗の僧となりました。
こうして刈萱童心と名乗ります。

子供が生まれる

ところが、妻の千里には子供が宿っており、
10カ月後に生まれると石童丸と名づけられました。
やがて大きくなると「なぜ僕には父様がないの
としきりに尋ねるので、千里は一部始終を打ち明けました。

石童丸はお父さんが恋しくなり、お母さんと高野山に向かいます。

ところが高野山は女人結界の地なのでお母さんはは登れません。
高野山の麓で別れる時
お前の父上は人よりも背が高く左の眉毛にホクロのあるお方だよ
と言い残して別れました。

石童丸はそれをたよりに高野山の峰や谷の寺々を
くまなく尋ね歩きますが、父上らしい僧侶に出会うことは出来ません。

我が子と初対面

ある日一つの橋を渡ろうとした時、
左手に花を持ち右手に念珠を持って
南無遍照金剛を唱えながら刈萱道心が下って来ました。

何となく父上でなかろうかと石童丸は駆けよって、
その名を尋ねた。刈萱道心は不審に思ってよく見れば、
その顔は妻と生き写しです。

その上持っている短刀はまさしく以前、自分が持っていたものです。

おおお前は我が子、石童丸ではないか
とあわや言いそうになりましたが、
真言宗では、一切の恩愛を断ち切れと説かれています。

今、名のれば今までの14年間の苦行は
水の泡になってしまうと思い、
そなたの尋ねている刈萱道心は去年の秋に亡くなられた
と心を鬼にして言い切ります。

一瞬泣きくずれた石童丸が
せめてお墓なりとも
とたのむので道心は仕方なく
一つの新しい墓前に連れていきました。

もみじの様ーような両手を合わせじーっと墓を見つめていた石童丸は、
やがてワッと泣き出します。

刈萱道心は張りさける思いに堪えながら、
漸く下山させましたが、我が子の影がみえなくなると同時に
その場に打ち倒れました。

妻と娘の死

石童丸は泣く山を下りてみると
麓でしきりに烏が鳴いています。
不思議に思いつつ帰ってみると、
お母さんも、病気で亡くなっていました。

仕方がないので一人のお姉さんをたよりに筑前に帰りましたが、
その姉もこの世を去って四十九日目でした。

石童丸はいよいよ無常を痛感して意を決し、
自分も父のみあとを慕って出家しようと
再び高野山を訪ねます。
再び山に登ってきた我が子の姿に驚き
一切を聞かされた刈萱道心は
何、母が死に姉も死んだのか」と思わず知らず
ほろーッと一滴の涙を落としました。
この一滴の涙が刈萱童心の14年間の難行を
元の木阿弥にしてしまったといいます。

このように真言宗は、即身成仏の理論はあるのですが、
やはり自力の修行が必要なので、その実践は極めて困難なのです。

誰かできた人はいるの?

この真言宗の難行苦行は大変なもので、
開祖である空海さえも完全な三密加持はできず、
臨終にこのような歌を残しています。

空海の 心の中に 咲く花は
     弥陀より外に 知る人はなし

大日如来に救われることができなかったので、
大日如来の先生である、
阿弥陀如来にすがらずにはいられなかったのです。

そこで、お釈迦さまは、難行苦行のできない私たち、
どんな人でも煩悩即菩提の境地をえられる教えを説かれています。

その、すべての人が煩悩即菩提の境地になれる仏教の真髄については、
以下のメール講座と小冊子にまとめておきました。
まずは読んでみてください。

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