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煩悩とは?意味や種類、消す方法をわかりやすく網羅的に解説

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煩悩ぼんのうにとらわれて生きるのは嫌」
「煩悩を抱えたままで生きるのは苦しい」
「煩悩を捨てたい」

煩悩ぼんのう」というと、世間では欲望のことです。
人間誰しも欲がありますが、特に、お金や名誉の名利みょうり、男や女などの愛欲を求めて燃え盛ります。

煩悩はもともと仏教の言葉です。
苦しみを生み出す心なので、仏教の教えの中でも重要な位置にあります。

しかも仏教で教えられる煩悩は、欲望だけではありません。
たくさんの種類があります。
そして煩悩の対処法も詳しく教えられています。
煩悩の対処を間違えると、苦しみ続けることになりますので、
煩悩とはどんなもので、一体どうすればいいのかを分かりやすく解説していきます。

煩悩とは

煩悩とは、「煩わせ」「悩ませる」ものであり、言い換えると私たちを 苦しめる心のことです。

簡単にいうと欲や、怒りや、愚痴の心を煩悩といいます。

ちなみに百科事典には、このように出ています。

煩悩
ぼんのう
仏教で説く、衆生(しゅじょう)の身心を煩わし悩ます精神作用の総称。
クレーシャkleśaというサンスクリット語が中国で「煩悩」「惑」と翻訳されたのであるが、この語は「けがす」という意味合いももっており、そのために「ぜん」「染汚ぜんま」などとも訳された。
またこのことばは元来、不善・不浄ふじょうの精神状態を表す数多くの仏教術語のうちの一つであったが、やがてそれらの心理作用や精神状態を総称し、代表することばとして使われるようになった。
このような広い意味での煩悩には、もっとも基本的なものとして、「三毒」「三垢さんく」「三不善根」などといわれるとん(執着)・じん(憎悪)・(無知)がある。
これにまん(慢心)・〔仏教の教えに対する疑い〕・けん〔誤った見解〕を加えて六煩悩といい、根本的な煩悩とされる。
このほか、潜在的な煩悩である随眠ずいめん、現に作用している煩悩であるてん、あるいはけつばくなど、人間の不善の心理状態を詳細に分析して、きわめて多種多様の煩悩が説かれ、「百八の煩悩」「八万四千の煩悩」などといわれた。
これらの煩悩を滅ぼし尽くすことによって解脱げだつすることができるのであり、したがって煩悩はあくまで断じられるべき対象として説かれたのである。
しかし後世の大乗仏教のなかには、煩悩とさとりの本質はなんら異なるものではないという、「煩悩即菩提(ぼだい)」を主張するものも現れるに至った。このように煩悩の問題は、悟りの境地と深くかかわるため、重要なテーマとして仏教においてさまざまな形で論じられている。

これは凝縮された表現で分かりにくいかもしれませんので、詳しくは下記で説明します。
まずこの煩悩を消したくなるのはどんな時か考えてみましょう。

煩悩を消したくなる時

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人は時として煩悩に悩まされる時があります。

例えば、恋煩いです。
勉強をしている時に、好きな人のことが気になって、その人のことばかり思い浮かべてしまいます。
勉強が手に着かなくなって少しもはかどらないので、そういう時に煩悩を捨てたいと思います。

社会に出てからも、ほとんど会えない人を好きになってしまうと、もっと会いたくなって苦しみ悩みます。
少しでも連絡がとれないと、無視されているのではないかと不安になります。
捨てられるのではないかと思うと夜も眠れません。
そんな時、煩悩から解放されたいと思います。

また、同期の人が自分より出世すると、妬ましい心が起きてきて、不愉快になります。
本当は友達の幸せを喜ばないといけないので、表面上は祝いますが、心の中ではとても口に出せないようなことを思います。
そんな煩悩を消すにはどうすればいいのかと悩みます。

ところが、煩悩で苦しむのは、そういう時だけではありません。

人はなぜ苦しむのか

私たちは幸せを求めて生きているのですが、意に反して、人生には、さまざまな苦しみがやってきます。

欲しいものがあるのに、お金がないので、我慢しないといけないこともあります。
仕事がうまく行かずに、プレッシャーや不安に押しつぶされそうになることもあります。
家族と意見が合わなくて、けんかになることもあります。
事故や病気で、体調を崩すときもあります。

そんな時、私たちは、自分が苦しんでいるのは、
「お金がないからだ」とか、
「仕事がうまく行かないからだ」とか、
「こんな人と結婚したからだ」とか、
「こんな子供を持ったからだ」とか、
「こんな病気を持っているからだ」と思います。

では、仕事がうまく行って、お金があって、家族がうまく行って、健康なら幸せかというと、やはり有無同然で、今までなかった苦しみ悩み、心配が起きてきます。

有無同然についは、以下の記事で詳しく解説してありますのでご覧ください。
お金持ちは幸せ?お金で幸せは変えないブッダの説かれた有無同然

どんな環境にあっても、ものごとがうまく行っても、苦しみ悩みはなくならないことが知らされてくると、私たちを苦しめているのは、自分の外側にあるのではなく、内側にあるのではないか、と、自分の心に目が向いていきます。
実はそんな時も、私たちを苦しめているのは、煩悩だと仏教では教えられています。

煩悩とは「煩わせ」「悩ませる」心

仏教では、私たちを苦しめる心を「煩悩」と教えられています。
この自らの煩悩が、自覚するとしないとにかかわらず、自らを苦しめ、悩ませているのです。

では「煩悩」とはどんなものでしょうか?

煩悩」とは、「わずら」わせ「」ませるもの、と書きますように、私たちを苦しめ、悩ませる心です。

このことを、「八宗の祖師」とあらゆる宗派から尊敬されているインドの高僧、龍樹菩薩(ナーガールジュナ)は『大智度論だいちどろん』にこのように教えられています。

煩悩とは能く心をして煩わしめ能く悩みをなす、故に名づけて煩悩となす。

このように煩悩は、自分の心でありながら、自らを煩わせ悩ませ、苦しめる心なのです。
この世は死ぬまで苦しめた上に、死んだ後も、別の生命に生まれ変わって苦しめ続ける輪廻転生の原因でもあります。

輪廻転生について詳しくは下記をご覧ください。
輪廻転生(りんねてんしょう)とは

そして、世間では煩悩といえば欲の心のことですが、仏教では欲だけではありません。
では欲望のように私たちを苦しめる煩悩の数はいくつくらいあるのでしょうか?

煩悩の数は?

煩悩に幾つあるのかというと、1つや2つではありません。

1人に108あります。
その108もの煩悩が、私たちを苦しめているのです。

大晦日に除夜の鐘を108つくのは、
「今年も一年間、煩悩に苦しめられてきたので、煩悩をなくして、来年は幸せな一年になるように」
という願いをこめて、お寺で108回鐘をついています。

しかし、そんなことくらいで煩悩はなくなりませんので、毎年煩悩に苦しめられ、また来年も、大晦日に108回、除夜の鐘をつくことになります。

補足:除夜の鐘と煩悩との関係除夜とは、除日(12月31日)の夜をいい、大晦日のことです。
鐘は、お寺においてある鐘で、梵鐘といいます。梵鐘は、法要の時刻を知らせるために朝夕ならされています。
除夜の鐘においては、煩悩をなくしたいという願いが込められて鳴らされています。

また、念珠も正式なものは108の珠がついています。
短い念珠の珠は、108を3で割った36などになります。
これも珠は煩悩を表していて、数珠を糸が貫いているのは煩悩即菩提ぼんのうそくぼだいを表しているといわれます。

では108の煩悩というのは具体的にはどんな煩悩なのでしょうか?

煩悩が108ある本当の理由(108種類の内容)

煩悩の108というのは、具体的にはどんな心なのでしょうか?
本当の理由については下記をご覧ください
六大煩悩(内部リンク)

108とするいくつかの説について簡単に説明します。

①暦節
四季(春夏秋冬)をそれぞれ6つに分けたものが二十四節気(にじゅうしせっきです。二十四節気をさらに七十二侯(しちじゅうにこう)にわけます。これらに12ヶ月を加えることで計算します。
12ヶ月+二十四節気(24)+七十二侯(72)=108となります。
しかし暦節は仏教とは関係ありませんので俗説です。

②四苦八苦説
これは四苦八苦の言葉に由来しているという説で、四苦⇒4と9⇒4×9=36。八苦⇒8と9⇒8×9=72。36+72=108という理由です。
これは言葉遊びですので、煩悩の数とは関係ありません。

③六根説
仏教では、人間の器官を6つあげ、これを六根(眼・耳・鼻・舌・身・意」)
六根はそれぞれ、見る、聞く、匂いをかぐ、味を感じる、触感、考える器官であり、この器官は「好」「悪」「平」の3種類があるため、煩悩の数は6×3で18個あります。
さらに18の煩悩には、「浄(きれい)」「染(きたない)」の2種類が存在するので、18×2で36通り。36、三世(前世・現世・来世)に渡り人を悩ませるため、36×3で108個になるというわけです。
④十纏・九十八結説
十纏無慚(むざん)・嫉(しつ)・無愧(むき)・悔(け)・眠(みん)・惛沈(こんじん)・慳(けん)・忿(ふん)・掉挙(じょうこ)・覆(ふく)の10の悪い心をいいます。
九十八結は、輪廻の世界にとどまらせる98の心をいいます。
10+98=108とする説です。
上記のように煩悩の108つには、いろいろな説があります。人が生きる上での誘惑や欲望はあまたあるということです。嘘八百、八百万(やおよろず)の神なども実際に800種類とは限らず、たくさんある時に8の数字はよく使われます。

ですが実際には、 天親菩薩てんじんぼさつの書かれた『倶舎論くしゃろん』によるものです。このことは『倶舎学概論』にも書かれています。

六大煩悩

倶舎論くしゃろん』によれば、煩悩には、まず、六大煩悩といわれる6種類の煩悩があります。
貪欲とんよく瞋恚しんい愚痴ぐちまん悪見あっけんの6つです。

それぞれ一言説明しておくと、
貪欲は、欲の心です。
瞋恚は、怒りの心です。
愚痴は、因果の道理が分からない心で、そこから起きる恨みやねたみの心です。
疑は、四聖諦の真理を疑う心です。
慢は、自惚れ心です。
悪見は、悪くしか見られない心です。

六大煩悩
  • 貪欲とんよく
  • 瞋恚しんい
  • 愚痴ぐち
  • まん
  • 悪見あっけん

ここからは少し細かく難しくなりますので、結論まで飛ばして、次の煩悩の中で最も苦しめる三毒に進んで頂いても大丈夫です。

悪見を5つに分類

まず、六大煩悩の中の悪見を5つに分けます。
身見しんけん辺見へんけん邪見じゃけん見取見けんじゅけん戒禁取見かいごんじゅけんの5つです。

それぞれどんな意味かというと、
身見とは、本来は無我なのに、我があり、我の所有物があるという考えです。
辺見とは、死んだ後は無になるか、または固定普遍の魂が永遠に続くという考えです。
邪見とは、因果の道理を否定する考え方です。
見取見とは、先の3つの悪見をすぐれた考えと思う考えです。
戒禁取見とは、五戒などの戒律で解脱できると思ったり、仏教以外の宗教の苦行で天上界に生まれられると思う考えです。

六大煩悩の悪見を5つに分けたので、全部で10種の煩悩になります。
これを十随眠ずいめんといいます。

煩悩を起こす2つの対象

これらの十種の煩悩は、起きる対象が2つあります。
それは、四聖諦ししょうたいという仏教で教えられる4つの真理と、五塵ごじん といわれる色、音、香、味、触れる物の5つの対象の2つです。

まず、これらの十種の煩悩は、すべて四聖諦に迷って起きる煩悩です。
これを見惑けんわくといいます。
中にはそれに加えて五塵に迷って起きる煩悩もあります。
これを修惑しゅうわくといいます。

修惑は感情のようなもので、四聖諦に迷って起こす煩悩よりも、断ち切るのは困難です。
そのため断ち切るには長期間の修行が必要となります。
それは十随眠の10種のうち、貪欲、瞋恚、愚痴、慢の4つです。

つまり、貪欲、瞋恚、愚痴、慢の4種類は、四聖諦に迷って起こす煩悩もあり、五塵に迷って起こす煩悩もあります。
疑と、5つの悪見の6種類の煩悩は、四聖諦に迷って起こす煩悩だけです。

四聖諦に迷う88種類の煩悩

次に、私たちの生きる世界は、3つに分けると三界さんがいといって、欲界よくかい色界しきかい無色界むしきかいの3つです。

四聖諦については、以下の記事で詳しく書いてありますので、見ておいて頂きたいのですが、苦諦くたい集諦じゅうたい滅諦めったい道諦どうたいの4つです。
四聖諦(ししょうたい)仏教に説かれる4つの真理

欲界では、苦諦について10種の煩悩は全部迷います。
集諦については、身見、辺見、戒禁取見以外の7種、
滅諦については、身見、辺見、戒禁取見以外の7種、
道諦については、身見、辺見以外の8種が迷います。
従って、欲界では32種類の煩悩を断ち切る必要があります。
一覧表にするとこうなります。

欲界 貪欲 瞋恚 愚痴 身見 辺見 邪見 見取見 戒禁取見
苦諦 貪欲 瞋恚 愚痴 身見 辺見 邪見 見取見 戒禁取見
集諦 貪欲 瞋恚 愚痴 邪見 見取見
滅諦 貪欲 瞋恚 愚痴 邪見 見取見
道諦 貪欲 瞋恚 愚痴 邪見 見取見 戒禁取見

ちなみに身見が苦諦にしか起きないのは、身見というのは、自分に固定不変の我があると思う考え方です。
自分というのは迷いの結果であって、迷いの原因でも悟りの因果でもないので、迷いの結果である苦諦にしか起きないのです。
そして辺見は、我の持ち物があるという考えですが、我が苦諦にしかない以上、辺見も苦諦にしかありません。

次に色界は、非常に心地よい世界なので、瞋恚が起きる縁がありません。
そのため苦諦については9種の煩悩が迷い、
集諦、滅諦については6種、
道諦については7種の煩悩が迷います。
そのため、色界では、28種の煩悩を断ち切る必要があります。

色界 貪欲 瞋恚 愚痴 身見 辺見 邪見 見取見 戒禁取見
苦諦 貪欲 愚痴 身見 辺見 邪見 見取見 戒禁取見
集諦 貪欲 愚痴 邪見 見取見
滅諦 貪欲 愚痴 邪見 見取見
道諦 貪欲 愚痴 邪見 見取見 戒禁取見

無色界でも、色界と同様に、28種の煩悩を断ちきる必要があります。

無色界 貪欲 瞋恚 愚痴 身見 辺見 邪見 見取見 戒禁取見
苦諦 貪欲 愚痴 身見 辺見 邪見 見取見 戒禁取見
集諦 貪欲 愚痴 邪見 見取見
滅諦 貪欲 愚痴 邪見 見取見
道諦 貪欲 愚痴 邪見 見取見 戒禁取見

このように、四聖諦に迷う見惑の煩悩は、三界にわたって全部で32+28+28=88となります。
これを「八十八使」といいます。
「使」とは、煩悩のことです。

感情的な10種類の煩悩

次に、色、音、香、味、触れる物の五塵に迷う、修惑といわれる感情的な煩悩については、
欲界では、貪欲、瞋恚、愚痴、慢の4種類、
色界では、貪欲、愚痴、慢の3種類、
無色界でも貪欲、愚痴、慢の3種類で、合計10種類あります。
これらは、知識が欠けているというのではないので断ち切るには大変な修行が必要です。

ちなみに修行によってこれらの煩悩を抑え、断ち切ることによって悟りが開けます。

この四聖諦に迷う88種類と、五塵に迷う10種類を足すと98種類になります。
これを九十八随眠といいます。

六大煩悩から派生した10種類の煩悩・十纏

その98種類のほかにも、六大煩悩から派生した十纏という10種類の煩悩があります。
てん」というのは、纏縛てんばくという意味です。
衆生にまとわりついて縛り、六道輪廻から離れさせないということで、煩悩のことです。

十纏とは、無慚むざん無愧むぎしつけん悪作あくさ睡眠すいみん掉挙じょうこ惛沈こんじん忿ふんふくの10種類です。

十纏
  • 無慚むざん
  • 無愧むぎ
  • しつ
  • けん
  • 悪作あくさ
  • 睡眠すいみん
  • 掉挙じょうこ
  • 惛沈こんじん
  • 忿ふん
  • ふく

一言説明すると、
無慚むざんとは、自分に恥じる心がないことです。
無愧むぎとは、他人に恥じる心がないことです。
しつとは、他人の幸せを喜ばず、嫉妬する心です。
けんとは、ケチで布施をしない心です。
悪作あくさとは、後悔です。
睡眠すいみんとは、心をあいまいにして視野を狭くする心です。
掉挙じょうことは、気分が浮ついて安静にならない心です。
惛沈こんじんとは、気分が陰鬱で、善行に耐えられない心です。
忿ふんとは、思い通りにならない人や物を壊そうとする短気な心です。
ふくとは、自分の失敗を隠す心です。

この10種類のうち、
貪欲から派生しているのが無慚、慳、
瞋恚から派生しているのが嫉、忿、
愚痴から派生しているのが無愧、睡眠、掉挙、
疑から派生してるのが悪作です。

このように、六大煩悩を詳細に分類した98種類の九十八随眠と、六大煩悩から派生した10種類の十纏を合計して、昔から108の煩悩といわれているのです。

108の中で最も苦しめる3種類の煩悩・三毒

このように108ある煩悩の中でも、私たちを最も苦しめ、悩ませる煩悩を、「 三毒の煩悩さんどくのぼんのう」といいます。

」といわれるのは、蜂に刺されたくらいなら、しばらくすれば治りますが、この三毒で相手の胸をさすと、
「もう絶対許せない!」
と一生忘れないくらいの猛毒です。

それが、この3つの煩悩です。

三毒の煩悩

それぞれ簡単に解説します。

1.欲の心が苦しめる

貪欲」とは、欲の心です。

お金が欲しい、物が欲しい、あの人が好き、愛されたい、ほめられたい、認められたい、眠たい、楽がしたい、もっともっとと限りなく欲しがり続けます。

欲にはこれで満足したということがありません。

どれだけお金があっても、仕事がうまく行っても、もっともっとと欲しがり続け、目の前にぶら下がった人参を追いかける馬のように、欲の心に馳せ使われて苦しむのです。

好きな人、大切な人に愛されたいと思うから、愛が感じられなくて苦しむのです。

欲の心については、こちらの記事にさらに詳しく解説してあります。
欲望の種類と意味・仏教で欲望をコントロールせずに対処する方法

無限に欲しがり続ける欲の心が、思い通りにならないと、次の怒りの心が起きてきます。

2.怒りの心が苦しめる

次の「瞋恚」とは、怒りの心です。
欲の心が妨げられると、怒りの心が燃え上がります。

同僚の発言によって、自分の都合の悪い状況におかれると、腹が立ちます。

挨拶を無視されたり、メールを無視されたりすると、腹が立ちます。

遅刻しそうで急いで車を走らせているときに、信号が赤になると、腹が立ちます。

怒りの心は瞬間的に燃え上がりますので、気づかないうちに、人間関係も、いい話もすべて焼き払って、気づいたときには後悔にくれています。

どれだけお金があっても、仕事がうまく行っていても、家族の仲が良くても、怒りの心によって苦しめられます。

怒りの心については、こちらの記事にさらに詳しくまとめてあります。
イライラが抑えられない人のための仏教による怒りの解消法

3.愚痴の心が苦しめる

愚痴」というのは、うらみやねたみの心です。

知り合いが、自分よりいい車やいいスマホを持っていると、うらやましくなって、自分もそれ以上のものが欲しくなります。

大学受験で志望校に落ちたとき、一緒に受験した友達だけ合格したら、ますます暗くなります。

同じ職場の友人や後輩が、自分より先に出世したときは、もちろん祝ってあげるのですが、内心は面白くありません。

一生懸命働いているのに、上司が自分を認めず、もっと遊んでいる人の肩を持つと、いついつまでも恨み続けます。

愚痴については、こちらの記事にさらに詳しく書いてあります。
嫉妬しない方法・恨み呪いの愚痴とサヨナラするには?

このような、三毒の煩悩によって私たちは日々苦しめ続けます。

煩悩と本能の違い

こうなってくると、
「煩悩というのは本能のことですか?」
という疑問を起こす人があります。

確かに欲望の中には、食欲や睡眠欲など、本能と共通するところはあると思います。
ただ本能というのは、その生き物の生まれつきの性質や能力のことで、帰巣本能のようなものもあります。
ハトなどが、巣に帰ろうとする本能です。
煩悩を本能と理解すれば分かりやすいのかもしれませんが、やはり少し煩悩とは違う部分がありますので、煩悩は煩悩で理解して頂いたほうがいいと思います。

では煩悩については、どうすればいいのでしょうか?

煩悩は消すことができる?

このような私たちを苦しめる心が煩悩であるならば、
「煩悩を消せれば苦しまなくてもよいのに」
「煩悩をなくしたい」
「煩悩から解放されたい」と思います。

ですが、逆に、こういうものが煩悩であれば、
「煩悩をなくしたら楽しいこともなくなってしまうんじゃないか」
「煩悩がなくなったら生きていけないから死ねということか」
「仏教は自殺を勧める教えか?」
という疑問も起きてきます。

実際どうかというと、仏教では、私たち人間は「煩悩具足ぼんのうぐそく」と教えられています。

具足ぐそく」とは、それでできているということであり、これ以外にないということですから、煩悩100%ということです。

煩悩と人間の関係は、ちょうど、雪と雪だるまのようなものです。
雪だるまから雪をとったら何もなくなってしまうように、私たちから煩悩をとったら何もなくなってしまいます。
煩悩の塊ということです。
これは意識だけの問題ではありません。
意識だけなら、寝たり意識不明になれば輪廻を離れられることになりますが、そうはなりません。
寝ている時も煩悩具足です。

ですから、確かに煩悩を消せれば苦しまなくてもいいのですが、煩悩を消す方法はありません。

では、苦しみはなくならないのでしょうか。

ありのままで煩悩即菩提になるには?

仏教では、苦しみ悩みの原因は煩悩と教えられているのですが、苦しみ悩みの根本原因は、煩悩ではなく、別にあると教えられています。
だから『維摩経』には、こう説かれています。

煩悩を断ぜずして涅槃に入る。

煩悩をなくさずに涅槃ねはんに入れるということは、苦しみ悩みの根本原因は煩悩とは別にあるということです。
その煩悩ではない苦悩の根元の心をなくせば、煩悩即菩提、煩悩あるがままで無上の幸福になれるのです。

煩悩即菩提については下記で詳しく書いていますのでご覧ください。
煩悩即菩提ぼんのうそくぼだいの意味、その方法とは?

その苦悩の根元と、その苦悩の根元をなくす方法は、仏教の真髄ですので、メール講座と電子書籍にまとめてあります。
今すぐご覧ください。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生

日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか一人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。インターネットの技術を導入して日本仏教学院を設立。著書2冊。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと奮戦している。

仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者3千人、メルマガ読者5万人。ツイッター(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能

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