心の拠り所がない
「心の拠り所がない」
「心の支えが欲しい」
仕事から帰って、暗い部屋の電気をつける。
今日も、誰とも大事な話はしなかった。
困ったことが起きても、特に誰の顔も浮かんでこない。
自分には、心の拠り所と呼べるものがない……。
周りの人には、あるように見えます。
家族のことを話す人、
打ち込んでいるものがある人。
同じ職場にいても、帰ってから話す相手がいないのは
自分だけのような気がしてきます。
心の拠り所が欲しいと思って調べてみると、
出てくるのは大体同じことです。
安心できる場所を作りなさい。
自分で育てていけるものです。
1つに頼らず、いくつか持ちなさい。
どれも、その通りなのだろうと思います。
ですが、そのために明日から何をすればいいのかが分かりません。
心の拠り所は、どうすれば手に入るのでしょうか?
「拠り所がない」と気づくのはいつか
念のため、1つだけ前置きしておきますと、
眠れない日や、食事がとれない日が続いているなら、
それは心の話の前に、体の話かもしれません。
早めに医師に相談してください。
そのような体の問題ではないとして、
私たちは、いつ「心の拠り所がない」と気づくのでしょうか。
仕事をしっかりこなしていて、体も動いて、誘われる予定もある時期に、
拠り所のことを考える人は、まずいません。
あってもなくても、日は過ぎていきます。
気づくのは、決まって、何かが崩れた後です。
大きな失敗をした日の夜。
体を壊して、予定が全部キャンセルになった時。
長く続いた関係が切れた時。
会社から帰る途中、駅のベンチにしばらく座ったまま動けない。
誰かに電話しようとして、履歴を上から下までなぞって、結局電話はしない。
どの名前も、こんな話をする人ではなかったからです。
その時に初めて、自分が何にもつかまっていなかったことが分かります。
「心の拠り所がない」と気づいた時には、
もう、それが必要な時になっています。
気づくのが遅いのではありません。
必要な時が来るまで、拠り所というものは姿を見せません。
これは、うっかりしていたから、ではありません。
浮き輪の有り難さは、海に落ちてから分かります。
岸に立っている間は、あってもなくても同じに見えます。
だから、探し始めるのは、いつも落ちてからです。
では、普段から拠り所を持っていれば、その時に助かるのでしょうか。
一番必要な時に限って、そこにない
持っていれば助かるはずだ、と思います。
ところが、実際にその時が来ると、そうなっていません。
家族を心の支えにしてきたとします。
その人が一番苦しくなるのは、大抵家族のことです。
仕事を心の支えにしてきたとします。
その場合、心が折れるのは、大抵仕事でです。
健康な体を支えにして、何でも自分で片づけてきたとします。
足元が崩れるのは、体を壊した時です。
今まで一人で持てていたものが持てなくなり、できないことが増えて
そこで、人への頼み方を知らないことに気づきます。
子どもを支えにして生きてきた年月があります。
その子が家を出た日に、部屋が広くなったのと一緒に
何もなくなったように感じます。
同じことは、もっと小さな場面でも起きています。
仲のいい友人がいるから大丈夫だと思っていたら、
その友人との間がぎくしゃくした時には、誰にも相談できなくなります。
相談したい相手が、相談したい中身の当事者になっているからです。
支えにしていたものと、苦しみの出所が、いつも同じです。
これは偶然ではありません。
大事にしていないものは、たとえ壊れても痛くないからです。
道で知らない人に冷たくされても、その夜、眠れなくなる人はまずいません。
支えにしているものだからこそ、それが崩れた時に、一番応えます。
言い換えると、支えの太さが、そのまま痛みの深さになっています。
細い支えなら、折れてもよろける程度です。
太い支えほど、折れた時に立っていられなくなります。
強かった支えほど、失った時の痛みが大きくなるわけです。
そうなると支えは、要る時までに準備が間に合わなかったのではなく、
要るタイミングで、同時になくなっているということになります。
拠り所を持っていなかったから、その日に辛かったのではありません。
持っていても、その日には同じ所に立っているということです。
一人でいる辛さについては、以下の記事で解説しています。
➾孤独とは?ひとりぼっちが辛い人へ孤独感解消法
では、何か1つに頼らず、いくつも持っておけばいいのでしょうか。
増やしても同じことが起きる
世間でよくいわれるのが、これです。
1つに頼ると、それが崩れた時に全部が終わる。
だから、家族と、仕事と、趣味と、友人と、いくつか持ちなさい、というものです。
これは、言われる通りだと思います。
1つ崩れても他が残っていれば、その間は持ちこたえられます。
実際、多くの人が、それで日々を送っています。
ところが、いざ崩れる時は、1つでは終わりません。
ここが、「拠り所を増やしておけば安心」という考えの盲点です。
仕事を失うと、収入が減ります。
収入が減ると、付き合いが減ります。
付き合いが減ると、誘われなくなります。
誘われなくなると、外に出なくなり、体が弱ります。
体が弱ると、家の中の空気まで変わります。
別々に置いておいたつもりのものでも、
1本の糸でつながっています。
1つ引き抜くと、つながっていたものが順に落ちていきます。
思い当たる方もあるのではないでしょうか。
順番に失ったのではなく、1つ失ったら、あとは引きずられて落ちていった。
別々のものを、4つ5つ用意したつもりが、
束にして1本の釘に掛けてあったということです。
そして、どれだけ数をそろえても、最後の日が来ます。
その日には、そろえたものを全部同時に手放します。
何十年かけて集めたものが、一度に手から離れます。
数を増やしておいたことが、その日に役に立つでしょうか。
拠り所を増やすというのは、船に荷物を積み増すようなものです。
荷物が多いほど、船が傾いた時の揺れは大きくなります。
沈む時には、積んだものが多いほど、失うものが多くなります。
積み方を工夫しても、船が沈むかどうかは、それでは決まりません。
つまり、数の問題ではないということです。
信じていたものが崩れる時の苦しみについては、以下の記事で解説しています。
➾信心とは?仏教における真実の信心と幸せになるのに捨てるべき信心の秘密
では、一体何であれば、心の拠り所と呼べるのでしょうか。
拠り所と呼べるものの条件はたった1つ
条件は、難しくありません。
ここまで見てきたことの反対を考えれば分かります。
それは、自分が崩れた時に、一緒に崩れないもの。
これ1つだけです。
この基準で身のまわりを見たらどうでしょうか。
お金は、自分が働けなくなれば、入ってこなくなります。
そういう時にこそ必要なのに、その時には手持ちのお金が減っていきます。
人は、自分が弱った時に離れていくこともありますし、
離れずにいてくれる人も、同じように年をとって弱っていきます。
支え合っていたはずが、やがてどちらも支えを必要とする日がきます。
立場は、自分が崩れた時、まっ先に外れるものです。
役職は、働いている間だけ預かっているものだからです。
才能や腕前は、体や頭に乗っています。
体や頭が衰えれば、一緒に衰えてしまいます。
では、自分自身を拠り所にすればどうか、と思われるかもしれません。
ですが、ここまで挙げたものが崩れる時、
まっ先に崩れているのは、外でもない自分の心です。
自分を拠り所にすることについては、以下の記事で解説しています。
➾釈迦の遺言「自灯明法灯明」の本当の意味をわかりやすく解説
つまり、どれも自分と同じ船に乗っています。
同じ船に乗っているものは、船が傾けば一緒に傾き、
沈む時には一緒に沈みます。
自分が崩れた時に、一緒に崩れないもの。
この物差しで世の中を見渡すと、実は1つも残るものがありません。
心の拠り所が欲しいと探してきたものは、
初めから、その条件を満たしていなかったということです。
これは、よく考えれば分かることでした。
崩れるものを支えにすれば、支えも一緒に崩れます。
それでも私たちが探し続けてきたのは、
今、手が届く範囲に、そういうものしかなかったからです。
崩れないものを見たことがないので、崩れにくそうなものを選んでいたわけです。
探し方が悪かったのでも、見る目がなかったのでもありません。
世の中にないものを探していたということです。
では、このことを、仏教ではどのように説かれているのでしょうか。
お釈迦さまが「恃怙すべからず」と説かれたもの
お釈迦さまは、この世の有様を説かれたあと、
繰り返し、こう説かれています。
一切の行は無常なり。
変易し朽壊して、恃怙すべからず。
有為の諸法は、はなはだ厭患すべし。
まさに度世解脱の道を求むべし。
(漢文:一切行無常。変易朽壊,不可恃怙。有為諸法甚可厭患,当求度世解脱之道)(出典:『長阿含経』)
「行」とは、つくられたもののことで、この世のすべてを指します。
「変易し朽壊して」とは、移り変わり、朽ちて壊れて、ということです。
そして「恃怙」です。
「恃」も「怙」も、どちらも頼りにするという意味の字で、
同じ意味の字を2つ重ねてあります。
「恃怙すべからず」とは、頼りにすることができないということです。
ですから、この世のすべては続かないものだから、
心の拠り所にすることはできない、と説かれています。
頼りにしてはいけない、という戒めではありません。
頼りになる性質を、そもそも持っていない、ということです。
「有為の諸法」とは、色々な原因が集まってできたもの、という意味です。
集まってできたものは、何か原因が1つ外れれば形が変わります。
会社も、家庭も、体も、原因が集まって、今その形をしています。
「厭患すべし」とは、それを頼もしいものと思うな、ということです。
そして、このように説かれているのは、
この世界が形を変えていく有様を説かれた、そのあとです。
一度だけではなく、そのたびに繰り返し説かれています。
これは、大きなものから小さなものまで、
同じことが起きているということです。
ここで終わっていれば、突き放されただけになってしまいます。
ところが、この内容には続きがあります。
「まさに度世解脱の道を求むべし」
「度世」とは、この世から救われるという意味で、
「解脱」とは、縛られているものから解き放たれることをいいます。
頼りにならないものを並べて、そこで一生を終えるためではなく、
頼りになるものが全く別にあると知らせるために、説かれているのです。
では、その先には、何が説かれているのでしょうか。
手入れの要らない拠り所
世間でいわれる拠り所には、どれも手入れが必要です。
人は、会わなければ疎遠になります。
趣味は、続けなければ楽しみがなくなっていきます。
立場は、勝てなくなれば、人に渡さなければなりません。
手を入れ続けている間だけ、支えになっています。
拠り所を作りなさい、育てなさいという言葉が重く感じられるのは、
それを言われるのが、手を入れる力の残っていない時だからです。
仏教に説かれているのは、手入れの要らないものです。
一度、自分のものになれば、そのあと色あせたり崩れたりして
変わってしまうことがありません。
それはどういうものかというと、
壊れることもなければ、変わることもない
仏の大地に心をたてるようなものです。
心がそれまで想像もできなかった世界に出ます。
そうなれば、支えを自分の外に置いておく必要がなく、
崩れることも色あせることもない、絶対変わらない幸せになれます。
何かを外に持つのではなく、自分がその身になるからです。
自分がその身になれば、誰かに盗まれることも、壊されることもありません。
そして、人生最期の日にも、置いていかなくて済みます。
そういう身になるのに、特別な才能も、恵まれた環境も必要ありません。
拠り所を多く持っている人が近いわけでもなければ、
1つもないから遠いわけでもありません。
どんな人でも、生きている今、果たすことができます。
その変わらない幸せになるには、
私たちの苦しみ悩みを生み出している根本原因を知り、
それを断ち切ればなれます。
では、その苦悩の根元とはどんな心なのか、
どうすれば断ち切れるのか。
それについては仏教の真髄なので、
メール講座と、電子書籍にまとめてあります。
どちらも無料ですので、今すぐ見ておいてください。
関連記事
この記事を書いた人
長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)
東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細・お問い合わせ
X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)
京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作に引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。


