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生きる意味を、知ろう。

生きる意味が欲しい…教えてください

「生きる意味が欲しい…教えてください」
「何のために生きているのか、誰か教えてほしい」

そう思って検索された方は、一度や二度ではなく、
何度も自分で考えてこられたのではないでしょうか。
考えても考えても、答えが出ない。
本を読んでも、人に聞いても、どこか的の外れた言葉が返ってくるだけです。

ですから今度は、自分で考えるのをやめて、
「教えてほしい」とハッキリ言葉にされたのだと思います。

この問いは、心が弱いから出てくるのではありません。
むしろ反対です。
ごまかさずに人生を見つめている人ほど、必ずこの問いにぶつかります。
お金があっても、仕事がうまくいっていても、家族に恵まれていても、
ふとした時に、心の底から同じ声が聞こえてくるのです。

そこでこの記事では、あなたが今まで聞かされてきた答えがなぜ心に響かなかったのか、
そして仏教だけが教える万人共通の生きる意味は何なのか、
順を追って分かりやすく解説していきます。

生きる意味には答えがあります

結論から申し上げます。
生きる意味には、ハッキリした答えがあります。
しかもそれは、あなただけの特別な答えではありません。
生まれた時代も、国も、性別も、境遇も関係なく、すべての人に共通する答えです。

お釈迦さまが説かれた答え

それを教えられたのが、約2600年前にインドで仏教を説かれたお釈迦さまです。
お釈迦さまがお生まれになった時に仰ったといわれるお言葉が、お経に残されています。

天上天下(てんじょうてんが)
唯我独尊(ゆいがどくそん)
三界皆苦(さんがいかいく)
吾当安此(ごとうあんし)

「天上天下唯我独尊(てんじょうてんがゆいがどくそん)」は、聞かれたことがあるかもしれません。
ところが、たいていは「自分だけが偉い」という意味に誤解されています。
お釈迦さまが、そんなことを仰るはずがありません。

「唯我独尊」は自分だけが偉いという意味ではない

実は、このお言葉の「我」は、お釈迦さまご自身のことではないのです。
お釈迦さまがご自身を指される時は、「吾」と仰います。
ですから「唯我独尊」の「我」は、私たち人間すべてを指されたお言葉なのです。

天の上にも、天の下にも、大宇宙広しといえども、たった一つ。
私たち人間は、たった一つの尊い目的を果たすために生まれてきた、
と仰っているのです。

続く「三界皆苦(さんがいかいく)」とは、迷いの世界はすべて苦しみである、ということ。
そして「吾当安此(ごとうあんし)」は、「吾、まさにここに安んずべし」と読みます。
その苦しみの世界を、崩れない安心の世界に変えてみせる、と仰ったお言葉です。

まとめますと、こうなります。
苦しみに満ちたこの人生を、何が起きても崩れない安心満足の世界に変える。
それが、私たち人間に共通する、たった一つの尊い生きる意味です。

ところが、これだけ読んでも、まだピンとこないと思います。
なぜなら私たちは普段、これとはまったく違う答えばかりを聞かされて生きているからです。
まずはそちらから見ていきましょう。

よく返ってくる4つの答え

「生きる意味を教えてください」と口にした時、返ってくる答えは、
だいたい4つに分かれます。
あなたも、どれかを言われたことがあるのではないでしょうか。

1.誰かに必要とされること

最もよく聞く答えです。
あなたを大切に思っている人が必ずいる、その人のために生きればいい、といわれます。
温かい言葉です。

ところが、この答えにはハッキリした弱点があります。
「そんな人はいません」と言われたら、そこで終わってしまうのです。

しかも、今その人がいたとしても、人の心は変わります。
関係は壊れます。
相手はいつか先に亡くなります。
相手次第で消えてしまうものが、どうして生きる意味の土台になるでしょうか。

2.好きなことを見つけること

これも定番の答えです。
趣味でも仕事でも、打ち込めるものがあれば人生は充実する、といわれます。
確かに、夢中になっている間は空白を忘れられます。
ですがそれは、忘れているだけで、解決したのではありません。
手が止まった時に、また同じ問いが戻ってきます。

それに、「好きなことを見つけなさい」と言われて困っている人にとって、
この答えは宿題を出されただけです。
見つからないから聞いているのに、「見つけなさい」と返されている。
これでは、生きる意味が分からない気持ちは、少しも軽くなりません。

3.生きる意味なんてない

近年、特に増えている答えです。
どうせいつか死ぬのだから意味などない、考えるだけ無駄だ、
目の前のことを楽しめばいい、といわれます。
一見、潔く聞こえます。

ですが、これは答えではありません。
問いを取り下げさせているだけです。

もし本当に生きる意味がないのなら、
なぜ苦しい思いをしてまで、生き続けなければならないのでしょうか。
「意味はない、でも生きろ」というのは、行き先を告げずに「とにかく走れ」と言うのと同じです。
走れば走るほど、虚しくなるだけです。

4.生きてみなければ分からない

年配の方や識者から、よく返ってくる答えです。
人生は旅のようなもので、旅を終えてみなければその意味は分からない、といわれます。
深みのある言葉に聞こえます。

ところが、よく考えてみてください。
旅を終えるとは、死ぬということです。
死ななければ分からないのなら、生きている間はついに分からないことになります。
しかも、死んだら分かるという保証もありません。

これでは「生きる意味を教えてください」と尋ねた人に、
「死ぬまで待ちなさい」と答えているのと変わらないのではないでしょうか。

哲学者や思想家がこの問いにどう答えてきたかは、以下の記事をご覧ください。
➾哲学で生きる意味が分からない理由とは

なぜどの答えも心に響かないのか?

これらの答えは、言っている人が不誠実なわけではありません。
ほとんどは善意です。
それでも心に届かないのには、2つのハッキリした理由があります。

自分で見つけるものではないのか

4つの答えには、1つの共通した前提があります。
生きる意味は、自分で見つけたり、自分で作ったりするものだ、という前提です。

「生きる意味は人それぞれ」
「自分で見つけるからこそ価値がある」
そういわれると、なるほどと思われるかもしれません。

ですが、少し考えてみてください。
自分で見つけたものは、自分の状況が変われば崩れてしまいます。

仕事にやりがいを見つけた人は、その仕事を失えばどうなるでしょうか。
子供の成長を生きがいにしていた人は、子供が巣立てばどうなるでしょうか。
見つけたものが立派であるほど、失った時の落差は大きくなります。

人それぞれ違うということは、
言い換えれば、条件が変われば消えてしまうということです。
それでは、苦しい時の支えにはなりません。
本当に必要なのは、どんな状況になっても変わらない、万人に共通する答えのはずです。

すべては死の前で崩れる

もう1つの理由は、もっと決定的です。
どの答えも、死の前で崩れてしまうからです。

必要としてくれる人がいても、好きなことがあっても、楽しい日があっても、
死ぬ時には一つも持っていけません。
財産も、地位も、名誉も、家族も、健康な体さえも、
すべて置いていかなければならないのです。

豪華客船の中で、どんなにご馳走を並べても、
その船が沈むと分かっていたら、味は分からないでしょう。
私たちが感じている空白は、料理が足りないから起きているのではありません。
船が沈むと知っているから起きているのです。

生きる意味がわからないと感じる4つの時

生きる意味がわからないと感じるのは、4つの決まったタイミングがあります。

1.役割を失った時

定年を迎えた時。
子育てが終わった時。
仕事を辞めた時。

今まで「自分は何のために生きているのか」を考えずに済んでいたのは、
目の前にやるべきことがあったからです。
それがなくなると、隠れていた問いが表に出てきます。

2.一人だと感じた時

結婚していない、友達がいない、誰にも必要とされていない。
そう感じた時に、生きる意味がわからなくなったといわれる方は少なくありません。

3.取り柄がないと感じた時

人と比べて、何もできない。
何者にもなれなかった。
そういう時に、自分は生きている意味があるのだろうかと思います。

4.何もかも順調なのに虚しい時

ところが、最も見過ごされているのが、この4つ目です。
仕事も家庭も健康も、人からうらやましがられるほど恵まれている。
それなのに、心の底が満たされない。
これは、贅沢な悩みだといわれて、誰にも打ち明けられません。

ですがこの4つ目こそ、この問題の本質をよく表しています。
もし生きる意味が、状況で決まるものならば、
恵まれた人は虚しくならないはずです。
ところが実際には、そうではありません。

昔から、こういわれています。
「波の音 聞くがいやさに 山家に住めば
   また松風の 音がするなり
」

波の音がうるさくて眠れない。
だから海のそばを離れて、山に家を建てました。
これで静かに眠れると思ったら、今度は松の木を渡る風の音がうるさい。
場所を変えても、変わらなかったのです。

私たちも同じではないでしょうか。
仕事が変われば、結婚すれば、お金が入れば、
この気持ちは晴れるはずだと思って進んできました。
ところが、そこに着いてみると、また別の音が聞こえてくるのです。

状況を変えても解決しないということは、原因が状況にないということです。
では、原因はどこにあるのでしょうか。

崩れる幸福と崩れない幸福

仏教では、条件が崩れれば一緒に崩れてしまう幸福を
「相対の幸福」と教えられています。
お金、健康、家族、恋愛、仕事、名誉。
私たちが幸せと呼んでいるものは、ほとんどがこの相対の幸福です。

相対の幸福は、あった方がいいに決まっています。
ですが、それだけでは決して、心の底からの安心も満足も得られません。
ですから、どれだけ手に入れても、「これで満足だ」と言いきれないのです。

昔から、こういわれています。
「永久に 満ちることなし 欲の山」

欲しいものが手に入れば、次が欲しくなります。
頂上だと思った所に立てば、さらに上の峰が見えてきます。
この山に、終わりはありません。
登り方を工夫しても解決しないのです。
登る山を間違えているのですから。

先ほどの「三界皆苦」とは、このことを仰ったお言葉です。
どこへ行っても、何を手に入れても、苦しみはなくならない。

これに対して、仏教に教えられる「絶対の幸福」は、
何が起きても崩れない幸福です。
「吾当安此」と仰ったのは、この絶対の幸福になりなさい、ということなのです。

では、どうすればそこへ出られるのでしょうか。
それを知るには、まず「なぜ生きる意味が分からないのか」という原因を
ハッキリさせなければなりません。

生きる意味が分からない原因とは?

仏教の目的は、漢字四字で「抜苦与楽(ばっくよらく)」と教えられています。
苦を抜き、楽を与える、ということです。

ここでいう「苦」とは、失恋や病気や貧しさといった、
一つ一つの苦しみのことではありません。
それらすべての苦しみを生み出している大もとである
「苦悩の根元」のことです。

では、その苦悩の根元とは何かというと、
死んだらどうなるか分からない心のことです。

ここで、「自分は死んだ後のことなど考えたこともない」と思われたかもしれません。
ですが、考えていないことと、心にないことは違います。

私たちが「どうせいつか死ぬのに」と思って虚しくなる時、
「何をやっても最後は無駄ではないか」と力が抜ける時、
その元にあるのは、行き先のわからない暗さです。

暗い夜道で、目的地もわからないまま歩かされている。
だから、どんなに色々なものを手に入れても、心が晴れないのです。
手にしているものが足りないのではありません。
行く先がわからないからです。

生きる意味が分からないのは、あなたの努力不足でも、
感じ方の問題でもありません。

この苦悩の根元があるからだと教えられています。
逆にいえば、原因がハッキリしているということは、
それさえ解決すればいいということです。

苦悩の根元がなくなるとどうなるのか?

では、その苦悩の根元は、どうすればなくなるのでしょうか。
ここが最も大事なところです。

苦悩の根元は、自分の力でどうにかするものではありません。
暗い部屋を、目を凝らして明るくすることができないのと同じです。
必要なのは、光です。
自分が頑張って光になるのではなく、光の方から来てもらうより仕方がないのです。

その光を受けるにはどうすればよいかということが、仏教には説かれています。
その力によって苦悩の根元が破られた時、はじめて
「よくぞ人間に生まれたものぞ」とハッキリします。

生きる意味を頭で理解するのではありません。
生まれてきてよかったということが、自分の身にハッキリするのです。

その時、苦しみがなくなるわけではありません。
病気にもなりますし、思い通りにならないことも起きます。
ところが、その苦しみの波の上を、明るく渡っていける身になるのです。

沈む船に乗っていた人が、沈まない船に乗り移ったようなものです。
波はそのままでも、乗っている船が違えば、景色はまったく変わります。
これが、お釈迦さまが「吾当安此」と仰った世界です。

生きているうちに果たせるのか?

ここで多くの方が、こう思われます。
「それは死んでからの話でしょう」と。

違います。
本当の仏教の教えを漢字四字で表すと、「平生業成(へいぜいごうじょう)」と教えられます。
「平生」とは、死んだ後ではなく、生きている平生ただ今ということ、
「業成」とは、人生の一大事業が完成するということです。

生きているうちに、生きる意味はハッキリする。
これが仏教の立場です。

先ほどの「生きてみなければ分かりません」という答えとは、
正反対であることがお分かりでしょうか。
仏教は、臨終まで答えを待たせないのです。

お釈迦さまが「吾当安此」と、未来形ではなく
今この場のこととして仰ったのも、そのためです。
果たせるあてのないことを、勧められるはずがありません。

今、問えていることの意味とは?

最後に、一つだけお伝えしたいことがあります。
お釈迦さまは、人間に生まれることの難しさを
「盲亀浮木(もうきふぼく)のたとえ」で教えられています。
『雑阿含経(ぞうあごんきょう)』に説かれている、お弟子の阿難とのやりとりです。

果てしなく広い海の底に、目の見えない亀が一匹住んでいます。
その亀が、100年に一度だけ、海面に浮かび上がります。
その広い海には、真ん中に穴の空いた丸太が一本、波に漂っています。
「100年に一度浮かび上がった亀の頭が、たまたまその穴に入ることがあるだろうか」。

お釈迦さまにそう尋ねられた阿難は、「そんなことは考えられません」と答えました。
「絶対にないか」と重ねて聞かれると、
阿難は「絶対とは申しかねますが……」と口を濁します。

「絶対ないかと言われれば、限りない歳月のうちには、
亀が浮木の穴に頭を入れることがあるかもしれませんが、
ないといってもいいくらい、難しいことです
」
阿難が答えると、お釈迦さまは、こう仰いました。
「私たちが人間に生まれることは、それよりもなお有ることが難しいのだよ」と。
「有り難う」という言葉は、ここから来たといわれています。

そのうえで、お釈迦さまはこう説かれています。

人身受け難し、今已(すで)に受く。
仏法聞き難し、今已(すで)に聞く。
この身今生に向って度せずんば、
さらにいずれの生に向ってか、この身を度せん。

「生まれ難い人間に生まれてよかった。
聞き難い仏法を聞けてよかった。
今、この人生で人間に生まれた目的を果たさなければ、一体いつ果たすのか」

そう問いかけられているお言葉です。

「生きる意味を教えてください」という問いを持たれた、その一点で、
あなたはすでに、多くの人が通り過ぎてしまう場所に立っておられます。
この問いを持てたこと自体が、めったにないことなのです。

どうかこの問いを、「答えの出ないもの」として棚に上げないでください。
答えは、あります。
生きる意味そのものについては、以下の記事でも解説しています。
➾生きる意味とは?分からない人へ哲学者と仏教の言葉を通して答えます。

では、どうすれば苦悩の根元がなくなり、
本当の生きる意味がハッキリするのかというと、
まず、その苦悩の根元が何なのかを知らなければなりません。

それについては、メール講座と、電子書籍にまとめてあります。
どちらも無料ですので、一度見てみてください。

➾目次(記事一覧)へ

この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)

東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細・お問い合わせ

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著作

京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作に引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。