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生きる意味を、知ろう。

足るを知るの意味とは?

足るを知る」は、「身分相応に満足することを知る」という意味であり、
足りていることを知り、何事にもありがたみをもつ」ということです。

しかし「足るを知る」の意味は何となく分かっていても、
どのように人生に取り入れたらいいのでしょうか。

今回は、「足るを知る」の本当の意味や、「足るを知る」という生き方を説明しつつ、
足るを知る」の誤解された意味についても解説します。

「足るを知る」の意味

まず「足るを知る」について、辞書の意味を確認してみましょう。
辞書では、知足として教えられていました。

ち‐そく【知足】
(「老子‐三三」の「自勝者強、知足者富」から)足ることを知ること。自分の持ち分に満足し安んじること。

足るを知る」の由来は、老子の言葉として語られます。
老子は、中国の春秋戦国時代に現れた学者で、
時代は紀元前6世紀と言われたり、
紀元前4世紀と言われたりしてはっきりしません。

そこでまずは老子の「足るを知る」の意味を見ていきましょう。

「足るを知る」の由来

老子の言葉に、「知足者富」(引用:老子)とあります。

「足るを知る」老子の意味

たとえば、このように説かれています。

人を知る者は智、自ら知る者は明なり。
人に勝つ者は力有り、自ら勝つ者は強し。
足るを知る者は富み、強めて行なう者は志有り。
その所を失わざる者は久し。
死して而も亡びざる者は寿し。

(漢文:知人者智、自知者明。勝人者有力、自勝者強。知足者富、強行者有志。不失其所者久。死而不亡者壽)

どういう意味かというと、
他人をよく知っている者は、智慧ある人であり、
自分自身についてよく分かっている者は、賢明な人である。
人に勝つ力のある者は力があるかもしれないが、
己に勝つものには及ばないのである。
足るを知り、今に満足できる者は、富める者であり、
勉強し続ける者には志がある。
居るべきところに居り、敢えて道に外れた行いをしなければ長久であり、
肉体は死んだとしても、遺徳が滅びなければ、長寿と同じである。

これは、老子の思想である「」をよく心得ている者と、
」を心得ていない者の違いを説いたものです。

つまり「道」を心得ている人はこういう人だと教えられたものですので、
「道」を心得ている人は足るを知る人であり、
「足るを知る」は道の表現の一つです。

」を心得た人は、常に自己を本としますので、
この言葉では常に自分自身のあるべき姿を教えています。

老子の思想は、無為自然という考え方で、
人間の作り出した名誉や財の有無などにこだわることなく、
自分自身が自然のままでいることを勧めています。

老子は「足るを知る」という言葉で、
自分が自分がという執着をなくし、を持ちすぎてはならないと、
教えているのです。

なぜ「足るを知る」ことが大切なのか

では、なぜ「足るを知る」という考え方が大切で、
多くの人々に受け入れられているのでしょうか。

それは欲望のままに生きた人は、幸福になれないからです。
心が落ち着かず、常に渇望状態であり、不満な心を抱え続けなければなりません。
欲望は無限であり、有限の命で満たし切るということはないからです。

かつて、欲望のままに生きることが、正しい生き方だとする考えがありました。

正しく生きようとする者は、 自分自身の欲望を抑えるようなことはしないで、 欲望はできるだけ大きくなるがままに放置しておくべきだ。

しかし、この言葉に賛同できる人はいないでしょう。

昔、大阪にいた 紀伊国屋亦右衛門きいのくにやまたうえもん という商人に、こんなエピソードがあります。

大阪の紀伊国屋亦右衛門

近世の半ばに、大阪に紀伊国屋亦右衛門という一代で資産を築いた商人がいました。
まだ若かった時、大阪の大商人のもとに仕え、
実直に仕事をこなし、なかなか利口であったので、
主人からとても気に入られていました。

ある時、主人はこのように言い渡しました。
「お前はここに勤めてから十数年経ったが、朝から夕方まで一生懸命で、
不要な支出を減らし、家業を大切にして働いてくれるので、大変満足している。
そこでその褒美として、今日はお前に百両の資本を与えよう。
それでどこに行ってもいいから思うように働き、この資本を千両にしてみなさい。
千両になるまで決してうちに帰ってきてはいけないよ」

そのとき亦右衛門は、「ありがたい」と主人の好意に感謝し、
早速その百両を受け取って主人の家を出て、
目指すは都のある京都が良いだろうと判断し、
まもなく入洛し、西洞院のとある場所で、店を出しました。
亦右衛門は「商売の道は数限りなくあるが、
大きく商売をして大きく利益をあげようとする時は
かえって利益を失う事が多い。
特に商売道徳から言っても自他共に益するのが本質であるから、
日々人々が使用する日用品の販売を職業とし、薄利多売にすれば
必ず利益が出るに違いない」と考えた。

そこで様々な商品の中で、紙の販売は利益の薄いものであるが、
日用品として多く使われるものにこれに勝るものはない。
しかも粗紙は万人に必要なのだから、まずは粗紙を商売にしよう。
そこで日々紙くずを買付け、これをよく漉かせ、
江戸でいうところの浅草紙のようにして、これを売り広めたのである。

計画通り商売を進め、百両を資本に手広く粗紙を売り出したところ、
3年間で早くも三百両を得て、さらに奮起して5年間家業を手広く営んだことで、
ついに8年間で千両となりました。

ここでかつての主人との約束でもあるので、すぐに大阪に戻り主人と面会した。
そして利益となった千両を主人の前に出し、
「かつて貸していただいた百両を資本に、お約束通り8年間かかって千両にしました」
と語りました。
これを見て主人は大変驚き、そして感心し、
「お前は我が家に勤めた頃から見所があって、普通の人ではないと見極めていた。
それで少々無理とは思いながら、あのようなことを言ったところ、
お前は見事に千両にしてくるとは大変見上げたものである。たいへん感心した」
と言いました。

そして続けて主人が言います。
「今度はお前に、この千両を貸し与えるから、見事に一万両にしてみせよ」
するとまた亦右衛門は、かしこまりすぐに退出して、どこかで店を営み、
苦辛経営の末に、5年をかけて一万両にし、再度主人を訪問しました。
主人はまた感嘆し、大変褒め讃えながら
「そうであるなら、この一万両を十万両にしてみせよ」

そこで彼はまたかしこまって、主人に言いました。
「はじめ貸していただいた百両を千両にし、千両を一万両にすることは、
中々骨が折れました。
しかし一万両を十万両にすることは仔細もない事であります。
3年のうちに必ず達成し、またお目にかかりたいと思います」

そこでまたすぐに退出し、どこかで商売を行い、
見事に十万両を達成し、またまた主人を訪問したのです。
また主人は関心し、
「お前の働きぶりには感心するしかない。
その苦労は余りあるものであるから、指図するものではないが、
また百万両にしてみてはどうか。私はそれを望んでいる」

金に使われるか

その時、彼はこのように答えました。
「なるほど、仰せのようにいたしてもよろしゅうございます。
十万両の金を、百万両にするのは造作もないことでございますが、
その前に、1つお聞きしとうございます。
ご主人さまの財産はどれほどのものでしょうか。
どれほど儲けられているかお聞かせ頂きたく思います」

すると主人は
「いや、財産はいくらあるかと言っても、もとより際限があるものではない。
どれほどあるか分かっていない」
と答えたので、亦右衛門は表情を変え、
「それほど貯えがありましても、まだ金が欲しいと思われるのでしょうか」
と問いました。
主人は全く平気な顔で
「そうじゃ。わしはそれでもなおもっと欲しいと思う。
今だに満足しないのである」
と答えるのを聞き、亦右衛門は即座に
「それでしたら、どうかこの金を倍増にすることを今日限りにしとうございます。
私たちは元来、命こそが宝であって、命あっての財産と心得ております。
命がなくては財産があっても仕方のないことと心得ています」
と語った。

しかし主人は頭を振り
「いや、わしとお前は心得が違う。
財産を持ってこそ生まれてきた甲斐があるというものである。
命があっても財産がなければ生きがいがない。
欲しい欲しいと思うのは、どこまでも金である」
と言った。

この一言に亦右衛門は、主人の金銭欲の限りがないことに愛想をつかし、
十万両を主人にそのまま返却し、
「今日までのことは奉公の身であったので仰せに背かなかったのですが、
私には別にやりたいことがございますので、お暇乞いをさせていただきたく思います。
お許しを平に願います」
と語り、そのまま主人の家を後にしたのでした。

出家し圓智坊となる

その後、亦右衛門は、若干の財産を所持していたので、
すべてを親類縁者に配り、店をたたみました。
そのあと出家して、大阪で有名な大融寺という寺に入り、
圓智坊という僧侶となりました。
その後京都にのぼり、1つの庵室をこしらえ、日々托鉢して、
一生を平穏に暮らしたのであった。

圓智坊の辞世の句が伝わっています。
おちてゆく 奈落(地獄)の底を のぞき見ん いかほど深き 欲の穴ぞと
(出典:『日本偉人信仰実伝』下巻)

最後の辞世の句では、
満たし切れない欲のままに生きた先には、苦しみが待っていると歌われています。

では、欲を満たし続けることは、苦しいのでしょうか。

渇愛の苦しみ

たとえば欲望が満たされない苦しみを、ショーペンハウアーはこのように言っています。

ショーペンハウアーショーペン
ハウアー

富は海水のようなもので、飲めば飲むほど、のどがかわく。これは名声にもあてはまる。
Der Reichtum gleicht dem Seewasser;je mehr man davon trinkt,desto durstiger wird man.
(ショーペンハウアー『幸福について』)

喉が渇いた時、海水を飲めばどうなるでしょうか。
喉の乾きは癒やされることなく、喉の渇きはますます増していくのです。

「富を増やしたい」
「名声が欲しい」
といった欲の心も同じで、満たそうとすればするほど、もっともっとと欲の心は膨らみ、
同じものでは満足できず、新しい刺激を探さなければなりません。

このような欲の心をお釈迦様は「渇愛かつあい」と教えられます。
愛は欲の心です。

人間が満たされない心に苦しむのは、歴史が証明しています。
ノーベル賞を受賞したイギリスの哲学者ラッセルは、以下のように説明しています。

ラッセルラッセル

もし諸君が光栄を望む場合、諸君はナポレオンをうらやむかもしれない。
けれども、そのナポレオンがシーザーをうらやみ、シーザーがアレキサンダー大王をうらやみ、さらに、アレキサンダー大王が、あえて言えば、実在の人物ならぬヘルキュレスをうらやんだとしたら?
だから、成功ということだけによって、嫉妬からのがれることは、諸君には金輪際、できないのである。
なぜなら歴史や伝説のなかにはいつでも諸君よりもはるかに成功した人間が幾人もいるのだから。

(B・ラッセル『幸福論』堀秀彦翻訳)

ナポレオンもシーザーもアレキサンドリアも、嫉妬という欲の心から逃れられず苦しんでいたのです。

渇ききった心を潤し、落ち着かせるためには、どのようにすればいいのでしょうか。

「足るを知る」の効能

満たしきれない心を潤すには、意識の変化が大事になります。
それは「足るを知る」という意識を持つこと。
もっとお金があれば、もっと名誉があればという欲に振り回されず、
欲を満たすだけでは幸せになれないことに気づき、
今のままで十分足りている、幸せである
というマインドセットにシフトさせましょう。
そのことをこのように書いている本もあります。

誰でもが、喜びに満ち足りた人生、幸福感にあふれた人生を実現したいと願っていると思います。
そんなすばらしい人生を実現するコツも、「意識の持ち方」にあります。
そして、そのコツとは「足るを知る」ということなのです。
つまり、「満足する」ということです。
たとえば「コップ半分」の水であっても、「まだ半分も水がある」と満足する気持ちを持つということです。
この「足るを知る」という意識を持つと、心の中に喜びや幸福感、そして安らぎがあふれてくるのです。

このように、幸福感は意識の持ちようによっても変わります。

この「足るを知る」の実践の形として、
断捨離」「ミニマリスト」「シンプリスト」があげられます。
シンプリスト」はまだあまり流行していませんが、
断捨離」は2010年頃から、「ミニマリスト」は2014年くらいから流行った言葉です。

2010年〜2023年の検索動向
青が「断捨離」キーワードの検索動向。
赤が「ミニマリスト」の検索動向。
黄が「シンプリスト」の検索動向。

検索動向

(出典:Googleトレンド


それぞれの言葉の意味を説明します。

断捨離

断捨離」という言葉は、やましたひでこ氏が提唱し、
2009年に出版した『新・片付け術 断捨離』がヒットしたことで
言葉自体が有名になりました。
2010年には流行語大賞にノミネートされています。

断捨離」とは、不要な物を処分するだけでなく、
物にとらわれずに身軽に生きていこうとする考え方です。
一言でいえば、以下の3つを行うことです。

  • 不要な物をいれない(断行)
  • 不要な物を捨てる(捨行)
  • 執着やこだわりから離れる(離行)

この断捨離も、結局は足を知るということです。

ミニマリスト

次に少し時代が進み、2014年頃になると「ミニマリスト」が流行り、
2015年には流行語大賞にもノミネートされました。

ミニマリスト」とは、物を減らして衣食住に必要な最低限の物だけで暮らすライフスタイルやその実践をする人を指します。
時代背景として、人々が「大量消費社会で消費することに疲れた」とか「モノ消費ではなくコト消費への転換した」ため
このような言葉が出てきたとも言われます。
このミニマリストも、つまりは「足るを知る」を実践する人のことを表しています。

シンプリスト

さらに「シンプリスト」というキーワードは、たまに取り上げられるキーワードです。
シンプリスト」は、できるだけ単純で、素朴な生活を目指す人を指します。
目的は、減らすことではなく、「気に入っているものだけ」でシンプルに暮らすという点で、
断捨離やミニマリストとの違いが説明されます。

シンプル」「必要最小限」「不要なもの」の定義は曖昧で、自分の受け止め方次第となりますので、
結果的には、似たような生き方となりやすいです。
しかし、どれも「足るを知る」の考え方に根ざした生き方と言っていいでしょう。

ところが、「足るを知る」を誤解している人があります。

「足るを知る」の誤解

「足るを知る」が、今の自分に満足する、欲を出さないという意味だと聞くと、
我慢や妥協をすること
向上心とやる気を抑制していこう
とネガティブに受け止める人がいます。
足るを知る」を実践すれば、努力をせず、不幸な生き方になると思う人もあります。

しかし、これは完全な誤解です。

足るを知る」の考え方は、今の等身大の自分に目を向け、自分の良さに気づきなさいということです。
自分の良さに気づけば、自分に足りないものにばかり目を向け落ち込み続けることがなくなります。
また必要以上にお金や名誉などを欲しがらなくなり、欲に振り回されなくなります。

そして、今の自分自身の良さを見つめた時、感謝の心が起きます。
なぜなら、多くの人たちのお陰で今の自分があることに気づき、
ありがたい」と満足できるからです。

財産や名誉がなくても、感謝の心がある人は、幸福になれます。
一方で「世界で最も不幸な人は、感謝の心がない人である」といわれます。
どんなにたくさんのお金や物に恵まれていても、それに感謝できなければ、幸せにはなれないのです。
逆に「足るを知る」の生き方ができる人は、感謝の心が生まれ、幸福な人になれるのです。

足るを知る」は、辞書では老子の言葉となっていましたが、実は仏教でも教えられます。

仏教のいう「足るを知る」

例えば、京都の観光名所でもある臨済宗妙心寺派龍安寺の蹲踞つくばいに「足るを知る」と彫られていることでも有名です。
蹲踞つくばい とは、下の写真の、手を清めるために置かれた低い手水鉢です。
この蹲踞に彫られているのは、正確にいえば、4文字の口の部首を共通にした「吾唯足知」( われただ、足るを知る)という言葉です。
ですが、ここから「足るを知る」が全国に知られるようになったともいわれます。

蹲踞

蹲踞(出典:大雲山龍安寺


お経の根拠

この「足るを知る」は、お経の中に根拠がありますので、以下で紹介します。

汝ら比丘、もし諸の苦悩を脱せんと欲せば、まさに足るを知るを観ずべし。
足るを知るの法は、すなわちこれ富楽安穏のところなり。
足るを知るの人は地上に臥すといえども、なお安楽なりとす。
足るを知らざる者は、天堂におるといえども、また意に称わず。
足るを知らざる者は、富むといえどもしかも貧し。
足るを知るの人は、貧しといえどもしかも富めり。
足るを知らざる者は、常に五欲に牽かれて、足るを知る者のために憐愍せらる。
これを知足と名づく。

(漢文:汝等比丘 若欲脱諸苦惱 當觀知足 知足之法即是富樂安隱之處 知足之人雖臥地上猶爲安樂 不知足者雖處天堂亦不稱意 不知足者雖富而貧 知足之人雖貧而富 不知足者常爲五欲所牽 爲知足者之所憐愍 是名知足)

これは、どういう意味かというと
諸々の苦悩は、貪欲(欲の心)から起こるのであるから
足るを知る」の真理をあきらかに見なさい。
足るを知る」の真理は、貧ではなく、苦ではなく、不安でも不満でもなく、
つまり富楽安穏の場所である。
足るを知る人は、人間界の家屋もなく大地の上で伏していても、そこが安らかで楽しい場所となり、
足るを知らない人は、六道の中で最も優れた天上界の殿堂にいたとしても、満足に思わない。
足るを知らない人は、どれほど財産や資産があっても心は貧賤であり、
足るを知る人は、何も持っておらず貧しくとも、心は富貴なのである。
足るを知らない人は、常に五欲を満たすことにとらわれているので、
足るを知る人から見たら「情けない」と憐れまれるのである。
これを「足るを知る」という。

この『遺教経ゆいきょうぎょう』のお言葉の最後の方は、よく
不知足の者は富めりといえどもしかも貧し、知足の人は貧しといえどもしかも富めり
という言い方もされています。

ちなみに「五欲」については、こちらの記事をお読みください。
欲(五欲)の仏教的意味と欲望への対処法を解説

お釈迦様は「足るを知る」人は、「富楽安穏」(貧しくなく、苦しくなく、危険に恐れのない)の心になれると教えられます。

私たちは、みんな貧しさや苦しさ、不安で不満なことを避けて、
幸福(富楽安穏)を求めて生きています。
しかし足るを知らない人は、金殿に住んでも、次は翡翠の御殿に住みたいとなり、
その次は瓊宮(玉でできた御殿)に住みたいと、際限なく求めてしまうので、
どこに住んだとしても幸福になることはありません。

一方で、足るを知る人はこれとは全く逆に、
ホームレスで住む場所がなくても、今いるその場所で幸せなのです。

昔、中国の晋の王戎おうじゅうは、天子・皇帝に次ぐ三公の位に上りつめ、巨万の富を得ましたが、
それでも常にそろばんをうって財産を数えていました。

一方孔子の弟子に、非常に貧しい暮らしをしている顔回がいました。
顔回に対して孔子は、
「賢なるかな回や。
一箪いったん
、 一ぴょういん陋巷ろうこう在り。
人はうれいに堪えず。回や其の楽しみを改めず」
と言っています。

「賢いな、顔回。
毎日、竹器一杯だけのご飯、ひさごのお椀一杯だけの飲み物しか食べられない暮らしで、
狭い路地奥に住んでおり、普通の人は、その貧しさに耐えられないだろう。
ところが顔回は、その暮らしでも自分の楽しみを貫いている」
と褒めているのです。

目で美しいものを見て、耳で楽しい音楽を聞き、
鼻で良い香り嗅ぎ、口で美食を味わい、身に美しい服を着たいと、常に思い、
心が財や名誉など外部のものばかりを追い求めるので、少しも落ち着くことがないと教えられています。

仏教で教えられる、
「足るを知る」ことがなければ、どれほどお金や財産に恵まれても貧しく、
「足るを知る」人は、お金や財産がなくても、心は豊かだということは、
この話からも分かります。

ここまでは、お釈迦様の教えと老子の思想に、明確な違いは分からないと思います。
では一体、仏教と老子の思想はどこに違いがあるのでしょうか。

仏教と老子の違い

中国に仏教が入ってきたばかりの頃、
もともと中国にあった老荘思想の言葉で、
新しく入って来た仏教の意味を解釈しようという動きがありました。
これを格義かくぎ仏教と言います。

例えば、くうを無と解釈し、
菩提ぼだいを道と解釈し、
涅槃ねはんを無為と解釈しました。

仏教 老荘思想
菩提
涅槃 無為

それによって、仏教が分かりやすく中国に伝えられたというメリットはあったものの、
仏教の正しい内容が分からなくなってしまいました。

やがて、鳩摩羅什くまらじゅうなどの有能な翻訳家が現れ、
仏教の翻訳や研究が盛んになると、
仏教と老荘思想は全く内容が異なることが分かり、
格義仏教は役目を終えます。

仏教と老荘思想にどんな違いがあるかといえば、
例えば、仏教ではごうを教えますが、老子は教えません。

業による違い

このことについて、例えば、日本の禅宗の僧侶である夢窓国師むそうこくし夢窓疎石むそうそせき)は、次のように仏教と老荘思想の違いを書いています。

荘子等は、前世の業因によれる事を知らざるが故に、貧富貴賎は皆これ自然なりと思えり、
仏教にはしからず、前世の悪因によりて悪果を得たる人、この理を知りて、今生に悪業を造らずば、当来必ず善果を得べし

これはどういう意味かというと、
荘子や老子は、前世の行い(業因)が原因だと知らないために、
今生の貧富や身分の高い低いは、皆自然に決まっている(運命論)と考えている。
仏教はそうではない。
前世の行いにより、今不幸になっている人は、
この因果の道理を知って、今生で悪い行いをせず、
善い行いをすれば将来必ず善果を得るのだ、ということです。

ちなみに因果の道理(因果応報)については、こちらの記事をご覧ください。
因果応報とは?意味を分かりやすく恋愛の実話を通して解説

足るを知る」についても、老子はそのような、人間の作為のない状態を目指しています。
「足るを知る」は老荘思想の目指す、作為のない状態の表現の一つです。

それに対し、仏教で「足るを知る」ことを教えられるのは、
煩悩ぼんのうを抑え、欲により悪業を造らないように、
という違いがあります。

さらに大きな違いとして、
老荘思想では、「足るを知る」は目指すべき目的地ですが、
仏教で煩悩を抑え、「足るを知る」人となりなさいと教えられるのは、
それが目的地だからではありません。
さらにそれよりはるかに素晴らしい、
足るを知る」とは比較にならない幸せがあると教えられています。
それが 煩悩即菩提ぼんのうそくぼだいという幸せです。

煩悩即菩提の幸福とは

では「足るを知る」を超える、
煩悩即菩提」とは、どのような幸せなのでしょうか。

欲の心

まず煩悩とは、私たちを「」わせ「」ませるものです。
煩悩は108つあり、煩悩の中でも代表的な心に「欲の心」があります。
これは足るを知らざる心であり、あれが欲しい、これが欲しい
もっと欲しい、珍しいものが欲しい、と際限なく求めてしまう心です。

上記でも説明したとおり、私たちは欲の心に振り回され苦しんでいます。
この欲の心を何とか抑えようとして、「足るを知る」人になろうとしますが、
真剣にやればやるほど「足るを知る」人になれないことが知らされてきます。

仏教では、それは人間が「煩悩具足」だからだと教えられます。

煩悩具足

具足とは「それでできている」「塊である」ということです。
私たちは煩悩の塊だと教えられ、
これらの煩悩はなくせないと教えられています。

では欲などの煩悩を抑えられないし、なくすこともできない
足るを知らざる人」はどうしたら幸せになれるのでしょうか。

煩悩をなくせないのであれば、煩悩あるがまま幸せになるしかありません。
そのような幸せはどこにあるのでしょうか。

煩悩あるがままの幸福

仏教には、煩悩あるがまま幸せなれると、
維摩経ゆいまぎょう』というお経に説かれています。

煩悩を断ぜずして涅槃に入る。
(漢文:不斷煩惱而入涅槃)

煩悩を断ち切ることなく、涅槃に入ることができるのです。

煩悩をなくすことができなければ、
煩悩をそのまま転じて、幸せになるしかありません。
煩悩即菩提の「」とは、そのまま転ずるということです。
煩悩はそのままで、喜びの元に転じ変わるのが煩悩即菩提です。
それは、煩悩によって崩れることも、色あせることもない、変わらない幸せです。

仏教で、足るを知ることを教えられるのは、
この煩悩即菩提の境地へ導くための、一時的な手段なのです。

足るを知らざる人が煩悩即菩提の幸せになる方法

今回は、「足るを知る」の言葉を解説しました。

足るを知る」という言葉は、
身分相応に満足する
すでに足りていることを知り、何事にもありがたみをもつ
という意味で使われます。
よく言われる「断捨離」「ミニマリスト」「シンプリスト」の生き方はこれが当てはまります。

この「足るを知る」の由来は、老子といわれることもありますが、
仏教でも教えられています。

老子は「足るを知る」の言葉で「何を持たなくても、今の自分に満足せよ」と教えますが、それは欲が悪だからではなく、ただそれが自然だと考えるからです。
それを超える境地も特にありません。

仏教でも、際限のない欲に振り回されず、
幸せな人になるには、「足るを知る」人になりなさいと教えられます。

しかしそれには深い意味があります。、
欲を抑え、真剣に「足るを知る」人になろうとすると、
なかなか欲を抑えられない自分が分かります。
仏教で「足るを知る」人になりなさいと教えられるのは、
実践して、足るを知る人になれない自己を知らされなさい、ということです。

では、欲を抑えられず、煩悩によって苦しみ続ける人は、
幸せになれないのでしょうか。

そのような者に対して、
仏教では煩悩即菩提という、煩悩がそのまま転じた幸せがあると教えられます。
煩悩即菩提の幸せとはどのようなものか、また煩悩即菩提の幸せになる方法については、
メール講座にて分かりやすくまとめておきました。
一度見ておいてください。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生

日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。

仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能

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