虚しい人生の理由と対処法

生きがいを失って虚しい気持ちになることは誰でもあります。
やりたいことができなかったり、恋人にかまってもらえないと虚しく感じます。
それともう一つ、人並み以上の幸せを手に入れたのに虚しく感じたり、
趣味に没頭しても、何をやっても虚しいと感じることがあります。
それは一段と深い虚しさです。
生きがいをなくして虚しいなら、新しい生きがいを見つければ虚しさは解消されます。
ですが、趣味や仕事などではごまかせない人生の虚しさは、どこからくるのでしょうか?
そして、心から充実した人生にするにはどうすればいいのでしょうか?

虚しい人生の実態

虚しい気持ちになりやすいのは、好きな人と会えない時です。
楽しいデートの後でも、別れると虚しくなります。

小学校、中学校、高校と、たくさんの友達や、恋人ができても、卒業すると会わなくなります。
人間関係も一時的で、移ろいゆくものだと知らされると、
虚しさを感じるようになります。

やがて社会に出て嬉しいことも悲しいこともありますが、何か虚しい気持ちがつきまといます。

仕事に頑張れば、やがて悠々自適な生活をして、
別に不満はないのですが、
なぜかふと、虚しい気持ちを感じることがあります。

ずっと会社で働いてきて、最後、退職すると、
今まで何のために働いてきたのか
と虚しい気持ちを感じます。

そして、人生を振り返ってみても、大変だった割に
これといって何もなく、何も残っていないことを、
虚しく感じます。

2通りの虚しさ

このような虚しさには、実は2通りあります。
1つ目は、誰でも感じる虚しさで、生きがいを失った時の虚しさです。
例えば、好きな人と別れた時の虚しさや、楽しいことが終わった時の虚しさです。
頑張って作り上げたものが壊れてしまったり、努力が無駄だったと分かった時にも感じます。
そんなことになれば、誰でも、努力の甲斐がなかったと虚しく感じます。

2つ目の虚しさは、自分の心をよく見つめている人でなければ感じません。
それは、生きがいがあるのに感じる虚しさです。

その虚しさは、人並みには幸せな気がしているけれど、
それでもやっぱりどこか虚しいとか、心にぽっかり穴が空いた感じです。
特に何かが足りないというわけではないけれど、
やっぱり何か物足りない、という感じがします。
ところがその足りない何かが、分からないのです。

そこで、よく言われるように、
自分の才能を活かして他人に喜ばれるような仕事に頑張ってみたり、
生きがいとなる、自分のやりたいことをやってみますが、
何をしていても虚しい心が胸を覆っています。
これは生きがいを失った虚しさではないので、心の隙間を埋めることはできません。
やっぱり毎日が虚しくて、限りある人生が刻々と減ってしまう焦りを感じます。

実際、才能を活かして多くの人に喜ばれても、やはり何か虚しいという人がたくさんあります。

やりたいことをやっても虚しい?

虚しいと感じたとき、
自分が本当にやりたいことをやる
という人がありますが、
本当にやりたいことをやった人でも、
虚しさを感じている人がたくさんあります。

ビートルズのリーダー、ジョン・レノン

ビートルズのリーダー、ジョン・レノンは、
才能を発揮して、世界中から高い評価を得ましたが、
このように言っています。

ジョン・レノンジョン・
レノン

ビートルズは、欲しいだけの金を儲け、好きなだけの名声を得て、
そして何も無いことを知った。

(ジョン・レノン)

ボクシング世界チャンピオン、鬼塚勝也

ボクシングのジュニアバンタム級世界チャンピオンになった
鬼塚勝也選手も、このように言っています。

少年の頃、世界チャンピオンはスーパーマンみたいな存在やと思ってきた。
俺にとっては神様に近い存在ですよね。
凡人の俺が、そんな凄い場所に辿りつくことができたら、
いったいどんな凄い人間になれるんだろう。
そのことだけを励みにここまで頑張ってきました。

しかし、試合に勝ってはみたものの、あるはずのものが何もないんです。
エッ、何なのこれ? なんで、何もないんや
いや、次勝てばきっと何かが得られる
そう信じて、次から次へと試合を積み重ねていきました。
だけど何も残らない。
試合が終わった夜は、生き残れた実感と自分が探し求めたものが何もなかった
という寂しさで発狂しそうになりました。
俺は常に素直に飛び跳ねる自分でおりたいのに、充足感がないから、
何でや?」という思いばかりが虚しく深まっていく。
最後の試合までずっとその繰り返しでした。
(『週刊文春』平成6年11月)

文豪・夏目漱石

文豪・夏目漱石も同じです。
吾輩は猫である』『坊っちゃん』『草枕』『三四郎』『それから』『こころ』と、
教科書に載るような名作を残し、お札に顔が出るほどの高い評価を得ながら、
死の前年、最後の随筆『硝子戸の中』には、こう記されています。

夏目漱石夏目漱石

今まで書いた事が全く無意味のように思われ出した。
(夏目漱石)

世界で最も魅力的な男、ブラッド・ピット

世界で最も魅力的な男と言われ、
ハリウッドで非常に高額なギャラをとる名優、
ブラッド・ピットもこう言います。

ブラッド・ピットブラッド・
ピット

ハリウッドではたくさんの人が仏教徒になっている。
アメリカの至上命令である「金持ちになって有名になれ」
では幸せにはなれない。

(ブラッド・ピット)

このように、富や名誉などは虚しく、
さらには、自分の生きがいも虚しくなってくるのです。

このような虚しい心を見ないように、考えないようにしても、
一時的には虚しさを紛らわすことはできますが、
根本解決にはなりません。仕事や趣味に没頭したり、
お酒やゲームで憂さ晴らししても、ただのごまかしです。

この虚しさから目を背けず、虚しさと向き合って、
原因を突き止め、根本から解決しなければなりません。

虚しさの3段階

私たちが毎日感じている虚しさを
20世紀最大の哲学者と言われるハイデッガーが、
哲学的に分析し、浅いものから深いものまで3段階に分類しています。
以下の3つです。

虚しさの3段階
  • 手持ち無沙汰の虚しさ
  • パーティーの後、自宅で机に向かう虚しさ
  • 根源的な虚しさ

それぞれどういう意味なのでしょうか。

1.手持ち無沙汰の虚しさ

まずは一番浅い虚しさです。
ハイデッガーは、ドイツの片田舎で4時間、電車を待つような虚しさを
手持ちぶさたの虚しさと言っています。

これはとりあえず目の前にやることがない虚しさです。
誰でも感じます。

この虚しさは、気晴らしで対処ができます。
私たちも電車を待つときに、中途半端な時間が手持ち無沙汰になるので、
駅のキオスクには、新聞や雑誌、漫画を買います。
手持ちぶさたでぼーっとする虚しい時間を埋めるため
暇つぶしをすれば、手持ちぶさたは解消されるのです。

2.パーティーの後、自宅で机に向かう虚しさ

次はもう少し深い虚しさです。
これは、仕事の途中、友人に招かれて、パーティーに行き、楽しい時間を過ごします。
親しい仲間と語らいながら、ワイングラスを片手におしゃれな夜を送ります。
そして「楽しかったー」と家に帰って自分の部屋で仕事に戻ります。
そのとき、やはりあれは楽しかったようでいて、
虚しかったのだと思う虚しさです。

これは、楽しかったことが終わった虚しさです。
これも、誰でも感じる虚しさです。

私たちも、学校のときの文化祭のようなイベントがあると、
それまでバラバラだったクラスが、一丸となって準備します。
そんなとき充実を感じます。

そしていざ当日、一日があっという間に終わって、
あー楽しかった
と二次会に行きます。
そこでも盛り上がって、夜遅く、みんなと別れて家に帰ります。

最後家に着く頃にはひとりぼっちになって、何か虚しく感じます。

祭りの後」という言葉がありますが、
パーッと騒いだ後ほど、虚しい気持ちが起きてくるのです。
趣味や生きがいに熱中するほど、
虚しさが大きくなります。

これを漢の武帝は、
歓楽尽きて哀情多し
と言っています。
ハイデッガーはそれを言っているのです。

これも、そのとき何かもっと楽しい気晴らしをするとか、次の目標に向かって頑張るような、新しい生きがいを見つけることによって、解消することが可能です。

3.根源的な虚しさ

この虚しさは、気晴らしの許されない虚しさで、
多くの人はこの虚しさを軽視していますが、
この深い虚しさに目ざめることが大事だと
ハイデッガーは言っています。

これは、いつでもどこでも突然襲ってきます。
ふとしたきっかけで、いい知れない人生の無意味さの中におかれていることに気づく、
得体の知れない虚しさです。

自分はなんで生きてるんだろう
という思いがいつもあります。
常に虚しさがつきまとってるような感じです。

これが、生きがいがあっても感じる虚しさで、誰でも感じられるわけではありません。
たいていの人は気づいていないのですが、自分の心を深く見つめることによって知らされてきます。

この虚しさの3段階をまとめると、それぞれこのような虚しさです。

虚しさの3段階
  • やることがない虚しさ
  • 楽しみが終わった虚しさ
  • 根源的な人生の虚しさ

この3つの中で、最初の2つは、誰でも感じられるのですが、最後の根源的な人生の虚しさは、誰でも感じられるわけではないので、具体的な例を見てみましょう。

根源的な虚しさの2つの具体例

例えば、太宰治の『トカトントン』という短編小説があります。
『トカトントン』はこちらの青空文庫で無料で公開されています

主人公が何かしようとすると
頭の中から「トカトントン」という音がします。
その音がしたら、何やってんだ、
と思って急にやる気がなくなります。

最初に主人公がその音を聞いたのは玉音放送です。
日本が太平洋戦争に負けた瞬間です。
大変なショックを受けるのですが、その時、
遠くで誰かが「トカトントン」と金槌で釘を打っているのを聞くと、
何やってきたんだろう、という虚しい思いが胸を覆います。

その後、郵便局で働きますが、その音が鳴り響いてきて、
冷めてしまいます。

政治運動に参加していても「トカトントン」と音がします。
こんなことをやっていて何になるんだと
ばからしく思ってやめてしまいます。

誰かを好きになりますが、また「トカトントン」と音がして別れます。
自殺をしようとしても「トカトントン」と音がしてやめてしまいます。

小説の終わりの方には、
世の中のことはたいがいのようですが、
このトカトントンだけは本当のようです

と書かれています。

これは小説の形ですが、太宰治の人生を
そのまま書いているといっても過言ではありません。
何をやっても、これが本当に俺のやるべきことなんだろうかと
ばからしくなって、常に虚しさがおそってきます。

色んなことをやってはみても、
本当にこれでいいのだろうか」と思います。
これは一度きりの人生でやるべきことなのか
と思うと虚しさが襲ってきてやめてしまいます。

これは、他にも気づいている人はあります。
例えばドイツの哲学者ニーチェはこう言っています。

ニーチェニーチェ

何のために生きるのか?一切は空しい!
人生──とは、からっぽの麦わらをたたいているようなものだ。

(ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った』)

一切は虚しいということは、好きなことも、楽しいことも、得意なことも虚しいということです。
何をやって人生がからっぽのように感じると言っています。

この一切が虚しい根源的な虚しさは、一体どこから来るのでしょうか?

虚しさはどこから?

フランスの哲学者パスカルは、一切が虚しい根源的な虚しさの理由をこう考えています。

パスカルパスカル

われわれのあらゆる楽しみはむなしいものにすぎず、われわれの不幸は無限であり、そしてついに、われわれを一刻一刻脅かしている死が、わずかの歳月の後に、われわれを永遠に、あるいは無とされ、あるいは不幸となるという、恐ろしい必然のなかへ誤りなく置くのであるということは、そんなに気高い心を持たなくとも理解できるはずである。
(パスカル『パンセ』)

どんなに好きなことをやっても、好きな人と一緒にいても、われわれのあらゆる楽しみが虚しいのは、やがて必ず死んで行かなければならないからだ、と言っています。

これはまったくその通りです。
誰でも、努力が無駄になってしまうと虚しく感じます。
人生にはトラブルや苦しいことがたくさんやってきます。
みんなそれを頑張って乗り越えて生きています。
ところが、どんなに乗り越えても最後は死んでしまいます。
そうなると「自分の人生は何だったのか」と虚しくなります。
根源的な虚しさを感じる人は、これからどんなに頑張っても、結局は努力が無駄になってしまうとうすうす感づいているのです。
それで何をやっても、一切が虚しいと感じるのです。
努力が報われるなら頑張りがいがあるというものですが、最後は死によって崩れる、報われない苦労をしなければならないと分かれば、虚しくなります。

では、最後は必ず死んでしまうことが、根源的な虚しさの原因だとすれば、死ななくなることはできないので、この虚しさはどうにもならないのでしょうか?

根源的な虚しさの対処法

最後必ず死んでしまうなら、人生の虚しさはどうにもならないのかというと、そうではありません。
人生には制限時間があり、必ず死んで行かなければならないのはどうにもなりませんが、
問題は、その間に何をすれば悔いのない人生になるのか分からないところにあります。

一言でいうと、何のために生まれてきたのか分からない、ということです。

禅宗の僧侶・一休は、
人生はタライよりタライにうつる50年
と歌っています。

タライからタライというのは、産湯桶から棺桶ということです。

生まれてから死ぬまで、当時は約50年、
現代では約80年の人生の間に、
一体何をすればいいのでしょうか?

この人生の制限時間を意識すればするほど、
最後死んだらすべて終わりなのに、なんのために生きるのか
という虚しい気持ちが大きくなります。

ニーチェが、「何のために生きるのか?一切は空しい!」と言っているように、この必ず死ぬのになぜ生きるのかが問題です。
一体何のために生きているのか分からないから、
根源的な、人間存在そのものの虚しさが起きてくるのです。

ということは、必ず死ぬのになぜ生きるのか、という本当の生きる目的が分かれば、根源的な虚しさは解消されるのです。

その、私たちは何のために生まれて来たのか、
何のために生きているのか、
なぜ生きねばならないのか
という本当の生きる目的が教えられているのが仏教です。

その本当の生きる目的は、達成すればこんな喜びが起きると、お釈迦さまは説かれています。

人身受け難し 今すでに受く
(お釈迦さま)

これは「生まれがたい人間に生まれてよかった」という喜びです。
なぜ苦しくとも、生きて行かなければならないのか。
お釈迦さまは、「人間に生まれてよかった」という喜びの世界がある。
苦しくても生きるのはこの幸せになるためなんだ、と教えられています。

その本当の生きる目的を果たした時に、
苦しくても生きてきたのはこのためであった」とはっきり分かります。
そして「よく生まれがたい人間に生まれることができたものだ
という生命の歓喜が起きて、
変わらない安心と満足がえられるのです。

ではその本当の生きる目的は何かということについては、
仏教の真髄ですので、メール講座と電子書籍にまとめてあります。
一度目を通しておいてください。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生

仏教が好きで、東大教養学部で量子統計力学を学んだものの卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とかみなさんに知って頂こうと失敗ばかり10年。やがてインターネットの技術を導入して日本仏教アソシエーション(株)を設立。著書2冊。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと奮戦している。

仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者3千人、メルマガ読者5万人。ツイッター(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能

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