仏教の教えの基本を簡単に解説
仏教にはたくさんのお経があり、漢字ばかりで説かれています。
内容も非常に深く、たくさんの宗派に分かれていて、初めての人にとっては、どこから手をつけていいのか分かりません。
仏教の教えとは何かを調べると、三法印、空(色即是空)、四聖諦、十二因縁、八正道など言われます。
➾三法印とは
➾色即是空とは
➾四聖諦とは
➾十二因縁(十二縁起)とは
➾八正道とは
それぞれについては上記で解説していますが、以下では、仏教の教えの基本について簡単にわかりやすく解説します。
詳しいことについては、最後にこのカテゴリの記事をご案内しますので、そちらからご覧ください。
仏教はお釈迦さま(ブッダ)の教え
仏教とは何か、参考に仏教辞典を見てみましょう。
仏教
ぶっきょう[s:buddha-śāsana]
仏の説いた教え。
現代では広く釈尊を開祖とする宗教の名として、キリスト教、イスラーム教と並べて用いられる。
しかし、もともとは仏陀の説いた教説の意で、今日のような総合的な宗教体系の意ではない。
例えば、「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」という七仏通戒偈では、諸仏の教え(śāsana)を意味している。
今日の仏教に近い語としては、<仏法>あるいは<仏道>の語が用いられた。
儒教・仏教・道教で三教とされる場合も、教説の意である。
「たとひ諸根を具すとも、仏教に遇ふことまた難し」〔往生要集大文第1〕(引用:『岩波仏教辞典』第三版)
少し難しい言葉遣いで書かれていますので、もっと分かりやすく解説します。
「仏教」とは、「仏の教え」、「仏の説かれた教え」ということです。
仏とは、約2600年前、インドで活躍された、お釈迦さまのことです。
お釈迦さまが35歳で仏という大宇宙最高の悟りを開かれてから、
80歳でお亡くなりになるまでの45年間、説かれた教えを仏教といいます。
お釈迦様について詳しくは、下記をご覧ください。
➾ブッダ(お釈迦さま)の誕生から悟りを開き入滅までの生涯と教え・ブッダと釈迦の違い
仏教の教えとは
アンケートの結果
仏教がお釈迦さまの教えであることは、
正しく理解されているのでしょうか?
実際にアンケートを採ってみたところ、
このような結果になりました。
いつもありがとうございます。
— おさなみ(長南瑞生)生きる意味&ブッダの教え@仏教ウェブ入門講座 (@M_Osanami) December 4, 2021
仏教についての意識調査にご協力ください。
Q.仏教とは「仏の教え」。
では仏の教えとは?
回答は本日中でお願いします。
1.先祖の教え 4.6%
2.死んだ人の教え 2.3%
3.釈迦の教え 86.2%
4.ドラえもんの教え 6.9%
このアンケートで86%の人が正しく理解しているように、
仏教というのは、お釈迦さまの教えのことです。
仏のなされることは何?
仏教で教えは非常に重要です。
何しろ、仏のさとりを開かれた方は、奇跡を起こして病気を治したり、
不思議な力で商売繁盛させたりして、人々を幸せにするのではなく、
ただ教えを説かれることによって、人々を幸せに導かれるからです。
そのことを『ダンマパダ』にも、このように説かれています。
汝らは(みずから)つとめよ。
もろもろの如来(=修行を完成した人)は(ただ)教えを説くだけである。(引用:『ダンマパダ』276)
「如来」というのは仏と同じことです。
仏は教えを説かれるだけなので、
私たちは仏の説かれた教えを聞いて、
その教えの通りに進んでいって、
幸せになりなさい、ということです。
その仏方の一人であり、地球上で唯一仏のさとりを開かれた釈迦の説かれた教えは、
今日お経として書き残されています。
それらのお経は、全部合わせると、一切経七千余巻といわれるたくさんのお経となります。
その一切経に説かれていることを読めば、仏教の教えを知ることができます。
お経については下記をご覧ください。
➾お経をあげる(唱える)・読経の意味や効果は?お経の数、種類、宗派別のまとめ
では、お経にはどのようなことが説かれているのでしょうか。
仏教の教えの大きな2つの山
一切経に説かれていることを知れば、
仏教の教えが分かるとは言っても、
一切経は、あまりにもたくさんありますので、
「木を見て森を見ず、森を見て山を見ず」
といわれるように、細かい所にとらわれると、全体が分からなくなります。
まず、仏教には何が教えられているかというと、一言でいうと、すべての人が本当の幸せになれる道です。
その「すべての人が本当の幸せになれる道」には、どんな山があるのかというと、以下の2つの大きな山があります。
- 目的地である本当の幸せ
- 目的地へ導くための道のり
それぞれどんなことが教えられているのでしょうか?
仏教の目的地
まず1つ目は、目的地である本当の幸せです。
仏教を聞く目的は?
仏教の目的地である本当の幸せは、
絶対変わらない幸せです。
今日の言葉でいえば、絶対の幸福です。
仏教を聞かなければ絶対の幸福があることも分かりませんので、私たちが求めている幸せは、続かない幸せです。
お金や財産、地位、名誉など、手に入れたときは喜べるのですが、この世は諸行無常の世界です。この世のすべては続きませんので、喜びは一時的で、すぐに色あせてしまいます。
どんなに努力して手に入れたものも、すぐに満たされなくなり、ワンランク上のものが欲しくなります。
そして、次の幸せを目指して苦労しなければなりません。
そしてそのワンランク上のものを手に入れても、喜びは一時的で、すぐにまた、さらにワンランク上のものが欲しくなります。
どこまで行ってもこの繰り返しです。
私たちの命には限りがありますので、これを繰り返しているうちに一生が終わってしまいます。
このような続かない幸せは、どこまで求めても、これで満足したということがありませんから、死ぬまで求め続け、苦しみ続けなければならないのです。
そして最後死んで行くときには、必死でかき集めたお金も財産も、何一つ持っては行けません。
一生を費やして手に入れたものをすべて置いて、死んで行くのです。
このように、変わらない幸せを知らず、続かない幸せばかりを求めて苦しんでいる人に、絶対の幸福を教えられたのが仏教です。
米とワラのたとえ
絶対の幸福になれば、強く明るくたくましい生き方ができるようになります。
ですがそれは、絶対の幸福になったことによる付録のようなもので、目的でありません。
付録のために仏教を求めても、付録もやってこないことになります。
このことをお釈迦さまは、こう説かれています。
たとえば人ありて田を耕し稲を種えるがごとし。
ただ子実を求めて藁幹を望まず。
子実成熟すれば子を収穫するのみ。
藁幹求めずして自然に得る。
(漢文:譬如有人耕田種稻 唯求子實不望藁幹 子實成熟收獲子已 藁幹不求而自然得)(出典:『蘇婆呼童子請経』)
これは、田んぼを耕し稲を植えるようなものだ。
その目的は、米であって藁ではないが、
稲が成熟して米がとれると、必ず藁がついてくるようなものだ、
ということです。
これは何をたとえられているかというと、
米が真の幸福で、藁は強く明るくたくましい生き方をたとえられています。
仏教を聞く目的は、あくまで真の幸せであり、絶対の幸福なのです。
そして、すべての人は幸福を求めて生きていますが、
それは儚く消える続かない幸せではありません。
すべての人が求めているのは、変わらない幸せですから、
この絶対の幸福が、本当の生きる目的なのです。
言葉を離れた絶対の世界
ところが、絶対の幸福は、知らない人に言葉で説明することができません。
ちょうど、タピオカを食べたことのない人に、タピオカの味を説明することができないようなものです。
言葉では表現できないので、相手の知っている、似たようなもので説明します。
「ナタデココみたいな味だよ」といっても、ナタデココとは味が違います。
「こんにゃくみたいな味だよ」といっても、こんにゃくの味とも違います。
「アロエみたいな味だよ」といっても、アロエも味が違います。
「白玉みたいな味だよ」といっても、白玉とも違います。
「わらびもちみたいな味だよ」といっても、わらびもちとも違います。
「ぶどうみたいな味だよ」といっても、ぶどうとも違います。
似たようなもので表現しようとしても、表現できません。
しかし、言葉で表現できなくても、一口食べれば分かります。
分かるのは、チュルッとタピオカを食べた瞬間です。
そして、タピオカを食べた人からすれば、
「これ美味しいよ、食べてみなよ、食べたら分かるよ」
と言わずにおれなくなります。
しかし味を聞かれても、タピオカの味はタピオカの味としかいいようがありません。
もし強いて正確にタピオカの味を言うとすれば、ナタデココに非ず、こんにゃくに非ず、アロエに非ず、白玉に非ず、わらびもちに非ず、ぶどうに非ず、と「非ず」で表現するしかありません。
このような続かない幸せである食べ物の味でさえ表現できないのに、ましてや絶対変わらない絶対の幸福の体験です。
絶対の幸福は、絶対の世界であり、言葉を離れた世界なので、本来、言葉で表現できるものではありません。
言葉に表したものはもう絶対の世界ではないのです。
しかし、言葉で言い表せないからといって、言葉を遣わなければ、伝えることはできません。
その絶対の世界を、仏教では色々な言葉で表そうとされています。
例えばお経にその絶対の世界のことを「摂取不捨」と説かれていますが、これは、がちっとおさめとって捨てられないという意味です。
「無碍の一道」というのは、一切のさわりがさわりとならないたった一つの世界です。
こうしてお釈迦さまは、こう話せば分かってもらえるだろうか、どう話せばみんなが正しく絶対の幸福を理解して求めるようになるだろうかと、言葉を尽くして絶対の世界を明らかにしようとされ、ついに一切経は七千余巻といわれる膨大なお経になったのです。
それだけ多いということは、説かれている絶対の世界がそれだけ深いということです。
お釈迦さまの広長の舌相をもってしても、何億年かかっても説き尽くせないといわれています。
しかしながら、目的地をまずよく理解しなければ、正しく求めることができませんし、
正しく求めることができなければ、絶対の世界にも出られませんから、
非常に重要なことなのです。
そうはいっても。絶対の世界は、最後は言葉では言い表せない世界です。
例えば仏教に教えられた絶対の幸福になられた親鸞聖人は、色々な言葉で教えられていますが、最後はこう言われています。
行に非ず・善に非ず、
頓に非ず・漸に非ず、
定に非ず・散に非ず、
正観に非ず・邪観に非ず、
有念に非ず・無念に非ず、
尋常に非ず・臨終に非ず、
多念に非ず・一念に非ず。
ただこれ不可思議・不可称・不可説の信楽なり。
信楽というのが絶対の幸福のことです。
「非ず」を14回繰り返されて最後に不可思議・不可称・不可説といわれています。
不可思議というのは想像ができない、
不可称というのは言うことができない、
不可説というのは説くことができない、ということです。
このように一切の人智を否定された、説くことも言うことも想像もできない絶対の世界が仏教に説かれる目的地なのです。
言葉を離れた世界ですから、言葉にとらわれている間はまだその世界に出ていないということです。
目的地へ導く道のり
このように仏教には、すべての人の生きる目的である、絶対の幸福が教えられています。
しかし、あとは自分で頑張れと言われても、私たちは絶対の幸福になれません。
そこで次に仏教では、絶対の幸福の世界へ導くための教えを説かれているのです。
言葉を変えれば、生きる目的と、それを果たす道のりを教えられているのが仏教です。
お釈迦さまが私たちを絶対の世界へ導くために説かれた方便といいます。
方便といっても、嘘も方便といわれるように、嘘のことではありません。
仏教では、真実へ導くために絶対に必要なものを方便といいます。
方便については、以下に詳しく解説しましたのでそちらをご覧ください。
絶対の世界への道のりが、方便であり、仏教に説かれる2つ目の大きな山です。
ところが、お釈迦さまは絶対の幸福へ導こうとされているのですが、価値観は人それぞれですから、何を信じて幸せになろうとしているかは、人によって違います。
お金を信じて幸せになろうとしている人もあります。
妻や夫、子供を信じて幸せになろうとしている人もあります。
仕事を信じて幸せになろうとしている人もあれば、
趣味や生きがいを信じて幸せになろうとしている人もあります。
中には死んだ人や動物を神と信じて幸せになろうとしている人もあれば、
人間の妄想が生みだした神を信じて幸せになろうとしている人もあります。
何かのイデオロギーを信じて幸せになろうという人もあれば、
自分の信念や能力を信じて幸せになろうとしている人もあります。
何を信じるかは人それぞれ違いますが、みんな何かを信じて幸せになろうとしています。
色々な価値観を持った人がいますが、それらの信じているものは、いずれもすぐに色あせる、続かない幸せです。
やがて必ず裏切られて、苦しまなければなりません。
このような私たちを、お釈迦さまはどのように導かれているのでしょうか?
お釈迦さまの導くための手段
お釈迦さまは、このような色々な価値観で続かないものを信じて苦しみ続けている私たちを、決して変わることのない、絶対の幸福まで導くために、まず因果の道理を教えられています。
因果の道理については、以下に詳しく解説しましたのでご覧頂ければと思います。
因果の道理を一言でいいますと、
「すべての結果には必ず原因がある」ということです。
これには、どんな人も納得せざるを得ません。
全人類を因果の道理で統合されているのです。
「すべての結果には必ず原因がある」
ということは、私たちの幸福や不幸という結果にも、必ず原因があります。
その原因と結果の関係を、お釈迦さまはこう説かれています。
善因善果
悪因悪果
自因自果(お釈迦さま)
これは、善い行いは善い結果、悪い行いは悪い結果を引き起こす、
自分のまいたたねは自分が刈り取らなければならない、ということです。
自分の幸せは、自分の善い行いが生みだし、
不幸や災難は、自分の悪い行いが生みだしたものだということです。
仏教の根幹は因果の道理ですから、因果の道理が分からなければ仏教は分かりません。
この因果の道理が知らされれば、必ず悪をやめて、善に向かおうとします。
釈迦一代の教えは、一言でいうと、「廃悪修善」なのです。
廃悪修善とは、悪をやめて、善に向かいなさい、ということです。
これは、お釈迦さまだけでなく、仏のさとりを開かれた方が共通して説かれる教えです。
有名な七仏通戒偈にはこう教えられています。
諸悪莫作
衆善奉行
自浄其意
是諸仏教(法句経)
これは、もろもろの悪をなすことなかれ
もろもろの善を行じたてまつれ
自らその意をきよくせよ
これ諸仏の教えなり、ということです。
この教えの通りに進んで行くとどうなるのでしょうか?
教えの通りに実行すると?
「善いことすれば善い結果、悪いことすれば悪い結果」
というのは、頭で理解するだけなら簡単です。
子供でも知っています。
ところが、これを信じて実行するということになりますと、大変です。
私たちは自惚れていますから、やろうと思えば簡単だと言って、やろうとしないのです。
また、自惚れ強い私たちは、善いたねをまいたら善い結果がくるのならすぐに信じられます。
自分が頑張ったのだからもっと善い結果が来ていいのに、少ないのではないかと思います。
ところが悪因悪果は受け入れられません。
自分に不幸や災難がきたときは、自分のたねまきが生みだしたと心から思えるでしょうか。
あいつのせい、こいつのせいだと他人のせいにします。
自分の行いを反省できないということは、因果の道理が分かっていないのです。
私たちがすぐに教えの通りにするなら、お釈迦さまは1回説かれればよかったのですが、実行しないので、お釈迦さま45年間、因果の道理を説き続けられ、一切経はその数七千余巻になったのです。
こうして仏教を聞いて、教えの通りに進んでいきますと、仏教を聞かなければ知らなかった、欲や怒りや愚痴の煩悩でできた本当の自分の姿が知らされてきます。
だから、因果の道理を1回聞いて、それは聞いたことがあるからもう聞かなくていい、というものではありません。
因果の道理がよく分からなければ、本当の自分の姿も分かりませんし、死んだらどうなるかも分かりません。
因果の道理が知らされて、自分の姿が知らされてくると、この世も未来もいい結果が来るはずないと知らされてきますので、ますます善に向かおうとします。
そして最初は自覚がありませんが、進んで行くと、だんだんと私たちが幸せになれない根本原因である、苦悩の根元が知らされてきます。
こうして仏教を聞いて教えの通りに進んで行き、最後、苦悩の根元が断ち切られた瞬間に、絶対の幸福になれるのです。
仏教に説かれた目的地である、言葉を離れた絶対の世界に出ることができます。
仏教を聞けば、どんな人でも、生きているときに、この絶対の幸福の世界に出ることができるのです。
このように、仏教の教えには2つの大きな山があります。
1つ目は目的地、2つ目は道のりです。
言葉をかえれば、本当の生きる目的と、どうすればその目的を果たせるか、ということです。
この両方を知らなければなりません。
- 本当の生きる目的
- どうすればその目的を果たせるか
では仏教を聞いて進んで行くと知らされてくる、苦悩の根元とは何か、
どうすれば苦悩の根元をなくすことができるのかは、
仏教の真髄ですので、電子書籍とメール講座にまとめておきました。
一回見てみてください。
身近な問題に関する記事
因果の道理に関する記事
真実の自己に関する記事
死後に関する記事
悟りに関する記事
この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)