虚無感(きょむかん)

普段の生活の中で、ふと「虚無感」に襲われることがあります。
そして、居ても立ってもいられない焦りを感じますが、
何をすればいいのかも分かりません。

この虚無感の原因はどんなことで、
どうすれば解消できるのでしょうか?

虚無感とは

虚無感とは、今やっていることに意味が感じられず、
自分の存在意義もわからなくなることです。

それは、生きがいがないわけではありません。
生きがいがあっても、それ自体が無意味に思えてしまうのです。

今やっていることが無意味に思えてくると、
こんなことをしていてもいいのか?
という焦りや焦燥感も感じられてきます。

このように、今やっていることが無意味に思えて、
虚無感に襲われるのは、どんなときでしょうか?

虚無感に襲われるのはどんなとき?

それは、今やっていることを続けていって、
一体どうなるだろうか、と将来に思いを馳せたときです。

例えば高校時代にサッカー部に入っていたとします。
毎日サッカーの練習をするのは何のためかと考えると、
次の試合に勝つためです。

では、その試合に勝つのは何のためかというと、
その次の試合に勝つためです。

そうやって「それは何のため?」とたどっていくと、
高校3年生の最後の試合に行き着きます。

それが終わると、受験などの次の進路のために
引退することになります。

その後、大学に入ればサッカーをしたいとしても、
遊び程度、社会人になれば、忙しくなって、
サッカーはやりません。

そんなとき、あっという間の高校3年間で、
何のためにサッカーを頑張っているのだろう?
意味があるんだろうか?
という虚無感に襲われます。

今やっている仕事であれば、
毎日一生懸命頑張っています。
それは何のためかというと、毎月のノルマを達成するためです。
今月の目標を達成すると、
来月はまたゼロから目標に向かいます。
それを達成すると、またゼロに戻って
次の目標に向かいます。

それは一体何のためなのでしょうか?

定年まで頑張れば、何か残るでしょうか?
仕事はしなければ生きていけませんが、
その間お金や役職を手に入れても、
特に嬉しいわけではありません。

子育てであれば、色々な大変なことがあって、
めまぐるしく頑張りますが、
20年後、子供は巣立って行きます。

自分の思い通りには育たなかったと
苦しんでいる人もたくさんあります。

人は、そのような仕事や子育てに
人生の大半を使うのですが、
人生には制限時間があることを思い出したとき、
今やっているような、こんなことをしていていいのだろうか?
という、居ても立ってもいられない焦燥感に襲われます。

実際に、生きがいに満ちた人生を送り、
色々なものを残したように見える人で、
人生の最後に「何も残らなかった」と
後悔している人がたくさんあります。

人生の最後、何も残らなかったと後悔した人

好きで、生きがいの持てることを「趣味」といいます。
それで生活ができるようになると「ライフワーク」といいます。
他人に喜ばれながら生きていけるので、
好きなことを仕事にして生きる」のが素晴らしいといわれますが、
実際にライフワークに生きた人たちはどう言っているでしょうか?

レオナルド・ダ・ヴィンチ(15世紀イタリア)

モナ・リザをはじめ、彫刻や建築、発明、解剖学、植物学と、
様々な分野で一流の業績を残したレオナルド・ダ・ビンチは、
晩年、こう言っています。

いかに偉大な業績を後世に残したとしても、
いざ死んでいくその人にとって、
それが何になるであろうか

それを聞いた弟子が、
先生には数々の素晴らしい業績や
芸術作品があるではないですか

と言うと
今死んでいく自分にとって、そんなものが何になる
と答えています。

それでも、先生の教えられたことは
私達の心の中にくっきりと焼きついて
生き続けます

というと、
そういうお前たちも死んでゆく…
と言っています。

ライフワークに力を尽くしても、
最後、死んで行くときには、
本人には意味があると思えないのです。

ミケランジェロも同じです。

ミケランジェロ(16世紀イタリア)

ダビデ像をはじめ、彫刻、絵画、建築など
様々な分野で偉大な作品を残したルネサンスの天才、
ミケランジェロは、生前から高い評価を受けていました。
現在でも、史上、最も優れた芸術家の一人といわれています。

私たちからすれば、有意義な人生だったのではないかと思いますが、
ミケランジェロ本人は、晩年、芸術に対して深い幻滅を告白しています。

いまやわたしは知った、芸術を偶像とも君主ともみなした
あの迷妄の情熱がいかに誤っていたかを。
人間にとってその欲望がいかに災厄の源泉であるかを

(ミケランジェロ)

後世に素晴らしい作品を残しても、
人生の最後、本人にとっては、迷妄であり、誤りであり、
その情熱や欲望は、災いの源泉であったと
後悔しているのです。

松尾芭蕉(17世紀日本)

江戸時代は元禄文化、俳聖といわれ、
世界的に知られる松尾芭蕉は、
最後、病に伏しました。

死ぬ4日前に
旅に病で 夢は枯野を かけ廻る
と詠んだとき近くにいた弟子の『笈日記』によれば、
芭蕉は、花鳥風月に心をかけるのは迷いであったと知らされ、
あれだけ打ち込んできた俳諧を忘れようとしか思わないとは……
と、繰り返し繰り返し後悔したと記されています。

この後はただ生前の俳諧を忘れんとのみ思うはと、
かえすがえすくやみ申されし也

(松尾芭蕉)

たくさんの名句を残しても、
臨終の本人にとっては何も残らず、
後悔しているのです。

クロード・モネ(19世紀フランス)

フランスの印象派の画家クロード・モネは、
日本好きだったことでも知られています。
スイレンの池にかかる日本風の橋の絵をたくさん描いたり、
着物を着た奥さんをモデルに描いた「ラ・ジャポネーズ
というきれいな絵もあります。

晩年には画家として高く評価されていたのですが、
だんだん自分の絵画の価値について
根底から疑いを持つようになり、
自分の絵を破いたり燃やしたりするようになりました。
最後にはこう言っています。

私の人生は失敗に過ぎなかった。そして残されたなすべきことは、
私が消える前に自分の作品を壊すことだけだ

(モネ)

せっかく描いた作品を壊すのでは、
何もしなかったのと同じです。

パブロ・ピカソ(20世紀スペイン)

スペイン出身、フランスで活躍したピカソもそうでした。
落札額が百億円を超すこともある絵画を描きましたが、
晩年になると、自分の絵に確信が持てなくなります。
傑作なのかクズなのか分からない
と疑問を持ち始め、その虚無感を打ち消そうと、
ますます激しく仕事に打ち込みます。

ところが最後には、こう言っています。
「すべて終わった。絵はわれわれが信じていたようなものではなかった。
それどころか正反対だった。(中略)
誰にも何の役にも立たないではないか。
絵、展覧会──それがいったい何になる?

(ピカソ)

死んでいく時には、そのたくさんの素晴らしい作品は、
何の役にも立たなかったということです。

このように、人生の最後は、
これまで自分の生きる意味だと思ってきた
生きがいすべてが光を失い、何も残らないのです。

死んで行くとき

いよいよ自分が死んで行くときを想像してみてください。
病床に伏して、天井の一点を見つめています。
これで人生は終わりですが、
長いようであっという間でした。
まもなく旅立ちのときですが、
それまで必死に稼いできたお金も財産も、
何一つ持ってはいけません。

地位も名誉も何一つ明かりにはなりません。
家族も子供も、誰一人ついてはきてくれません。
全部この世に置いて、永遠の別れとなります。

葬式を終えて、火葬にされれば、
立ち上る一本の煙となってしまい、
後に残るのは一つまみの白骨だけです。

現実には何も残りません。
これまで頑張って生きてきたのは、
一体何だったのでしょうか?

この臨終に刻一刻と近づいていることからすれば、
虚無感に襲われるのも、無理はありません。
ある程度将来のことを考える力がある人にとっては、
当然のことです。

虚無感の原因は?

虚無感の原因は、失恋したからでも、やりがいを失ったからでも、
何かに裏切られたからでもありません。
何かのきっかけがあったとしても、根本にある原因は、
必ず死ぬのになぜ生きるのか
という生きる意味が分からないからです。

生きる意味といっても、
レオナルド・ダ・ヴィンチや、ミケランジェロ、
松尾芭蕉やモネ、ピカソのような、
生きがいのことではありません。

生まれてから死ぬまでに、これ一つ果たせば、
人間に生まれてよかったと大満足できる、
人生全体の意味です。

世間で虚無感の解消法というと、
寝るとか、旅行に行くとか、読書をするとか、
趣味や生きがいを持つなど、
表面的なことばかりです。
そんなことをしているから、
虚無感がなくならないのです。

虚無感を本当になくすには、
本当の生きる意味を知らなければなりません。
それさえわかれば虚無感は解消し、
二度と虚無感に襲われることはなくなります。

では、本当の生きる意味とは何かというと、
それは仏教の真髄ですので、
小冊子とメール講座にまとめておきました。
一度見てみてください。

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