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ありがとうの語源

ありがとう」といえば、感謝を表す美しい日本語です。

どこから来た言葉かというと、語源は仏教にあります。

ありがとうの語源

ありがとうは、「有り難し」という言葉が、ウ音便化したものです。
つまりありがとうの語源は、有り難しの語源を知れば分かります。
この有り難しの語源は仏教の「盲亀浮木のたとえ」にあります。
どんなたとえ話なのでしょうか?

盲亀浮木もうきふぼくのたとえ

「盲亀浮木のたとえ」は、昔から有名な話です。
これは、平安時代末期の流行歌を集めた『梁塵秘抄りょうじんひしょう』にも出てきますし、鎌倉時代に『新古今和歌集』や『小倉百人一首』を編纂した藤原定家の歌にも
たとふなる 浪路の亀の 浮き木かは……
と詠み込まれています。

参考までに辞書を見てみると、このように出ています。

盲亀浮木
もうきふぼく
浮木うきぎ>とも略称。
大海に住む盲目の亀が100年に一度海中から頭を出し、そこへ風のまにまに流された一つの孔がある流木が流れてきて、亀がちょうどその浮木の孔に出遇うという極めて低い確率の偶然性を表す比喩譚。
人間として生をうけることと、また仏法に遇うことの難しさをいう譬話たとえばなし

辞書の内容では簡単で分かりにくいので、更に詳しくどんな話なのか説明します。

盲亀浮木のたとえの内容

それはどんな話かというと、あるときお釈迦さまは、お弟子の阿難に、
そなたは人間に生まれたことをどう思うか
と尋ねられました。

はい、大変喜んでおります
と答えると、
どのくらい喜んでいるか
と聞かれます。

どのくらい喜んでいるか、といわれると、言葉で表現するのは大変です。

あなたは人間に生まれたことをどう思いますか?
100万円もらったのと比べると、どちらが喜んでいるでしょうか?
大学に合格したり、結婚するのと比べたら、どっちが嬉しいでしょうか?

阿難尊者も、どういったものか困っていると、
お釈迦さまは、「盲亀浮木もうきふぼくのたとえ
といわれる有名なたとえ話をされています。
これは、『法華経』(如一眼之龜値浮木孔)など、色々なお経に出ている譬えですが、『雑阿含経ぞうあごんきょう』にはこのように説かれています。

たとえば大地ことごとく大海となるに、一盲亀あり。
いのち無量劫なり、百年に一たびその頭を出す。
海中に浮木あり、ただ一孔のみあり、海浪に漂流し風に随い東西す。
盲亀、百年に一たびその頭を出し、まさにこの孔にあうを得べきやいなや」
阿難、仏にもうさく、
「世尊よ、あたわず」
「所以はいかん」
「この盲亀、もし海の東に至らんに、浮木、風にしたがいて、あるいは海の西に至る。
南北四維の囲遶することまたしかなり。必ず相得ず」
仏、阿難に告げたまわく
「盲亀浮木また差違すといえどもあるいはまた相得ん。
愚痴の凡夫、五趣に漂流し、暫くまた人身あらんことはなはだ彼よりも難し」

これはどういうことかというと、お釈迦さまは阿難に言われました。
「太平洋のような広い海に、目の見えない亀がいる。
その目の見えない盲亀が、100年に1度、海面に顔を出すのだ。
広い海には一本の丸太棒が浮いている。
その浮木の真ん中には小さな穴がある。

阿難よ、100年に1度浮かび上がるこの亀が、波のまにまに風のまにまに東へ西へ、南へ北へとただよう丸太棒の穴に、頭を入れることがあると思うか?
「お釈迦さま、残念ながら、それは到底ありえません」
「では、絶対にないと言い切れるか?

絶対ないかと言われれば、何億年、何兆年、幾億兆年の間には、ひょっと顔を出すことがあるかもしれませんが、ないといってもいいくらい、難しいことです
阿難が答えると、
よいか、阿難よ。私たちが人間に生まれることは、この盲亀が、浮木の穴に頭を入れることがあるよりも、難しいことなのだ、有り難いことなのだよ
といわれています。

有り難いの真意

有り難いというのは、有ることが難しい、ということで、滅多にないことをいいます。

ありがとう」という言葉は、普段、何かをもらったり、親切にしてもらったときの、お礼の言葉として使いますが、確かに私たちは、なければないで欲しい欲しい、あればあるでもっと欲しい、欲しいばかりで、何もあげたくありません。

そういういっぱいの私たちが、人に親切するということは、考えてみると、滅多にないことです。

その意味で昔は、ものを頂いたり、親切して頂いた時、あることのないことを、あなたは私にしてくださいました。
ありがとうございます
と言っていました。

それがやがて、感謝を表すお礼の言葉になってきたのです。
このように「ありがとうございます」というのは、「盲亀浮木のたとえ」から来た言葉といわれます。

人間に生まれることは、それほど、有ることが難しい、めったにないことです。

人間に生まれる確率

実際、もし人間以外の生き物に同じ確率で生まれるとしたら、人間に生まれる確率は、どのくらいでしょうか?

お釈迦さまはすでに2600年前に教えられていますが、今日の科学で分かってきたことから考えてみると、人間は100億人いるとしても、マンボウは、1回の産卵で3億の卵を産みます。
40匹のマンボウがいれば、120億の卵が産み落とされ、もう人類を越えます。

また、エドワード・ウィルソンによれば、地球上のアリは、1京匹いるそうです。
1京は、1兆の次の位で、100億の100万倍です。
地球上にアリと人間にしかいなくても、人間に生まれるのは、100万倍の倍率です。

大学入試でいえば、全国の受験生は、100万人もいませんから、大学入試の模試で、全国トップになるよりもっと難しいことです。

さらに、昆虫の種類は、100万種類以上もいます。
人間に生まれるのがどんなに難しいか分かると思います。

そもそも筑波大学名誉教授で遺伝子工学者の村上和雄によれば、人間どころか、生き物が生まれる確率自体が、1億円の宝くじに100万回連続あたるより難しいといわれています。

一つの命が生まれる確率は、1億円の宝くじが100万回連続して当たることに匹敵する。

100回ではなく、100万回です。
人間に生まれることは、極めて大変なことです。

人間に生まれたことを喜んでる?

これは、ノーベル賞をとるよりも、日本一の大金持ちになるよりも、はるかに倍率の高い、難しいことですから、本来、人間に生まれたことは、ノーベル賞をとったよりも、日本一の大金持ちになるよりも、飛び上がって喜んでもいいことです。

ところが、これほど生まれがたい人間に生まれたことをそんなに喜んでいる人がいるでしょうか?

人間に生まれたことを、後悔したり、恨んだりしている人はたくさんあります。

人間に生まれてさえ来なければ、こんなに苦しまなくてよかったのに。
こんなんなら死んだ方がましだ

自殺をしていく人が、毎年2〜3万人あり、年間で3万4千人を超えたこともあります。

なぜ生まれがたい人間に生まれたことを喜べないのでしょうか?

なぜ人間に生まれたことを喜べないの?

人間に生まれたことを喜べない理由は、2つあります。

1つは、人間に生まれる難しさを知らないからです。

源信僧都は、こう言われています。

まず三悪道さんまくどうを離れて人間に生るること、大なるよろこびなり。
身は賤しくとも畜生に劣らんや、
家は貧しくとも餓鬼に勝るべし、
心に思うことかなわずとも地獄の苦に比ぶべからず。

三悪道さんまくどう」とは、6つの迷いの世界である六道ろくどうの中で、苦しみの激しい、地獄餓鬼畜生の三つの世界です。

先ほどの、昆虫や魚や動物は、畜生界の生き物ですが、仏教では、それだけではありません。
餓鬼界や地獄界もあります。
お釈迦さまは、『涅槃経ねはんぎょう 』に、こう説かれていると『往生要集』に教えられています。

人趣にんしゅに生まるるものは、爪の上の土のごとし。
三途さんずに堕つるものは、十方の土のごとし。

(漢文:生人趣者 如瓜上土 墮三途者 如十方土)

人趣」とは人間界のこと、
三途」とは三悪道のことです。
十方」とは大宇宙のことですので、
人間に生まれるものは、爪の上の砂のように少なく、地獄餓鬼畜生の3つの苦しみの世に堕ちる者は、大宇宙の砂の数ほど多い、ということです。

それらの苦しみの世界に生まれずに、人間に生まれたことは、大変な喜びですよ。
人間に生まれたことを喜びなさい、ということです。

しかし、単に人間に生まれる確率が低いだけでは、喜ぶことはできません。
人間に生まれなければ、果たすことのできないことがあるのです。
人間に生まれたことを喜べない2つ目の理由は、その人間に生まれた目的を知らないからです。
ですから、人間に生まれた目的についても知っていただきたいと思います。

人間に生まれた目的は?

その人間に生まれた目的は、仏法だけに説かれていますから、お釈迦さまは、このように教えられています。

人身受け難し、今すでに受く。
仏法聞き難し、今すでに聞く。
この身今生に向かって度せずんば、
さらにいずれの生に向かってか、この身を度せん。
大衆もろともに、至心に三宝に帰依し奉るべし。

生まれ難い人間に生まれてよかった。
聞き難い仏法を聞けてよかった。
何がなんでも今生で苦しみの根元を断ち切られ、永遠の幸福の身にならなければ、いつの世でできるであろうか。
永遠のチャンスは今しかない。
どうかみなさんすべての人よ、はやく仏教を聞くがよい、と教えられています。

では人間に生まれた本当の目的は何か、苦しみの根本原因とは何か、ということについては、仏教の真髄ですので、メール講座と電子書籍にまとめてあります。
今すぐ見ておいてください。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生

日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか一人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。インターネットの技術を導入して日本仏教学院を設立。著書2冊。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと奮戦している。

仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者3千人、メルマガ読者5万人。ツイッター(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能

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