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生きる意味を、知ろう。

酔生夢死・邯鄲の夢・人生は夢の如し

人生は夢のように儚いものだ」と昔からよくいわれます。
それを分かりやすく表しているのが
酔生夢死すいせいむし」と、「邯鄲かんたんの夢」です。
どんな意味なのでしょうか?

酔生夢死の意味

酔生夢死」とは、
酔ったように生き、夢のように死ぬ」と書くように、
結局何も残らない虚しい人生を送ることです。

実際、「酔生夢死」の意味について、辞書では以下のように書かれています。

すいせい‐むし【酔生夢死】
何もなすことなく一生を無為に過ごすこと。

無為というのは、何もせずにぶらぶらしていることですので、一生何もなく、むなしく過ぎていくことを酔生夢死といいます。

酔生夢死の由来・出典

「酔生夢死」の由来・出典は『程子語録ていしごろく』です、
「酔生夢死」について以下のように書かれています。

高才明智といえども見聞にこうするは、
酔生夢死して自ら覚らざるなり。

(漢文:雖高才明智、膠于見聞、酔生夢死不自覚也)

この意味は、「どんなに才能があって、頭がよくても、
見たり聞いたりに膠着し、とらわれていると、
無自覚のうちに意味のない人生を無駄に終わってしまいますよ
」、
ということです。

酒に酔う」のは、楽しいのですが、後に何も残りません。
残るのは、失態や、二日酔いくらいです。
」の中で、どれだけ宝くじが当たっても、
覚めてしまえば、1円も残りません。

こういうところから、
今さえ楽しければいい」と刹那的な生き方をしていると、
何も残らない人生になってしまいますよ
という意味で使われます。

今さえ楽しければいい」ということは、
お酒や煙草だけでなく、
マンガやゲームでも、確かに楽しいのですが、
あとに何も残りません。

スナック菓子を食べると、美味しいのですが、
栄養はないか、逆に食べ過ぎは身体に悪い影響があります。

酔生夢死するのは、
見聞に膠する」からです。
この意味は、「見たり聞いたりするものにとらわれて」
ということ。
一体、何にとらわれるのでしょうか?

酔生夢死は何に酔っているのか?

「酔生夢死」で寄っているというのは、食べ物やグルメ、お金や財産、
恋愛や不倫、地位や名誉、寝ることなどです。

仏教ではこれを「五欲」といいます。
以下では、五欲の意味を説明します。

五欲とは

五欲」とは、
食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲
の5つです。
人間の数ある欲望のうち、代表的な5つのことです。

五欲
  • 食欲
  • 財欲
  • 色欲
  • 名誉欲
  • 睡眠欲

それぞれどんな欲なのでしょうか?

食欲

食欲」とは、食べたい、飲みたい欲です。
少しでも美味しいものが食べたくなります。

料理番組はいつも人気があります。
美味しい料理を食べたいと思って、インターネットで美味しい店を検索して、遠くまで出かけて行きます。
中には海外まで行く人もあります。

ダイエットを始めると、お腹がすいて仕方がありません。
少し食べる量を減らしただけで、いつも食べ物のことばかり考えてしまいます。
どれだけ食欲が強いかが分かります。

そして、食べ物は食べてもすぐお腹がすいてしまうので、
生きている限り食べ続けなければなりません。

財欲

財欲」とは、お金や物が欲しい欲です。
一円でもお金が欲しい、損したくないと思います。
土地や家などの財産が欲しいと思うのが財欲です。

財欲について、以下のような小話があります。

昔、京都の伏見に、大変よく働く八百屋がいました。
長年努力した結果、百両の財産を蓄えます。
ところが百両は大金なので、いつ盗まれはしないかといつも不安にかられていました。
夜もおちおち眠れません。

ある晩、仏様が夢枕に立って告げられました。
「これ八百屋。近いうちに大盗人がやって来る。
その時はハッキリと答えてやれ。
命はやるが金は渡さぬとな。
そういえば大丈夫じゃ」
八百屋の主人は、冷汗びっしょりで目を覚まします。

やがてある晩、石川五右衛門がやってきて、
生命が惜しけりゃ金を出せ
と脅します。

すると八百屋は、「今こそ夢のお告げの時だ」
と思って啖呵を切ります。
生命はやるが、金は渡さぬ

すると盗人は、這々のていで逃げていきました。
捕まった石川五右衛門は、
オレは生涯、恐ろしいと思ったのは、あの時だけだった
と述懐したといいます。
このように、命以上にお金を大事にしている人まであります。
これが財欲のなせるわざです。

色欲

色欲」とは異性を求める欲です。
男性は美しい女性が欲しい、
女性は若いかわいい男性を欲しがり、
愛情に包まれたいと思います。

たとえば、石川さゆりの『天城越え』ではこのように歌われています。

誰かに盗られるくらいなら あなたを殺していいですか
(石川さゆり『天城越え』)

相手を殺してでも自分のものにしたいというのが色欲です。

また、唐の玄宗皇帝という人は、若い頃は大変真面目な人でしたが、だんだん年をとってきた時に、温泉で子供の妻である楊貴妃に出会います。
すっかり惚れ込んでしまった玄宗皇帝は、子供から奪い取り、自分の妻にします。
それからどこへ行くにも一緒でした。 政治も他人任せになって反乱が起こり、国が傾いてしまいます。
これも色欲のなせるわざです。

名誉欲

名誉欲」とは、褒められたい、
悪口言われたくない欲です。
少しでもよく見られたい、立派だと言われたい、
美人だと言われたいと思います。

名誉のためにはどんなに辛いことでも頑張ります。
たとえば、中学高校の部活で、県大会、全国大会を目指して練習するのは、名誉欲のためです。
もし無人島に一人で住んでいたら、そんな厳しい練習をするかというとするはずがありません。

昔、三島由紀夫が割腹自殺をしました。
人知れず自殺するのではなく、テレビの取材を集めて派手に自殺するのは、やはり名誉欲のためです。
名誉欲のために命を捨てる人もあります。

睡眠欲

睡眠欲」とは、眠たい、楽がしたい欲です。
ひまがあれば寝ていたい、少しでも楽に生きて行きたいと思います。

たとえば、朝寝坊したり、電車を寝過ごしたりして失敗するのも、睡眠欲によるものです。
睡眠欲は非常に強いので、眠くなったら抵抗できません。
眠ってはいけない所で眠ったために、死刑になった人もあります。

また、楽がしたいというのも睡眠欲です。
そんなに仕事に頑張ると疲れるので、そこそこの人生を過ごしたいというのも睡眠欲です。
楽して儲けるために、詐欺や違法行為をする人もたくさんあります。
それで自分も他人も苦しむことになります。

朝から晩まで五欲の中

私たちは、人前では、紳士淑女と見せかけていても、
心の中では朝から晩まで、このような五欲に
引きずられて生きています。

朝起きたときは、「もう朝が来たか」と思います。
眠いのに布団から離れたくありません。

それでも起き上がって、
顔を洗い、身だしなみを整えるのは、
みんなから悪く思われたくない名誉欲です。
朝食を食べるのは、食欲、
働きたくなくても働くのは、財欲と名誉欲です。

五欲以外のモチベーションで行動することが
何かあるでしょうか?
このような五欲に引きずられ、
五欲にまみれて生きているうちに、
短い人生、あっという間に人生は終わって、
酔生夢死してしまうのです。

五欲は何も残らない

欲望を満たした喜びは一時的で、
後には何も残りません。
人生振り返ってみると、
あのときこんな大学に入った
あのときあんな恋人がいた
あのときこんな仕事をした
といっても、今は何も残っていません。
夢のようなものです。

五欲に酔って、
五欲に夢中になって生きているうちに、
振り返ってみると何も残らず、
夢のように死んでしまうのです。

それは、「高才明智といえども
といわれているように、五欲のとりこになって
動物的な生き方をしている人だけでなく
優秀な能力を持ち、周りの人をリードしていくような人でも、
五欲のとりこになって、酔生夢死してしまうのです。

それを分かりやすく教えられているのが
邯鄲の夢」です。

邯鄲の夢の意味

邯鄲の夢は、一炊の夢ともいわれ、沈既済しんきせいの『枕中記ちんちゅうき』の話です。
作者の沈既済しんきせいは官僚であり、歴史家です。
この邯鄲の夢は、中国の唐の時代の小説である「伝奇」の中でも最も有名なものの一つで、
日本でも謡曲の『邯鄲』に翻案されたりしています。
邯鄲の夢の意味は、辞書には一応こう書いてあります。

邯鄲の夢
かんたんのゆめ
人の世の栄枯盛衰のはかないことのたとえ。
一炊いつすいの夢」「邯鄲夢のまくら」「盧生ろせいの夢」などともいう。

これも確かに間違いではありませんが、
邯鄲の夢が由来している故事が分からないと、
あまりよく意味が分からないと思います。
邯鄲の夢は一体どんなストーリーなのでしょうか。

邯鄲の夢の故事について

昔々中国に、ある若者がいました。
名前を盧生といいます。
盧は姓ですが、生というのは、士の身分でまだ無位無官の、就活生みたいな意味です。

盧生は田舎で畑仕事をして暮らしていましたが、
毎日同じことの繰り返しにあきあきして、
日に日に
本当にこんなことで人生終わっていいのかな
という思いが強くなってきます。

そこで、ついに都会へ行くことにしました。
その旅の途中、お昼ご飯に食堂に寄ると、
団体客でちょうどご飯がなくなったから、
炊くのにしばらくかかるといいます。

仕方なく待っている間、人の良さそうなご隠居さんと仲良くなりました。
田舎暮らしも本当に大変なんですよ、
それで、これから都へ行って一旗あげようと思うんです

と言っていると、
気に入られて「夢が叶う枕」をくれました。
このご隠居さんは、呂翁といって、実は道士だったのです。
道士というのは神仙の道を修めた方術の士で、仙人のようなものです。

盧生は言われた通りにその枕を使うと、
科挙という超難しい国家公務員の試験に一発合格して、
官僚に採用されます。

しばらく真面目につとめていると、見所があるということで、
高い地位に抜擢されてコネも広がっていき、
有力な上司のかわいいお嬢さんと結婚することになります。

しばらくして、戦争が勃発して、北方の異民族が攻め込んできます。
盧生は出陣すると、敵の迎撃に成功し、戦功を立てます。
仕事で面白いように次々と結果を出していくうちに、
権限も大きくなって自分より年上の人たちを
大勢使うようになっていきます。

それと同時に、それを面白く思わない連中からの
嫌がらせを受けるようになります。
やがて他人の起こした問題の責任を取らされて
地方へ飛ばされますが、
数年間まじめに努力していくうちに、
信頼を回復して中央に返り咲き、宰相にまで上りつめます。
宰相といえば、天子以外での国のトップです。

ところが、その異例の出世をねたんだ一派から密告され、逮捕されます。
こんなことなら昔の貧乏暮らしのほうが気楽だったと思って自殺しようとしますが、
妻に止められ、無実の罪で流刑になります。
ですが、数年経つと、えん罪が判明して宰相に返り咲きます。

子供たちもみな頭がよく、同じように官僚になり、
娘は美人で豪族と結婚します。
こうして一族で重要なポストを独占して、
今ではもう何もかも自分の意のままです。

そうやって栄耀栄華を極めますが、寄る年波には勝てず、
80歳を過ぎると一線を退きます。
やがて病気になると、たくさんの人がお見舞いに来ますが、
だんだんと容態は悪くなり、寝たきりの闘病生活になります。

そして約半年間、病と闘い続けますが、
人生最後の日には、
たくさんの子供や孫が心配そうに見守る中、
目をつぶると真っ暗な中を下へ下へと落ちていき、
死んだと思ったところで目が覚めました。

すると、目の前には食堂で知り合ったご隠居さんが
にこにこしながら顔をのぞき込んでいます。
ああ夢でしたか……(豈それ夢寐なるか)」
夢は叶ったかな?
ご隠居さんは興味深そうに聞きます。
はい。叶いましたが、夢が覚めてしまいました
人生思い通りといっても、まあそんなもんじゃよ(人生の適もまたかくのごとし)」
その時、まだ食堂のご飯は炊けていなかったといいます。
食事を注文してから、まだ注文の品が出てきていない短い間だったのです。

盧生が見たのは、当時のエリート街道の典型的な人生ですが、
そんな波瀾万丈、栄華を極めた数十年の人生も、
一瞬の夢のように儚く消えていくということです。

そんなあっという間に消えていく夢の中で、
地位や名誉、家族や財産を手に入れ、
ライフワークをやったからといって、
夢覚めてしまえば満足できるでしょうか?

人生最後の日に後悔しませんか?

酔生夢死は、生に酔いしれていると書くのですが、何に酔いしれているのかというと、五欲に酔いしれています。
五欲だけに酔いしれた人生は、邯鄲の夢のような人生になってしまいます。

また、このような話もあります。

夢の中で酒を飲む

ある大酒飲みの男が、お酒を一升もらったので、
帰ったら温めて飲もうと思って喜んで帰宅しました。

ところが温めようとした途端、目が覚めてしまいました。
夢と分かってがっかりした男は、
こんなことならもらったときにすぐ飲めばよかった
と言ったそうです。

すぐ飲んでおけば、問題は解決したでしょうか?

飲んでおいてもすぐ消えてしまうことには変わりありません。
人生で何をしたとしても、死んで行くときには、
すべて夢のまた夢と消えてしまいます。
そんなはかない夢幻のようなものを毎日追いかけているのですが、
光陰矢の如しといわれるように、
人生はあっという間に過ぎて行きます。

五欲で求めるものと
命を引き替えにしているようなものです。
それで満足できるでしょうか?

行政機関のトップ・王維の詩

実際、国の行政機関の次官(尚書しょうしょ右丞ゆうじょう)にまで出世した唐の王維おういは、
歎白髪』白髪を歎ず、という漢詩を残しています。

宿昔しゅくせき朱顔しゅがん暮歯ぼしを成す
須叟しゅゆにして白髪垂髪すいはつを変ず
一生幾許いくばくぞ心を傷ましむる事
空門に向かわずんば何れの処にかさん

(漢文:
 宿昔朱顔成暮歯
 須叟白髪変垂髫
 一生幾許傷心事
 不向空門何処銷)

ずっと昔のつやのある少年の顔が、今は歯の緩い老人の顔になった。
一瞬にして白髪が若い頃の髪型を変えた。
一生の間には、どれだけ心を痛めることがあるだろう。
仏教の教えによらなければ、どうして苦しみを解決できるというのか、
ということです。

国のトップレベルにまで出世しても、苦しいことばかりで、全然満足できないまま、
一生があっという間に終わってしまうので、
それで、仏教を求めずにはおれないと言っています。

仏教で人生は夢幻

仏教では、人生は夢のようなものだとこのように教えられています。

一切有為うい法、夢幻泡影むげんほうえいのごとし。
(漢文:一切有爲法 如夢幻泡影)

一切有為うい」というのは、この世のすべてのことです。
この世のすべては、夢や幻、あわやかげのような儚いのだと教えられています。
夢や幻というのは、実体のないものが、一時的にあるように見えているだけということです。
私たちは、貴重な命、そんな実のないものを追いかけることに費やしているのですが、
この世のすべては、最後は夢のように幻のように、儚く消えてしまうのです。

一度きりの人生、
生涯かけて求めるべきは、
人生の最後、夢のように
儚く消えるものではないのです。

夢のような一瞬の人生で、
どうすれば最後に夢のように消えることのない、
未来永遠の幸せになれるのかについては、
仏教の真髄ですので、メール講座と電子書籍に
分かりやすくまとめました。
ぜひ一度読んでみて下さい。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生

日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか一人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。インターネットの技術を導入して日本仏教学院を設立。著書2冊。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと奮戦している。

仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者3千人、メルマガ読者5万人。ツイッター(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能

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