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自業自得とは?

自業自得じごうじとく」というと、遊んでいて試験に落ちた人に「それは自業自得だ」と言ったり、
交通事故に遭った人に「あれは自業自得だ」と言います。

自業自得」は、もともと仏教の言葉です。
それは、仏教全体を貫く非常に重要な教えです。
一体どんな意味なのでしょうか?

自業自得とは

自業自得」とはどんなことでしょうか?
まず「自業自得」の「」は、行いのことです。
自得」とは、自分が得た結果ですから、
自業自得」とは「自分の運命は、自分の行いの報いですよ
ということです。

もともと「自業自得」は『正法念経しょうぼうねんぎょう』に出てくる仏教の言葉で、
源信僧都げんしんそうずの『往生要集おうじょうようしゅう』にも引用されています。

参考までに仏教の辞典を見てみましょう。
このように書かれています。

自業自得
じごうじとく
自らなした行為の果報かほうは自らに受けるということ。
元来、ごうとは行為のことで、それには善もあれば悪もあり、善の行為をした場合はらくの果を受け、悪の行為をした場合はの果を受ける。
本来は、主体的な行為・責任を強調したものであったが、後には、特に日本では、自分の行為によって得た結果であるから、あきらめるより仕方がないという宿命論的な意味に解されるにいたった。
「かの冥吏呵責かしやくの庭に、独り自業自得の断罪に舌をまき」〔海道記〕
「三毒を食として三悪道の苦患をうくる事、自業自得果の道理なり」〔一遍語録〕

難しい言葉遣いで書かれていますので、お経の根拠なども挙げながら、分かりやすく解説します。

あなたの運命は誰のせい?

仏教は「すべての結果には必ず原因がある
という因果の道理に立脚して説かれています。

結果といっても、世の中には色々な現象があります。
その中でも私たちにとって特に関心のある、
運命の因果関係について仏教では明らかにされています。
自分の運命は一体誰のせいか、ということです。

それをお釈迦様は自業自得であると教えられています。
自分に起きるすべての運命は、
自分の行いの結果だということです。

この自業自得をお釈迦様は、『正法念経』にはこう説かれています。

異なる人の悪を作して、異なる人の苦報を受くるに非ず、自らの業にて自ら果を得るにて、衆生は皆是の如し。
(漢文:非異人作惡 異人受苦報 自業自得果 衆生皆如是)

この中の「自らの業にて自ら果を得る」というところが、漢文で「自業自得」というところです。
自分の行いが、自分の運命を生み出すということです。
自分の運命の原因は100%自分の行いなのです。

自分の運命の原因が自分の行いということは、
自分の行いで自分を縛ることになるので、
かいこが自分で出した糸で自分を縛るようなものだと教えられています。

自らの業を大苦悩を受く因と為す所、世の蚕のまゆを自らからめ、まとうと為すが如し。
(漢文:自業所因受大苦惱 如世蠶繭自爲縈纒)

蚕は、将来まゆを作ると煮られてしまうことも知らず、
まゆの元になる桑の葉を美味しそうに食べています。
ちょうどそのように、人は自らの業で自らを縛り、苦しむことになるのです。

自業自得と自縄自縛

自業自得に似た言葉に、「自縄自縛」があります。
自縄自縛は経典に出ている言葉ではないですが、仏教書でもよく使われ、
仏教辞典(浩々洞編)には
自分の縄にて自分をしばる義。煩悩悪業のために、自分を苦しむること
とあります。

また自縄自縛に似た言葉に、「蚕繭自纒さんけんじばく」(引用:『入楞伽經』)があります。
蚕繭自纒の意味は、蚕が自分で出した糸で自分を縛るようなものであり、自業自得のことです。

仏教では、自縄自縛も蚕繭自纒も煩悩ぼんのうによって苦しむ場合に使われます。

また禅語には「無縄自縛」という言葉があり、こちらは
縄もないのに、迷者は迷いにとらわれ、悟者はさとりにとらわれて自由になれない
という意味で、自縄自縛とは意味が異なります。

運命の因果関係

では、自分の行いは、どのように自分の運命を生み出すのでしょうか。
その運命の因果関係について、お釈迦様はこう教えられています。

善因は則ち善果を成就し
善因は則ち惡果を受けず、
惡因は終に善報を受けざるなり。
(漢文:善因善果則成就 善因則不受惡果 惡因終不受善報)

善因は善果を生じ、悪果は生じません。
悪因をつくって善果を受けることもない、ということです。

これを分かりやすくいうと、こうなります。

善因善果ぜんいんぜんか
悪因悪果あくいんあっか
自因自果じいんじか

善いたねをまけば喜びや満足のような幸せ運命が生み出され、
悪いたねをまけば不幸や災難、苦しみや悲しみという悪い結果が引き起こされる。
自分のまいたたねは、自分が刈り取らなければならない
ということです。

これを『ダンマパダ』にはこう説かれています。

みずから悪をなすならば、みずから汚れ、
みずから悪をなさないならば、みずから浄まる。
浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。

お釈迦様はこのように、自業自得を徹底して教えられているのです。

良い運命も自業自得

自業自得というと、何か悪いことが起きた時に
それは自業自得だよ」といわれ、
ほとんどの場合、悪い運命が来たときに使われます。

たとえば暴飲暴食をして生活が乱れている人が病気になったとき、
陰で「あの人は自業自得で病気になった」と他人はささやきます。
子どもがスマホばかり触って勉強をせずにテストの点数が悪かったとき、
親が子どもに「自業自得でしょう」という家庭もあるかもしれません。

しかし何も悪いことだけではなく、善いことが起きたときも、自業自得なのです。

ただし一般的には幸せな人に対しては使われません。
結婚式の披露宴で「新郎が素敵な新婦と結婚したのは、まさに自業自得です!」という使い方はしないほうがいいでしょう。

このように、善いことも悪いことも、自分のたねまきに応じて、自分の運命が決まります。
自分の行いで自分の運命をつくるということです。
これを因に応じて果が報う「因果応報いんがおうほう」ともいわれます。

このことを『過去現在因果経』には、こう説かれています。

一切衆生、善悪の為す所は果報を受くに及ぶ。
(漢文:一切衆生 所爲善惡 及受果報)

一切衆生」とはすべての人のことです。
すべての人は、自分のやった善悪のゆえんによって報いの結果を受けるに及ぶ、ということです。
自分の運命はすべて自分がつくり出しているという
自業自得の因果の道理が仏教の根幹なのです。

自業自得と因果応報の違いは?

以上の説明から、自業自得と因果応報の意味に違いはなく、同じ意味ということが分かります。
自業自得と因果応報の意味が違うという人もありますが、
業の意味や、因果の意味が曖昧なので、違うように思えるのでしょう。

因果応報についてはこちらをご覧ください。
因果応報とは?意味を分かりやすく恋愛の実話を通して解説

自業自得と思えない場合

ところが、そう簡単に自業自得と思えないときがあります。

それは、どんな時かというと、
自分に不幸や災難がやってきたときです。

自分に幸せがやってきたときには、
自分の努力の結果だと思いますが、
不幸や災難が来たときは、
自分の責任ではないと思いたくなります。

例えば、
「今朝、遅刻してしまったのは、いつもと違って、急に渋滞したからだ」
「うまく売り上げが伸びないのは、不況だからだ。それとライバルが参入してきたからだ」
「子供がいじめに会合うのは、学校のせいだ。もっと言えば行政の責任だ」
などなど。

このように、不幸については、
少しも自分の行いに責任があるとは頭をよぎらないのです。

そんなときも自業自得なのでしょうか?

結果が起きるのはどんなとき?因縁について

仏教では、すべての結果は、
」と「」が和合して現れると教えられています。

お釈迦様は、このように説かれています。

一切法は因縁生なり。
(漢文:一切法因縁生)

一切法」とは、すべてのもののことです。
すべてのものは、因と縁がそろって生じるということです。

因だけでも結果は起きませんし、
縁だけで結果は起きません。
図に書くとこのような感じです。

┌─┐ ┌─┐
│因├┬┤縁│
└─┘│└─┘
  ┌┴┐
  │果│
  └─┘

では因と縁とは何かといいますと、
」とは、自分の行いのことです。
」とは、環境や他人の行いなど、自分の行い以外のすべての要因です。

米でいいますと、
因は、モミダネ、
縁は、水や空気、温度、養分など、
モミダネが米になるのを助けるものです。

┌─┐ ┌─┐
│因├┬┤縁│
└─┘│└─┘
 モ┌┴┐水
 ミ│果│空気
 ダ└─┘温度…
 ネ 米

なぜ自業自得?

では、例えば
「今朝、遅刻してしまったのは、いつもと違って、急に渋滞したからだ」
がなぜ自業自得なのでしょうか?

もし遅刻したのが本当に渋滞のせいだとすれば、少し不可解なのは、
この朝、渋滞が起きたのに、同じ道を通って通勤している同僚の中で、
遅刻したのは自分だけでした。
何か自分に、他の同僚にはない原因がありそうです。

では「」と「」と「」は、それぞれどうなるかというと、
まず「(結果)」が遅刻です。
次に、渋滞は、自分の行いではありませんから、
因ではなく「」となります。

では「」は何かというと、
渋滞が起きる可能性があるのに、
ぎりぎりに出発したという自分の行いにあります。
他の人たちは、余裕を持って出発していたのです。

結果は、因だけでも起きませんから、
確かにぎりぎりに出ても、渋滞という縁が来なければ、
遅刻にはなりません。

しかし、縁だけでも結果は起きませんから、
渋滞が起きても、ぎりぎりに出ていなければ、
遅刻にはならないのです。

因だけでも縁だけでも結果は起きませんので、
不幸や災難が起きたときには、
必ず何か因があります。

ですからやはり自業自得です。

では自分の行いは、一体どのように運命を生み出すのでしょうか。

自業自得のしくみ

私たちの行いは、やったあと消えてしまわずに、「業種子ごうしゅうじ」となって残ります。
種子とは、たねということです。
善因善果、悪因悪果の因と同じ意味ですので業因ともいわれます。
業種子は業のたねということで、目に見えない形で残ります。
それを「業力ごうりき」といいます。
業力とは、目に見えない運命を生み出す力です。

善因善果ということは、善い行いには幸福という結果を生み出す力があります。
これを善業力といいます。
善い業力です。
それに対して悪因悪果で、不幸や災難を生み出す力を悪業力といいます。

業力はいつまでも消えないので「業力不滅ごうりきふめつ」といわれます。
業力は絶対消えずに不滅の業力となって残ります。

どこに残るかというと、「阿頼耶識あらやしき」です。
阿頼耶識」の「阿頼耶」というのは蔵のことで、「」は心のことですので、
阿頼耶識は蔵のような心です。
蔵識」ともいわれます。
これは「ぞうしき」とも「くらしき」とも読みます。
蔵へ大事なものを入れておくと、火事で母屋が焼けても蔵の中のものは焼けません。
ちょうどそのように、阿頼耶識へおさまった業種子は決してなくならないということです。

私たちが何かの行いをすると、それは目に見えない業力となって阿頼耶識におさまります。
そして業種子をたくさんおさめた阿頼耶識は、川のように流れていきます。
川の流れが業種子です。
この業種子をおさめて流れている阿頼耶識が、私たちの本心であり、永遠の生命です。
今の肉体が生まれる前、果てしない遠い過去から、
死んだ後、永遠の未来に向かって流れています。

そして何かの縁が来ると目に見える結果となって現れます。
だから阿頼耶識が私たちの現在の運命を生み出しているわけです。
地球上に何十億の人がいても、その人その人の阿頼耶識がその人の運命をつくり出しています。

それはみんな私たちが自分でつくったものです。
がつくったものでもなければ、先祖のタタリでもありません。
だから自業自得なのです。

自業自得が分かると?

自業自得が分かると、必ず「廃悪修善はいあくしゅぜん」の心が起きてきます。
廃悪修善の心とは、悪いことはやめよう、善いことをしようという心です。

なぜ自業自得が分かると廃悪修善の心になるのかというと、
私たちは、不幸や災難は来て欲しくないので、自分の悪いたねまきが不幸や災難をつくっていると知らされれば、悪いたねまきをやめようとします。
逆に、幸せには来て欲しいので、自分の善いたねまきが幸せをつくっていると知らされれば、善いたねまきをしようと思います。
そのことを、『涅槃経ねはんぎょう』にはこう説かれています。

善因より善果を生ずと知り、
悪因より悪果を生ずと知り、
果報を観じおわりて悪因を遠離す。
(漢文:知從善因生於善果 知從惡因生於惡果 觀果報已遠離惡因)

自分の善い行いが幸せを生み出すことが知らされ、自分の悪い行いが不幸や災難を生み出すと知らされれば、その結果を反省して、悪い行いをやめようとするということです。

私たちは、善い結果が来たときには、自業自得と思うのですが、問題は、悪い結果が起きたときです。
特に自己中心的な人は、自分が悪い行いをしたとはとても思えませんので、悪い結果を人のせいにする傾向があります。
ところが、自分の行いを見ずに、結果を縁の責任にして、
自分の行いを改善しなければ、
次に同じ縁が来たときに、また同じ不幸が繰り返され、
進歩も向上もないのです。

では生まれつきのことは?

生まれた時点のことについても、
すべての結果には必ず原因がありますから、
原因なしに何かが起きるということはありません。

原因は結果よりも前にありますから、
すべての結果には必ず原因がある」ことを認めれば、
原因は、生まれる前にあることになります。

仏教では、私たちは、果てしない遠い過去から、
永遠の未来に向かって、生まれ変わり死に変わり、
生死生死を繰り返していると説かれています。

これを「輪廻転生りんねてんしょう」といいます。

ですから、生まれた時点での結果は、
生まれる前の自分のたねまきを原因として、
その報いが現れている
と教えられています。

しかし、この記事を読めるということは、
今のあなたは生まれた時点ではないと思いますので、
生まれてからのたねまきだけでも、考えるべきことは
足りなくならないのではないでしょうか。

自分の行いを変えるのさえ難しいのに、
他人の行いは変えるのは至難の業です。

因果の道理を信じ、自分の行いを反省して、
反省向上していきましょう。

自業自得を信ずる人と否定する人の違い

このような自業自得を信ずる人と否定する人では天地雲泥の違いが表れます。

自業自得を否定していると、
まず悪い結果が来た時には、自分の行いが生み出した結果だと思えないので、他人のせいにします。
自分はこんなに頑張っているのに、何でこんな目にあわなければならないんだ
と他人を怨む、怨み呪いの人生になります。

また、善い運命が来た時には、
自分は善い行いをしたんだから当然だ。
あんなによいことしたのに善い運命が足りない

と不満が出てきます。
だからどんなに恵まれても全然感謝の心が起きない不平不満の人生になります。

それに対して自業自得が知らされるとどうでしょうか。
悪い運命が来た時は、自分の行いの結果だと知らされているので自分の行いを振り返り、反省します。
そして悪いところを見つけて向上に努力します。

善い運命が来た時には、感謝となり、より一層の努力をします。
なぜかというと、自業自得が知らされて、廃悪修善に心がけていると、悪い行いはやめがたく、善い行いは難しいことが知らされます。
だから、こんな悪いことばかりしているのに、善い運命に恵まれるとは有り難いと感謝の心が起きてくるのです。
苦労した分しか感謝はできません。

このように、自業自得が知らされていると、逆境には反省して向上に努力し、順境には感謝してより一層の努力をせずにはいられなくなるのです。
これが仏法者の生活態度です。

表にまとめると、自業自得を否定する人と信ずる人ではこのような天地雲泥の違いが出てきます。

自業自得 否定する人 信ずる人
順境 当然・不満 感謝・努力
逆境 怨み・呪い 反省・努力

因果の道理に立脚して説かれた本当の幸せになる道

今回は、自業自得について詳しく解説しました。

自業自得は、お経に出てくる言葉であり、仏教の根幹をなす教えです。
悪い意味で使われることが多いですが、善い意味でも悪い意味でも使うことができます。
自業自得を信じて、自分の行動を反省し生きていく人は、
努力と感謝の毎日で幸せな人生となるでしょう。

そして、お釈迦様が
この自業自得の因果の道理に立脚して
輪廻転生を教えられ、その苦しみ迷いから離れる道を
明らかにされたのが仏教です。

この迷いの根元を知り、断ち切れば、
生きているときに変わらない幸せになれます。

そのすべての人が本当の幸せになれる道については、
仏教の真髄ですが、メール講座と電子書籍に分かりやすくまとめました。
ぜひ一度読んでみて下さい。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生

日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか一人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。インターネットの技術を導入して日本仏教学院を設立。著書2冊。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと奮戦している。

仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者3千人、メルマガ読者5万人。ツイッター(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能

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