無我とは?

無我」というと、世間でも「無我の境地」とか、「無我夢中」などといわれますが、それらとは意味が違います。
多くの人が「私というものがある」と考えているのは間違いで、私というものはないというのが無我です。
無我は仏教の特徴の中の特徴で、仏教だけに説かれています。
一体どういうことなのでしょうか?

世間でいわれる無我の境地とは?

世間でも「無我」という言葉を遣って、無我の境地といわれることがあります。
例えば、科学者が顕微鏡を見ているときや、
釣り人が浮きを見ているとき、
作家が原稿を書いているときなどに
無我の境地」という場合があります。
これは一つのことに集中していることです。

他にも、「無我夢中」という言葉があります。
これも、テレビゲームに無我夢中だとか、
地震が起きたとき無我夢中で逃げたとか、
一つのことに心を奪われたり、没頭しているときに使います。

このような無我の使い方は、無我というよりも、我を忘れているというほうが近いです。
漢字二字なら「無我」ではなく「忘我」です。

他にも「がない」という意味で使われることがありますが、それは「無私」といったほうが近いでしょう。
これらは仏教でいわれる無我とはまったく意味が違います。
では、無我とはどんな意味なのでしょうか?

私の存在によって生じる苦しみ

私たちは、物心ついたときから、私というものがあると思っています。
近代哲学の父といわれるデカルトも「我思う、故に我あり」と言っています。
そして、
これは私のスマホ、
これは私の家、
これは私のお金、
これは私の仕事、
これは私の地位、
これは私の妻や夫、
これは私の子供、
これは私の体、
これはみんな私のもの、と思っています。
ということは、私というものがあると思っているのです。

これらを他人が取りに来ると、
ダメだ、これは私のものだ
と放そうとしません。

ところが諸行無常の世界ですから、一切は続きません。
私のものはずっと私のものであってほしいのに、思い通りにならなくて苦しみます。
私があると思っているところから、色々な問題が起きてきて、苦しんだり悩んだりしなければなりません。

ブッダの生まれる前の2600年前のインドでもやはりそうでした。
当時はバラモン教をはじめとする色々な思想の人達が、それぞれ本当の幸せを求めて難行苦行に励んでいました。
ところが、無我であることを知らなかったために、どんなに頑張っても本当の幸せになることができなかったのです。
ブッダがまだ仏のさとりを開かれる前、すでにあった教えを実践して、すぐに習得されましたが、その境地に満足されず、別の教えを求められたのも、そのためでした。

ブッダの体得された真理

やがて仏のさとりを開かれて、大宇宙の真理を体得されたブッダは、我があると思っているのは錯覚であり、本当は無我であると教えられたのです。

どのように教えられているかというと、
例えば、『雑阿含経』には、
色はこれ無我、受想行識もこれ無我なり
と説かれています。

(しき)」とか「受想行識(じゅそうぎょうしき)」とは、仏教では、私たちは5つのものが集まってできていると教えられ、これを「五蘊(ごうん)」といいます。
その5つが「色受想行識(しきじゅそうぎょうしき)」の5つです。
それぞれどんな意味かといいますと、「」は肉体のことで、「受想行識」は心のことですので、心身のことです。
色受想行識の五蘊は無我である、ということは、心身は無我である、ということです。

ところが仏教では、「諸法無我(しょほうむが)」といわれます。
諸法」とはすべてのものです。
無我」とは私というものはないということです。
すべてのものは無我である。我というものはない、と教えられています。

ここで「」とは、「常一主宰(じょういつしゅさい)」のものです。
」とは永久に変わらないこと、
」とは独立していること、
主宰」とは、他の力を借りず、自分の力だけで存在を維持できることで、一言でいえば「固定不変」の実体です。
そのような、固定した、かわらない実体があると思うのは錯覚であり、迷いであり、そんなものはないというのが、無我ということです。

「諸法無我」は、三法印といわれる仏教の旗印の1つで、仏教でしか教えられていない特徴なのです。

仏教と他の宗教の違い

この諸法無我は、仏教と他の宗教の大きな違いの1つですが、他の宗教ではどんなことを教えられているのでしょうか。

例えば、インドのヒンズー教の前身で、ブッダの当時流行していたバラモン教では、究極の目指すところを「梵我一如(ぼんがいちにょ)」といいます。
」とは大宇宙の原理、
」とは自己の不変の実体で、霊魂のようなものです。
それが「一如」ということは、不変の私の魂があって、大宇宙の原理とが一つだと思おうとすることです。

しかし、固定不変な実体はどこにも存在しないことを悟られたブッダは、これは達成できないと教えられたのです。

人間の考えるものは、必ず固定不変な私や、その本質として固定不変な霊魂を想定しています。

例えばキリスト教では、不変の魂があり、この世の終わりの最後の審判になると、肉体まで復活するそうです。

日本の神道でも、人間や動物が死んだ後、宮を造って祭ると、そこに霊魂が鎮座して、生きている人に幸せや不幸を与える力を持つと信じています。
例えば湯島天神では、菅原道真という政治家の霊魂が、千年以上、拝んだ人の学業成就を助けているそうです。

仏教では、このような普通の宗教で説かれる、固定不変な霊魂というものはないと排斥されています。
私というものはないのです。

私はどこ?大号尊者の物語

では私たちが、
私の家
私のお金
私の子供
と言っている、私とは何でしょうか?

普通私たちは、皮膚の内側の肉体が私だと思っています。
肉体が私だと思うのは、この世はすべて物質から成り立っているという唯物論者の人が陥りやすい考え方です。

ところが仏教では私というのは肉体ではありません。
雑譬喩経』にこのような物語が説かれています。

ある旅人が、一人で人里離れた寂しい空き家に宿を取りました。
真夜中を過ぎると、1匹の赤鬼が、人間の死体を持ってやって来て食べようとします。
旅人は急いで隠れると、さらにそこへ青鬼がやって来て、
その死体はおれのものだ。よこせ
と言います。
これはオレが先に見つけたものだ
と赤鬼が言うと、二匹のは死体の手を両側から引っ張り合って大ゲンカを始めます。

しばらくすると、赤鬼が、
おい、ここに証人がいる。死体はどっちのものか聞いて見ようじゃないか」 と言い出しました。

すっかり気づかれていたことに驚いて、旅人は考えます。
本当のことを言っても嘘をついても、食い殺されるのは避けられない。
ならば真実を言おうと
それは赤鬼のものです
と言いました。

それに怒った青鬼は旅人の片腕を抜いて食べてしまいました。
気の毒に思った赤鬼は、誰かの死体の片腕をとってきて旅人にくっつけます。
それを見た青鬼は、さらに両足を抜いて食べます。
赤鬼はまた、他の死体の両手足を取ってきて旅人につけてやります。

こうして青鬼は胴体も頭も、旅人の全身を次から次に食べると、赤鬼はその後から、旅人の身体を元どおりに修復し、ついに今までの体は全くなくなり、すべて他人の体のつぎはぎとなりました。
死体を思う存分食べた赤鬼と青鬼が帰ってしまうと、旅人は考えました。
今の自分の手足は、どこの誰の手足やらわからないが、今は自分の体のように思える。私の体はあるのだろうか、ないのだろうか
街へ帰った彼は、
この身体は誰のものですか
と大声で叫びながら歩いたので、大号尊者とあだ名されるようになったといいます。

このように仏教では、私というものは肉体ではないと教えられています。
実際、現代の医学では、臓器移植によって他人の体を自分が使えるようになってきています。
何もしなくても細胞が入れ替わっているので、7年経てば全部入れ変わってしまいます。
肉体は私ではないのです。

では私というのは心でしょうか?

結婚する前は「君を好きだよ」と1日100回言っていた男が、結婚して4年もすると、まったく言わなくなってしまいます。
それは、心が全く変わってしまったということです。
ところが、その人は同じです。
心は盆の上の卵のようにコロコロと動き続けます。
コロコロの「ロ」をとって「ココロ」になったと言われるほど、心は変わりやすいものです。
しばらくすれば心がどうなっているか、自分でも分かりません。
すっかり変わってしまいます。それは自分ではどうにもなりません。
体が私ではないように、心もやはり、私ではないのです。

このように、私というものはどこにもありません。
あると思うのは錯覚で、私に実体はないのです。
これが無我です。

なぜ無我なのか

なぜ無我なのかというと、『雑阿含経』の続きに
色はこれ無我、受想行識もこれ無我なり。
 この色はまさに有るに非ず、受想行識もまさに有るに非ず。
 この色は壊あり、受想行識も壊あり。
 故に我に非ず

と説かれています。
一切は続かないから我はないということです。

このことを龍樹菩薩は『大智度論』にこう教えられています。
諸法は因緣より生ぜざる無く、因緣より生ずるが故に無我なり
すべてのものは、因と縁がそろって生じるから無我なのだということです。

因とは直接的な因、縁とは間接的な条件や環境などです。
因と縁がそろったときに結果が現れますが、因縁が離れれば結果はなくなります。
だから、我というものはないということを、一つのたとえでこう教えられます。

引き寄せて 結べば柴の庵にて  とくればもとの 野原なりけり

」とは、質素な小屋です。
」とは、小枝のようなものです。
野原で柴を集めてきて、上のところをひもで結べば庵になります。
その中で休んだり寝たりすることができます。
ところが、ひもをほどけば、庵というものなくなってもとの野原にもどってしまいます。
固定不変の庵というものはありません。

現代でいうなら、自動車でも同じです。
これは私の車、私の自動車
執着していますが、自動車というものが本当にあるかというと違います。
自動車は大体約3万の部品でできているといわれますが、その部品をばらばらにしてしまったら、自動車というものはありません。
自動車という実体はないのに、それらのもの組み合わされた状態を自動車と思っています。
私たちも、一時的に因縁がそろって私というものがあると思っていますが、私に実体はありません。
すべては因縁がそろって一時的にあるだけで、続かないので無我なのです。
このように仏教は、何かを信じる宗教的な教えというよりも、一切の原因を解明する科学的、論理的な教えです。

なぜ無我を説かれたのか

ではブッダは、なぜ無我を説かれたのでしょうか?

あるときブッダの所に、一人の修行者がやってきて、こんな問いを投げかけました。
我は、あるのか
ブッダは黙ったまま、お答えになりませんでした。
そこで修行者は、
では無我なのか
と聞きました。
それでもブッダは黙ったまま一言も発しません。
修行者は答えが得られないので、どこかへ行ってしまいました。

それを近くで見ていた弟子のアナンダが、
なぜあの者の問いにお答えになられなかったのでしょうか?
とお尋ねすると、ブッダは丁寧に、こう教えられています。
真実は無我なのに、もし我ありと答えたら、固定不変の自己が永久に続くという常見(じょうけん)という迷いに陥るであろう。
しかしもし無我と答えたら、彼は死ねば無になると誤解して断見
(だんけん)の迷いを深めるのだ
そしてブッダは、生まれ変わりを繰り返すメカニズムと苦しみの原因を明かされた十二因縁を説かれています。

常見」とは、死後、肉体は滅びても、普遍の魂が続いて行くというキリスト教や神道のような考え方です。
この考え方では、生まれ変わりを繰り返すことはありません。
私は私のまま、復活したり、鎮座したりします。

逆に「断見」とは、唯物論の現代人にありがちな、死んだら無になるという考え方です。
この考え方でも、生まれ変わりはあり得ません。

私が変わりながら続いて行くからこそ、生まれ変わりが繰り返されるのです。

たまに無我は輪廻転生と矛盾するという人がありますが、それは取るに足らない仏教の理解です。実際にはこのように、固定不変の霊魂があると思っていると迷い続けてしまうので、ブッダは輪廻転生を明らかにするために無我を説かれているのです。

そして、輪廻転生の迷いの根本原因を明らかにされ、それを断ち切って本当の幸せになる方法も教えられています。
そのブッダの説法は、やがて大号尊者も聞いて歓喜したといわれています。

ではその迷いの根元とはどんなもので、どうすれば断ち切れるのかは、仏教の真髄ですので、小冊子とメール講座にまとめてあります。
一度見ておいてください。

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