遺教経とは
『遺教経』は、お釈迦様が80才になられ、2月15日にお亡くなりになる最後の日に説かれた、御遺言といわれるお経です。
特に禅宗で重視されています。
『遺教経』には、一体どんなことが教えられているのでしょうか。
お釈迦様は亡くなられる直前に、何を言い残されたのでしょうか。
全文と現代語訳も掲載しつつ、分かりやすく解説していきます。
遺教経とは
『遺教経』は、一言でいえば、修行や日常生活で重要となる教えが説かれ、最後に智慧の光によって無明の闇が破られ、早く解脱をうるよう勧められています。
『遺教経』とはどんなお経なのか、チラッと仏教の辞典で確認してみるとこう書かれています。
遺教経
ゆいきょうぎょう
詳しくは<仏垂般涅槃略説教誡経>といい、<仏遺教経>ともいう。
鳩摩羅什訳。
1巻。
経末に「これ我が最後の教誨するところなり」とあって、釈尊が入滅に臨んで垂れた最後の説法をその内容とする。
禅宗で特に重んじて、仏祖三経(他の二経は<四十二章経>と『潙山警策』)の一つとする。(引用:『岩波仏教辞典』第三版)
仏教辞典も確かに間違いではありませんが、
『遺教経』の内容はほとんど分かりませんので、
全文の漢文、書き下し文に加えて現代語訳をして、分かりやすく解説していきます。
タイトルの意味
『遺教経』は、『仏遺教経』ともいわれますが、正確には、『仏垂般涅槃略説教誡経』といわれます。
『仏垂般涅槃略説教誡経』というお経のタイトルはどういう意味かというと、「垂般涅槃」とは、完全な涅槃に臨んで、という意味です。
お釈迦様が35才で仏のさとりを開かれても、まだ肉体があるので、完全な涅槃ではありません。
病気になったり、肉体に縛られる面があります。
それが肉体が失われると、完全な涅槃に至ります。
お釈迦様が最後に説かれたお経は、『涅槃経』ということで間違いないのですが、
さらに、亡くなられる当日、これから完全な涅槃に至るに臨まれて、言い残されたことがあります。
ですが、もう詳しいことを話している時間がないので、
短い言葉で重要なところを教え戒められた、つまり「略説教誡」されたわけです。
それが『仏垂般涅槃略説教誡経』、『遺教経』として
一つのお経になっています。
おおまかな内容
『遺教経』の翻訳者は三蔵法師の中でも特に有名な鳩摩羅什です。
他にも『阿弥陀経』『法華経』『維摩経』等を翻訳しています。
鳩摩羅什は西域の出身で、中国語はネイティブではないにもかかわらず、
驚くべき非常に美しい漢文となっています。
ただ、サンスクリット本は、失われてしまっています。
全体をおおまかに言えば、
お釈迦様がこの世の最後の日、沙羅双樹の間に横たわられて、まさに涅槃の雲に隠れられようとしている時、その場の弟子たち、及び後世の人たちに対して最後の説法をされたというものです。
そしてお釈迦様が亡くなられた後、特に大切にすべきは、波羅提木叉(戒律)であり、八大人覚といわれる少欲、知足、寂静、正念、正定、精進、正慧、無戯論の8つであると説かれています。
最後には、老病死の苦しみの海を渡す
智慧
の船があるから、早く仏教を聞いて智慧をえて、本当の幸せになるように、と遺言されています。
三経の1つ
『遺教経』は、短くて分かりやすく、実践的なので、
『四十二章経』と『遺教経』『八大人覚経』の3つで「三経」といわれることがあります。
さらに禅宗では、『八大人覚経』の代わりに『潙山警策』を入れて、
「仏祖三経」の1つとされています。
仏祖三経はつまり、『四十二章経』、『遺教経』と『潙山警策』です。
その結果、禅宗では日常的に読まれるお経となり、解説もたくさん出ています。
遺教経の構成
『遺教経』の構成は、このようになっています。
- 序分
- 正宗分
- 世間法要
- 邪業を対治する法要
- 根本清浄戒を明かす
- 方便遠離戒を明かす
- 戒の能く功徳を生ずることを明かす
- 戒を修すれば利益あることを勧説す
- 諸苦を対治する法要
- 五根放逸の苦の対治を明かす
- 多求の苦の対治を明かす
- 懈怠睡眠の苦の対治を明かす
- 煩悩を対治する法要
- 瞋恚の煩悩の対治を明かす
- 貢高の煩悩の対治を明かす
- 諂曲の煩悩の対治を明かす
- 出世間法要
- 少欲の功徳
- 知足の功徳
- 寂静の功徳
- 精進の功徳
- 正念の功徳
- 禅定の功徳
- 智慧の功徳
- 無戯論の功徳
- 流通分
- 勧修流通
- 証決流通
- 断疑流通
- 余疑を顕示することを明かす
- 彼々の疑を断ずることを明かす
- 重ねて有為無常の相を説きて修することを勧む
- 付属流通
通常、お経を解釈する際には、序分(序論)、正宗分(本論)、流通分(結論)の三段構成となります。
これは三分法と言われ、一般的にお経はそのように解釈されます。
『遺教経』では、さらにその中をもう少し細かい科段に分けて、七段構成となっています。
- 序分
- 世間法要
- 出世間法要
- 勧修流通
- 証決流通
- 断疑流通
- 付属流通
それぞれ、どんなことが説かれているのでしょうか。
遺教経全文
以下が、『遺教経』の全文です。
ここでは分かりやすいように、現在使われている漢字で表記してあります。
釈迦牟尼仏初転法輪。度阿若憍陳如。最後説法度須跋陀羅。所応度者皆已度訖。於娑羅双樹間将入涅槃。是時中夜寂然無声。為諸弟子略説法要。
汝等比丘。於我滅後当尊重珍敬波羅提木叉。如闇遇明貧人得宝。当知此則是汝大師。若我住世無異此也。
持浄戒者不得販売貿易。安置田宅。畜養人民奴婢畜生。一切種殖及諸財宝。皆当遠離如避火坑。不得斬伐草木墾土掘地。合和湯薬占相吉凶。仰観星宿推歩盈虚暦数算計。皆所不応。節身時食清浄自活。不得参預世事通致使命。呪術仙薬。結好貴人親厚媟嫚。皆不応作。当自端心正念求度。不得苞蔵瑕疵顕異惑衆。於四供養知量知足。趣得供事不応稸積。
此則略説持戒之相。戒是正順解脱之本。故名波羅提木叉。依因此戒得生諸禅定及滅苦智慧。
是故比丘。当持浄戒勿令毀犯。若人能持浄戒是則能有善法。若無浄戒諸善功徳皆不得生是以当知。戒為第一安隠功徳之所住処
汝等比丘。已能住戒当制五根。勿令放逸入於五欲。譬如牧牛之人執杖視之。不令縦逸犯人苗稼。若縦五根。非唯五欲将無崖畔不可制也。亦如悪馬不以轡制。将当牽人墜於坑陥。如被劫害苦止一世。五根賊禍殃及累世。為害甚重。不可不慎。是故智者制而不随。持之如賊不令縦逸。仮令縦之。皆亦不久見其磨滅。
此五根者心為其主。是故汝等当好制心。心之可畏甚於毒蛇悪獣怨賊大火越逸。未足喩也。動転軽躁但観於蜜不見深坑。譬如狂象無鉤。猿猴得樹騰躍跳躑難可禁制。当急挫之無令放逸。縦此心者喪人善事。制之一処無事不辦。是故比丘。当勤精進折伏其心
汝等比丘。受諸飲食当如服薬。於好於悪勿生増減。趣得支身以除飢渇。如蜂採花但取其味不損色香。比丘亦爾。受人供養取自除悩。無得多求壊其善心。譬如智者籌量牛力所堪多少。不令過分以竭其力
汝等比丘。昼則勤心修習善法無令失時。初夜後夜亦勿有廃。中夜誦経以自消息。無以睡眠因縁令一生空過無所得也。当念無常之火焼諸世間。早求自度勿睡眠也。諸煩悩賊常伺殺人甚於怨家。安可睡眠不自驚寤。煩悩毒蛇睡在汝心。譬如黒蚖在汝室睡。当以持戒之鉤早摒除之。睡蛇既出乃可安睡。不出而眠是無慚人也。慚恥之服。於諸荘厳最為第一。慚如鉄鉤能制人非法。是故比丘。常当慚恥。無得暫替。若離慚恥則失諸功徳。有愧之人則有善法。若無愧者。与諸禽獣無相異也
汝等比丘。若有人来節節支解。当自摂心無令瞋恨。亦当護口勿出悪言。若縦恚心則自妨道失功徳利。忍之為徳持戒苦行所不能及。能行忍者乃可名為有力大人。若其不能歓喜忍受悪罵之毒如飲甘露者。不名入道智慧人也。所以者何。瞋恚之害能破諸善法壊好名聞。今世後世人不憙見。当知瞋心甚於猛火。常当防護*無令得入。劫功徳賊無過瞋恚。白衣受欲非行道人。無法自制。瞋猶可恕。出家行道無欲之人。而懐瞋恚甚不可也。譬如清冷雲中霹靂起火非所応也
汝等比丘。当自摩頭。已捨飾好著壊色衣。執持応器以乞自活。自見如是。若起憍慢当疾滅之。謂長憍慢尚非世俗白衣所宜。何況出家入道之人。為解脱故自降其心而行乞耶。
汝等比丘。諂曲之心与道相違。是故宜応質直其心。当知諂曲但為欺誑。入道之人則無是処。是故汝等。宜応端心以質直為本」
汝等比丘。当知多欲之人。多求利故苦悩亦多。少欲之人無求無欲則無此患。直爾少欲尚応修習。何況少欲能生諸善功徳。少欲之人則無諂曲以求人意。亦復不為諸根所牽。行少欲者心則坦然無所憂畏。触事有余常無不足。有少欲者則有涅槃。是名少欲
汝等比丘。若欲脱諸苦悩。当観知足。知足之法即是富楽安隠之処。知足之人雖臥地上猶為安楽。不知足者雖処天堂亦不称意。不知足者雖富而貧。知足之人雖貧而富。不知足者常為五欲所牽。為知足者之所憐愍。是名知足
汝等比丘。若求寂静無為安楽。当離憒閙独処閑居。静処之人帝釈諸天所共敬重。是故当捨己衆他衆。空閑独処思滅苦本。若楽衆者則受衆悩。譬如大樹衆鳥集之則有枯折之患。世間縛著没於衆苦。譬如老象溺泥不能自出。是名遠離
汝等比丘。若勤精進則事無難者。是故汝等。当勤精進。譬如小水常流則能穿石。若行者之心数数懈廃。譬如鑽火未熱而息。雖欲得火火難可得。是名精進
汝等比丘。求善知識求善護助而不忘念。若有不忘念者。諸煩悩賊則不能入。是故汝等。常当摂念在心。若失念者則失諸功徳。若念力堅強。雖入五欲賊中不為所害。譬如著鎧入陣則無所畏。是名不忘念
汝等比丘。若摂心者心則在定。心在定故能知世間生滅法相。是故汝等。常当精勤修習諸定。若得定者心則不乱。譬如惜水之家善治堤塘。行者亦爾。為智慧水故善修禅定令不漏失。是名為定
汝等比丘。若有智慧則無貪著。常自省察不令有失。是則於我法中能得解脱。若不爾者既非道人。又非白衣。無所名也。実智慧者則是度老病死海堅牢船也。亦是無明黒闇大明燈也。一切病苦之良薬也。伐煩悩樹者之利斧也。是故汝等。当以聞思修慧而自増益。若人有智慧之照。雖無天眼而是明見人也。是為智慧
汝等比丘。若種種戯論其心則乱。雖復出家猶未得脱。是故比丘。当急捨離乱心戯論。若汝欲得寂滅楽者。唯当善滅戯論之患。是名不戯論
汝等比丘。於諸功徳常当一心捨諸放逸。如離怨賊。大悲世尊所欲利益皆以究竟。汝等但当勤而行之。若在山間若空澤中。若在樹下閑処静室。念所受法勿令忘失。常当自勉精進修之。無為空死後致憂悔。我如良医知病説薬。服与不服非医咎也。又如善導導人善導。聞之不行非導過也。
汝等若於苦等四諦有所疑者。可疾問之。無得懐疑不求決也」爾時世尊如是三唱。人無問者。所以者何。衆無疑故
爾時阿㝹楼馱観察衆心而白仏言。世尊月可令熱。日可令冷。仏説四諦不可令異。仏説苦諦真実是苦。不可令楽。集真是因。更無異因。苦若滅者即是因滅。因滅故果滅。滅苦之道実是真道。更無余道。世尊。是諸比丘於四諦中決定無疑。
於此衆中。所作未辦者。見仏滅度当有悲感。若有初入法者。聞仏所説即皆得度。譬如夜見電光即得見道。若所作已辦已度苦海者。但作是念。世尊滅度一何疾哉。
阿㝹楼馱雖説是語。衆中皆悉了達四聖諦義。世尊欲令此諸大衆皆得堅固以大悲心復為衆説汝等比丘。勿懐憂悩。若我住世一劫会亦当滅。会而不離終不可得。自利利人法皆具足。若我久住更無所益。応可度者若天上人間皆悉已度。其未度者皆亦已作得度因縁。自今已後。我諸弟子展転行之。則是如来法身常在而不滅也。
是故当知。世皆無常会必有離。勿懐憂也。世相如是。当勤精進早求解脱。以智慧明滅諸痴闇。世実危脆無牢強者。我今得滅如除悪病。此是応捨罪悪之物。仮名為身。没在生老病死大海。何有智者得除滅之如殺怨賊而不歓喜
汝等比丘。常当一心勤求出道。一切世間動不動法。皆是敗壊不安之相。汝等且止。勿得復語。時将欲過我欲滅度。是我最後之所教誨
仏遺教経
これが『遺教経』の全文です。
これは漢文ですので、書き下すとどうなるのでしょうか。
遺教経の書き下し文
次に、以下が『遺教経』の書き下し文です。
これも分かりやすいように、現在使われている漢字の表記になっています。
構成が分かりやすいように科段のタイトルも入れてあります。
【序文】釈迦牟尼仏、初めに法輪を転じて阿若憍陳如を度し、最後の説法に須跋陀羅を度したまう。まさに度すべき所の者は、皆すでに度しおわりて、沙羅双樹の間に於いて、まさに涅槃に入りたまわんとす。この時中夜、寂然として声無かりき、諸の弟子のために略して法要を説きたまえり。
【正宗分】
<世間法要>
(邪業を対治する法要)
○根本清浄戒
汝等比丘、我が滅後に於いて、当に波羅提木叉を尊重し珍敬すべし。闇に明に遇い、貧人の宝を得るが如し。当に知るべし、此れは即ちこれ、汝等が大師なり。若し我世に住するも、此れに異なること無けん。
○方便遠離戒
浄戒を持つ者は、販売貿易し、田宅を安置し、人民、奴婢、畜生を畜養することを得ざれ。一切の種殖及び諸の財宝は、皆当に遠離すること火坑を避くるが如くすべし。
草木を斬伐し、土を墾し地を掘ち、湯薬を合和し、吉凶を占相し、星宿を仰観し、盈虚を推歩し、暦数算計することを得ざれ。皆応ぜざる所なり。身を節し、時に食して、清浄自活せよ。世事に参預し、使命を通致することを得ざれ。呪術仙薬をもって、好み貴人に結び、親厚媟慢すること、皆まさになすべからず。当に自ら端心正念にして度を求むべし。瑕疵を苞蔵し、異を顕わし、衆を惑わすことを得ざれ。四供養に於いて、量を知り足るを知り、趣に供事を得ば畜積すべからず。
○戒能生諸功徳
此れはすなわち略して持戒の相を説く。戒はこれ正順解脱の本なり。故に波羅提木叉と名づく。この戒に因依して、諸の禅定及び滅苦の智慧を生ずることを得。
○説勧修戒利益
この故に比丘、当に浄戒を持し、毀犯せしむること勿るべし。若し人能く浄戒を持すれば、これすなわち能く善法を有するなり。若し浄戒無ければ、諸善功徳皆生ずることを得ず。これを以て当に知るべし。戒を第一安穏功徳の住処となすことを。
(諸苦を対治する法要)
○五根放逸の苦の対治を明かす
・根放逸苦対治
汝等比丘、已に能く戒に住す。当に五根を制して、放逸にして五欲に入らしむること勿るべし。譬えば牧牛の人の杖を執りて之を視、縦逸に人の苗稼を犯さしめざるが如くせよ。若し五根を縦にすれば唯五欲のみに非ず、まさに崖畔無くして、制すべからざらんとするなり。亦、悪馬の轡を以て制せざれば、当に人を牽て、坑陥に墜とさしめんとするが如し。劫害を被るが如きも、苦は一世に止まる。五根の賊禍は、殃累世に及ぶ、害を為すこと甚だ重し。慎まざるべからず。この故に智者は、制して而も随わず。之を持すこと賊の如くにして、縦逸せしめざれ。仮令之を縦にするとも、皆亦久しからずして其の磨滅を見ん。
・欲放逸苦対治
この五根は心を其の主と為す。この故に汝等、当に好く心を制すべし、心の畏るべき毒蛇、悪獣、怨賊よりも甚だし。大火の越逸するも、未だ喩えとするに足らざるなり。動転軽躁して、ただ蜜を観て、深坑を見ざらん。譬えば、狂象の鉤無く、猿猴の樹を得て、騰躍跳躑して、禁制すべきこと難きが如し。当に急に之を挫いで、放逸ならしむること無かるべし。この心を縦にする者は、人の善事を喪う。之を一処に制すれば、事として辦ぜざる無し。この故に比丘、当に勤めて精進して、其の心を折伏すべし。
○多求の苦の対治を明かす
汝等比丘、諸の飲食を受くること、当に薬を服するが如くすべし。好に於て悪に於て、増減を生ずること勿れ。趣に身を支うることを得て、以て飢渇を除けよ。蜂の花を採るに、ただ其の味のみを取りて、色香を損せざるが如し。比丘も亦爾なり。人の供養を受けて、自ら悩を除けよ。多く求めて、其の善心を壊ることを得る無かれ。譬えば智者は牛力の堪うる所の多少を籌量して、分に過ぎて以て其の力を竭さしめざるが如し。
○懈怠睡眠の苦の対治を明かす
汝等比丘、昼はすなわち勤心に善法を修習して、時を失わしむること無かれ。初夜にも後夜にも、亦廃すること有ること勿れ。中夜に誦経して以て自ら消息せよ。睡眠の因縁を以て、一生を空しく過ごして、所得無からしむる無かれ。当に無常の火の諸の世間を焼くことを念じて、早く自度を求むべし。睡眠すること勿れ。諸の煩悩の賊、常に伺いて人を殺すこと、怨家よりも甚だし。安んぞ睡眠して、自ら驚寤せざるべけんや。煩悩の毒蛇は、睡って汝が心に在り。譬えば黒蚖の汝の室に在りて睡るが如し。当に持戒の鉤を以て、早く之を摒除すべし。睡蛇既に出でなば、乃ち安睡すべし。出でざるに而も眠るは、これ無慚の人なり。慚恥の服は諸の荘厳に於て、最も第一とす。慚は鉄鉤の如く、能く人の非法を制す。この故に比丘、常に当に慚恥すべし、暫くも替つることを得る無かれ。若し慚恥を離るれば、すなわち諸の功徳を失う。有愧の人は、すなわち善法有り。若し愧無き者は、諸の禽獣と相異なること無きなり。
(煩悩を対治する法要)
○瞋恚の煩悩の対治を明かす
汝等比丘、若し人有り来たりて、節々に支解するとも、当に自ら心を摂めて瞋恨せしむること無かるべし。亦当に口を護りて悪言を出すこと勿れ。若し恚心を縦にせば、すなわち自ら道を妨げ、功徳の利を失す。忍の徳たる持戒苦行も、及ぶこと能わざる所なり。能く忍を行ずる者は、すなわち名づけて有力の大人と為すべし。若しそれ、悪罵の毒を歓喜し忍受して、甘露を飲むが如くすること能わざる者は、入道智慧の人と名づけざるなり。所以はいかん、瞋恚の害は、能く諸の善法を破り、好名聞を壊る。今世後世、人見ることを憙ばず。当に知るべし、瞋心は猛火よりも甚だし。常に当に防護して、入ることを得せしむること無かるべし。功徳を劫むるの賊は、瞋恚に過ぎたるは無し。白衣は欲を受く、行道の人に非ざるなり。法の自ら制する無ければ、瞋なお恕すべし。出家は行道、無欲の人にして、而も瞋恚を懐くは甚だ不可なり。譬えば清冷の雲中に、霹靂の火を起こすは、所応に非ざるが如し。
○貢高の煩悩の対治を明かす
汝等比丘、当に自ら頭を摩づべし。已に飾好を捨て、壊色の衣を著し、応器を執持して、乞を以て自活す。自ら見るにかくの如し。若し憍慢を起こさば、当に疾く之を滅すべし。憍慢を増長するは、尚世俗、白衣も宜しき所に非ず。いかに況んや、出家、入道の人、解脱の為の故に、自ら其の心を降して、而も乞を行ずるをや。
○諂曲の煩悩の対治を明かす
汝等比丘、諂曲の心は道と相違す。この故に宜しくまさに其の心を質直にすべし。当に知るべし、諂曲はただ欺誑を為すことを。入道の人は、すなわちこの処無けん。この故に汝等、宜しくまさに端心にして、質直を以て本と為すべし。
<出世間法要>
(少欲の功徳)
汝等比丘、当に知るべし、多欲の人は、利を求むること多きが故に、苦悩も亦多し。少欲の人は、求め無く、欲無ければ、すなわちこの患い無し。直爾に少欲すら、尚まさに修習すべし。いかに況んや、少欲は能く諸善功徳を生ずるをや。少欲の人は、すなわち諂曲して以て人の意を求むること無く、亦また諸根の牽く所と為らず。少欲を行ずる者は、心すなわち坦然として、憂畏する所無し。事に触れて余り有り、常に不足無し。少欲ある者は、すなわち涅槃有り。これを少欲と名づく。
(知足の功徳)
汝等比丘、若し諸の苦悩を脱せんと欲せば、当に知足を観ずべし。知足の法は即ちこれ、富楽安隠の処なり。知足の人は、地上に臥すと雖も、なお安楽と為す。不知足の者は、天堂に処すと雖も、亦意に称わず。不知足の者は、富めりと雖も而も貧し。知足の人は、貧しと雖も而も富めり。不知足の者は、常に五欲の牽く所となり、知足の者のために憐愍せらる。これを知足と名づく。
(寂静の功徳)
汝等比丘、若し寂静無為安楽を求むれば、当に憒閙を離れて独処閑居すべし。静処の人は、帝釈諸天の、共に敬重する所なり。この故に、当に己の衆、他の衆を捨て、空閑に独処して、苦の本を滅せんと思うべし。若し衆を楽う者は、すなわち衆悩を受けん。譬えば大樹も衆鳥之に集まれば、すなわち枯折の患い有るが如し。世間の縛著は衆苦に没す。譬えば老象の泥に溺れ、自ら出づること能わざるが如し。これを遠離と名づく。
(精進の功徳)
汝等比丘、若し勤めて精進すれば、すなわち事として難き者なし。この故に汝等、当に勤めて精進すべし。譬えば小水の常に流るれば、すなわち能く石を穿つが如し。若し行者の心、数数懈廃すれば、譬えば火を鑽るに、未だ熱せずして、而も息めば、火を得んと欲すと雖も、火を得べきこと難きが如し。これを精進と名づく。
(正念の功徳)
汝等比丘、善知識を求め、善護助を求め、而して不忘念あり。若し不忘念有る者は、諸の煩悩の賊、すなわち入ること能わず。この故に汝等、常に当に念を摂めて心に在くべし。若し念を失する者は、すなわち諸の功徳を失す。若し念力堅強なれば、五欲の賊中に入ると雖も、為に害せられず。譬えば、鎧を著て陣に入れば、すなわち畏るる所無きが如し。これを不忘念と名づく。
(禅定の功徳)
汝等比丘、若し心を摂むる者は、心すなわち定に在り。心、定に在るが故に、能く世間生滅の法相を知る。この故に汝等、常に当に精勤して、諸の定を修習すべし。若し定を得る者は、心すなわち乱れず。譬えば水を惜しむ家の、善く堤塘を治するが如し。行者も亦爾なり。智慧の水の為の故に、善く禅定を修して漏失せざらしむ。これを名づけて定と為す。
(智慧の功徳)
汝等比丘、若し智慧有れば、すなわち貪著無し。常に自ら省察して、失うこと有らしめざれ。これすなわち我が法中に於いて、能く解脱を得。若し爾らざる者は、既に道人に非ず、又白衣に非ず、名づくる所無きなり。実智慧の者は、すなわちこれ老病死の海を度る堅牢の船なり。亦これ無明黒闇の大明燈なり。一切病苦の良薬なり。煩悩の樹を伐る利斧なり。この故に汝等、当に聞思修の慧を以て、而も自ら増益すべし。若し人、智慧の照有れば、天眼無しと雖も、而もこれ明見の人なり。これを智慧と為す。
(無戯論の功徳)
汝等比丘、若し種々に戯論せば、其の心すなわち乱る。また出家すと雖も、なお未だ脱することを得ず。この故に比丘、当に急に乱心戯論を捨離すべし。若し汝、寂滅の楽を得んと欲せば、ただ当に善く戯論の患を滅すべし。これを不戯論と名づく。
【流通分】
<勧修流通>
汝等比丘、諸の功徳に於いて、常に当に一心に、諸の放逸を捨つること、怨賊を離るるが如くすべし。大悲世尊の利益したまわんと欲する所は、皆以て究竟せり。汝等、ただ当に勤めて之を行ずべし。若しくは山間に在り、若しくは空澤の中に、若しくは樹下の閑処、静室に在りて、受けたる所の法を念じて、忘失せしむること勿れ。常に当に自ら勉めて、精進して之を修すべし。為すこと無くして空しく死せば、後に憂い悔いることを致さん。我は良医の病を知りて、薬を説くが如し。服すると服せざるとは医の咎に非ざるなり。又善く導くものの、人を善導に導くが如し。之を聞きて行かざるは、導くものの過に非ざるなり。
<証決流通>
汝等、若し苦等の四諦に於いて、疑う所有る者は、疾く之を問うべし。疑いを懐いて決を求めざることを得ること無かれ。その時世尊、かくの如く三たび唱えたまうに、人、問いたてまつる者無し。所以はいかんとなれば、衆疑い無きが故なり。時に阿㝹楼駄、衆の心を観察して、而も仏に白して言さく、「世尊、月は熱からしむべく、日は冷ややかならしむべくとも、仏の説きたまう四諦は、異ならしむべからず。仏の説きたまう苦諦は、真実にこれ苦なり。楽ならしむべからず。集は真にこれ因なり。更に異なる因無し。苦若し滅すれば、即ちこれ因滅す。因滅するが故に果滅す。滅苦の道は、実にこれ真道なり。更に余道無し。
世尊、この諸の比丘、四諦の中に於いて、決定して疑い無し。
<断疑流通>
(余疑を顕示することを明かす)
この衆中に於いて、所作未だ辦ぜざる者は、仏の滅度を見て、当に悲感有るべし。若し初めて法に入ること有る者は、仏の所説を聞きて、即ち皆得度す。譬えば夜、電光を見て、即ち道を見ることを得るが如し。若し所作已に辦じて、已に苦海を度る者は、ただこの念を作さん。『世尊の滅度、一に何ぞ疾かなるや』と」。
(彼々の疑を断ずることを明かす)
阿㝹楼駄、この語を説きて、衆中皆悉く、四聖諦の義を了達すと雖も、世尊、この諸の大衆をして、皆堅固なることを得せしめんと欲して、大悲心を以て、また衆の為に説きたまう。汝等比丘、憂悩を懐くこと勿れ。若し我、世に住すること一劫なるも、会うものは亦当に滅すべし。会いて而も離れざることは、終に得べからず。自利利人の法は皆具足す。若し我久しく住するとも、更に益する所無けん。まさに度すべき者は、若しは天上、人間皆悉く已に度せり。其の未だ度せざる者は、皆亦已に得度の因縁を作す。今より已後、我が諸の弟子、展転して之を行ぜば、すなわちこれ如来の法身、常に在して滅せざるなり。
(重ねて有為無常の相を説きて修することを勧む)
この故に当に知るべし、世は皆無常なり。会うものは必ず離るること有り、憂を懐くこと勿れ。世相かくの如し。当に勤めて精進して、早く解脱を求め、智慧の明を以て、諸の痴闇を滅すべし。世は実に危脆なり。牢強なる者無し。我今滅を得ること、悪病を除くが如し。此れはこれ、まさに捨つべき罪悪の物なり。仮に名づけて身と為す、生老病死の大海に没在せり。何ぞ有智の者、之を除滅することを得て、怨賊を殺すが如くにして、而も歓喜せざらんや。
<付属流通>
汝等比丘、常に当に一心に、勤めて出道を求むべし。一切世間の動不動の法は、皆これ敗壊不安の相なり。汝等、且く止みね、また語うことを得ること勿れ。時、まさに過ぎなんと欲す、我滅度せんと欲す。これ我が最後の教誨する所なり。
仏遺教経
遺教経の現代語訳
次に、『遺教経』の現代語訳は以下の通りです。
こちらも構成が分かりやすいように、科段のタイトルを入れてあります。
【序文】お釈迦様は、最初の説法で阿若憍陳如を済度され、最後の説法では、須跋陀羅を済度なされた。
済度すべき者は皆、済度し終わって、沙羅双樹の間において、今まさに涅槃に入ろうとなされていた。
この時、時間は真夜中で、静粛で些かの喧噪もなかった。
お釈迦様は、現前及び後世の仏弟子たちのために、最後に一代の教えの要点をお説きくだされた。
【正宗分】
<世間法要>
(邪業を対治する法要)
○根本清浄戒
そなた方よ、私がこの世を去った後は、波羅提木叉、すなわち浄戒を最も大事にし、敬いつつしみなさい。
あたかも、闇夜に明かりに遇ったように、貧しい人が宝を得たように、敬虔に奉じなさい。
この浄戒こそ、そなた方が従うべき大師である。
もし私がこの世に生きていても、この戒と異なる教えを説くことはない。
○方便遠離戒
浄戒を保持する者は、商品を販売したり、取引をするなどの商売をしてはならない。
田畑や家屋を所有してはならない。
小作人や奴隷を雇ったり、家畜を育てたりしてはならない。
すべての農耕や様々な財産等は、火の燃えている穴を避けるように遠ざけなければならない。
草木を切り倒したり、土地を耕し、地面を掘ったり、薬を調合したりしてはならない。
占いをしたり、星宿を見たり、月の満ち欠けを予測して占ったり、暦を計算して日や月の善悪を語ったりしてはならない。
これらはすべて、相応しくないことである。
自分の行動を慎み、適切な時に食事をし、清らかに自活しなさい。
世俗の事柄に関与したり、使者として仕えたり、呪術や仙薬を用いて権力者や貴族と結束したり、過度に親密になったり不遜な態度をとったりしてはならない。
これらのことはすべて、慎むべきものである。
自ら心を正しく保ち、正しい思いを持って、悟りを求めるべきである。
自分の欠点や過ちを隠したり、他人と異なることを誇示したり、人々を惑わせることがあってはならない。
四つの供養については、適量を知り、満足することを知り、必要に応じて受け取るべきではあるが、余分に蓄えてはならない。
○戒能生諸功徳
これは簡潔に戒律を守ることの本質を説いている。
戒律は正しい解脱の基本である。
そのため、「波羅提木叉
」(プラーティモークシャ)と呼ばれる。
この戒律によることで、様々な瞑想の境地や苦しみを滅する智慧を得ることができるのである。
○説勧修戒利益
このため、比丘たちよ、浄戒を守り、それを破ってはならない。
もし人が浄戒を守ることができれば、それは善なる教えを持っているということである。
もし浄戒がなければ、あらゆる善行や功徳は生まれない。
これによって、戒律が第一の安らぎと功徳をもたらす基盤であることを知るべきである。
(諸苦を対治する法要)
○五根放逸の苦の対治を明かす
・根放逸苦対治
比丘たちよ、そなた方はすでに戒律を守ることができている。
五根(五感)を制御し、放縦に五つの欲望に耽ることのないようにしなさい。
それは、牛飼いが杖を持って牛を見守り、勝手に人の作物を荒らさせないようにするのと同じである。
もし五根を好き勝手にさせれば、五欲だけでなく、際限なく制御不能になってしまうであろう。
また、悪い馬を手綱で制御しなければ、人を引きずって穴に落としてしまうようなものである。
強盗に襲われるような被害は一生限りだが、五根による害悪は来世以降にわたって及び、その害は非常に重大である。油断してはならない。
だからこそ、賢者は五根を制御し、その欲望に従うことがない。
五感を泥棒のように扱い、勝手な振る舞いをさせないのである。
たとえ一時的に五根を解放したとしても、やがてその破滅を目にするであろう。
・欲放逸苦対治
この五根は心をその主としている。
だからこそ、そなた方はしっかりと心を制御しなければならない。
心は、毒蛇や悪獣、盗賊よりもさらに恐ろしいものである。
大火事が広がっていくのも、心の恐ろしさに比べれば取るに足りないことである。
心は動揺しやすく軽薄で、ただ目の前の蜜(快楽)だけを見て、その先にある深い穴(危険)を見ようとしない。
それはまるで、鉤のない狂った象や、木に登った猿のように、飛び跳ねて暴れ回り、制御するのが難しいようなものである。
急いでこれを抑え込み、放縦にさせてはならない。
この心を好き勝手にさせる者は、人として為すべき善行を失ってしまう。
一方、心を一つの場所に集中させれば、成し遂げられないことはない。
だから比丘たちよ、勤勉に励み、自分の心を抑え込むよう努めなさい。
○多求の苦の対治を明かす
比丘たちよ、飲食物を受け取る際は、薬を飲むかのようにすべきである。
好き嫌いにとらわれたり、量を増減させたりしてはならない。
ただ体を維持するのに十分な量を得て、飢えと渇きを癒すだけにしなさい。
それは、蜂が花から蜜を集める際に、ただその味だけを取って、花の色や香りを損なわないようにするのと同じである。
比丘もまた同様に、人々の供養を受けて自らの苦悩を取り除くべきであるが、過度に求めて供養する人の善意を損なうことがあってはならない。
たとえば、賢明な人が、牛の力がどれほど耐えられるかを見極め、その限度を超えて牛の力を使い果たさせないようにするのと同じである。
○懈怠睡眠の苦の対治を明かす
比丘たちよ、昼間は熱心に善い教えを学び実践し、時間を無駄にしてはならない。
夜の初めと終わりの時間も、怠ることなく修行しなさい。
夜中は仏の教えを思い出して暗唱し、自らを省みなさい。
睡眠のために一生を無駄に過ごし、何も得ることがないということがないようにしなさい。
無常の火がすべての世界を焼き尽くすことを心に留め、早く自らの解脱を求めるべきである。
眠ってはならない。
煩悩という盗賊は、常に人を殺そうと狙っており、それは敵以上に恐ろしいものである。
どうして眠って、自ら警戒しないでいられるだろうか。
煩悩という毒蛇は、眠っているそなたの心の中にいる。
それは黒い毒蛇が、そなたの部屋で眠っているようなものである。
戒律という鉤を使って、早くそれを追い出しなさい。
毒蛇が出て行けば、安心して眠ることができる。
毒蛇がまだいるのに眠るのは、恥知らずな人である。
恥を知ることは、常に身から離すことのできない衣服が大切なのと同じく、あらゆる装飾の中で最も大切である。
恥は鉄の鉤のように、人の誤った行為を制することができる。
そのため、比丘たちよ、常に恥を知るべきであり、一時たりともそれを捨ててはならない。
もし恥を知る心をなくせば、すべての功徳を失う。
善いことを行うことができるのは、恥を知る心があるからであり、恥を知る心のない者は、悪いことをしても何ら恥ずることのない鳥や獣と変わりないのだ。
(煩悩を対治する法要)
○瞋恚の煩悩の対治を明かす
比丘たちよ、たとえ誰かが来てあなたの体を切り刻もうとしても、心を落ち着かせ、怒りや恨みを抱かないようにしなさい。
また、口を慎んで悪口を言わないようにしなさい。
もし怒りの心を自由にさせれば、自らの修行の道を妨げ、功徳の利益を失ってしまうことになる。
忍耐の徳は、戒律を守ることや苦行よりも優れている。
忍耐を実践できる者こそ、力ある偉大な人と呼ぶべきである。
もし悪口や中傷という毒を喜んで受け入れ、不老不死の薬を飲むかのようにできない者は、仏道に入った智慧ある人とは言えない。
なぜなら、怒りと憎しみの害は、あらゆる善い教えを壊し、良い評判を損なうからである。
現世も来世も、人々はその人を好まなくなる。
怒りの心は猛火よりも恐ろしいことを知るべきである。
常に心を守り、怒りが入り込まないようにしなさい。
功徳を奪う盗賊の中で、怒りほど恐ろしいものはない。
俗人は欲望の下に生活しており、修行者ではない。
法によって自制することがないので、怒ることはある程度許されるが、出家して修行の道を歩み、欲を捨てた人が怒りを抱くのは極めて宜しくないことである。
それはたとえば、清く澄み渡った青空の中に激しい雷鳴が轟くようなもので、比丘としてあってはならないことだ。
○貢高の煩悩の対治を明かす
比丘たちよ、自らの頭を撫でてみて、自分は何のために頭を丸めたかを考えてみるべきである。
すでに身を飾り立てることを捨て、雑色の衣を身に纏い、托鉢の器を持って、托鉢によって生活しているのである。
このように自分自身を顧みなさい。
もし憍慢な心が起こったら、すぐにそれを消し去るべきである。
憍慢な心を増長させることは、世間一般の人々でさえも深く戒められているのだ。
まして出家して修行の道に入った者が、解脱のために自らの心を抑えて托鉢を行うのに、どうして憍慢であってよいだろうか。
○諂曲の煩悩の対治を明かす
比丘たちよ、自己の本心を曲げ、諂う心は、修行の道と相容れない。
だから、心を正直で素直なものにすべきである。
諂う心は、やがては人を欺き誑かすものだということを知っておきなさい。
修行者には、そのようなことはあってはならない。
したがって、そなた方は純真な心を持ち、正直さを基本とすべきである。
<出世間法要>
(少欲の功徳)
比丘たちよ、欲深い人は求めるものが多いため、苦悩も多くなるのである。
欲が少ない人は、求めることも欲もないので、このような苦しみがない。
ただ単に欲を少なくするだけでも、なお修習すべきである。
まして、欲が少ないことは様々な善行や功徳を生み出すのだから、尚更である。
欲の少ない人は、諂って他人の心を引きつけようとすることもなく、また六根の限りない欲望に引っ張られることもない。
欲を少なくしようとする者は、心が安らかで、憂いや畏れがない。
何事に対しても余裕があり、常に不足を感じることがないのである。
少欲を保つ者は涅槃をも得ることができるのだ。
このような功徳のあるものを「少欲」というのである。
(知足の功徳)
比丘たちよ、もしそなた方が様々な苦しみや悩みから逃れたいと思うなら、知足(足るを知る)ということを観察し、心に留めなさい。
知足の教えは、すなわち富や楽しみ、安らぎや平穏のある場所である。
足ることを知る人は、地面に寝ていても、なおこれを穏やかで楽だと思うのに対して、足ることを知らない者は、天上界の広大で美しい御殿にいても、満足できない。
足ることを知らない者は、豊かであっても感謝の心がないので心が貧しいが、足ることを知る人は、貧しくても感謝の心があるので、富裕安楽の人になるのである。
足ることを知らない者は、常に五欲という欲望に引きずられ、苦しい思いに責め立てられるために、足ることを知る人から憐れみを受ける。
このようなものを「知足」と呼ぶのである。
(寂静の功徳)
比丘たちよ、心を惑乱し、身を苦しめることのない平静な安楽を求めようと思うならば、騒がしい場所を離れて、一人で静かな所で修行しなさい。
静かな場所にいる人は、帝釈天や他の神々からも尊敬し、重んじられるのである。
そのため、身内や友人たちも捨て、人のいない静かな場所に一人で住み、苦しみの根元をなくそうと考えるべきなのだ。
もし集団を好む者がいれば、多くの悩みを受けることになるだろう。
たとえばそれは、大きな木に多くの鳥が集まれば、枝が折れる危険があるようなものである。
世間事に執着することは多くの苦しみに沈むことなのだ。
たとえば、年老いた象が泥沼にはまり、自分の力で抜け出せないようなものである。
この世間事を捨てて、静かな場所に一人いることを「遠離」と呼ぶのである。
(精進の功徳)
比丘たちよ、もし心を集中して努力するならば、成し遂げられないことは何もない。
だから、そなた方は専心して努力すべきである。
たとえば、少しの水でも絶えず流れ続ければ、やがて石に穴を開けるようなものだ。
もし修行者が、途中でしばしば怠けるようであれば、たとえば火を起こそうとして、熱くなる前に手を休めれば、どれだけ火が欲しいと思っても火を起こすことができないようなものである。
この専心して努力することを「精進」というのだ。
(正念の功徳)
比丘たちよ、正しい法を説かれる先生を求め、切磋琢磨する同行の友を求めて、正念を獲るということがある。
もし正念を保てば、様々な煩悩という盗賊も入り込むことはできない。
だからそなた方は、常に正念に住すべきである。
もし念を失うとすれば、それは正念ではないから、もろもろの功徳はない。
もし念の力が強固で正念であれば、五欲によってもさわりとならない。
たとえば、鎧を着て戦場に入れば、畏れるものは何もないようなものである。
これを「不忘念」と名づけるのだ。
(禅定の功徳)
比丘たちよ、もし心を制御すれば、その心は定にある。
心が定にあるがゆえに、この世界の生滅の真理を理解することができるのだ。
だからそなた方は、常に専心して努力し、様々な定を修習すべきである。
もし定を得たならば、心は散り乱れることがない。
たとえば、水を大切にする家が、堤防をよく管理するようなものである。
修行者もそれと同様に、智慧の水のために、正しく禅定を修めて、それが漏れてなくなることがないようにしなければならない。
このように、心を制御し散り乱れないようにすることを「定」と名づけるのである。
(智慧の功徳)
比丘たちよ、もし智慧があれば、むさぼり執着することはない。
常に自分自身を省みてよく考え、智慧を失わないようにしなさい。
そのような者が、私の教えの中で解脱を得ることができるのである。
もしそうでない者は、その人はすでに修行者ではなく、一般の人でもなく、名づけようもないものになってしまう。
真の智慧こそ、老い、病、死の海を渡る、しっかりしていて丈夫な船である。
また、無明という暗闇を照らす非常に明るい燈なのだ。
あらゆる苦しみ悩みを癒す良薬であり、煩悩という樹木を切り倒す鋭い斧である。
だから、そなた方は聞思修(聞いて、考えて、実践する)の三つの智慧によって、自らこれを向上させなさい。
もし智慧の光が現れれば、あらゆるものを見通す能力がなくても、その人は明瞭に見る人なのである。
これを「智慧」と名づけるのだ。
(無戯論の功徳)
比丘たちよ、もし様々の迷った考えをおこせば、心はかえって乱れる。
出家したと言っても、未だ解脱を得ることはできない。
だから比丘たちよ、速やかに心を乱す迷った考えをやめなさい。
もしそなたが涅槃の安楽を得たいと思うなら、ただ迷った考えがもたらす害を取り除くべきである。
これを「不戯論」と名づけるのだ。
【流通分】
<勧修流通>
比丘たちよ、あらゆる徳において、常に一心に集中し、あらゆる怠惰な心を捨てることは、怨賊から逃れるかのようにすべきである。
大慈悲の世尊が幸せを与えようとなされたことは、すべて完全に説き切られた。
そなた方は、ただ勤勉にこれを実践しなさい。
あるいは山間において、あるいは沼地の中で、あるいは木の下の静かな場所、あるいは静かな部屋にいても、教えられた法を絶えず念じ、忘れ去ってしまうことがあってはならない。
常に自ら励んで、精進してこれを修めるべきである。
一生涯何もせずに虚しく死んでしまえば、後で悔やむことになるだろう。
私は、あたかも良医が患者の病を知って薬を処方するように、教えを説くのだ。
薬を飲むか飲まないかは医者にはどうにもならない。
また、正しく導く者が人々を善い方向へ導くようなものである。
それを聞いて行かないのは、導く者にはどうにもならない。
<証決流通>
そなた方よ、もし苦などの四聖諦について疑問がある者は、速やかにこれを尋ねよ。
疑いを抱いたまま解決を求めないことがあってはならない。
その時世尊は、このように三度おっしゃったが、質問する者はなかった。
なぜなら、誰も疑いを持っていなかったからである。
その時、阿㝹楼駄が人々の心を観察して、仏に申し上げた。
「世尊よ、月を熱くしようとしたり、太陽を冷たいものにできたとしても、仏が説かれた四つの真理は変えることはできません。仏のお説きになられた苦の真理は、まことに苦であり、楽にはなり得ません。集はまことにその原因であり、他の原因はありません。苦がもし滅したならば、すなわちその原因も滅しております。原因が滅したから結果も滅したのです。苦を滅する道は、実に真の道であり、他の道はありません。世尊よ、これらの比丘たちは、四つの真理に明らかで、疑いはありません」
<断疑流通>
(余疑を顕示することを明かす)
この比丘たちの集まりの中で、まだ修行を成し遂げていない者は、仏のご入滅を見て悲しみを感じるでしょう。もし法に初めて触れる者がいれば、仏の教えを聞いて、皆涅槃に至ることでありましょう。それはたとえば、夜に稲妻を見て、進むべき道を見ることができたようなものです。もし修行を成し遂げて、既に苦しみの海を渡った者は、ただこのように思うでしょう。
『世尊のご入滅は、なんと早いことか』と」。
(彼々の疑を断ずることを明かす)
阿㝹楼駄がこの言葉を述べると、集まった人々は皆、四聖諦の意味を熟知していたが、世尊は、この大衆全員の心をより強固なものにしよう思われて、大慈悲心によって、さらに比丘たちのためにお説きになられた。
比丘たちよ、憂いや悩みを抱いてはならない。
もし私が一劫の間、この世に留まったとしても、この身は必ず消えていくものなのである。
会うものがいつまでも離れないことは結局のところできることではない。
自利利他の教えは、皆十分に備わっている。
もうこれ以上私が長く留まっても、さらなる利益はないだろう。
救われるべき者は天上界であれ人間界であれ、皆既に救われた。
まだ救われていない者には、皆また既に涅槃に渡る因縁を作っておいた。
今後は、私の弟子たちが次々と教えを伝えて、これを実践すれば、それこそが如来の法身であり、常に存在して滅することはないのである。
(重ねて有為無常の相を説きて修することを勧む)
このことから分かるように、世の中はすべて無常である。
出会った者は必ず別れることがある。
憂いを抱くようなことがあってはならない。
この世の有様はこのようなものなのだ。
懸命に精進して、早く解脱を求め、智慧の光によって、あらゆる無知の闇を消し去りなさい。
世の中は実に危うく脆いものである。
強固なものは何もない。
私が今、入滅を得ることは、悪い病を取り除くようなものである。
この身は捨て去るべき罪悪に満ちたものなのだ。
仮に「身体」と名付けられているが、生老病死の大海に沈んでいるものである。
智慧のある者が、怨賊を殺すかのようにして、苦悩の根元を除き、苦を滅することができれば、どうして喜ばないことがあるだろうか。
<付属流通>
比丘たちよ、常に一心に、勤めて解脱の道を求めなさい。
この世のあらゆるものは、すべて無常なものばかりで、不安な相を示している。
そなた方よ、しばらく静粛にして、また物を言うことを止めよ。
私が入滅すべき時が過ぎようとしている。
私は滅度しようと思う。
これが私の最後の教えである。
これが現代語訳です。
では、分かりやすいように、区切りごとに見ていきましょう。
科段(セクション)ごとの内容
それではここから、科段(セクション)ごとに、漢文、書き下し文、現代語訳、さらに内容が分かりやすいように、補足説明をしていきます。
序分
序分はお経が説かれることになった因縁、つまり状況説明です。
普通は「如是我聞」かくのごとく我聞く、から始まりますが、この『遺教経』や『般若心経』のように、まれに「如是我聞」がないお経もあります。
釈迦牟尼仏初転法輪。度阿若憍陳如。最後説法度須跋陀羅。所応度者皆已度訖。於娑羅双樹間将入涅槃。是時中夜寂然無声。為諸弟子略説法要。
(引用:『仏遺教経』)
(書き下し文)
釈迦牟尼仏、初めに法輪を転じて阿若憍陳如を度し、最後の説法に須跋陀羅を度したまう。
まさに度すべき所の者は、皆すでに度しおわりて、沙羅双樹の間に於いて、まさに涅槃に入りたまわんとす。
この時中夜、寂然として声無かりき、諸の弟子のために略して法要を説きたまえり。
(現代語訳)
お釈迦様は、最初の説法で阿若憍陳如を済度され、最後の説法では、須跋陀羅を済度なされた。
済度すべき者は皆、済度し終わって、沙羅双樹の間において、今まさに涅槃に入ろうとなされていた。
この時、時間は真夜中で、静粛で些かの喧噪もなかった。
お釈迦様は、現前及び後世の仏弟子たちのために、最後に一代の教えの要点をお説きくだされた。
(補足解説)
初転法輪
は、お釈迦様の最初のご説法のことです。
お釈迦さまは35才で仏のさとりを開かれてから、最初のご説法で阿若憍陳如が救われました。
阿若憍陳如は五比丘といわれる最初にお弟子になった5人の中の1人です。
そして、須跋陀羅が救われた最後のご説法をされた80才までの45年間、お釈迦さまは一人でも多くの人が本当の幸せになれるように説法獅子吼され、力を尽くしてこられましたが、ついに肉体の限界を迎えられ、沙羅双樹の間に、北を枕に横たわれました。
そして物音一つしない真夜中となり、いよいよ最後の別れの時を迎えたのでした。
お釈迦様が仏のさとりを開かれてからのことについて、
詳しくは以下の記事をご覧ください。
➾仏教の開祖とは?色々な呼び方
正宗分・世間法要
正宗分は、お経の本論です。
お釈迦さまのご説法の中心となる部分です。
世間法要と出世間法要の2つに分かれます。
まずは世間法要です。
邪業を対治する法要
根本清浄戒
汝等比丘。於我滅後当尊重珍敬波羅提木叉。如闇遇明貧人得宝。当知此則是汝大師。若我住世無異此也。
(引用:『仏遺教経』)
(書き下し文)
汝等比丘、我が滅後に於いて、当に波羅提木叉を尊重し珍敬すべし。
闇に明に遇い、貧人の宝を得るが如し。
当に知るべし、此れは即ちこれ、汝等が大師なり。
若し我世に住するも、此れに異なること無けん。
(現代語訳)
そなた方よ、私がこの世を去った後は、波羅提木叉、すなわち浄戒を最も大事にし、敬いつつしみなさい。
あたかも、闇夜に明かりに遇ったように、貧しい人が宝を得たように、敬虔に奉じなさい。
この浄戒こそ、そなた方が従うべき大師である。
もし私がこの世に生きていても、この戒と異なる教えを説くことはない。
(補足解説)
波羅提木叉は戒律のことです。
サンスクリットでは、プラーティモークシャで、モークシャは解脱のこと、プラーティは向かうということなので、解脱へ向かうもの、ということです。
解脱へ向かうために仏が説かれた戒律の全体のことを波羅提木叉といいます。
戒律について、詳しくは以下の記事をご覧ください。
➾戒律の意味・仏教の五戒・八戒・十戒・具足戒・大乗戒の厳しい内容
方便遠離戒
持浄戒者不得販売貿易。安置田宅。畜養人民奴婢畜生。一切種殖及諸財宝。皆当遠離如避火坑。不得斬伐草木墾土掘地。合和湯薬占相吉凶。仰観星宿推歩盈虚暦数算計。皆所不応。節身時食清浄自活。不得参預世事通致使命。呪術仙薬。結好貴人親厚媟嫚。皆不応作。当自端心正念求度。不得苞蔵瑕疵顕異惑衆。於四供養知量知足。趣得供事不応稸積。
(引用:『仏遺教経』)
(書き下し文)
浄戒を持つ者は、販売貿易し、田宅を安置し、人民、奴婢、畜生を畜養することを得ざれ。
一切の種殖及び諸の財宝は、皆当に遠離すること火坑を避くるが如くすべし。
草木を斬伐し、土を墾し地を掘ち、湯薬を合和し、吉凶を占相し、星宿を仰観し、盈虚を推歩し、暦数算計することを得ざれ。
皆応ぜざる所なり。
身を節し、時に食して、清浄自活せよ。
世事に参預し、使命を通致することを得ざれ。
呪術仙薬をもって、好み貴人に結び、親厚媟慢すること、皆まさになすべからず。
当に自ら端心正念にして度を求むべし。
瑕疵を苞蔵し、異を顕わし、衆を惑わすことを得ざれ。
四供養に於いて、量を知り足るを知り、趣に供事を得ば畜積すべからず。
(現代語訳)
浄戒を保持する者は、商品を販売したり、取引をするなどの商売をしてはならない。
田畑や家屋を所有してはならない。
小作人や奴隷を雇ったり、家畜を育てたりしてはならない。
すべての農耕や様々な財産等は、火の燃えている穴を避けるように遠ざけなければならない。
草木を切り倒したり、土地を耕し、地面を掘ったり、薬を調合したりしてはならない。
占いをしたり、星宿を見たり、月の満ち欠けを予測して占ったり、暦を計算して日や月の善悪を語ったりしてはならない。
これらはすべて、相応しくないことである。
自分の行動を慎み、適切な時に食事をし、清らかに自活しなさい。
世俗の事柄に関与したり、使者として仕えたり、呪術や仙薬を用いて権力者や貴族と結束したり、過度に親密になったり不遜な態度をとったりしてはならない。
これらのことはすべて、慎むべきものである。
自ら心を正しく保ち、正しい思いを持って、悟りを求めるべきである。
自分の欠点や過ちを隠したり、他人と異なることを誇示したり、人々を惑わせることがあってはならない。
四つの供養については、適量を知り、足るを知り、必要に応じて受け取るべきではあるが、余分に蓄えてはならない。
(補足解説)
星宿を見るというのは、星占いのことです。
呪術は、まじない、呪いのこと。
仙薬は、不思議な霊薬。
四つの供養というのは、僧侶に対する供養(布施)で、
衣服、飲食、臥具、湯薬
の四つです。
出家して仏道を求める者は、身を養うための職業についてはならず、お布施によってのみ生きなければなりません。
お布施がなければ、死んでも悪業を造って生きながらえようという欲の心を起こしてはならないということです。
布施について、詳しくは以下の記事をご覧ください。
➾布施とは?お布施の金額の相場や仏教の意味を分かりやすく解説
戒能生諸功徳
此則略説持戒之相。戒是正順解脱之本。故名波羅提木叉。依因此戒得生諸禅定及滅苦智慧。
(引用:『仏遺教経』)
(書き下し文)
此れはすなわち略して持戒の相を説く。
戒はこれ正順解脱の本なり。
故に波羅提木叉と名づく。
この戒に因依して、諸の禅定及び滅苦の智慧を生ずることを得。
(現代語訳)
これは簡潔に戒律を守ることの本質を説いている。
戒律は正しい解脱の基本である。
そのため、「波羅提木叉
」(プラーティモークシャ)と呼ばれる。
この戒律によることで、様々な瞑想の境地や苦しみを滅する智慧を得ることができるのである。
(補足解説)
「解脱の基本なので、波羅提木叉といわれる」というのは、サンスクリットのプラーティモークシャが、「解脱に向かう」という意味だからです。
漢訳でも「別々解脱」とか「処々解脱」といわれることもあります。
具体的には戒律のことで、出家の人にとっては具足戒のことです。
説勧修戒利益
是故比丘。当持浄戒勿令毀犯。若人能持浄戒是則能有善法。若無浄戒諸善功徳皆不得生是以当知。戒為第一安隠功徳之所住処。
(引用:『仏遺教経』)
(書き下し文)
この故に比丘、当に浄戒を持し、毀犯せしむること勿るべし。
若し人能く浄戒を持すれば、これすなわち能く善法を有するなり。
若し浄戒無ければ、諸善功徳皆生ずることを得ず。
これを以て当に知るべし。
戒を第一安穏功徳の住処となすことを。
(現代語訳)
このため、比丘たちよ、浄戒を守り、それを破ってはならない。
もし人が浄戒を守ることができれば、それは善なる教えを持っているということである。
もし浄戒がなければ、あらゆる善行や功徳は生まれない。
これによって、戒律が第一の安らぎと功徳をもたらす基盤であることを知るべきである。
(補足解説)
仏教で悟りを得るには、戒定慧の三学が必要です。
戒とは戒律のこと、定とは禅定のこと、慧は智慧のことです。
この3つは、戒によって定を生じ、定によって慧を発する、という関係があります。
ですから、戒律を守るのが基本で、戒律を守らないと、悟りの道は始まらないのです。
戒定慧について詳しくは以下の記事をご覧ください。
⇒さとりを開く方法
諸苦を対治する法要
五根放逸の苦の対治を明かす
汝等比丘。已能住戒当制五根。勿令放逸入於五欲。譬如牧牛之人執杖視之。不令縦逸犯人苗稼。若縦五根。非唯五欲将無崖畔不可制也。亦如悪馬不以轡制。将当牽人墜於坑陥。如被劫害苦止一世。五根賊禍殃及累世。為害甚重。不可不慎。是故智者制而不随。持之如賊不令縦逸。仮令縦之。皆亦不久見其磨滅。
此五根者心為其主。是故汝等当好制心。心之可畏甚於毒蛇悪獣怨賊大火越逸。未足喩也。動転軽躁但観於蜜不見深坑。譬如狂象無鉤。猿猴得樹騰躍跳躑難可禁制。当急挫之無令放逸。縦此心者喪人善事。制之一処無事不辦。是故比丘。当勤精進折伏其心(引用:『仏遺教経』)
(書き下し文)
汝等比丘、已に能く戒に住す。
当に五根を制して、放逸にして五欲に入らしむること勿るべし。
譬えば牧牛の人の杖を執りて之を視、縦逸に人の苗稼を犯さしめざるが如くせよ。
若し五根を縦にすれば唯五欲のみに非ず、まさに崖畔無くして、制すべからざらんとするなり。
亦、悪馬の轡を以て制せざれば、当に人を牽て、坑陥に墜とさしめんとするが如し。
劫害を被るが如きも、苦は一世に止まる。
五根の賊禍は、殃累世に及ぶ、害を為すこと甚だ重し。
慎まざるべからず。
この故に智者は、制して而も随わず。
之を持すこと賊の如くにして、縦逸せしめざれ。
仮令之を縦にするとも、皆亦久しからずして其の磨滅を見ん。
この五根は心を其の主と為す。
この故に汝等、当に好く心を制すべし、心の畏るべき毒蛇、悪獣、怨賊よりも甚だし。
大火の越逸するも、未だ喩えとするに足らざるなり。
動転軽躁して、ただ蜜を観て、深坑を見ざらん。
譬えば、狂象の鉤無く、猿猴の樹を得て、騰躍跳躑して、禁制すべきこと難きが如し。
当に急に之を挫いで、放逸ならしむること無かるべし。
この心を縦にする者は、人の善事を喪う。
之を一処に制すれば、事として辦ぜざる無し。
この故に比丘、当に勤めて精進して、其の心を折伏すべし。
(現代語訳)
比丘たちよ、そなた方はすでに戒律を守ることができている。
五根(五感)を制御し、放縦に五つの欲望に耽ることのないようにしなさい。
それは、牛飼いが杖を持って牛を見守り、勝手に人の作物を荒らさせないようにするのと同じである。
もし五根を好き勝手にさせれば、五欲だけでなく、際限なく制御不能になってしまうであろう。
また、悪い馬を手綱で制御しなければ、人を引きずって穴に落としてしまうようなものである。
強盗に襲われるような被害は一生限りだが、五根による害悪は来世以降にわたって及び、その害は非常に重大である。油断してはならない。
だからこそ、賢者は五根を制御し、その欲望に従うことがない。
五根を泥棒のように扱い、勝手な振る舞いをさせないのである。
たとえ一時的に五根を解放したとしても、やがてその破滅を目にするであろう。
この五根は心をその主としている。
だからこそ、そなた方はしっかりと心を制御しなければならない。
心は、毒蛇や悪獣、盗賊よりもさらに恐ろしいものである。
大火事が広がっていくのも、心の恐ろしさに比べれば取るに足りないことである。
心は動揺しやすく軽薄で、ただ目の前の蜜(快楽)だけを見て、その先にある深い穴(危険)を見ようとしない。
それはまるで、鉤のない狂った象や、木に登った猿のように、飛び跳ねて暴れ回り、制御するのが難しいようなものである。
急いでこれを抑え込み、放縦にさせてはならない。
この心を好き勝手にさせる者は、人として為すべき善行を失ってしまう。
一方、心を一つの場所に集中させれば、成し遂げられないことはない。
だから比丘たちよ、勤勉に励み、自分の心を抑え込むよう努めなさい。
(補足解説)
五根は、眼根・耳根・鼻根・舌根・身根の五つで、感覚器官みたいなものです。
なぜこれを根というのかというと、木なら根っこから幹が出て枝葉が茂るように、心が生じる根っこだからです。
例えば眼根によって物を見て、美しいとか醜いという心が生じます。
そこから生じるのが五欲です。
五欲は、食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲の5つを言うこともありますが、
ここでいわれる五欲は、五根がその対象となる五境(色・声・香・味・触)に執着して起こす五種の欲望です。
そこから罪悪を造り、悪因悪果、苦しい結果を生じるので、よくよく慎まなければならないということです。
多求の苦の対治を明かす
汝等比丘。受諸飲食当如服薬。於好於悪勿生増減。趣得支身以除飢渇。如蜂採花但取其味不損色香。比丘亦爾。受人供養取自除悩。無得多求壊其善心。譬如智者籌量牛力所堪多少。不令過分以竭其力
(引用:『仏遺教経』)
(書き下し文)
汝等比丘、諸の飲食を受くること、当に薬を服するが如くすべし。
好に於て悪に於て、増減を生ずること勿れ。
趣に身を支うることを得て、以て飢渇を除けよ。
蜂の花を採るに、ただ其の味のみを取りて、色香を損せざるが如し。
比丘も亦爾なり。
人の供養を受けて、自ら悩を除けよ。
多く求めて、其の善心を壊ることを得る無かれ。
譬えば智者は牛力の堪うる所の多少を籌量して、分に過ぎて以て其の力を竭さしめざるが如し。
(現代語訳)
比丘たちよ、飲食物を受け取る際は、薬を飲むかのようにすべきである。
好き嫌いにとらわれたり、量を増減させたりしてはならない。
ただ体を維持するのに十分な量を得て、飢えと渇きを癒すだけにしなさい。
それは、蜂が花から蜜を集める際に、ただその味だけを取って、花の色や香りを損なわないようにするのと同じである。
比丘もまた同様に、人々の供養を受けて自らの苦悩を取り除くべきであるが、過度に求めて供養する人の善意を損なうことがあってはならない。
たとえば、賢明な人が、牛の力がどれほど耐えられるかを見極め、その限度を超えて牛の力を使い果たさせないようにするのと同じである。
(補足解説)
籌量とは、はかること。
布施を受ける立場の者は、生きるのに必要な分以上の食べ物が欲しいという食欲を起こしてはならない、ということです。
食欲のために求めては、布施をする人の布施心を損なってしまいます。
そのためには、食べ物は薬のようなものと思うべきで、好き嫌いを言ったり、量を増減してはならない、ということです。
布施をする立場の人は、布施には大変な功徳があるので、すればするほど幸せな結果が生じるのはもちろんです。
懈怠睡眠の苦の対治を明かす
汝等比丘。昼則勤心修習善法無令失時。初夜後夜亦勿有廃。中夜誦経以自消息。無以睡眠因縁令一生空過無所得也。当念無常之火焼諸世間。早求自度勿睡眠也。諸煩悩賊常伺殺人甚於怨家。安可睡眠不自驚寤。煩悩毒蛇睡在汝心。譬如黒蚖在汝室睡。当以持戒之鉤早摒除之。睡蛇既出乃可安睡。不出而眠是無慚人也。慚恥之服。於諸荘厳最為第一。慚如鉄鉤能制人非法。是故比丘。常当慚恥。無得暫替。若離慚恥則失諸功徳。有愧之人則有善法。若無愧者。与諸禽獣無相異也
(引用:『仏遺教経』)
(書き下し文)
汝等比丘、昼はすなわち勤心に善法を修習して、時を失わしむること無かれ。
初夜にも後夜にも、亦廃すること有ること勿れ。
中夜に誦経して以て自ら消息せよ。
睡眠の因縁を以て、一生を空しく過ごして、所得無からしむる無かれ。
当に無常の火の諸の世間を焼くことを念じて、早く自度を求むべし。
睡眠すること勿れ。
諸の煩悩の賊、常に伺いて人を殺すこと、怨家よりも甚だし。
安んぞ睡眠して、自ら驚寤せざるべけんや。
煩悩の毒蛇は、睡って汝が心に在り。
譬えば黒蚖の汝の室に在りて睡るが如し。
当に持戒の鉤を以て、早く之を摒除すべし。
睡蛇既に出でなば、乃ち安睡すべし。
出でざるに而も眠るは、これ無慚の人なり。
慚恥の服は諸の荘厳に於て、最も第一とす。
慚は鉄鉤の如く、能く人の非法を制す。
この故に比丘、常に当に慚恥すべし、暫くも替つることを得る無かれ。
若し慚恥を離るれば、すなわち諸の功徳を失う。
有愧の人は、すなわち善法有り。
若し愧無き者は、諸の禽獣と相異なること無きなり。
(現代語訳)
比丘たちよ、昼間は熱心に善い教えを学び実践し、時間を無駄にしてはならない。
夜の初めと終わりの時間も、怠ることなく修行しなさい。
夜中は仏の教えを思い出して暗唱し、自らを省みなさい。
睡眠のために一生を無駄に過ごし、何も得ることがないということがないようにしなさい。
無常の火がすべての世界を焼き尽くすことを心に留め、早く自らの解脱を求めるべきである。
眠ってはならない。
煩悩という盗賊は、常に人を殺そうと狙っており、それは敵以上に恐ろしいものである。
どうして眠って、自ら警戒しないでいられるだろうか。
煩悩という毒蛇は、眠っているそなたの心の中にいる。
それは黒い毒蛇が、そなたの部屋で眠っているようなものである。
戒律という鉤を使って、早くそれを追い出しなさい。
毒蛇が出て行けば、安心して眠ることができる。
毒蛇がまだいるのに眠るのは、恥知らずな人である。
恥を知ることは、常に身から離すことのできない衣服が大切なのと同じく、あらゆる装飾の中で最も大切である。
恥は鉄の鉤のように、人の誤った行為を制することができる。
そのため、比丘たちよ、常に恥を知るべきであり、一時たりともそれを捨ててはならない。
もし恥を知る心をなくせば、すべての功徳を失う。
善いことを行うことができるのは、恥を知る心があるからであり、恥を知る心のない者は、悪いことをしても何ら恥ずることのない鳥や獣と変わりないのだ。
(補足解説)
初夜とは、現在の午後6時から10時、
後夜とは、現在の午前2時から6時のことです。
仏道を求める者は、昼間はもちろん、夜は遅くまで、朝は早起きして仏教を学び、実践しなさい、ということです。
中夜は、現在の午後10時から翌日午前2時で、その位は寝ないと生きていけないかもしれませんが、もし可能であれば、寝る間も惜しんで仏教を学びなさい、ということです。
無常とはこの世のすべては時々刻々と移り変わっていくことですが、中でも最も深刻なのは、自分の命が消えゆくことです。
無常の火に飲み込まれ、自分が死んでいく前に、解脱をえなければなりません。
自分の中にある欲や怒りや愚痴の煩悩によって悪を造り、盗賊のように毒蛇のように、自らを苦しませ、悩ませます。
そこで「慚」とは自分に恥ずる心ですから、自分に恥じて悪を造らないようにしなさい、
「愧」は他人に恥ずる心であるから、無愧は、他人に恥じて悪を造らないようにしなさい、ということです。
煩悩を対治する法要
瞋恚の煩悩の対治を明かす
汝等比丘。若有人来節節支解。当自摂心無令瞋恨。亦当護口勿出悪言。若縦恚心則自妨道失功徳利。忍之為徳持戒苦行所不能及。能行忍者乃可名為有力大人。若其不能歓喜忍受悪罵之毒如飲甘露者。不名入道智慧人也。所以者何。瞋恚之害能破諸善法壊好名聞。今世後世人不憙見。当知瞋心甚於猛火。常当防護*無令得入。劫功徳賊無過瞋恚。白衣受欲非行道人。無法自制。瞋猶可恕。出家行道無欲之人。而懐瞋恚甚不可也。譬如清冷雲中霹靂起火非所応也
(引用:『仏遺教経』)
(書き下し文)
汝等比丘、若し人有り来たりて、節々に支解するとも、当に自ら心を摂めて瞋恨せしむること無かるべし。
亦当に口を護りて悪言を出すこと勿れ。
若し恚心を縦にせば、すなわち自ら道を妨げ、功徳の利を失す。
忍の徳たる持戒苦行も、及ぶこと能わざる所なり。
能く忍を行ずる者は、すなわち名づけて有力の大人と為すべし。
若しそれ、悪罵の毒を歓喜し忍受して、甘露を飲むが如くすること能わざる者は、入道智慧の人と名づけざるなり。
所以はいかん、瞋恚の害は、能く諸の善法を破り、好名聞を壊る。
今世後世、人見ることを憙ばず。
当に知るべし、瞋心は猛火よりも甚だし。
常に当に防護して、入ることを得せしむること無かるべし。
功徳を劫むるの賊は、瞋恚に過ぎたるは無し。
白衣は欲を受く、行道の人に非ざるなり。
法の自ら制する無ければ、瞋なお恕すべし。
出家は行道、無欲の人にして、而も瞋恚を懐くは甚だ不可なり。
譬えば清冷の雲中に、霹靂の火を起こすは、所応に非ざるが如し。
(現代語訳)
比丘たちよ、たとえ誰かが来てあなたの体を切り刻もうとしても、心を落ち着かせ、怒りや恨みを抱かないようにしなさい。
また、口を慎んで悪口を言わないようにしなさい。
もし怒りの心を自由にさせれば、自らの修行の道を妨げ、功徳の利益を失ってしまうことになる。
忍耐の徳は、戒律を守ることや苦行よりも優れている。
忍耐を実践できる者こそ、力ある偉大な人と呼ぶべきである。
もし悪口や中傷という毒を喜んで受け入れ、不老不死の薬を飲むかのようにできない者は、仏道に入った智慧ある人とは言えない。
なぜなら、怒りと憎しみの害は、あらゆる善い教えを壊し、良い評判を損なうからである。
現世も来世も、人々はその人を好まなくなる。
怒りの心は猛火よりも恐ろしいことを知るべきである。
常に心を守り、怒りが入り込まないようにしなさい。
功徳を奪う盗賊の中で、怒りほど恐ろしいものはない。
俗人は欲望の下に生活しており、修行者ではない。
法によって自制することがないので、腹を立ててもある程度は寛容に受け止められようが、出家して修行の道を歩み、欲を捨てた人が怒りを抱くのは甚だあってはならないことである。
それはたとえば、清く澄み渡った青空の中に激しい雷鳴が轟くようなもので、比丘としてあってはならないことだ。
(補足解説)
支解は、手足をバラバラに切り離すこと。
怒りの心によって、仏道を求めることもできなくなるし、これまでの功徳も消えてなくなり、今までの努力も無駄になるから、手足をバラバラに切られても、悪口を言われても、腹を立ててはいけないと教えられています。
有力の大人というのは、他人のできないことをなし得る力量を持った偉大な人。
怒りを抑えられる人が、偉大な人なのです。
甘露とは、不老不死を得られるという薬のこと。
仏法の教えよりも、煩悩の毒を好む人は、智慧のある仏法者とは言えません。
白衣は、在家の人ということです。
インドでは、在家の人は常に白い衣服を着て、出家した人は色のついたものを着ていました。
在家の人は、欲や怒りを露わにする傾向がありますが、仏法者たるもの、そうであってはならない、ということです。
貢高の煩悩の対治を明かす
汝等比丘。当自摩頭。已捨飾好著壊色衣。執持応器以乞自活。自見如是。若起憍慢当疾滅之。謂長憍慢尚非世俗白衣所宜。何況出家入道之人。為解脱故自降其心而行乞耶。
(引用:『仏遺教経』)
(書き下し文)
汝等比丘、当に自ら頭を摩づべし。
已に飾好を捨て、壊色の衣を著し、応器を執持して、乞を以て自活す。
自ら見るにかくの如し。
若し憍慢を起こさば、当に疾く之を滅すべし。
憍慢を増長するは、尚世俗、白衣も宜しき所に非ず。
いかに況んや、出家、入道の人、解脱の為の故に、自ら其の心を降して、而も乞を行ずるをや。
(現代語訳)
比丘たちよ、自らの頭を撫でてみて、自分は何のために頭を丸めたかを考えてみるべきである。
すでに身を飾り立てることを捨て、雑色の衣を身に纏い、托鉢の器を持って、托鉢によって生活しているのである。
このように自分自身を顧みなさい。
もし憍慢な心が起こったら、すぐにそれを消し去るべきである。
憍慢な心を増長させることは、世間一般の人々でさえも深く戒められているのだ。
まして出家して修行の道に入った者が、解脱のために自らの心を抑えて托鉢を行うのに、どうして憍慢であってよいだろうか。
(補足解説)
貢高とは、自惚れのことです。
人間、頑張っていると、自分ほどではない人に対して自惚れてきます。
出家して戒律を守り、修行に努めていると、そうでない人に対して高慢な心や見下す心を起こしてはならない、ということです。
飾好とは、頭髪も含む身の装飾品、
壊色は、正色(青・黄・赤・白・黒)ではない色の衣という意味で、修行者たちの着る法衣のことです。
仏教を学び、求める目的は、他人に勝ちたいという名誉欲を満たすためではなく、欲を離れた真の幸せになるためなのだから、自らを反省して、目的をよくよく確認しなければならないということです。
諂曲の煩悩の対治を明かす
汝等比丘。諂曲之心与道相違。是故宜応質直其心。当知諂曲但為欺誑。入道之人則無是処。是故汝等。宜応端心以質直為本
(引用:『仏遺教経』)
(書き下し文)
汝等比丘、諂曲の心は道と相違す。
この故に宜しくまさに其の心を質直にすべし。
当に知るべし、諂曲はただ欺誑を為すことを。
入道の人は、すなわちこの処無けん。
この故に汝等、宜しくまさに端心にして、質直を以て本と為すべし。
(現代語訳)
比丘たちよ、自己の本心を曲げ、諂う心は、修行の道と相容れない。
だから、心を正直で素直なものにすべきである。
諂う心は、やがては人を欺き誑かすものだということを知っておきなさい。
修行者には、そのようなことはあってはならない。
したがって、そなた方は純真な心を持ち、正直さを基本とすべきである。
(補足解説)
諂曲とは、へつらいのことで、おべっかを言ったり、おべんちゃらを言ったりして人の気に入るように努め、自分の心を曲げて、その人に従うことです。
質直とは、正直で心に飾りのないこと。
正直であれ、といわれています。
欺誑とは、偽り欺くこと。
諂曲は、嘘をついて人を騙しているのだから、仏道を求める人はあってはならない。
端心は、小細工をしない純真な心、正しい歪みのない心。
そういう心でありなさい、と教えられています。
正宗分・出世間法要
ここでは、八大人覚といわれる少欲、知足、寂静、正念、正定、精進、正慧、無戯論の8つの功徳を説かれ、勧められます。
少欲の功徳
汝等比丘。当知多欲之人。多求利故苦悩亦多。少欲之人無求無欲則無此患。直爾少欲尚応修習。何況少欲能生諸善功徳。少欲之人則無諂曲以求人意。亦復不為諸根所牽。行少欲者心則坦然無所憂畏。触事有余常無不足。有少欲者則有涅槃。是名少欲
(引用:『仏遺教経』)
(書き下し文)
汝等比丘、当に知るべし、多欲の人は、利を求むること多きが故に、苦悩も亦多し。
少欲の人は、求め無く、欲無ければ、すなわちこの患い無し。
直爾に少欲すら、尚まさに修習すべし。
いかに況んや、少欲は能く諸善功徳を生ずるをや。
少欲の人は、すなわち諂曲して以て人の意を求むること無く、亦また諸根の牽く所と為らず。
少欲を行ずる者は、心すなわち坦然として、憂畏する所無し。
事に触れて余り有り、常に不足無し。
少欲ある者は、すなわち涅槃有り。
これを少欲と名づく。
(現代語訳)
比丘たちよ、欲深い人は求めるものが多いため、苦悩も多くなるのである。
欲が少ない人は、求めることも欲もないので、このような苦しみがない。
ただ単に欲を少なくするだけでも、なお修習すべきである。
まして、欲が少ないことは様々な善行や功徳を生み出すのだから、尚更である。
欲の少ない人は、諂って他人の心を引きつけようとすることもなく、また六根の限りない欲望に引っ張られることもない。
欲を少なくしようとする者は、心が安らかで、憂いや畏れがない。
何事に対しても余裕があり、常に不足を感じることがないのである。
少欲を保つ者は涅槃をも得ることができるのだ。
このような功徳のあるものを「少欲」というのである。
(補足解説)
科学が進歩し、経済が発展しても、少しも幸福感が増えないのは、欲の心が変わらないからです。
お金や物が増えるに従って、もっと多くのものが欲しくなるので、きりがありません。
だから、欲を抑えなさい、と教えられています。
欲が少なければ、出世しようと目上の人にこびへつらったり、欲望のとりこになったりすることもなく、失うのではないかという不安も減ります。
欲などの煩悩をなくしてこそ、涅槃に到ることができるのです。
ちなみに諸根とは、眼・耳・鼻・舌・身・意の六根(六つの器官)のことです。
六根については、以下の記事で詳しく解説しています。
➾六根清浄とは?仏教の正しい意味と六根を清らかにする方法
知足の功徳
汝等比丘。若欲脱諸苦悩。当観知足。知足之法即是富楽安隠之処。知足之人雖臥地上猶為安楽。不知足者雖処天堂亦不称意。不知足者雖富而貧。知足之人雖貧而富。不知足者常為五欲所牽。為知足者之所憐愍。是名知足
(引用:『仏遺教経』)
(書き下し文)
汝等比丘、若し諸の苦悩を脱せんと欲せば、当に知足を観ずべし。
知足の法は即ちこれ、富楽安隠の処なり。
知足の人は、地上に臥すと雖も、なお安楽と為す。
不知足の者は、天堂に処すと雖も、亦意に称わず。
不知足の者は、富めりと雖も而も貧し。
知足の人は、貧しと雖も而も富めり。
不知足の者は、常に五欲の牽く所となり、知足の者のために憐愍せらる。
これを知足と名づく。
(現代語訳)
比丘たちよ、もしそなた方が様々な苦しみや悩みから逃れたいと思うなら、知足(足るを知る)ということを観察し、心に留めなさい。
知足の教えは、すなわち富や楽しみ、安らぎや平穏のある場所である。
足ることを知る人は、地面に寝ていても、なおこれを穏やかで楽だと思うのに対して、足ることを知らない者は、天上界の広大で美しい御殿にいても、満足できない。
足ることを知らない者は、豊かであっても感謝の心がないので心が貧しいが、足ることを知る人は、貧しくても感謝の心があるので、富裕安楽の人になるのである。
足ることを知らない者は、常に五欲という欲望に引きずられ、苦しい思いに責め立てられるために、足ることを知る人から憐れみを受ける。
このようなものを「知足」と呼ぶのである。
(補足解説)
「不知足の者は、富めりといえどもしかも貧し。知足の人は、貧しといえどもしかも富めり」というお言葉は、『遺教経』の中でも特に有名です。
足るを知り、感謝して努力しなければなりません。
世間一般でもよく言われる「足るを知る」ということについて、
詳しくは以下の記事をご覧ください。
➾足るを知るの本当の意味や生き方とは?誤解された意味についても
寂静の功徳
汝等比丘。若求寂静無為安楽。当離憒閙独処閑居。静処之人帝釈諸天所共敬重。是故当捨己衆他衆。空閑独処思滅苦本。若楽衆者則受衆悩。譬如大樹衆鳥集之則有枯折之患。世間縛著没於衆苦。譬如老象溺泥不能自出。是名遠離
(引用:『仏遺教経』)
(書き下し文)
汝等比丘、若し寂静無為安楽を求むれば、当に憒閙を離れて独処閑居すべし。
静処の人は、帝釈諸天の、共に敬重する所なり。
この故に、当に己の衆、他の衆を捨て、空閑に独処して、苦の本を滅せんと思うべし。
若し衆を楽う者は、すなわち衆悩を受けん。
譬えば大樹も衆鳥之に集まれば、すなわち枯折の患い有るが如し。
世間の縛著は衆苦に没す。
譬えば老象の泥に溺れ、自ら出づること能わざるが如し。
これを遠離と名づく。
(現代語訳)
比丘たちよ、心を惑乱し、身を苦しめることのない平静な安楽を求めようと思うならば、騒がしい場所を離れて、一人で静かな所で修行しなさい。
静かな場所にいる人は、帝釈天や他の神々からも尊敬し、重んじられるのである。
そのため、身内や友人たちも捨て、人のいない静かな場所に一人で住み、苦しみの根元をなくそうと考えるべきなのだ。
もし集団を好む者がいれば、多くの悩みを受けることになるだろう。
たとえばそれは、大きな木に多くの鳥が集まれば、枝が折れる危険があるようなものである。
世間事に執着することは多くの苦しみに沈むことなのだ。
たとえば、年老いた象が泥沼にはまり、自分の力で抜け出せないようなものである。
この世間事を捨てて、静かな場所に一人いることを「遠離」と呼ぶのである。
(補足解説)
寂静とは、心の静まった状態、執着を離れ、憂いなく安らかなこと。
無為は、因縁によっては作られない不生不滅の存在。
寂静無為安楽で、涅槃のことです。
憒閙は、身や心の忙しいこと。
縛著は、執着すること。
帝釈天は仏教を守護する神で、仏道を求める人の求道心を試したり、守ったりします。
帝釈天について、詳しくはこちらの記事をご覧ください。
⇒帝釈天
精進の功徳
汝等比丘。若勤精進則事無難者。是故汝等。当勤精進。譬如小水常流則能穿石。若行者之心数数懈廃。譬如鑽火未熱而息。雖欲得火火難可得。是名精進
(引用:『仏遺教経』)
(書き下し文)
汝等比丘、若し勤めて精進すれば、すなわち事として難き者なし。
この故に汝等、当に勤めて精進すべし。
譬えば小水の常に流るれば、すなわち能く石を穿つが如し。
若し行者の心、数数懈廃すれば、譬えば火を鑽るに、未だ熱せずして、而も息めば、火を得んと欲すと雖も、火を得べきこと難きが如し。
これを精進と名づく。
(現代語訳)
比丘たちよ、もし心を集中して努力するならば、成し遂げられないことは何もない。
だから、そなた方は専心して努力すべきである。
たとえば、少しの水でも絶えず流れ続ければ、やがて石に穴を開けるようなものだ。
もし修行者が、途中でしばしば怠けるようであれば、たとえば火を起こそうとして、熱くなる前に手を休めれば、どれだけ火が欲しいと思っても火を起こすことができないようなものである。
この専心して努力することを「精進」というのだ。
(補足解説)
懈廃とは、怠けることです。
柔らかい水でも、長年続けて落ち続ければ、堅い石に穴を開けるように、根気よく努力することが大切だということです。
努力も大切ですし、その継続も大切です。
本当の生きる目的を達成するまで仏教を聞きなさい、ということです。
正念の功徳
汝等比丘。求善知識求善護助而不忘念。若有不忘念者。諸煩悩賊則不能入。是故汝等。常当摂念在心。若失念者則失諸功徳。若念力堅強。雖入五欲賊中不為所害。譬如著鎧入陣則無所畏。是名不忘念
(引用:『仏遺教経』)
(書き下し文)
汝等比丘、善知識を求め、善護助を求め、而して不忘念あり。
若し不忘念有る者は、諸の煩悩の賊、すなわち入ること能わず。
この故に汝等、常に当に念を摂めて心に在くべし。
若し念を失する者は、すなわち諸の功徳を失す。
若し念力堅強なれば、五欲の賊中に入ると雖も、為に害せられず。
譬えば、鎧を著て陣に入れば、すなわち畏るる所無きが如し。
これを不忘念と名づく。
(現代語訳)
比丘たちよ、正しい法を説かれる先生を求め、切磋琢磨する同行の友を求めて、正念を獲るということがある。
もし正念を保てば、様々な煩悩という盗賊も入り込むことはできない。
だからそなた方は、常に正念に住すべきである。
もし念を失うとすれば、それは正念ではないから、もろもろの功徳はない。
もし念の力が強固で正念であれば、五欲によってもさわりとならない。
たとえば、鎧を着て戦場に入れば、畏れるものは何もないようなものである。
これを「不忘念」と名づけるのだ。
(補足解説)
善知識は、仏教の正しい先生、
善護助は、間接的に修行を助けてくれる人です。
正しく説かれる仏教の教えを聞くことによって、本当の幸せになることができます。
本当の幸せを正念ともいいます。
正念になれば、煩悩はさわりとなりません。
それには、仏教を正しく聞かねばならないので、正しい仏教の先生にめぐりあうことが大切です。
禅定の功徳
汝等比丘。若摂心者心則在定。心在定故能知世間生滅法相。是故汝等。常当精勤修習諸定。若得定者心則不乱。譬如惜水之家善治堤塘。行者亦爾。為智慧水故善修禅定令不漏失。是名為定
(引用:『仏遺教経』)
(書き下し文)
汝等比丘、若し心を摂むる者は、心すなわち定に在り。
心、定に在るが故に、能く世間生滅の法相を知る。
この故に汝等、常に当に精勤して、諸の定を修習すべし。
若し定を得る者は、心すなわち乱れず。
譬えば水を惜しむ家の、善く堤塘を治するが如し。
行者も亦爾なり。
智慧の水の為の故に、善く禅定を修して漏失せざらしむ。
これを名づけて定と為す。
(現代語訳)
比丘たちよ、もし心を制御すれば、その心は定にある。
心が定にあるがゆえに、この世界の生滅の真理を理解することができるのだ。
だからそなた方は、常に専心して努力し、様々な定を修習すべきである。
もし定を得たならば、心は散り乱れることがない。
たとえば、水を大切にする家が、堤防をよく管理するようなものである。
修行者もそれと同様に、智慧の水のために、正しく禅定を修めて、それが漏れてなくなることがないようにしなければならない。
このように、心を制御し散り乱れないようにすることを「定」と名づけるのである。
(補足解説)
定とは心を一つにすることで、戒定慧の三学の2番目です。
戒定慧の三学とは、戒律によって禅定しやすくし、禅定によって、智慧を得るという基本的な仏道修行の道筋です。
定は、声聞であれば、八正道の正定、
菩薩であれば、六波羅蜜の禅定を実践します。
智慧の功徳
汝等比丘。若有智慧則無貪著。常自省察不令有失。是則於我法中能得解脱。若不爾者既非道人。又非白衣。無所名也。実智慧者則是度老病死海堅牢船也。亦是無明黒闇大明燈也。一切病苦之良薬也。伐煩悩樹者之利斧也。是故汝等。当以聞思修慧而自増益。若人有智慧之照。雖無天眼而是明見人也。是為智慧
(引用:『仏遺教経』)
(書き下し文)
汝等比丘、若し智慧有れば、すなわち貪著無し。
常に自ら省察して、失うこと有らしめざれ。
これすなわち我が法中に於いて、能く解脱を得。
若し爾らざる者は、既に道人に非ず、又白衣に非ず、名づくる所無きなり。
実智慧の者は、すなわちこれ老病死の海を度る堅牢の船なり。
亦これ無明黒闇の大明燈なり。
一切病苦の良薬なり。
煩悩の樹を伐る利斧なり。
この故に汝等、当に聞思修の慧を以て、而も自ら増益すべし。
若し人、智慧の照有れば、天眼無しと雖も、而もこれ明見の人なり。
これを智慧と為す。
(現代語訳)
比丘たちよ、もし智慧があれば、むさぼり執着することはない。
常に自分自身を省みてよく考え、智慧を失わないようにしなさい。
そのような者が、私の教えの中で解脱を得ることができるのである。
もしそうでない者は、その人はすでに修行者ではなく、一般の人でもなく、名づけようもないものになってしまう。
真の智慧こそ、老い、病、死の海を渡る、しっかりしていて丈夫な船である。
また、無明という暗闇を照らす非常に明るい燈なのだ。
あらゆる苦しみ悩みを癒す良薬であり、煩悩という樹木を切り倒す鋭い斧である。
だから、そなた方は聞思修(聞いて、考えて、実践する)の三つの智慧によって、自らこれを向上させなさい。
もし智慧の光が現れれば、あらゆるものを見通す能力がなくても、その人は明瞭に見る人なのである。
これを「智慧」と名づけるのだ。
(補足解説)
智慧は、六波羅蜜の1つです。
詳しくは以下の記事をご覧ください。
➾六波羅蜜とは?内容6つと実践方法を簡単に分かりやすく解説
出家して戒律を守り、修行をする人は、禅定によって智慧を生ずることを目指します。
では在家の人はどうすればいいのかというと、仏の智慧を頂くという道があるとお釈迦様は教えられています。
それこそが、老いと病と死の苦しみの海にたとえられる人生を明るく楽しくわたす大きな船であり、
迷いの根元である無明の闇を破る燈です。
だから早く仏教を聞きなさい、ということです。
無戯論の功徳
汝等比丘。若種種戯論其心則乱。雖復出家猶未得脱。是故比丘。当急捨離乱心戯論。若汝欲得寂滅楽者。唯当善滅戯論之患。是名不戯論
(引用:『仏遺教経』)
(書き下し文)
汝等比丘、若し種々に戯論せば、其の心すなわち乱る。
また出家すと雖も、なお未だ脱することを得ず。
この故に比丘、当に急に乱心戯論を捨離すべし。
若し汝、寂滅の楽を得んと欲せば、ただ当に善く戯論の患を滅すべし。
これを不戯論と名づく。
(現代語訳)
比丘たちよ、もし様々の迷った考えをおこせば、心はかえって乱れる。
出家したと言っても、未だ解脱を得ることはできない。
だから比丘たちよ、速やかに心を乱す迷った考えをやめなさい。
もしそなたが涅槃の安楽を得たいと思うなら、ただ迷った考えがもたらす害を取り除くべきである。
これを「不戯論」と名づけるのだ。
(補足解説)
戯論はたわむれの論と書きますが、人間の口で言う迷いの言葉や、心で考える迷いの考えです。
これから離れなければ涅槃は得られない、ということです。
これは、これまでの7つの功徳を究竟した功徳なので、「畢竟の功徳」ともいわれます。
流通分
流通分は、お経の本論を終わり、最後に、聞いている人に教えを託される部分です。
勧修流通
汝等比丘。於諸功徳常当一心捨諸放逸。如離怨賊。大悲世尊所欲利益皆以究竟。汝等但当勤而行之。若在山間若空澤中。若在樹下閑処静室。念所受法勿令忘失。常当自勉精進修之。無為空死後致憂悔。我如良医知病説薬。服与不服非医咎也。又如善導導人善導。聞之不行非導過也。
(引用:『仏遺教経』)
(書き下し文)
汝等比丘、諸の功徳に於いて、常に当に一心に、諸の放逸を捨つること、怨賊を離るるが如くすべし。
大悲世尊の利益したまわんと欲する所は、皆以て究竟せり。
汝等、ただ当に勤めて之を行ずべし。
若しくは山間に在り、若しくは空澤の中に、若しくは樹下の閑処、静室に在りて、受けたる所の法を念じて、忘失せしむること勿れ。
常に当に自ら勉めて、精進して之を修すべし。
為すこと無くして空しく死せば、後に憂い悔いることを致さん。
我は良医の病を知りて、薬を説くが如し。
服すると服せざるとは医の咎に非ざるなり。
又善く導くものの、人を善導に導くが如し。
之を聞きて行かざるは、導くものの過に非ざるなり。
(現代語訳)
比丘たちよ、あらゆる徳において、常に一心に集中し、あらゆる怠惰な心を捨てることは、怨賊から逃れるかのようにすべきである。
大慈悲の世尊が幸せを与えようとなされたことは、すべて完全に説き切られた。
そなた方は、ただ勤勉にこれを実践しなさい。
あるいは山間において、あるいは沼地の中で、あるいは木の下の静かな場所、あるいは静かな部屋にいても、教えられた法を絶えず念じ、忘れ去ってしまうことがあってはならない。
常に自ら励んで、精進してこれを修めるべきである。
一生涯何もせずに虚しく死んでしまえば、後で悔やむことになるだろう。
私は、あたかも良医が患者の病を知って薬を処方するように、教えを説くのだ。
薬を飲むか飲まないかは医者にはどうにもならない。
また、正しく導く者が人々を善い方向へ導くようなものである。
それを聞いて行かないのは、導く者にはどうにもならない。
(補足解説)
お釈迦様はお亡くなりになる直前まで、ご自分のことよりも、残されたお弟子たちのご心配をなされ、重ねて怠惰を戒められています。
そして「自分が本当の幸せになれないのは、教えが悪いのではないか」と疑ってはならない。
私がに生まれ説きたいと思っていたことは、すでに35才った。
だから求めきらずに後悔することのないようにしなさいよ。
すでに病が完治する特効薬は完成しているのだから、病が治らずに死んでしまうのは、それを疑って飲まないから以外の何ものでもない。
早く病を全快するように、この薬を飲みなさいよ、ということです。
ちなみに大悲は、大きな慈悲の心ということです。
仏の慈悲は非常に大きいので、大悲といわれます。
人間の慈悲とはまったく異なっていますので、詳しくは以下の記事をご覧ください。
➾慈悲の意味をできるだけ簡単に分かりやすく解説
証決流通
汝等若於苦等四諦有所疑者。可疾問之。無得懐疑不求決也」爾時世尊如是三唱。人無問者。所以者何。衆無疑故
爾時阿㝹楼馱観察衆心而白仏言。世尊月可令熱。日可令冷。仏説四諦不可令異。仏説苦諦真実是苦。不可令楽。集真是因。更無異因。苦若滅者即是因滅。因滅故果滅。滅苦之道実是真道。更無余道。世尊。是諸比丘於四諦中決定無疑。(引用:『仏遺教経』)
(書き下し文)
汝等、若し苦等の四諦に於いて、疑う所有る者は、疾く之を問うべし。
疑いを懐いて決を求めざることを得ること無かれ。
その時世尊、かくの如く三たび唱えたまうに、人、問いたてまつる者無し。
所以はいかんとなれば、衆疑い無きが故なり。
時に阿㝹楼駄、衆の心を観察して、而も仏に白して言さく、
「世尊、月は熱からしむべく、日は冷ややかならしむべくとも、仏の説きたまう四諦は、異ならしむべからず。仏の説きたまう苦諦は、真実にこれ苦なり。楽ならしむべからず。集は真にこれ因なり。更に異なる因無し。苦若し滅すれば、即ちこれ因滅す。因滅するが故に果滅す。滅苦の道は、実にこれ真道なり。更に余道無し。
世尊、この諸の比丘、四諦の中に於いて、決定して疑い無し」
(現代語訳)
そなた方よ、もし苦などの四聖諦について疑問がある者は、速やかにこれを尋ねよ。
疑いを抱いたまま解決を求めないことがあってはならない。
その時世尊は、このように三度おっしゃったが、質問する者はなかった。
なぜなら、誰も疑いを持っていなかったからである。
その時、阿㝹楼駄が人々の心を観察して、仏に申し上げた。
「世尊よ、月を熱くしようとしたり、太陽を冷たいものにできたとしても、仏が説かれた四つの真理は変えることはできません。仏のお説きになられた苦の真理は、まことに苦であり、楽にはなり得ません。集はまことにその原因であり、他の原因はありません。苦がもし滅したならば、すなわちその原因も滅しております。原因が滅したから結果も滅したのです。苦を滅する道は、実に真の道であり、他の道はありません。世尊よ、これらの比丘たちは、四つの真理に明らかで、疑いはありません」
(補足解説)
お釈迦様はさらに、残された人たちをご心配になられ、何か質問があれば今のうちに聞いておけ、と3回もいわれています。
四諦(四聖諦)は、苦諦・集諦・滅諦・道諦の4つの真理のことで、仏教の全体を表しています。
詳細については、以下の記事をご覧ください。
➾四聖諦・仏教に説かれる4つの真理
仏教について疑問があれば、これが最後だから、疑問の残らないように何でも尋ねておけ、といわれています。
ですが、もう誰も質問する人はいませんでした。
その場にいたのは、すでに高い悟りを開いたお弟子たちだったのです。
代表して阿㝹楼駄が、そのことを申し上げました。
阿㝹楼駄は、釈迦十大弟子の1人で、阿那律とも言われます。
阿那律がどんなお弟子なのかについては、以下の記事に詳しく解説しています。
➾阿那律とは?ブッダの十大弟子・天眼第一となった故事
断疑流通
余疑を顕示することを明かす
於此衆中。所作未辦者。見仏滅度当有悲感。若有初入法者。聞仏所説即皆得度。譬如夜見電光即得見道。若所作已辦已度苦海者。但作是念。世尊滅度一何疾哉。
(引用:『仏遺教経』)
(書き下し文)
この衆中に於いて、所作未だ辦ぜざる者は、仏の滅度を見て、当に悲感有るべし。
若し初めて法に入ること有る者は、仏の所説を聞きて、即ち皆得度す。
譬えば夜、電光を見て、即ち道を見ることを得るが如し。
若し所作已に辦じて、已に苦海を度る者は、ただこの念を作さん。
『世尊の滅度、一に何ぞ疾かなるや』と」。
(現代語訳)
この比丘たちの集まりの中で、まだ修行を成し遂げていない者は、仏のご入滅を見て悲しみを感じるでしょう。もし法に初めて触れる者がいれば、仏の教えを聞いて、皆涅槃に至ることでありましょう。それはたとえば、夜に稲妻を見て、進むべき道を見ることができたようなものです。もし修行を成し遂げて、既に苦しみの海を渡った者は、ただこのように思うでしょう。
『世尊のご入滅は、なんと早いことか』と」。
(補足解説)
これは阿那律の言葉の続きです。
すでにある程度の悟りを開きながらも、まだ修行が完成していない人は、煩悩があるので、悲しみの心が起きるでしょう。
まだそこまでも行っていない人は、この最後のご説法を聞いて、やがて涅槃に至るでしょう。
修行が完成している人は、煩悩がないので、お釈迦様のご入滅の早いことを思うだけでしょう。
彼々の疑を断ずることを明かす
阿㝹楼馱雖説是語。衆中皆悉了達四聖諦義。世尊欲令此諸大衆皆得堅固以大悲心復為衆説汝等比丘。勿懐憂悩。若我住世一劫会亦当滅。会而不離終不可得。自利利人法皆具足。若我久住更無所益。応可度者若天上人間皆悉已度。其未度者皆亦已作得度因縁。自今已後。我諸弟子展転行之。則是如来法身常在而不滅也。
(引用:『仏遺教経』)
(書き下し文)
阿㝹楼駄、この語を説きて、衆中皆悉く、四聖諦の義を了達すと雖も、世尊、この諸の大衆をして、皆堅固なることを得せしめんと欲して、大悲心を以て、また衆の為に説きたまう。
汝等比丘、憂悩を懐くこと勿れ。
若し我、世に住すること一劫なるも、会うものは亦当に滅すべし。
会いて而も離れざることは、終に得べからず。
自利利人の法は皆具足す。
若し我久しく住するとも、更に益する所無けん。
まさに度すべき者は、若しは天上、人間皆悉く已に度せり。
其の未だ度せざる者は、皆亦已に得度の因縁を作す。
今より已後、我が諸の弟子、展転して之を行ぜば、すなわちこれ如来の法身、常に在して滅せざるなり。
(現代語訳)
阿㝹楼駄がこの言葉を述べると、集まった人々は皆、四聖諦の意味を熟知していたが、世尊は、この大衆全員の心をより強固なものにしよう思われて、大慈悲心によって、さらに比丘たちのためにお説きになられた。
比丘たちよ、憂いや悩みを抱いてはならない。
もし私が一劫の間、この世に留まったとしても、この身は必ず消えていくものなのである。
会うものがいつまでも離れないことは結局のところできることではない。
自利利他の教えは、皆十分に備わっている。
もうこれ以上私が長く留まっても、さらなる利益はないだろう。
救われるべき者は天上界であれ人間界であれ、皆既に救われた。
まだ救われていない者には、皆また既に涅槃に渡る因縁を作っておいた。
は、私の弟子たちが次々と教えを伝えて、これを実践すれば、それこそが如来の法身であり、常に存在して滅することはないのである。
(補足解説)
阿那律が全員よく分かりましたとお答えし終わると、お釈迦様は、みんな分かったのであれば、それが揺らぐことのないように一言言っておこうと、どこどこまでもご親切です。
一劫とは、気の遠くなるような長い間です。
それだけ私がこの世に留まったとしても、会者定離、出会ったものは必ず別れなければならない定めなのだ。
すでに救われるべき者は救われたし、まだ救われていない者は、これまでの仏縁によってこれからを仏教を聞いて救われるだろう。
法身については、仏教の理解が浅い人にとっては、如来は死ねば消滅すると思っていますので、残された教えが法身です。
ですがより深い教えの理解からすれば、法身とは、色も形もなく人間の認識には乗らない本当のお姿です。
みんなが仏教の教えを伝えて自他共に仏教を聞き、実践するならば、私は常にそばにいるぞ、だから早く求めきれよ、ということです。
仏が人々を導くために4種のお姿を現されるという四種の仏身については以下の記事をご覧ください。
➾仏教の「仏」(ほとけ・ぶつ・仏陀)の深い意味を解説
重ねて有為無常の相を説きて修することを勧む
是故当知。世皆無常会必有離。勿懐憂也。世相如是。当勤精進早求解脱。以智慧明滅諸痴闇。世実危脆無牢強者。我今得滅如除悪病。此是応捨罪悪之物。仮名為身。没在生老病死大海。何有智者得除滅之如殺怨賊而不歓喜
(引用:『仏遺教経』)
(書き下し文)
この故に当に知るべし、世は皆無常なり。
会うものは必ず離るること有り、憂を懐くこと勿れ。
世相かくの如し。
当に勤めて精進して、早く解脱を求め、智慧の明を以て、諸の痴闇を滅すべし。
世は実に危脆なり。
牢強なる者無し。
我今滅を得ること、悪病を除くが如し。
此れはこれ、まさに捨つべき罪悪の物なり。
仮に名づけて身と為す、生老病死の大海に没在せり。
何ぞ有智の者、之を除滅することを得て、怨賊を殺すが如くにして、而も歓喜せざらんや。
(現代語訳)
このことから分かるように、世の中はすべて無常である。
出会った者は必ず別れることがある。
憂いを抱くようなことがあってはならない。
この世の有様はこのようなものなのだ。
懸命に精進して、早く解脱を求め、智慧の光によって、あらゆる無知の闇を消し去りなさい。
世の中は実に危うく脆いものである。
強固なものは何もない。
私が今、入滅を得ることは、悪い病を取り除くようなものである。
この身は捨て去るべき罪悪に満ちたものなのだ。
仮に「身体」と名付けられているが、生老病死の大海に沈んでいるものである。
智慧のある者が、怨賊を殺すかのようにして、苦悩の根元を除き、苦を滅することができれば、どうして喜ばないことがあるだろうか。
(補足解説)
いよいよ涅槃に入ろうとされたお釈迦様は、重ねて無常を説かれます。
会者定離はこの世の定めだから、悲しんではならない。
早く解脱できるよう、精進しなさい。
この世には真実あてになる幸せは一つもない。
肉体も苦しみを生み出す罪悪に満ちている。
はやく苦しみの根元をなくし、本当の幸せの身になりなさい。
生老病死の大海とは、生老病死は四苦といわですれる人生における四つの苦しみのこと。
八苦について、詳しくは以下の記事をご覧ください。
➾四苦八苦の意味とは?苦難を乗り越える方法を解説
付属流通
汝等比丘。常当一心勤求出道。一切世間動不動法。皆是敗壊不安之相。汝等且止。勿得復語。時将欲過我欲滅度。是我最後之所教誨
(引用:『仏遺教経』)
(書き下し文)
汝等比丘、常に当に一心に、勤めて出道を求むべし。
一切世間の動不動の法は、皆これ敗壊不安の相なり。
汝等、且く止みね、また語うことを得ること勿れ。
時、まさに過ぎなんと欲す、我滅度せんと欲す。
これ我が最後の教誨する所なり。
(現代語訳)
比丘たちよ、常に一心に、勤めて解脱の道を求めなさい。
この三界のものごとは、すべて無常なものばかりで、不安な相を示している。
そなた方よ、しばらく静粛にして、また物を言うことを止めよ。
私が入滅すべき時が過ぎようとしている。
私は滅度しようと思う。
これが私の最後の教えである。
(補足解説)
一切世間というのは、三界のことで、動とは三界のうち欲界、不動とは、色界と無色界です。
この世のどんな人が出会う物事も、絶えず変化し、すべて移り変わっていくから、不安はなくならない。
だからそんな苦しみの世界を離れて、本当の幸せになりなさい。
そしてしばらく静かにするよう、お弟子方を制止されると、
「時、まさに過ぎなんと欲す」といわれています。
仏の入滅される中夜(現在の午後10時から翌日午前2時)は、今まさに過ぎようとしている、ということです。
お釈迦様は最後の最後まで、本当の幸せになるよう、私たちのことばかり心配され、涅槃の雲に隠れられたのでした。
これがお釈迦様の遺言なので、私たちは早く仏教を聞いて、本当の幸せにならなければなりません。
遺教経から学ぶこと
このように、お釈迦様の最後のご説法、いわば御遺言である『遺教経』には、八大人覚といわれる少欲、知足、寂静、正念、正定、精進、正慧、無戯論の8つの善を勧め、最後に、早く智慧の光明によって無明の闇を破られて、本当の幸せになりなさいと言い残されています。
では、無明の闇とはどんな心で、どうすればなくせるのか、
なくなったらどうなるのかなどは、仏教の真髄ですので、
以下のメール講座と電子書籍で分かりやすくまとめておきました。
ぜひ見ておいてください。
関連記事
この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか一人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。インターネットの技術を導入して日本仏教学院を設立。著書2冊。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者3千人、メルマガ読者5万人。ツイッター(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)