虚しいとは?何をしても虚しい気持ち・虚しい人生になる理由と対処法
「何をやっても虚しい」
「このまま人生が虚しく過ぎていくのだろうか」
休みの日に、好きなものを食べて、
好きな動画を見て過ごす。
楽しくないわけではない。
それなのに、その最中にも、ふと
「これをして、何になるのだろう」と思う。
夜、布団に入ると、何も残っていない……。
「虚しい」とは、
中身がない、甲斐がない、という意味です。
そんな虚しい気持ちの対処法を調べると、
「疲れているなら、ゆっくり休みましょう」
「好きなことや、打ち込める目標を見つけましょう」
「人とのつながりを大切にしましょう」
と書かれています。
確かに、それで晴れる虚しさもあります。
ところが、好きなことを思い切りやり遂げて、
欲しかったものを手に入れた人たちが、
口をそろえて、深い虚しさを語っています。
この何をしても虚しい気持ちは、
一体どこから来るのでしょうか?
虚しいとはどういう意味か
「虚しい」を国語辞典で引くと、
次のように書かれています。
1 空虚である。内容がない。「—・い言葉」
2 無益である。むだである。かいがない。「—・く時が過ぎる」「奮闘—・く敗退する」
3 かりそめである。はかない。「—・い世の中」
4 (「己をむなしゅうする」などの形で)我欲・先入観などを捨てる。「心を—・くして対処する」→己を虚しゅうする
5 事実無根である。根拠がない。「—・しき事にて人の御名やけがれむ」〈源・少女〉
6 死んで魂がない。(出典:小学館『デジタル大辞泉』)
この中で、私たちが普段、虚しいと感じるのは、
1つ目の「内容がない」、
2つ目の「かいがない」、
3つ目の「はかない」の3つです。
例えば、予定のない休日に、
何もしないまま1日が終わった時は、
中身がなくて虚しくなります。
何か月もかけて準備したことが、
一瞬で無駄になった時は、
甲斐がなくて虚しくなります。
楽しかった旅行から帰って、家の鍵を開ける時は、
はかなくて虚しくなります。
ところが、「何をしても虚しい」という時の虚しさは、
こうした出来事があった時だけの虚しさではありません。
予定は入っていますし、
楽しいことも、それなりにあります。
それでも、していることの一つ一つに、
「これをして、何になるのだろう」
「だから何?」
という気持ちがついて回ります。
中身はあるのに、何をしても甲斐が感じられない。
甲斐がないという気持ちが、毎日のすべてに広がっている。
それが「何をしても虚しい」「毎日が虚しい」という気持ちです。
ちなみに「むなしい」は「空しい」とも書きます。
「虚」も「空」も、中が空っぽという意味です。
よく似た言葉の「空虚」と「虚無感」の意味については、
それぞれ以下の記事で解説しています。
➾空虚の意味・空虚感の原因と空虚感に苛まれる重大な意味とは
➾虚無感とは?虚しい空虚感に苛まれる原因と解消法を分かりやすく解説
では、この何をしても虚しい気持ちは、
どうすれば晴れるのでしょうか?
虚しい気持ちの対処法と虚しさの3段階
虚しい気持ちの対処法として、
よくいわれるのは次のようなことです。
- 疲れているなら、ゆっくり休む
- 好きなことや趣味に打ち込む
- 小さな目標を立てる
- 人と会って話す
どれも、多くの人が助けられてきた方法です。
心も体も疲れ切っている時は、まず休むことが大切ですし、
眠れない、食べられないといった状態が続く時は、
一人で抱え込まずに、医師に相談してみてください。
ただ、同じ虚しさでも、
こうした対処法で晴れる虚しさと、晴れない虚しさがあります。
それを分けてみせたのが、
20世紀最大の哲学者といわれる
ドイツのハイデッガー(1889−1976)です。
ハイデッガーは、『形而上学の根本諸概念』という講義で、
私たちが毎日感じている退屈、虚しさを、
浅いものから深いものまで、3つの段階に分けています。
- 手持ち無沙汰の虚しさ
- 楽しみが終わった後の虚しさ
- 気晴らしの許されない虚しさ
手持ち無沙汰の虚しさ
1つ目は、一番浅い虚しさです。
ハイデッガーが例に挙げているのは、
ドイツの片田舎の小さな駅で、
4時間後の列車を待っている時の虚しさです。
目の前に、することがありません。
時計を見ても、少しも時間が進んでいません。
これが、手持ち無沙汰の虚しさです。
この虚しさは、気晴らしで晴れます。
昔なら駅の売店で雑誌を買い、
今ならスマホを開けば、
いつの間にか時間が過ぎていきます。
世間でいわれる対処法の通りに、
することを見つければ晴れる虚しさです。
ちなみに、人生そのものを暇つぶしと割り切る考え方については、
以下の記事で解説しています。
➾人生は暇つぶし?虚しさを埋めても埋まらない理由
楽しみが終わった後の虚しさ
2つ目は、もう少し深い虚しさです。
ハイデッガーが挙げている例は、こうです。
ある晩、知人の家の食事会に招かれたとします。
料理も美味しく、会話も弾んで、楽しい時間を過ごします。
そして家に帰って、やりかけの仕事に目をやった時、
「今夜は楽しかったようで、本当は退屈していたのだ」
と気づきます。
学生時代の文化祭の後や、
二次会まで盛り上がった夜の帰り道にも、
同じ気持ちになったことがあると思います。
パーッと騒いだ後ほど、
虚しい気持ちが起きてきます。
中国の歴代皇帝の中でも指折りの権勢を誇った
漢の武帝(前156−前87)も、
「歓楽極まりて哀情多し」(秋風辞)
と詠んでいます。
楽しみが極まると、かえって悲しみが多くなる、
ということです。
この虚しさも、何かもっと楽しい気晴らしをしたり、
次の目標に向かって頑張るような
新しい生きがいを見つけたりすれば、
しばらくは晴れます。
気晴らしの許されない虚しさ
ところが、3つ目の虚しさは違います。
ハイデッガーはこれを「深い退屈」と呼び、
例えば、日曜日の午後、大都会の通りを歩いている時に、
ふと訳もなく、何もかもがつまらなく感じる、
その気持ちだと言っています。
列車を待っているわけでも、
楽しいことが終わったわけでもありません。
これといったきっかけもないのに、
自分のしていることも、周りのすべても、
丸ごと虚しく感じられます。
この虚しさは、気晴らしで紛らわすことができません。
何か楽しいことをしても、
その最中から、していることまで虚しいからです。
多くの人は、この虚しさを軽く見ていますが、
ハイデッガーは、この深い虚しさに目覚めることこそ
大切だと言っています。
3段階のうち最初の2つは、誰でも感じる虚しさで、
生きがいを失った時の虚しさです。
やることがないつまらない虚しさとか、楽しいことが終わった儚い虚しさです。
生きがいがないとか、生きがいを失った虚しさで、国語辞書に出ているのは、大体こちらです。
ところが、この3つ目は、自分の心をよく見つめている人でなければ感じません。
生きがいがあるのに感じる虚しさです。
「何をしても虚しい」という時の虚しさは、
この3つ目です。
では、3つ目の虚しさは、
好きなことを思い切りやり遂げた時、
どうなるのでしょうか?
やりたいことをやり遂げた人たちの虚しさ
虚しい気持ちの対処法の中でも、
一番よく勧められるのが、
好きなことや生きがいを見つけて打ち込むことです。
「いつか好きなことを思う存分できたら、この虚しさも消えるに違いない」
そう思って、今を頑張っていることもあると思います。
言われてみれば、その通りかもしれません。
打ち込んでいる間は、虚しさを忘れていられるからです。
では、本当にやりたいことを、
誰よりも思い切りやり遂げた人たちは、
何と言っているのでしょうか。
世界チャンピオンの鬼塚勝也
ボクシングのジュニアバンタム級(今のスーパーフライ級)で
世界チャンピオンになった鬼塚勝也(1970−)は、
こう語っています。
少年の頃、世界チャンピオンはスーパーマンみたいな存在やと思ってきた。
俺にとっては神様に近い存在ですよね。
凡人の俺が、そんな凄い場所に辿りつくことができたら、
いったいどんな凄い人間になれるんだろう。
そのことだけを励みにここまで頑張ってきました。
しかし、試合に勝ってはみたものの、あるはずのものが何もないんです。
「エッ、何なのこれ? なんで、何もないんや」
「いや、次勝てばきっと何かが得られる」
そう信じて、次から次へと試合を積み重ねていきました。
だけど何も残らない。
試合が終わった夜は、生き残れた実感と自分が探し求めたものが何もなかった
という寂しさで発狂しそうになりました。
俺は常に素直に飛び跳ねる自分でおりたいのに、充足感がないから、
「何でや?」という思いばかりが虚しく深まっていく。
最後の試合までずっとその繰り返しでした。
(『週刊文春』平成6年11月)
「次勝てば、きっと何かが得られる」と信じて、
勝っては次の試合、また勝っては次の試合と戦い続け、
最後の試合まで、同じことの繰り返しだったのです。
ビートルズのジョン・レノン
ビートルズのリーダーとして才能を発揮し、
世界中から高い評価を得たジョン・レノン(1940−1980)は、
こう言っています。
ジョン・レノン
ビートルズは成功し、ツアーをやめ、欲しいだけの金や名声を手に入れ、最後に、自分たちは何も手にしていないことに気づいた。
(ジョン・レノン)
出典:『ビートルズ オーラル・ヒストリー』
文豪の夏目漱石
文豪の夏目漱石(1867−1916)も同じです。
『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『三四郎』『こころ』と、
教科書に載るような名作を次々に残し、
お札に顔が載るほどの評価を得ました。
その漱石が、亡くなる前の年に書いた随筆『硝子戸の中』に、
こう書いています。
夏目漱石今まで書いた事が全く無意味のように思われ出した。
(夏目漱石『硝子戸の中』)
名優のブラッド・ピット
世界で最も魅力的な男といわれ、
ハリウッドで破格の出演料を得てきた名優、
ブラッド・ピット(1963−)もこう言っています。
ブラッド・ピット
ハリウッドではたくさんの人が仏教徒になっている。
アメリカの至上命令である「金持ちになって有名になれ」
では幸せにはなれない。
(ブラッド・ピット)
出典:"Illuminati Healing and Developing the Mind"
4人が手に入れたものは、それぞれ違います。
世界一の称号、
使いきれないほどのお金と名声、
教科書に載る名作、
ハリウッドでの成功。
どれも、好きなことを思い切りやり遂げて、
手に入れたものです。
それなのに、行き着いた所は同じです。
「あるはずのものが何もない」
「自分たちは何も手にしていない」
「今まで書いた事が全く無意味」
「『金持ちになって有名になれ』では幸せにはなれない」
好きなことを思い切りやり遂げても、3つ目の虚しさは消えません。
虚しさの本質はここにあります。
では、何をしても、何を手に入れても虚しいのは、
なぜなのでしょうか?
何をしても虚しいのは「何のために」が分からないから
何をしても聞こえるトカトントン
何をしても虚しいという気持ちを、
そのまま小説に描いたのが、
太宰治(1909−1948)の『トカトントン』です。
一人の青年が、ある作家に宛てて書いた手紙の形で書かれています。
(『トカトントン』は青空文庫で無料で公開されています)
青年は、何かに打ち込もうとするたびに、
どこからか「トカトントン」と
金槌で釘を打つ音が聞こえてきて、
急に白けてしまいます。
最初にその音を聞いたのは、終戦の日でした。
それから、小説を書き上げようとした時も、
郵便局の仕事に張り合いを感じた時も、
好きな人ができた時も、
デモの行進に胸を熱くした時も、
あの音が聞こえてきた、と青年は手紙に書いています。
しまいには、こうなります。
もう、この頃では、あのトカトントンが、いよいよ頻繁に聞え、新聞をひろげて、新憲法を一条一条熟読しようとすると、トカトントン、局の人事に就いて伯父から相談を掛けられ、名案がふっと胸に浮んでも、トカトントン、あなたの小説を読もうとしても、トカトントン、(中略)伯父のお相手で、晩ごはんの時お酒を飲んで、も少し飲んでみようかと思って、トカトントン、……
(出典:太宰治『トカトントン』)
新聞も、仕事も、小説も、お酒も、
何をしても「トカトントン」です。
青年は手紙の終わりに、こう書いています。
「教えて下さい。この音は、なんでしょう。
そうして、この音からのがれるには、どうしたらいいのでしょう。」
何をしても虚しいと感じる時、
私たちが知りたいのも、
この音が何なのか、
どうすればそこから逃れられるのか、ではないでしょうか。
からっぽの麦わらをたたく人生
ドイツの哲学者ニーチェ(1844−1900)は、
『ツァラトゥストラはこう言った』に、
世間で「知恵」とされてきた昔からの言葉を、
こう書き留めています。
ニーチェ何のために生きるのか?一切は空しい!
人生──とは、からっぽの麦わらをたたいているようなものだ。
(ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った』)
麦わらをたたくというのは、脱穀のことです。
刈り取った麦の穂をたたいて、実を落とします。
ところが、実の入っていない、からっぽの麦わらは、
いくらたたいても、1粒の実も出てきません。
汗を流してたたき続けても、あとに何も残らない。
何をしても虚しい人生は、そういうものだというのです。
何のために生きるのかが分からなければ、
何をしても、それが何になるのか分かりません。
何をしても白けてしまうのは、
それが何のためなのかが分からないからです。
最後は死で終わってしまう
なぜ、何をしても、
それが何のためなのか分からなくなるのでしょうか。
フランスの哲学者パスカル(1623−1662)は、
その理由をこう書いています。
パスカルわれわれのあらゆる楽しみはむなしいものにすぎず、われわれの不幸は無限であり、そしてついに、われわれを一刻一刻脅かしている死が、わずかの歳月の後に、われわれを永遠に、あるいは無とされ、あるいは不幸となるという、恐ろしい必然のなかへ誤りなく置くのであるということは、そんなに気高い心を持たなくとも理解できるはずである。
(パスカル『パンセ』)
どんなに好きなことをしても、
私たちのあらゆる楽しみが虚しいのは、
やがて必ず死んでいかなければならないからだ、
ということです。
これはまったくその通りです。
人生には、辛いことも苦しいことも、たくさんやってきます。
みんな、それを頑張って乗り越えて生きています。
しかし、どれだけ乗り越えても、
最後は死んでいかなければなりません。
死ねば、手に入れた地位も、財産も、名声も、
1つ残らず手を離れます。
最後は死ですべてを手放すのなら、
何を手に入れても、何のために手に入れたのか、答えが出ません。
そうなると「自分の人生は何だったのか」
「虚しい人生だった」と思わずにおれません。
禅宗の僧侶・一休(1394−1481)は、
「人生はタライよりタライにうつる50年
」
と歌っています。
タライからタライというのは、
産湯桶から棺桶ということです。
生まれてから死ぬまで、当時は約50年、
現代では約80年の人生の間に、
一体何をすればいいのでしょうか?
私たちは心の奥で、
これから何をしても、最後は死で終わってしまうことに、
薄々気づいています。
だから、今していることに、甲斐が感じられません。
何をしても虚しいのは、
していることが悪いからではありません。
必ず死ぬのに何のために生きるのか、
人生全体の目的が分からないからです。
では、この「必ず死ぬのに何のために生きるのか」という問いには、
どんな答えがあるのでしょうか?
「人間に生まれたのだから楽しもう」への仏教の答え
この問いに、世間でよく返される答えがあります。
あの『トカトントン』の青年も、ある晩、伯父に
「人生というのは、一口に言ったら、なんですか」
と尋ねています。
伯父の答えはこうでした。
「人生、それはわからん。しかし、世の中は、色と慾さ」
人生が何かは分からない。
しかし、世の中は色恋とお金だ、というのです。
これにも一理あります。
色恋とお金を求めていけば、
とりあえず毎日は過ぎていきます。
青年も「案外の名答」だと思って、
闇屋になってお金を儲けようかと考えます。
ところが、1万円儲けた時のことを思い浮かべた途端、
すぐにトカトントンが聞こえてきます。
今もよく聞く
「せっかく人間に生まれたのだから、楽しまなければ損だ」
という答えも、行き着く所は同じです。
この答えを、お釈迦さまは
『大宝積経』に取り上げて説かれています。
ある時、蔵からあふれるほどの財宝を持った長者が、
500人の長者たちと、
仏がこの世に出られることは難しく、
人間に生まれることも難しいと語り合い、
仏の道を求めて、お釈迦さまのもとを訪ねました。
そして教えを聞く中で、
自分の体も財宝も、惜しんで手放せないと打ち明けます。
その長者たちに、お釈迦さまが説かれた
偈(詩の形の教え)の一節です。
或いは悪友有りて来たりて相勧む、
「人身は得難きに、今已に得たり。
多く財宝を求めて娯楽を受け、
此の盛年に及んで嬉遊を恣にせよ」と。
何ぞ財を求めて楽しむ者有らん、
設い得るとも守護するに猶お勤苦す。
此の如きの愚人は徒らに妄言す。
(漢文:或有悪友来相勧,人身難得今已得。多求財宝受娯楽,及此盛年恣嬉遊。何有求財而楽者,設得守護猶勤苦。如此愚人徒妄言)(出典:『大宝積経』勤授長者会)
「或いは悪友有りて来たりて相勧む」とは、
ある時は、悪友がやって来て、こう勧める、ということです。
「悪友」とは、仏教では、
本当の幸せから遠ざける友達のことです。
「人身は得難きに、今已に得たり」とは、
人間に生まれることは難しいのに、
今、その人間に生まれることができた、ということです。
人間に生まれることが難しいことは、
お釈迦さまも、この偈の初めに説かれています。
ところが悪友は、続けてこう勧めます。
「多く財宝を求めて娯楽を受け」とは、
財産をたくさん求めて、楽しいことをしよう。
「此の盛年に及んで嬉遊を恣にせよ」とは、
若くて元気なうちに、思う存分遊んでおけ、ということです。
お釈迦さまの説かれた
「生まれ難い人間に今生まれることができた」
というお言葉を聞いて、
自分の考えに合わせて「だから今しかできないことをやらないと」と解釈してしまったのです。
その「今しかできないこと」は、やってみると結局虚しいものばかりです。
だから「何ぞ財を求めて楽しむ者有らん」と説かれています。
財産を求めて楽しい者など、どこにいるだろうか。
「設い得るとも守護するに猶お勤苦す」とは、
たとえ手に入れても、守るのになお苦労する。
「此の如きの愚人は徒らに妄言す」とは、
このような愚かな者は、いたずらにデタラメを言っている、
ということです。
結局、使い切れないほどのお金や財産を手に入れても、
それを手に入れるために使ってしまった命の時間と釣り合わず、
「だから何?」という虚しさが起きてくるのです。
一方、このような愚か者に対して、智者はどうすればいいのでしょうか。
お釈迦さまはこう説かれています。
是の故に智者は応に観察すべし、
財物は幻の如く亦夢の如し、
愚痴の衆生は誑惑せらる。
刹那の時に得て刹那に失う、
何ぞ智者の愛心を生ずること有らん。
譬えば幻師の幻化の事、
乾闥婆城の種種の色の如く、
財宝も是の如く凡愚を誑かす。
虚妄の中に於て何の実か有らん。
(漢文:是故智者応觀察,財物如幻亦如夢,愚痴衆生被誑惑。刹那時得刹那失,何有智者生愛心。譬如幻師幻化事,乾闥婆城種種色,財宝如是誑凡愚。於虚妄中何有実)(出典:『大宝積経』勤授長者会)
「是の故に智者は応に観察すべし」とは、
だから、智恵のある者は、よく見極めなさい。
「財物は幻の如く亦夢の如し」とは、
財産は、幻のようであり、また夢のようである。
死んでいく時には、夢のように、幻のように消えてしまう。
1つも持ってはいけないものだ。
それなのに、「愚痴の衆生は誑惑せらる」。
「衆生」とは、生きとし生けるものですが、
私たちは人間なので、人間のことを言われています。
愚かな人は、それにだまされてしまう、ということです。
「刹那の時に得て刹那に失う」とは、
刹那はほんの一瞬のことですから、
一瞬で手に入れて、一瞬で失う。
「何ぞ智者の愛心を生ずること有らん」とは、
智恵のある者が、どうしてそんなすぐに失われるものに執着するだろうか、
ということです。
「譬えば幻師の幻化の事」の「幻師」とは、
人の目をくらます手品師、
「幻化」とは、その手品師が見せる幻のことです。
「乾闥婆城の種種の色」の乾闥婆城とは、蜃気楼のことで、
海や砂漠の上に、ありもしない町や城が、
さまざまな姿で浮かび上がって見えます。
手品師の見せる幻も、蜃気楼の城も、
あるように見えて、本当はありません。
「財宝も是の如く凡愚を誑かす」とは、
財宝も、それと同じように、愚かな者をだましている。
そして最後の「虚妄の中に於て何の実か有らん」とは、
中身のない偽りのものの中に、
どうして本当の中身があるだろうか、ということです。
一瞬で手に入れて、一瞬で失うものは、
どれだけ集めても、中身のない虚妄で、
何の実もない。
もし蜃気楼を追い続けるだけの一生ならば、人は何のために生きているのか。
夢や幻を追いかけて生きるだけならば、何と儚いことなのか。
同じく人間に生まれることは難しいと知っても、
悪友は、それを財産を求めて遊ぶ理由にしましたが、
長者たちは、それを仏の道を求める理由として、
お釈迦さまを訪ねています。
お釈迦さまが教えられているのは、悪友が理解したこととは、
本来まったく違います。
お釈迦さまが説かれているのは、
単に生まれ難い人間に生まれたというだけではなく、
「生まれ難い人間に生まれてよかった」
という人間に生まれた目的を果たした喜びを教えられているのです。
それをお釈迦さまはこう説かれています。
人身受け難し、今已に受く。
仏法聞き難し、今已に聞く。
この身今生に向かって度せずんば、
さらにいずれの生に向かってか、この身を度せん。(お釈迦さま)
これは、財産や遊びを楽しむ喜びではありません。
「生まれ難い人間に、よくぞ生まれることができた」
という人間に生まれた喜びです。
生命の歓喜があります。
この喜びが、ジョン・レノンにも、ブラッド・ピットにも、夏目漱石にも鬼塚勝也にもなく、
虚しいだけだったということは、
彼らのやったようなことは人間に生まれた目的ではなかったということです。
「人間に生まれたことは有り難い、
その有り難い人間に私は生まれさせて頂いてよかった」という喜びの身になるのが
本当の人生の目的であり、生きる意味です。
「仏法聞き難し、今已に聞く」
というのは、聞き難い仏教を聞けてよかったという喜びです。
なぜなら、人間に生まれてきた目的は仏教にしか説かれていないので、
仏教を聞かなければ、人間に生まれてよかったという喜びの身にはなれません。
特に現代日本では、仏教といっても葬式や法事をするものだと思われていて、
何が教えられているのかすら、ほとんど知られていません。
だから聞き難い本当の仏教を聞けてよかったという喜びが起きるわけです。
お釈迦さまの時代にも、仏教以外の宗教ばかりで、仏教を聞ける機会はほとんどなかった。
だから「仏法聞き難し、今已に聞く」
仏教を聞けてよかったという喜びが起きるんだと
お釈迦さまが教えられています。
最後に「この身今生に向かって度せずんば、
さらにいずれの生に向かってか、この身を度せん」というのは、
「今生に向かって」というのは人間に生まれてきた今この時に、ということです。
生きている今、この本当の生きる目的を果たさなければ、
いつ果たせるチャンスがあるのか。
今しかチャンスはないといわれています。
人間に生まれた甲斐があったと喜べる幸せ
もし、人生が、最後は死ですべてを手放して終わるだけなら、
何をしても甲斐がないまま、
誰一人、この虚しさから抜け出せないことになります。
死なない人は、一人もいないからです。
虚しい一生を終わろうとしている私たちに、お釈迦さまは、
人間に生まれてよかったという本当の生きる目的を説かれています。
それさえ果たされれば、
「人身受け難し、今已に受く」と、
人間に生まれた甲斐があったと大満足できます。
それが人間に生まれてきた目的です。
好きなことが見つかっていなくても、
そんな趣味や生きがいは関係ありません。
どんな人でも、生きている今、達成できます。
虚しくなるたびに、次の楽しみや目標を、
次々に探し続ける必要はありません。
その本当の生きる目的がはっきりすれば、
毎日していることの1つ1つが、
目的を果たすための意味を持ち、
何をしても虚しかった毎日が、
甲斐のある毎日に変わります。
そして、その目的が果たされた時、
虚しさを抱えてきた年月があったからこそ、
この大満足の身になることができたと知らされ、
これまでの苦労は1つも無駄になりません。
では、その人間に生まれてきた本当の目的はどんなもので、
どうすれば、その目的を果たせるのか。
それについては仏教の真髄なので、
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どちらも無料ですので、一度目を通しておいてください。
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この記事を書いた人
長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)
東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細・お問い合わせ
X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)
京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作に引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。



