寂しい

ひとりぼっちで寂しい夜、どう過ごしたらいいのでしょうか?
なぜ人生は寂しくなるのでしょうか?
ブッダは寂しい理由と、どうすればそれが救われるのかを
教えられています。

寂しいのはどんな時?

寂しくなるのは、どんな時でしょうか?

毎年3月になると出会いと別れの季節です。
卒業や異動で、今まで一緒に過ごした人と
別れなければならないときがやってきます。

仲の良かった人が離れていくとき、
これからも連絡を取り合おう
というのですが、とても寂しく感じます。

同じように、家族が結婚などで
別の家へ引っ越して行くとき、
今まで一緒に過ごした思い出がよみがえり、
嬉しかったことも、楽しかったことも、
夢のように儚く消えていきます。

そしていなくなってしまうと、
寂しさがこみあげてくるのです。

他にも、彼氏に振られたり、
離婚して一人で暮らすことになるひと、
寂しい毎日です。

さらには、大切な家族を亡くしたとき、
とても寂しく感じます。

ところが仏教では、人生は基本的に寂しいところだ
と教えられています。

人生の寂しさ

仏教では、人生は秋の夕暮れのように
寂しいものだと教えられています。

秋というのは、一年のうちでも一番寂しい季節です。
色々なところへ遊びにいった夏が終わるころ、
ヒグラシが「カナカナカナ」と鳴くようになります。

やがて冷たい風が吹くようになると、
木の葉が散っていきます。

そんな秋の一日の中でも、夕暮れ時は、
特に寂しさが濃く漂っています。

一日があっという間に終わり、
太陽が西に沈んで急に薄暗くなっていくときです。

どんなに世の中が変わっても、
科学が進歩しても
物が豊かになっても
そんな秋の夕暮れのように
寂しいところが人生です。

いつの時代、どこの国の人でも、
どんな人が集まって楽しそうにしていても、
人生はそんな寂しい感じを持っています。

夏目漱石が『吾輩は猫である』で
のんきと見える人々も、心の底をたたいてみると、
 どこか悲しい音がする

と言っている通りです。

なぜ、人生に秋の夕暮れのような
寂しい雰囲気が漂っているのかということについて、
ブッダはこのように教えられています。

なぜ人生は寂しいの?

なぜ人生が寂しいのかということについて、
ブッダ

独生独死 独去独来」(大無量寿経)

と教えられています。

これは、
独り生まれ、独り死し、独り去り、独り来たる
と読みます。

初めから終わりまで独りです。
人生が寂しいのはそこに原因があるんだ
ということです。

私たちは、独り生まれて、独り死んでいかなければなりません。
人生に誰も連れはありません。
生まれてから死ぬまで孤独な一人旅です。
だから寂しいんだといわれているのが
独生独死 独去独来
です。

寂しい時どうしたらいい?

これを何とかしたい場合、
何をすればいいのでしょうか?

世間では、たいてい誰かに電話したりします。
一人で何とかする場合は、
SNSに投稿したり、
音楽を聴いたり、
映画を観たりします。

それもいいのですが、
やはり一人では寂しいので
恋人を作ったり、
友達とどこかへ行ったり、
パーティーや、文化祭、夏祭り、花火大会などに行きます。

それは、寂しい心が、
たくさんの人を集めて
騒がずにはいられないのです。

このように、人とつながろうとするのは、
寂しさを少しでも和らげたい、忘れたい、
どうしたら寂しさを紛らわせるのか
という、そのための努力です。

寂しいと誰かとつながりたいのはなぜ?

ではなぜ寂しいとき、誰かとつながりたいのかというと、
自分は一人じゃないと思いたいからです。

ブッダが「独生独死独去独来」といわれても、
私には
親もいるし
子供もいるし
妻がいるし
夫もいるし
孫もいるし
友達もいるし
恋人もいるし
決して一人じゃない。
たくさんの連れがいると思います。

そして、誰かとつながって
寂しさを紛らわせようとします。
それはそれでそれなりに効果はあるのですが、
誰かとつながっても、一時的で、すぐに元に戻ってしまったり、
あまり心が晴れないことがあります。

それは、ブッダ
独り生まれ、独り死し、独り去り、独り来たる
といわれているのは、肉体の連れではなく、
魂の連れがないということだからです。

どんなに親しい人でも、愛する人でも、
わかってもらえないとき、
やはり寂しいと感じるのです。

誰にもいえない秘密の蔵

どんなに親しい人でも、
言えない心があります。
これだけは死んでも誰にも言えない
というものを、心の奥底の
秘密の蔵に持っています。

あの人なら腹をわって話せる
というのは、言える範囲のことです。
その底に、誰にも言えない秘密の蔵を持っています。

そんなことない、何でも言える」と思うのは、
まだ気づいていないだけです。

その秘密の蔵の扉は、誰にも開けません。
そういう心を誰もが持っているのです。

それは、あの人に話をしたら、
ああそうか、大変だね
と、なぐさてくれる程度のものではありません。

誰にもわかってもえない、
苦しんでいる自分しか知らない心があります。

それをブッダは、
すべての人は、生まれてから死ぬまでひとりぼっち
と言われているのです。

もう理解してもらえない、
自分しか知らない孤独不安な魂があるのです。

誰もが一人一人の世界で生きていますから
自分の世界をわかってくれる人は
この世に一人もありません。

生まれてから死ぬまで寂しいのが人生です。

周りに人が多いほど寂しい

たくさんの人の中にいても、ひとりぼっちです。
人が集まっている所へいけば行くほど
それを感じます。

祭りやパーティーで盛り上がるほど、
腹底に少しも喜べない寂しい心を持っています。
漢の武帝は、
歓楽極まりて哀情多し
と言っています。

どんなに盛り上がっているようでも、
心の底は寂しいのです。

特に祭りの後、にぎやかな所から
うちへ帰ってひとりぼっちになったときに、
寂しさを感じることがよくあります。

「あれは何だったのか」、
「何を騒いでいたのか」、
と思えてきて、
寂しい心が知らされてきます。

寂しい人の本当の願い

私たちは、本当はこの誰にも言えない心を
言える人にあいたいのです。
それが根本的な願いでもあります。
本当の心の連れが欲しいということです。

すべてを包み隠さず言える、
わかってくだされる人を探しているのです。

それを本当にわかって下さるのは、
仏さまだけです。

仏さまはその心を見通して
わかってるいるよ、そなたのことは。
 隅の隅まで 知っている

と常にと呼びかけて下さっているのです。

仏教の教えに救われたときに初めて
そのひとりぼっち
ひとりぼっちではなくなって、
本当の幸せになれるのです。

ではどうすれば、仏教の教えによって救われて、
本当の幸せになれるのかについては、
仏教の真髄ですので、メール講座と小冊子にまとめてあります。
一度目を通しておいてください。

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