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極楽浄土とは

極楽浄土」とは、阿弥陀仏の浄土のことです。
大宇宙にはたくさんの仏がおられ、それぞれの浄土がある中でも、
最高の仏である阿弥陀仏の浄土を極楽浄土といいます。

「極めて楽しい」と書くので素晴らしい世界のようには思えるのですが、
極楽浄土とは一体、どんな世界なのでしょうか。
そして、どうすれば極楽浄土に往けるのでしょうか。

極楽浄土とは

「極楽浄土」とたくさんある浄土の中でも、阿弥陀仏の浄土のことです。
大宇宙には数え切れないほどの仏様がおられ、それぞれの浄土があります。
仏様が住まわれる清らかな世界を、浄土といいます。
その中でも阿弥陀仏の浄土を極楽浄土といいます。

ではまず参考に、極楽とはどんな意味なのか、仏教の辞典を見てみましょう。

極楽
ごくらく[s:Sukhāvatī]
サンスクリット語は、楽のあるところという意味で、阿弥陀仏あみだぶつの住する世界をさす。
<極楽世界><極楽国土>ともいう。
漢訳仏典では<須摩題しゅまだい><須呵摩提しゅかまだい>などという音写語や、<安楽><安養>という訳語も用いられている。
漢語の<極楽>は中国古典では枚乗の『上書諫呉王』(『文選』39)などに「この上ない楽しみ」という意味で、また班固の『西都賦』などに「楽しみを極める」という意味で見え、さらに『淮南子』原道訓には「至極の楽しみ」という語が出てくるが、仏典では鳩摩羅什くまらじゅう訳の阿弥陀経に用いられたのが初出である。
極楽世界を説く代表的経典は浄土三部経じょうどさんぶきょうである。
その一つ阿弥陀経によると「これより西方十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽という」と述べ、この極楽世界の楽に満ちた光景を描写している。
無量寿経むりょうじゅきょうになるといっそう詳しく描写されるが、これは大乗仏教一般において<国土を浄める>という菩薩ぼさつ道の実践によって実現される<浄土>の観念を有形的・具象的に表現したものであり、仏の悟りの世界をあらわしたものと考えられる。
極楽浄土は、法蔵比丘ほうぞうびく(法蔵菩薩)が四十八願を成就して阿弥陀仏となり完成した浄土である。
中国・日本では阿弥陀仏の浄土が他の仏の浄土にくらべて盛んに信仰の対象とされたため、<浄土>といえば阿弥陀仏の極楽をさす用法が定着し、<極楽浄土>という語も広く流布するにいたった。
また、弥勒みろく菩薩の住する兜率とそつ浄土(兜率天)と極楽浄土の優劣論が起こり、全体としては極楽浄土の優越性が認められるようになった。

この辞典では、極楽が阿弥陀仏のおられる世界だということは分かりますが、どんなところなのか、どうすれば行ける(正確には「往ける」と書きます)のかは分かりませんので、これから詳しく解説していきます。

極楽浄土の別名

極楽浄土には、極楽だけでなく、
色々な別名があります。

例えば、阿弥陀仏の誓願に報いて建立された世界、
ということで、「報土ほうど」ともいわれます。

また、阿弥陀仏のことを安養仏ともいわれますので、
安養界あんにょうかい」ともいわれます。

阿弥陀仏の極楽浄土でのみ開くことができるさとりを
大涅槃だいねはん」とか「大般涅槃だいはつねはん」といいますので、極楽浄土のことを
大涅槃」とか「大般涅槃」といわれることもあります。

他にも「無量光明土むりょうこうみょうど
蓮華蔵世界れんげぞうせかい
寂静無為楽じゃくじょうむいらく
楽邦らくほう
浄邦じょうほう
実報土じっぽうど
など、色々あります。

ただし、極楽浄土は「天国」ではありません。

天国と極楽との違い

極楽浄土は、六道輪廻ろくどうりんねを離れた世界です。
神の国である天国は、
仏教では「天上界」といいますが、
迷いの世界である六道の一つですから
やはり寿命があり、次に地獄に堕ちることもあります。

ところが、極楽浄土は、輪廻りんねを離れていますから、
二度と地獄に堕ちることはありません。
極楽浄土に生まれた人の寿命も無限です。

ちなみに「輪廻」は迷いの世界だけに使われる言葉ですから、
極楽浄土に転生するとは言いますが、
極楽浄土に輪廻するとか、輪廻転生りんねてんしょうするとは言いません。

また、キリスト教で、この世の終わりに最後の審判があり、
もしの国に生まれることができると神のしもべとして生きることになります。
創造主である神と、被造物である人間には、絶対に越えることのできない区別があるのです。
ところが仏教では、極楽浄土に生まれたならば、誰でも
阿弥陀仏と同じ仏のさとりを開くことができます。
そして仏として永遠の幸せに生きることができるのです。

では極楽浄土とはどんな世界でしょうか。

極楽浄土はどんなところ?

極楽浄土はどんな世界なのか、どんなところなのかということについて、
集中的に説かれているのは、浄土三部経といわれる
大無量寿経だいむりょうじゅきょう』『観無量寿経かんむりょうじゅきょう』『阿弥陀経』の3つのお経です。
これら浄土三部経をもとに、極楽浄土とはどんな世界なのか、見ていきましょう。

まず極楽浄土がどこにあるのかということについて、
お釈迦さまが『阿弥陀経』に、このように説かれています。

ここより西のほう、十万億の仏土を超えて世界あり、名づけて極楽という。
(漢文:從是西方 過十萬億佛土 有世界 名曰極樂)

極楽は、西のほう、十万億の仏の世界を超えたところにあると教えられています。

この世のことを「穢土えど」といい、穢れた苦しみの世界ですが、
極楽浄土には、苦しみは存在せず、
ただ楽しみだけが存在するので「極楽」といいます。

極楽浄土は、本来言葉に言い表せないのですが、
余方因順よほういんじゅん」(出典:『大無量寿経だいむりょうじゅきょう』)といって、
お釈迦さまが説かれているのは、私たちに合わせて、
私たちに分かりやすいもので説かれています。

ですから、もし聞いているのが猫であれば、
極楽浄土は宮殿も楼閣もみなカツオでできている
と説かれるかもしれませんが、
人間はカツオより宝石のほうが好きなので、
そういう人間の好きそうなものがたくさん説かれています。

極楽浄土の様子

極楽浄土はどんなところかといいますと、
まず土地は「七宝」といって、金、銀、瑠璃(青い宝石)、水晶、
白いつやのある貝、赤い真珠、めのうなどでできています。

そして宝の池があります。
池の四方には水の中から岸に向かって、
金、銀、瑠璃、水晶でできた階段があって、
岸の上には、七宝でできた御殿が建っています。
仏教を聞く道場や講堂もあり、
やはり七宝でできています。

そして宝の樹木がたくさん生えています。

極楽浄土の宝の樹木

極楽浄土の宝の樹木は、やはり七宝でできていて、
金の樹木や、銀の樹木、瑠璃の樹木、水晶の樹木、つややかな白い貝の樹木、
赤い真珠の樹木、めのうの樹木や、
それらの組み合わせでできている樹木もあります。
それらにはやはり七宝の葉がしげり、宝の実がなります。

それらの宝の樹が並木となって、至るところに
羅網らもう」という宝石であまれたきれいな網がかかっています。
それらが極楽の至るところをめぐったり囲まれたりしています。

極楽浄土の美しい音楽

極楽浄土では、どこからともなくすぐれた音楽が聞こえます。
そよそよと風が吹いていて、
宝石で編まれた網や宝の並木を動かすと、
妙なる音が聞こえます。
それは、百千の音楽を同時に聞いたようなすばらしさです。
その音を聞くと、みな仏と法と僧の三宝のご恩を念ぜずにおれないのです。

極楽浄土の宝の池

極楽浄土にある宝の池を「七宝しっぽうの池」といいます。

池の底には砂金や、その他の宝の砂が敷かれ、
八功徳水はっくどくすい」という、八つの功徳のある水が満ちています。

「八つの功徳」とは、『観無量寿経』の解説書である『定善義じょうぜんぎ』によれば、
きよらかでつやがあり、塩素などの匂いがなく、
軽くて、冷たくて、軟らかく、美味しく、後味のよい究極の水です。

池の水面には、車輪くらい大きな蓮華の花が咲いています。
青い花は青く輝き、黄色の花は黄色く輝き、
赤い花は赤く輝き、白い花は白く輝き、
美しく、香り高く咲き誇っています。

極楽浄土の蓮華の秘密

極楽浄土には至るところに宝の蓮華の花が咲いています。
一つ一つの蓮華の花には、百千億の花びらがあり、
白や黒はもちろん、黄色や朱色、紫など、
限りない色の輝きを放っています。

その一つ一つの宝の蓮華の花は、三十六百千億の光を放っています。
その一つ一つの光から、三十六百千億の紫金の仏さまが現れます。
その一仏一仏が、それぞれ百千の光明を放って、
大宇宙の限りない人々のために、
妙なる法を説きに行かれます。
それが、大日如来薬師如来
地球の私たちのもとに来られたのは、
お釈迦さまです。

極楽浄土ではどんな生活をするの?

極楽に生まれた人も
極楽浄土のありさまと同じく、
言葉で言い表せない人間の想像を超えた姿で
自然虚無じねんきょむの身」を受けていると
大無量寿経』に説かれています。
これは色も形もないということですが、お釈迦さまは、
少しでも私たちに分かるように教えられています。

それによれば、極楽浄土に生まれた人は、
みなまったく差別なく競争もなく、姿形も違いはありません。
清らかな身体で、智慧が高く明らかで、神通力もえられます。
端正な顔立ちは、人間界最高の美男美女どころか、
その何億倍も美しい天人や天女さえもはるかに超え、
さらにその百千万億倍の美しさです。

そして美しい服を来て宮殿に住み、
美味しい食べ物を食べています。

極楽浄土の朝

朝が来ると、極楽にいつも花吹雪のように空から降っている
白蓮華の花びらを入れ物に入れて
大宇宙の十万億の仏方にお供えしに行きます。
(他にも好きなものを何でもお供えできます)

そして、どこからともなく流れる美しい音楽に合わせて
仏の徳をほめたたえたり、仏の教えを聞いて、
限りない喜びを感じます。

極楽浄土の食事

食事の時間には戻ってきて、食事をしようと思うと、
面倒な食事準備はしなくても、自然に目の前に七宝の食器が現れて、
百味ひゃくみ飲食おんじき」が満たされます。

ところが実際に食べる人はなく、
それを見たり、かぐわしい香りを味わったりすると
食べる前にすっかりお腹いっぱいになります。

すると食事は、手間のかかる食事片付けはしなくても、
ひとりでに消えてしまい、極楽浄土を散歩しにいきます。

極楽浄土で仏教を聞ける

阿弥陀仏が極楽浄土の講堂で、妙なる法を説法なされるときには、
みんな集まって聴聞し、心に喜びとさとりを生じない人はありません。
どこからともなく風が吹いて、宝の樹木がそよいで、
ファンファーレのように美しい音楽をかなで、
美しい花吹雪が限りなく散り乱れます。

そうでなくても極楽浄土には、
鶴やクジャク、オウム、かりょうびんがなどの鳥がいて、
いつも仏法を説いています。

もちろん極楽浄土には、地獄餓鬼畜生はないので、
これらの鳥は、過去世の悪業の報いで畜生界に生まれたものではなく、
法を説くために生まれたものです。

極楽浄土に生まれた人は、これらの鳥の声によっても仏法を聞くことができ、
仏法僧の三宝のご恩を念ぜずにおれないのです。

苦しむ人を助けることができる

そして「恩を知るは大悲の本なり」と説かれるように、
極楽浄土に生まれた人は、
慈悲の心がありますから、まだ苦しみ悩む人がいるのに、
「自分だけ助かったからもういいや」とは思えません。
いつでも好きなときに、苦しみ悩みの穢土に戻ってきて、
仏教を説いて、縁のある人から救うことができます。

それがまた、極楽に往って仏に生まれた人の喜びなのです。

このような極楽浄土や、浄土に生まれた人の様子は、
あまりに素晴らしすぎて、お釈迦さまの大雄弁をもってしても、
百千万劫ひゃくせんまんごうかけても説き尽くすことはできない
と言われています。(出典:『大無量寿経だいむりょうじゅきょう』)

では、この極楽浄土にどうすれば生まれられるのでしょうか?
お釈迦さまは、どの位の人が極楽に生まれているのかについて、こう説かれています。

往き易くして人無し。
(漢文:易往而無人)

この「人無し」というのは、人が一人もいないということではありません。
無口といえば口数が少ないことなのと同じように、人が少ないということです。
ですから「極楽浄土は非常に往き易いが、往っている人が少ない
ということです。

どうしたら極楽に行けるの?

お釈迦さまが往っている人が少ないと説かれるように、
極楽浄土へは、死にさえすれば誰でも往けるのではありません。
修行や学問で行ける世界でもありません。
極楽浄土への行き方は2通りあります。

1つは、『阿弥陀経』に説かれている以下の3つの条件を満たすことです。

1つ目の方法
  1. 一日数万回念仏を称える
  2. 臨終に心を乱さない
  3. 臨終に阿弥陀仏にお迎えに来て頂く

しかしながらこの3つの条件は、毎日数万回念仏を称えることは
実際には非常に難しいことですし、
臨終に心が乱れたり、阿弥陀仏にお迎えに来て頂けなければ、
因果の道理にしたがって火車来現して次の世界に沈むので、
死ぬまで極楽に往けるかどうか分からず、
死ぬまで不安はなくなりません。

もう一つは、『大無量寿経だいむりょうじゅきょう』に説かれているように、
仏教を聞いて、生きている元気な時に
六道輪廻の根本原因を断ち切られることです。
お経にはこのように説かれています。

諸の生死勤苦の本を抜かしめたまえ。
(漢文:抜諸生死勤苦之本)

「生死」とは輪廻のことですので、私たちが輪廻して苦しむ根本原因を断ち切ることが仏教の目的である、ということです。

その輪廻の根本原因は煩悩ではないので、それさえ断ち切られれば、
煩悩あるがままで、いつ死んでも極楽往き間違いなしの身になります。

ですから生きているときに仏教を聞くだけで
極楽浄土には簡単に往けるのに、
みんなそれをしないので、
お釈迦さまは、「極楽浄土には往き易くして人なし」(易往而無人
と説かれているのです。

極楽往生が仏教の目的

今回の記事では、極楽浄土について、極楽浄土はどのようなところか、極楽浄土への行き方(往き方)について詳しく説明しました。

極楽浄土は、阿弥陀仏のおられる大変清らかな浄土をいい、そこは極めて美しい世界が広がっています。
お釈迦様は極楽浄土の世界を私たちにわかるように余方因順して説かれていますが、想像できないほど幸福な世界です。
この極楽浄土へ往くことこそ、仏教の究極の目的であり、私たちが果てしない遠い過去から生まれ変わり死に変わりしてきた迷いの旅路の究極の目的なのです。

では極楽浄土への行き方はどうすればいいかというと、煩悩を断ち切る方法で行ける所ではありません。
ただ口でどれだけ念仏を称えていてもダメです。
極楽浄土へ往くには、生きている時に迷いの根本原因を断ち切るしか道がないのです。

その煩悩ではない迷いの根本原因とは何かについては、
分かりやすいように以下のメール講座と、電子書籍にまとめてあります。
ぜひこれを知って、極楽浄土へ往ける身になりましょう。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生

日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか一人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。インターネットの技術を導入して日本仏教学院を設立。著書2冊。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと奮戦している。

仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者3千人、メルマガ読者5万人。ツイッター(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能

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