仏のさとりとは?

仏のさとりとはどんな境地なのか、
調べようとしてもなかなか分かりません。
一体どんな境地なのでしょうか?

最高のさとりの位

仏教では、さとりといっても、
低いものから高いものまで、全部で52あります。
これを「さとりの52位」と言います。

ちょうど、相撲取りなら、下は下っ端から、
上は大関横綱まであるようなものです。

そのさとりは、1段違えば人間と虫けらほど境涯が違う
といわれるほどの大変な違いがありますが、
そのたくさんのさとりの中でも最高のさとりを、
仏覚(ぶっかく)」とか、
仏のさとり」といいます。

今日まで、仏のさとりを開かれた方は、
地球上では、お釈迦様です。

ですから仏教は、誰かが考え出した教えではありません。
ただお一人ですから、
釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし
といわれます。

では、仏のさとりとはどんな境地なのでしょうか?

仏のさとりの境地とは?

仏とは、一言でいうと、
自覚覚他(じかくかくた)
 覚行窮満(かくぎょうぐうまん)」
であると教えられています。
仏のさとりを開いた人は、必ずこうなるということです。

自覚」とは自ら覚るということです。
何をさとるのかというと、大宇宙の真理です。
それは、因果の道理であり、私たちが幸せになれる真理です。

ところが、自分が幸せに救われると、
他人はどうなってもいいとは思えないのが仏様です。
自分が幸せになったら、必ず他の人にも幸せになってもらいたい
という心がでてきます。
それが「覚他」です。

覚他」とは他を覚らしめるということで、
他の人を幸せにする、ということです。

自分が幸せになったからといって、
他の人はまだ迷いのまっただ中です。
何のために生まれてきたのか、生きる目的が分からず、
生きる手段ばかりで苦しんでいます。

そんな苦しんでいる人を何とか助けたいと
立ち上がらずにおれませんから、
覚行」となります。

覚行」とは覚りのままに行ずるということで、
他人を幸せにする利他の行いをすることであり、
仏法を伝える実行に現れるということです。

窮満」とは完全無欠で極まりがないということで、
これだけ言っても聞かないのなら、もう勝手にしろ
とは思えません。
その目的を果たすまで行い続けるということです。

このように「自利利他(じりりた)」満足されている方を仏といい、
仏の心というのは「自覚覚他覚行窮満(じかくかくたかくぎょうぐうまん)」なのです。
これが仏教の究極の目的なのです。

これは「自覚覚他」といっても
自利利他」といっても同じことです。

仏法精神は自利利他

自利利他とはどんなことかというと、
自利とは、自分の幸福、
利他とは、他人の幸福です。

自分が幸せになると同時に、他人も幸せになってもらいたいということです。
自分が喜んでいるだけでなくて、他人にも伝えて喜びの身になってもらいます。
自利のままが利他。
利他のままが自利。
他人の喜びが自分の喜びになります。

自利利他の人は極楽往きですが、自分のことしか考えていない我利我利亡者は地獄行きです。

ある人が、地獄というのは、どんなところだろうと見学に行ってみました。
すると、地獄はちょうど昼時で、テーブルの上にはたくさんの山海の珍味が用意されていました。
ところが、地獄の人たちは、みんな、骨と皮のようにやせ細っています。
どうしてかと見ていると、地獄の箸は、3メートルくらいあって、それで食べようとしても、少しも食べられませんでした。
それを見た男は、
「こんなご馳走を目の前にして少しも食べられないとは、何と恐ろしいところだ」
と思って、次は極楽へ見学に往ってみました。
すると、極楽も地獄と同じようにテーブルにたくさんの料理が用意されていました。
そして箸も地獄徒同じように3メートルありました。
それなのに極楽の人たちは、ふくよかです。
食事が始まると、極楽の人たちは、
「はい、あーんして」
と向かいの人に食べさせ始めました。
そしてお互いに食べさせていたので、みんな幸せだったのです。

仏教では、我利我利が一番ダメなのです。
仏のさとりは、自覚覚他ですから、一人で喜んでいることはできません。
自分が救われたら、人に伝えずにおれなくなります。
それでお釈迦さまは、七千余巻の一切経を説かれているのです。
仏法精神といえば自利利他です。
自分だけ幸せになるのではなくて、自分も幸せになる、他人も幸せになる、みんな幸せになるということです。常に自利利他を心がけなければなりません。

自利利他は仏教の真髄であり、菩薩の目標でもあるのです。

この仏のさとりを開くには、通常大変な時間がかかるのですが、
仏のさとりを開く最短コースについては、小冊子とメール講座に
まとめておきました。

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