仏教の教えの基本を簡単に解説

仏教にはたくさんのお経があり、漢字ばかりで説かれています。
内容も非常に深く、たくさんの宗派に分かれていて、初めての人にとっては、どこから手をつけていいのか分かりません。
そこで、仏教の教えの基本を簡単に解説します。

仏教の大きな2つの山

仏教」とは、「仏の教え」、「仏の説かれた教え」ということです。
仏とは、約2600年前、インドで活躍された、お釈迦さまのことです。
お釈迦さまが35歳で仏という大宇宙最高の悟りを開かれてから、
80歳でお亡くなりになるまでの45年間、説かれた教えを仏教といいます。

その教えは、今日お経として書き残されています。
それらのお経は、全部合わせると、一切経七千余巻といわれるたくさんのお経です。
その一切経に説かれていることを読めば、仏教の教えを知ることができます。

ところが、一切経は、あまりにもたくさんありますので、
木を見て森を見ず、森を見て山を見ず
といわれるように、細かい所にとらわれると、全体が分からなくなります。

まず、仏教には何が教えられているかというと、一言でいうと、すべての人が本当の幸せになれる道です。
その「すべての人が本当の幸せになれる道」には、どんな山があるのかというと、2つの大きな山があります。
1つ目は、目的地である本当の幸せ、
2つ目は、目的地へ導くための道のりです。

それぞれどんなことが教えられているのでしょうか?

仏教の目的地

仏教の目的地である本当の幸せは、
絶対変わらない幸せですので、今日の言葉でいえば、絶対の幸福です。

仏教を聞かなければ絶対の幸福があることも分かりませんので、私たちが求めている幸せは、続かない幸せです。
お金や財産、地位、名誉など、手に入れたときは喜べるのですが、この世は諸行無常の世界です。この世のすべては続きませんので、喜びは一時的で、すぐに色あせてしまいます。
どんなに努力して手に入れたものも、すぐに満たされなくなり、ワンランク上のものが欲しくなります。
そして、次の幸せを目指して苦労しなければなりません。
そしてそのワンランク上のものを手に入れても、喜びは一時的で、すぐにまた、さらにワンランク上のものが欲しくなります。
どこまで行ってもこの繰り返しです。
私たちの命には限りがありますので、これを繰り返しているうちに一生が終わってしまいます。

このような続かない幸せは、どこまで求めても、これで満足したということがありませんから、死ぬまで求め続け、苦しみ続けなければならないのです。
そして最後死んで行くときには、必死でかき集めたお金も財産も、何一つ持っては行けません。
一生を費やして手に入れたものをすべて置いて、死んで行くのです。

このように、変わらない幸せを知らず、続かない幸せばかりを求めて苦しんでいる人に、絶対の幸福を教えられたのが仏教です。

すべての人は幸福を求めて生きていますが、それは儚く消える続かない幸せではありません。すべての人が求めているのは、変わらない幸せですから、この絶対の幸福が、本当の生きる目的なのです。

言葉を離れた絶対の世界

ところが、絶対の幸福は、知らない人に言葉で説明することができません。
ちょうど、タピオカを食べたことのない人に、タピオカの味を説明することができないようなものです。

言葉では表現できないので、相手の知っている、似たようなもので説明します。
ナタデココみたいな味だよ」といっても、ナタデココとは味が違います。
こんにゃくみたいな味だよ」といっても、こんにゃくの味とも違います。
アロエみたいな味だよ」といっても、アロエも味が違います。
白玉みたいな味だよ」といっても、白玉とも違います。
わらびもちみたいな味だよ」といっても、わらびもちとも違います。
ぶどうみたいな味だよ」といっても、ぶどうとも違います。
似たようなもので表現しようとしても、表現できません。

しかし、言葉で表現できなくても、一口食べれば分かります。
分かるのは、チュルッとタピオカを食べた瞬間です。
そして、タピオカを食べた人からすれば、
これ美味しいよ、食べてみなよ、食べたら分かるよ
と言わずにおれなくなります。

しかし味を聞かれても、タピオカの味はタピオカの味としかいいようがありません。
もし強いて正確にタピオカの味を言うとすれば、ナタデココに非ず、こんにゃくに非ず、アロエに非ず、白玉に非ず、わらびもちに非ず、ぶどうに非ず、と「非ず」で表現するしかありません。

このような続かない幸せである食べ物の味でさえ表現できないのに、ましてや絶対変わらない絶対の幸福の体験です。
絶対の幸福は、絶対の世界であり、言葉を離れた世界なので、本来、言葉で表現できるものではないのです。
しかし、言葉で言い表せないからといって、言葉を遣わなければ、伝えることはできません。
その絶対の世界を、仏教では色々な言葉で表そうとされています。
例えばお経に「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」と説かれていますが、これは、がちっとおさめとって捨てられないという意味です。
無碍の一道(むげのいちどう)」というのは、一切のさわりがさわりとならないたった一つの世界です。
しかし最後は、言葉では言い表せない世界です。
例えば仏教に教えられた絶対の幸福になられた親鸞聖人は、色々な言葉で教えられていますが、最後はこう言われています。
行に非ず・善に非ず、
頓に非ず・漸に非ず、
定に非ず・散に非ず、
正観に非ず・邪観に非ず、
有念に非ず・無念に非ず、
尋常に非ず・臨終に非ず、
多念に非ず・一念に非ず。
ただこれ不可思議・不可称・不可説の信楽なり

このように一切の人智を否定された、説くことも言うことも想像もできない絶対の世界が仏教に説かれる目的地なのです。
言葉を離れた世界ですから、言葉にとらわれている間はまだその世界に出ていないということです。

目的地へ導く道のり

このように仏教には、すべての人の生きる目的である、絶対の幸福が教えられています。
しかし、あとは自分で頑張れと言われても、私たちは絶対の幸福になれません。
仏教では、絶対の幸福を明らかにされ、絶対の幸福の世界へ何とかすべての人を導こうと教えを説かれているのです。
言葉を変えれば、生きる目的と、それを果たす道のりを教えられています。
その絶対の世界への道のりが、仏教に説かれる2つ目の大きな山です。

ところが、お釈迦さまは絶対の幸福へ導こうとされているのですが、価値観は人それぞれですから、何を信じて幸せになろうとしているかは、人によって違います。

お金を信じて幸せになろうとしている人もあります。
妻や夫、子供を信じて幸せになろうとしている人もあります。
仕事を信じて幸せになろうとしている人もあれば、
趣味や生きがいを信じて幸せになろうとしている人もあります。
中には死んだ人や動物を神と信じて幸せになろうとしている人もあれば、
人間の妄想が生みだしたを信じて幸せになろうとしている人もあります。
何かのイデオロギーを信じて幸せになろうという人もあれば、
自分の信念や能力を信じて幸せになろうとしている人もあります。
何を信じるかは人それぞれ違いますが、みんな何かを信じて幸せになろうとしています。

色々な価値観を持った人がいますが、それらの信じているものは、いずれもすぐに色あせる、続かない幸せです。
やがて必ず裏切られて、苦しまなければなりません。
このような私たちを、お釈迦さまはどのように導かれているのでしょうか?

お釈迦さまの導くための手段

お釈迦さまは、このような色々な価値観で続かないものを信じて苦しみ続けている私たちを、決して変わることのない、絶対の幸福まで導くために、まず因果の道理を教えられています。

因果の道理とは、「すべての結果には必ず原因がある」ということです。
これには、どんな人も納得せざるを得ません。
全人類を因果の道理で統合されているのです。

すべての結果には必ず原因がある」ということは、私たちの幸福や不幸という結果にも、必ず原因があります。
その原因と結果の関係を、お釈迦さまはこう説かれています。
善因善果(ぜんいんぜんか)
 悪因悪果(あくいんあっか)
 自因自果(じいんじか)」
これは、善い行いは善い結果、悪い行いは悪い結果を引き起こす、
自分のまいたたねは自分が刈り取らなければならない、ということです。

自分の幸せは、自分の善い行いが生みだし、
不幸や災難は、自分の悪い行いが生みだしたものだということです。

仏教の根幹は因果の道理ですから、因果の道理が分からなければ仏教は分かりません。
この因果の道理が知らされれば、必ずをやめて、に向かおうとします。

釈迦一代の教えは、一言でいうと、「廃悪修善(はいあくしゅぜん)」なのです。
廃悪修善とは、悪をやめて、善に向かいなさい、ということです。

これは、お釈迦さまだけでなく、仏のさとりを開かれた方が共通して説かれる教えです。
有名な七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)にはこう教えられています。
諸悪莫作(しょあくまくさ)
 衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)
 自浄其意(じじょうごい)
 是諸仏教(ぜしょぶっきょう)」
これは、もろもろの悪をなすことなかれ
もろもろの善を行じたてまつれ
自らその意をきよくせよ
これ諸仏の教えなり、ということです。
この教えの通りに進んで行くとどうなるのでしょうか?

教えの通りに実行すると?

善いことすれば善い結果、悪いことすれば悪い結果
というのは、頭で理解するだけなら簡単です。
子供でも知っています。
ところが、これを信じて実行するということになりますと、大変です。
私たちは自惚れていますから、やろうと思えば簡単だと言って、やろうとしないのです。
また、自惚れ強い私たちは、善いたねをまいたら善い結果がくるのならすぐに信じられます。
自分が頑張ったのだからもっと善い結果が来ていいのに、少ないのではないかと思います。

ところが悪因悪果は受け入れられません。
自分に不幸や災難がきたときは、自分のたねまきが生みだしたと心から思えるでしょうか。
あいつのせい、こいつのせいだと他人のせいにします。
自分の行いを反省できないということは、因果の道理が分かっていないのです。
私たちがすぐに教えの通りにするなら、お釈迦さまは1回説かれればよかったのですが、実行しないので、お釈迦さま45年間、因果の道理を説き続けられ、一切経はその数七千余巻になったのです。

こうして仏教を聞いて、教えの通りに進んでいきますと、仏教を聞かなければ知らなかった、怒り愚痴煩悩でできた本当の自分の姿が知らされてきます。
だから、因果の道理を1回聞いて、それは聞いたことがあるからもう聞かなくていい、というものではありません。
因果の道理がよく分からなければ、本当の自分の姿も分かりませんし、死んだらどうなるかも分かりません。
因果の道理が知らされて、自分の姿が知らされてくると、この世も未来もいい結果が来るはずないと知らされてきますので、ますます善に向かおうとします。

そして最初は自覚がありませんが、進んで行くと、だんだんと私たちが幸せになれない根本原因である、苦悩の根元が知らされてきます。
こうして仏教を聞いて教えの通りに進んで行き、最後、苦悩の根元が断ち切られた瞬間に、絶対の幸福になれるのです。
仏教に説かれた目的地である、言葉を離れた絶対の世界に出ることができます。
仏教を聞けば、どんな人でも、生きているときに、この絶対の幸福の世界に出ることができるのです。

このように、仏教の教えには2つの大きな山があります。
1つ目は目的地、2つ目は道のりです。
言葉をかえれば、本当の生きる目的と、どうすればその目的を果たせるか、ということです。
この両方を知らなければなりません。

では仏教を聞いて進んで行くと知らされてくる、苦悩の根元とは何か、
どうすれば苦悩の根元をなくすことができるのかは、
仏教の真髄ですので、小冊子とメール講座にまとめておきました。
一回見てみてください。

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