不条理

不条理だと感じたり、理不尽だと感じることは、人生のあちこちで直面します。
そもそも不条理と理不尽はどのように違うのでしょうか?
なぜ不条理はこの世にあふれていて、
どうすれば解消できるのでしょうか?

不条理と理不尽の違い

仕事をしていると、しばしば社会の不条理を感じます。
例えば、みんな要領よく楽して給料をもらったり、出世しているのに、
自分だけがたくさん働かなければならないとき、
また、傲慢で腹黒い上司が、
部下をこき使い、楽して稼いでいるときなどです。

また、都合が悪くなった上司が
自分で決めたルールを変更し、
責任を言われた通りにやっていただけの部下に
押しつけて来たりすると、
理不尽だと感じます。

世の中には、そんな不条理や理不尽に満ちあふれていますが、
不条理と理不尽はどう違うのでしょうか?

実は、不条理も理不尽も、
理解できないとか意味不明なことです。

そして、理不尽のほうが少し、
人間に苦しめられているニュアンスがあります。

不条理は、社会や世界が理解できず、
意味が感じられないニュアンスです。

ですから、不条理は、苦しめられるだけでなく、
面白い場合もあります。

不条理ギャグ

1980年代から、1990年代にかけて、
不条理ギャグが一世を風靡しました。

不条理ギャグの代表作としては、
吉田戦車の『伝染るんです』が有名です。

普通のギャグは、意味の分かるオチやだじゃれ、
ボケとツッコミなどで笑いを誘います。
そのようなギャグは、冗談として
日常の中で言うこともできます。

ところが不条理ギャグは、
現実にありえないキャラクターや世界観で、
意味不明な面白さを醸し出します。

このように「不条理」は、
大衆文化やサブカルチャーに分類される
ギャグ漫画にもありますが、
さかのぼれば、もっと高尚な文化とされる演劇にも
不条理劇」というものがあります。

不条理劇

不条理劇」とは、1950年代に台頭した
意味の分からない劇のことで、
ストーリーのつながりもよく分からず、
会話もかみあわっていない演劇です。

代表作は、ノーベル賞を受賞した劇作家、
サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』です。

この作品では、木が一本だけ生えた
虚無感にあふれる場面で、
ウラジミールというロシア風の名前の男と
エストラゴンというフランス風の名前の男が、
2人とも会ったこともない「ゴドー」を待っています。

会話もろくにかみ合わず、
同じ言葉の繰り返しが多くあります。
そしてポッツォというイタリア風の名前の男と
ラッキーというイギリス風の名前の従者が現れますが
ゴドーは現れません。

縄を持っていて、木で首を吊って自殺もできますが
それもしません。

やがて少年が現れて、
ゴドーさんは、今日は来ません。明日来るそうです
と言って第一幕が終わります。

第二幕も同じように2人が「ゴドー」を待っています。
記憶はほとんどないようです。

そして、目の見えなくなったポッツォと、
しゃべれなくなったラッキーが現れますが、
結局ゴドーは現れません。

そして最後に少年が現れて、
ゴドーさんは、今日は来ません。明日来るそうです
と言って、何も起こらずに終わります。
一体何だったのでしょうか?

ゴドーを待ちながらの意味とは?

この「ゴドー」は誰かについて、
これまで様々な解釈がなされてきました。

ゴドー」という言葉からまず誰でも連想するのは、
キリスト教であるゴッドですが、
作者のベケットは
もしゴッドならそう書く
と言って否定しています。

ただ、キリスト教であるイエスは、
すぐに戻ってくる」と言って昇天したと聖書にあります。
戻って来られるのは近い」ともありますが、
2000年以上経った今もまだ戻ってきていません。

キリスト教の場合は、早く戻ってきて
最後の審判をしてもらわないと救いもありませんから、
永遠に戻ってこないとすれば、
世界にも人生にも意味はなくなってしまいます。

ゴドーを待ちながら』は、
このキリスト教の状況によく似ており、
多くの知識人から、ゴドーはの愛称であろうとも、
それによってもたらされる救いだろうとも解釈されています。

不条理の哲学

さて、この「不条理」は、日常的にも使われる言葉ですが、
哲学の用語にもなっています。

それはノーベル賞を受賞した、フランスの作家・哲学者である、
アルベール・カミュが、
1942年の『シーシュポスの神話』で大きく取り扱ったからです。

それは衝撃的に
本当に重大な哲学の問題は一つしかない。それは自殺である
と始まります。

カミュは、当時、不条理の感覚があちこちに見いだされ、
多くの人が、人生が生きるに値しない
と考えるがゆえに死んでゆくのを目にした
」ことから
人生の意味こそ、最も緊急な問題だと判断」します。

普通、不条理というと、単に世界に意味がないことのように思います。
実際に、哲学では、世界にも人生にも意味が見いだせません。

ところがカミュはもう少し深く考えて、
人間が心の底から狂おしいほど世界の意味を知りたいのに、
世界に意味が見いだせない
」ことを
不条理と言っています。

不条理なら自殺すべき?

そこでカミュは、不条理であれば自殺すべきかという問いをたてます。

カミュはまず、これまで不条理について考えてきた、
ヤスパースからハイデッガー、
キェルケゴールからシェストフ、
フッサールなどの現象学者たちからシェーラーなどが
世界に意味を見いだせなかったことを確認します。

中でも、ヤスパース、シェストフ、キェルケゴールなどは、
世界に意味を見いだせないためにを持ち出し、
フッサールさえも永遠の理性を持ち出しますが、
これは飛躍であり逃げであって正統な態度ではないとし、
哲学的自殺」と名づけます。

そして、肉体的に自殺することは、不条理への反抗ではなく、
同意であって、これも問題を回避する逃げなので、
自殺では不条理は解消できないと考えます。
それにもかかわらず自殺するのは、認識不足であると言います。

それよりも、人間は死刑囚と同じだが、
その不条理を常に意識してそれに反抗して生きることが
自殺とは全く異なり、よりよく生きることになるとします。
その場合、自ら命を断つのと反対に、
少しでも長く生きることが大切だといいます。

世界に意味がないのに、それをあると思って意味を探すことは
それに縛られることになるので、不自由になり、
世界に意味がないと自覚することが、
より自由に生きられ、そこに人間の気高さあると言います。

カミュの不条理の哲学のまとめ

まとめると、カミュは、不条理に対して
1.哲学的自殺
2.自殺
3.不条理に反抗して生きる
の3つの選択肢を示します。

1つ目の哲学的自殺とは、
不条理を解消せず論理的には飛躍してなどを信ずることです。

2つ目の自殺も、不条理は解消されません。

3つ目は、不条理を意識して生きることです。
これによってより気高く自由に生きられると言います。

カミュの3つの問題点

ところが、このカミュの議論には問題点が3つあります。

1つは、カミュ自身は不条理に対する選択肢の3番目をとり、
不条理を意識して少しでも長く生きると言いますが、
それでも不条理は解消されないことです。
答えになっていないのです。

2番目に、世界にも人生にも意味はないとしながら、
自由や人間の気高さを価値あるものとして、
意味を見いだしていることです。
これは自らの出発点の前提と矛盾します。

3番目は、世界に意味を見いだすことは不可能
としているところです。
もし世界に意味が見いだせたら話は
根底からくつがえります。

不条理の本当の解消法

では、世界に意味が見いだせないのは、
どこに原因があるのでしょうか?

それは自分の心にあります。

多くの人は、元から万人共通の世界と
万人共通の歴史があって、
そこに自分が生まれてきたと考えていますが、
現代の物理学では、万人に共通な時間も空間も
ないことが分かっています。

実は、自分の心が自分の世界を生み出しているのです。
これを仏教では
三界唯一心 心外無別法
といいます。

あらゆる現象は心の生みだしたものですから、
まったく同じものを見ていても、
そのときの心でまったく違って見えます。

同じコンビニのおにぎりでも、
食うや食わずの餓死寸前のときに見ると、
ものすごいご馳走であり、黄金のように見えます。

ところが、毎日ビフテキや寿司を食べていて、
満腹のときに見ても、お金をつけてもらってもいらない
泥のように見えます。

ちょうどそのように、
まったく同じ世界を見ていても、
「こんなことなら死んだほうがましだ」
と意味が見いだせない人もいれば、
「人間に生まれてよかった」
と意味に満ちあふれて見える人もあります。

それは、目で見るものも、
耳で聞くものも、
心を通るからです。

ですから、不条理を解消するには、
本当の生きる意味を知って、
人間に生まれてよかった
という喜びの身になればいいのです。

ではそれにはどうすればいいのかということは、
仏教の真髄なのですが、
メール講座と、小冊子にまとめてあります。
一度見ておいてください。

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