人生が苦しい
「人生が苦しい」
「生きるのが苦しい」
朝、目が覚めた時に、今日もまた1日が始まると思うと
それだけで、体が重くなる。
何か大きな不幸があったわけではない。
それなのに、ずっと苦しい……。
人に言うと、大げさだと思われそうで言えません。
聞かれれば「まあ、何とかやってるよ」と答えます。
かわいそうだとは、思われたくないからです。
それでも、夜中にふと思います。
「この苦しさは、いつまで続くのだろうか」と。
周りを見れば、みんな平気そうに歩いています。
同じように働いて、同じように笑っています。
「苦しいと感じている自分のほうが、どこかおかしいのだろうか」
そう思うと、ますます誰にも言えなくなります。
この「人生が苦しい」と感じる気持ちは、どうすればいいのでしょうか。
苦しみが重くなるのは終わりが見えない時
苦しみといっても色々あります。
体の病気や心の病気から来る苦しみは、
医師に相談することで軽くなるものがあります。
眠れない、食べられない、気力が出ないという状態が続いているなら、
早めに診てもらってください。
ここでお話しするのは、体はどこも悪くないのに、
それでも生きるのが苦しい、という苦しみについてです。
ところで、苦しみの重さは、何によって決まっているのでしょうか。
どのくらい辛いか、だと思われるかもしれません。
ですが、そうでもないところがあります。
例えば、受験勉強は苦しいものです。
睡眠時間を削って、遊びたいのも我慢して、夜遅くまで机に向かいます。
それでも、大抵の人は頑張って耐えています。
試験日が決まっているからです。
それまでの我慢だと思って乗り越えます。
骨を折った時も同じです。
痛いですし、不便ですし、仕事にも差し支えます。
ですが医師から「全治3か月です」と言われれば、
その3か月を数えて過ごせます。
ところが、同じ痛みでも、
「いつ治るか分かりません」と言われた時に、重さが変わります。
痛みの強さは、1ミリも変わっていません。
変わったのは、終わりが見えるかどうかだけです。
「人生が苦しい」というのは、
苦しみが人より大きい、ということではありません。
この先も、ずっとこのままだと感じているということです。
去年もこうでした。
今年もこうです。
来年も、10年後も、同じ感じのまま続くのだろうと思った時に、
「人生が苦しい」という言葉が出てきます。
だから、「今が一番、辛い時だよ」と言われても、軽くなりません。
一番辛い時だったかどうかは、
その時を過ぎてからでないと分からないからです。
そして、この終わりが見えない辛さは、人に説明しにくいものです。
「何がそんなに辛いの?」と聞かれても、これといった答えを挙げられません。
挙げられないから、大げさだと思われそうで、やはり口に出せなくなります。
では、この苦しさに、世間は何と答えるのでしょうか。
世間でよくいわれる3つの答え
「人生が苦しい」と口に出した時、
返ってくる言葉は、大きく分けて3つあります。
気の持ちようだ
まずよくあるのが、「気の持ちようだ」というものです。
同じことが起きても、受け取り方次第で変わる。
だから、前向きに受け取りなさい、というものです。
これは、その通りのところもあって、
受け取り方で軽くなるものは、確かにあります。
雨が降って予定が流れた日も、
家で読みたかった本を開けば、いい1日になります。
同じ失敗でも、笑い話にできる日と、眠れなくなる日があります。
ですが、受け取り方を変えられるのは、変えられる程度のものだけです。
本当に重いものは、どう受け取ってみても重いままです。
大切な人を亡くした人に、前向きに受け取りなさいとは、誰も言えません。
その上、この答えには困ったところがあります。
気の持ちようだと言われると、
苦しいのは自分の受け取り方が悪いからだ、ということになります。
苦しいうえに、自分が悪いことにされてしまいます。
しかも、前向きに受け取ろうとする力そのものが、
苦しい時には残っていません。
元気な時にできることを、元気のない時にやりなさいと言われているのです。
これでは、終わりは見えてきません。
一人で抱えず人に話しなさい
次によくいわれるのが、「一人で抱え込まずに、誰かに話しなさい」というものです。
これは多くの人が助けられてきた言葉ですし、
話してしまえば楽になるのも、その通りです。
黙っている間中、同じことを頭の中で何十回も繰り返しています。
一度口に出すと、それが外へ出て、少し離れて見られるようになります。
ですが、話して軽くなるのは、聞いてくれる人がいる間だけです。
そして、もっと困ったことがあります。
一番苦しいことほど、人に言えません。
かわいそうだと思われたくない。
相手を困らせたくない。
うまく言えなくて、軽く扱われたら、もっと辛くなる。
だから、言えるところまでを話して、一番下にあるものは持って帰ります。
それに、同じ話を二度三度とするのは、気が引けます。
一度目は聞いてもらえても、二度目からは相手の顔が少し曇ります。
自分でもそれが分かるので、次からは言わなくなります。
口に出せた分は軽くなっても、
言えなかったほうは、そのまま残ってしまいます。
時間が薬になる
3つ目によくいわれるのが、「時間が薬になる」というものです。
今はどん底だけど、過ぎてしまえば、
こんなこともあったと言える日が来る。
だから、それまで待ちなさい、というわけです。
言われてみれば、その通りかもしれません。
10年前に泣くほど辛かったことを、
今は思い出しもしないという経験は、
誰にでもあります。
ですが、時間が薄めてくれるのは、終わった苦しみです。
まだ続いているものは、時間が経つほど、かえって重くなります。
1年目は「今年だけだ」と思えたことが、
3年目には「これがこの先も続くのか」に変わります。
その上、待つというのは、自分では何もしないということです。
待っていれば変わるものなら、
もうとっくに変わっているのではないでしょうか。
去年も一昨年も、同じように待っていたのです。
時間は、終わったものを遠ざけてはくれますが、
終わらせてはくれません。
この3つは、どれも今の苦しさを軽くしようとする手段ではあります。
では、次の苦しみが来ることについては、
何か手が打たれているでしょうか。
1つ終わっても、また次が来る
ここまでの答えを全部やってみたとします。
受け取り方を変え、人に話し、時間が経つのを待つ。
そうすると、目の前の苦しみは、確かに片づいたように思います。
その時は、これでやっと楽になれると思います。
ところが、片づいたところへ、次のものが来ます。
受験が終われば、卒業の不安が出てきます。
卒業が近くなると、就職の心配が始まります。
就職が決まれば、今度は仕事で追い立てられます。
仕事に慣れた頃には、人間関係が重くなっています。
結婚すれば家のことが、子どもが生まれると子どものことが、
そして子どもが手を離れると、自分の体の心配が出てきます。
1つ1つは、確かに解決したかもしれません。
しかし、それで終わりではないのです。
終わったのは、その苦しみであって、
苦しむことそのものではないからです。
私たちが「解決した」と言っているのは、
苦しみが1つ、別のものに入れ替わったということです。
入れ替わった直後には、一息つけます。
その一息ついた時間を、私たちは「楽になった」と言っています。
そして、入れ替わる速さは、年を重ねるほど上がっていきます。
若い頃は、1つ片づけば、しばらく静かな時がありました。
ところがやがて、1つ片づく前に、もう次が始まっています。
そのうち、どれが片づいて、どれが残っているのかも分からなくなります。
仏教では、この苦しみを種類ごとに分けて、「四苦八苦」と教えられています。
人生で誰も避けることのできない8つの苦しみです。
その8つの苦しみの中身については、以下の記事で解説しています。
➾四苦八苦とは?8つの苦しみの意味一覧|苦しみが尽きない根本原因
また、苦しみの深さを3つに分けた「三苦」という教えもあります。
それについては、こちらの記事に詳しく書いています。
➾仏教で救われる苦しみ、三苦(苦苦・壊苦・行苦)とは?
世間の答えで終わりが見えないのは、
どれも今ある1つを軽くする工夫であって、
次が来ることには、初めから手を出していないからです。
お釈迦さまが「熾然として息まず」と説かれたもの
仏教では、この苦しみがなくならずに迷い続ける有様を
『法華経』にこう説かれています。
三界は安きこと無し、なお火宅のごとし。
衆苦充満して、はなはだ怖畏すべし。
常に生老・病死・憂患あり。
かくのごとき等の火、熾然として息まず。
(漢文:三界無安,猶如火宅。衆苦充満,甚可怖畏。常有生老、病死、憂患。如是等火,熾然不息)(出典:『法華経』)
「三界」とは、欲界、色界、無色界の3つで、
私たちの生きている迷いの世界です。
「火宅のごとし」というのは、火のついた家のように、不安な世界だ
ということです。
「衆苦充満」とは、色々の苦しみが満ちているということです。
「怖畏」とは恐れることで、多くの苦しみが満ちているこの世界は、
非常に恐るべきものだ、ということです。
「常に生老・病死・憂患あり」とは、
生まれること、老いること、病むこと、死ぬこと、そして心配事が、
いつでもある、ということです。
若いうちは老いが遠く、健康なうちは病気が遠く感じられます。
ですが、実際はあっという間に年をとり、
病気になって人生を終わります。
その生まれてから老いて、死ぬまでの間、
常に憂い、患うことばかりです。
「かくのごとき等の火」は、苦しみをたとえています。
直前の生老病死、憂患はもちろん、「等」といわれているので、
それ以外の苦しみも全部入ります。
それらが「熾然として息まず」と説かれています。
「熾然」とは、火が勢いよく燃え盛っている有様です。
「息まず」とは、止まらない、終わらない、ということです。
常に燃え続け、1つの火が消えかかったとしても、
もう次の火がついています。
だから、燃えていない時がありません。
先ほど見た通り、受験が終われば卒業、
卒業が決まれば就職、
就職が決まれば仕事や人間関係
と続いていきました。
あれは、火が次々についていたということです。
そう聞くと、仏教は暗い話ばかりだと思われるかもしれません。
けれども、お釈迦さまがこれを説かれたのは、
私たちがどんなところにいるのかを知らせるためであって、
そこで話を終わりにするためではありません。
この偈の続きには、この火のついた家から出る道が説かれています。
生きるのが苦しいのは、あなたの気の持ちようが悪いからでも、
やり方が下手だからでもありません。
もともと、火の中にいるので
火の中にいる人が熱がるのは、当たり前のことです。
これを聞いて、突き放されたように感じられるかもしれません。
ですが、体の病気を考えてみると、どうでしょうか。
健康だと思っていたのに、人間ドックに行ったら、
どこがどんな状態なのか診断結果が出ます。
逆流性食道炎ですよ、とか、
心電図に異常がありますよ、とか、
膵臓が怖るべき状態になっていますよ、とか、
肝臓に腫瘍がありますよ、
と診断してもらって初めて、
じゃあ治療してもらおうという気持ちが起きてきます。
忙しいからといって人間ドックに行かないでいると、
気づいた時には手遅れになってしまうのです。
正確な診断があって初めて、治療の話ができます。
人生は苦しいものだと仏教に説かれているのは、
だから腹をくくりなさい、ということではないのです。
では、燃えている家の中に、どんな道が説かれているのでしょうか。
苦しみはそのままで生まれてきてよかったといえる
火が消えるのを待っていたのでは、いつまでも幸せにはなれません。
消し止めた人が、今日まで一人もいないからです。
ですからお釈迦さまは、「火が消えてから幸せになれる」とは説かれませんでした。
燃えている家の中にいるままで救われる道を明らかにされたのが仏教です。
ですから、老いや死がなくなるのではありません。
腹の立つことも、思い通りにならないことも、これまで通りやってきます。
ところが、それがそのまま、
「人間に生まれてよかった」
という心から大満足の身になれる
と教えられているのが仏教です。
一切の苦しみがそのまま苦しみとならない世界に出ることができます。
それが仏教に説かれる変わらない幸せです。
その幸せになるのに、強い心も、恵まれた環境も要りません。
そしてそれは、死んでからなる幸せでもありません。
生きている今、どんな人でも苦しみを解決して、
明るく楽しい人生を生きることができるようになります。
では、その幸せになるにはどうすればいいかというと、
私たちを苦しめ続けている
苦悩の根元を断ち切らなければなりません。
その苦悩の根元とはどんな心なのか、
どうすれば断ち切れるのか。
それについては仏教の真髄なので、
メール講座と、電子書籍にまとめてあります。
ぜひ一度、見ておいてください。
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この記事を書いた人
長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)
東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細・お問い合わせ
X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)
京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作に引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。


