孤独・ひとりぼっち
「孤独で辛くて仕方ないです」
「孤独が辛くて耐えられません。死にたいです」
自分の気持ちを誰にもわかってもらえないと、孤独な気持ちになります。
どんなにお金や財産、地位、名誉を手に入れても、孤独で寂しい人生では幸せとは言えません。
ひどい時には生きる希望を失ってしまいます。
どれだけ科学が進歩しても、経済が繁栄しても、孤独感はなくなりません。
このような孤独感は一体どこからやってくるのでしょうか?
愛されたいのに誰も愛情を注いでくれない時、
孤独感が押し寄せてきてどうしようもない時、一体どうすればいいのでしょうか?
単に孤独を紛らわすのではなく、孤独の本質に向き合って
心理学や哲学の興味深い研究も参照しつつ、完全に孤独を癒やす方法、孤独感の解消法をみてみましょう。
孤独とは?
孤独について、参考に辞書を開いてみると、以下のように書かれています。
こ‐どく【孤独】
1 みなし子と、年とって子どものないひとりもの。また、身寄りのない者。ひとりびと。*続日本紀‐和銅四年一一月壬辰「又賜畿内百姓年八十以上及孤独不能自存者衣服食物」
2 (形動)精神的なよりどころとなる人、心の通じあう人などがなく、さびしいこと。ひとりぼっちであること。また、そのようなさま。「孤独な生涯を送る」(出典:小学館『スーパーニッポニカ 国語辞典』)
心が通じ合わない、さびしくひとりぼっちのことを孤独といいます。
孤独感を解消する方法として、たとえばこのようなことが言われています。
・誰かに連絡する
・夢中になる趣味を見つける
・誰かの役に立つことをする
・笑顔をつくってみる
・周囲の人に感謝してみる
孤独を紛らわせるために様々なことを試みますが、上記の方法で辛い孤独感を解消できるのでしょうか。
孤独についてもう少し具体的に掘り下げてみます。
孤独を感じるとき
松尾芭蕉は晩年、こう詠んでいます。
この道や 行く人なしに 秋の暮れ
(松尾芭蕉)
(出典:各務支考『笈日記』)
短い言葉の中に人生の孤独がにじみ出る名句です。
人生は、時として、耐えられないような孤独感に
押しつぶされそうになります。
誰しも孤独を感じたことがあるのではないでしょうか?
信じていた人に裏切られて人間不信になり、
「もう誰も信じない、一人で生きていく」
そして自分を信じ、お金を信じて生きていく、
そんな人は孤独な人生になります。
お金も地位もあり、一見強そうに思える人でも、
めったに話の合う友達がなく、孤独です。
ある社長は、仕事のつきあいでお歳暮や年賀状が
山ほどきていましたが、引退したら、
手のひらを返したように来なくなり、
孤独な気持ちになってすっかり老け込んだという人があります。
また、資産家がお金を守ろうとすることによって人を信じられなくなることがあります。
お金は、人と人の間に亀裂を生じさせて、孤独を深めます。
孤独は幸せを壊してしまいますので、
幸せになりたいと思って努力してお金を貯めたのに、結局幸せにはなれません。
芥川龍之介の『孤独地獄』という小説では、放蕩三昧の禅宗の僧侶が、遊郭で遊びながら、地獄の種類について解説し、こう言うシーンがあります。
「孤独地獄だけは、山間、広野、樹下、空中、どこへでも忽然として現れる。
……自分は二三年前から、この地獄へ堕ちた」
遊郭で遊んでいられるほどお金があり、自由な生活をしていても、孤独を感じてしまうのです。
そしてこの小説の最後に芥川龍之介自身が、こう告白しています。
ある意味では自分もまた孤独地獄に苦しめられている一人である。
(芥川龍之介『孤独地獄』)
天才といわれるほどの才能に恵まれながらも、やはり孤独なのです。
自由律俳句で有名な尾崎放哉も、こう詠んでいます。
咳をしても一人
(尾崎放哉)
(引用:尾崎放哉選句集)
咳をしたら、誰かに
「どうしたの?風邪でも引いたの?」
と心配して欲しいのに、誰も何にもいってくれない。
昔はそんな人がいたのに今はいなくなってしまった。
そんなひとりぼっちの孤独な情景を、五・七・五ではなく、三・三・三の自由律で詠んでいます。
現代でも、一人暮らしの人が誰にも知られずに死んでいく、いわゆる孤独死があります。
普通に頑張ってマイホームを建てても、大地震が起きて何秒間か地面が揺れただけで
それまで築き上げてきたすべてを失い、仮設住宅に一人で住むことになります。
若ければまたやり直せるかもしれませんが、
今さら生きながらえても意味がないと、
たくさんの人が自殺したり孤独死したりしています。
このように、ひとりぼっちの孤独感を
かなり多くの人が抱えています。
星の王子さまの孤独
サン・テグジュペリの『星の王子さま』で、
星の王子さまは6つの星を旅した後に、
7番目の星である地球にやってきます。
そこは砂漠でした。
人っ子一人いない砂漠に孤独を感じた星の王子さまは、
砂漠の花に人間はどこにいるのかと尋ねます。
砂漠の花はこう答えます。
さあ、どこで会えるかわかりませんね。
風に吹かれて歩きまわるのです。
根がないんだから大変不自由していますよ。
(引用:サン・テグジュペリ『星の王子さま』)
この砂漠の花は、
人間は、根っこがあるから動けなくて不自由しているのではなく、
根っこがないから不自由しているのだと言うのです。
根っこというのは、拠り所のことです。
自分の居場所がない人は孤独ですし、
居場所はあっても、そこに心の居場所がなければ
孤独を感じます。
つまり、「心の拠り所のないこと」が孤独感を生み出すのです。
孤独は人の中で感じる
このことを哲学者の三木清(1897-1945)は、死後に出版されてベストセラーになった『人生論ノート』に、こう記しています。
孤独は山になく、街にある。
(引用:三木清『人生論ノート』)
山の中では、ひとりぼっちです。
一見孤独なようですが、案外一人でいるからといって
孤独を感じるものではありません。
街に行くと、人がたくさんいます。
東京のような大都会で、
人がたくさんいるほうが、
人と人とのつながりの希薄さが際立ち、
「東京砂漠」と言われる孤独感が起きてくるのです。
そして人は、生きる意味が分からず、
いつまでもたよりになるものがないから、
孤独になり、不安になります。
心理学から見た孤独の原因
心理学でも同じです。
心理学的な研究によれば、
友人の数とか、
恋人がいるかどうかとか、
家族と接する頻度は、
孤独感とあまり関係ないことが分かっています。
交流できる人数だけであれば、
現代ではインターネットによって多くの人と交流できるようになりました。
ところがまさにそのために、孤独感はむしろ深まっているという研究結果もあります。
このように周りに友達や恋人や家族がいれば孤独が解消されるというのは誤解です。
では、心理学では、孤独を感じる原因は何かというと、
自己開示をあまりしないからだといわれています。
自己開示というのは、自分のことを人に言うということです。
人間は、自分のことを他人に分かってもらいたいものなので、
自分のことを人に言って、分かってもらえると、
孤独が解消されるということです。
このように、心理学の観点からすれば、『星の王子さま』の孤独である「心の拠り所のないこと」は、他人に分かってもらえないことでもあるわけです。
ですから、何か悩みがある場合は、一人で悩んでいないで、
誰か自分のことを心配してくれる人に打ち明けると、楽になります。
これが一つの孤独の解消法になります。
二人の孤独は一人の孤独より辛い
かつて浜崎あゆみは、こう歌いました。
ひとりぼっちで感じる孤独より
2人で感じる孤独のほうが辛い。
(引用:浜崎あゆみ『SURREAL』)
これは、このビデオの以下の部分です。
一人でいると寂しいから、
その寂しい心を埋めようと思って友達を作ったり
恋人を作ったり
結婚したりします。
あるいは子どもの時は親とかが
自分の寂しい心を埋めてくれる人のはずです。
ところが、お父さんお母さんにはまったく分かってもらえません。
家族に言っても分かってもらえないことを友達は分かってくれるだろうと期待します。
ある程度は分かってもらえても、深いところまでは分かってもらえません。
そこで恋人に打ち明けたら分かってもらえるかと思っても、やはり分かってもらえません。
他人に合わせて演じている自分と、心の中ではしらけている自分が分離していきます。
友達と悪ふざけをしたり、おちゃらけたりしても、心のうちには冷めた自分がいて、
そうなるとやりきれない孤独感に襲われます。
このことをローマ時代の哲学者のキケロ(紀元前106-紀元前43)もこう言っています。
人と一緒にいる時が、最も孤独な時だ。
(キケロ)
周りに誰もいなくて分かってもらえないよりも、
周りに人はいるのに誰にも分かってもらえないほうが、
余計に孤独を感じて辛いのです。
ブッダが教える孤独の由来
このような孤独な人生をブッダは『大無量寿経』に、こう説かれています。
独生独死 独去独来
(大無量寿経)
これは「独り生まれ、独り死し、独り去り、独り
来る」
と読みます。
生まれてきた時も独り、
死んでいく時も独り、
来た時も独りなら、
去る時も独り、ということです。
人間生まれてくるのは一人一人です。
双子でもどっちかが先に生まれてきます。
死んでいく時も一人です。
手をつないで心中してもやはり死ぬのは一人です。
私たちは生まれてから死ぬまで一人ぼっちだということです。
「私には友達もいますし、夫や妻、子供もいますよ」
という人がいるかもしれませんが、
それは肉体の連れのことです。
肉体の連れはあっても魂の連れはない
ということをブッダは教えられているのです。
だからビクビクしながら不安で孤独な魂をかかえて生きているのが実態です。
魂はひとりぼっち
なぜ肉体の連れはあっても、魂はひとりぼっちになってしまうかのというと、
私たちの心は、
「誰かに分かってもらいたい」
と思っても、結局は分かってもらえないからです。
心のうちを全部言うことはできません。
どんなに親しい相手でも、
ここまでは言えるけど、
ここからは言えないというものがあります。
言葉に出したとしても、全部分かってもらうのは無理です。
一人一人が誰にも分かってもらえない秘密の蔵を抱えています。
なぜ分かり合えないのかというと、私たちはそれぞれ行い(業)が違うので、住んでいる世界が違うからです。
だから同じものを見ても、人によってまったく違う見え方をしてしまいます。
その自分の生きる世界を生み出しているのが実は、一人一人の秘密の蔵です。
この秘密の蔵を仏教では「阿頼耶識」といいます。
阿頼耶識というのは蔵のような心という意味ですが、詳しくは以下の記事で解説してあります。
そこには、私たちが過去に心と口と身体で造った行いが、目に見えない業力となっておさまっています。
その秘密の蔵におさまった業力が、一人一人の自分が生きている世界を生み出しているのです。
だから、誰かがその人自身の業で生みだしている世界を、他の人が見ることはできません。
一人一人が、決して分かり合うことのできない孤独な世界に生きています。
それで自分を誰にも分かってもらうことができず、孤独地獄で苦むことになるのです。
だから「分かってもらいたい」という期待感が強いほど、絶望感が大きくなります。
真っ暗な闇に閉ざされて、孤独で不安な一人旅をしているのが人生です。
哲学の視点から見た孤独・ブーバー『我と汝』
ブーバー
この孤独を解消する方法を探す上で、興味深い哲学があります。
それは、オーストリア出身のイスラエルの哲学者、マルティン・ブーバー(1878-1965)の哲学です。
ブーバーは、主著『我と汝』に、「私」と私以外の存在との関係に、2種類あると言っています。
「私とそれ」という関係と、
「私とあなた」という関係の2つです。
この2つはどう違うのかというと、
フランスの実存主義哲学者ガブリエル・マルセル(1889-1973)が、
電車に乗り合わせた乗客の例でわかりやすく説明しています。
例えば電車の隣の席にたまたま座った人と
「いま何時ですか」とか
「どちらまで行かれますか」
などと言葉を交わしても、それはまだ「私とあなた」の関係ではなくて、
隣の席に置かれたボストンバッグと同じ程度の関係です。
これは、相手が人間とはいえ、関係としては「私とそれ」のような関係です。
ところが会話をしているうちに、出身の学校が同じだと分かったり、
好きになって恋人になったりすれば、それは「私とあなた」の関係になります。
もし電車が脱線事故を起こしたりした場合には、ボストンバッグなら「それ」を放置したままで、自分だけで避難するでしょうが、
恋人なら、手を貸して一緒に避難しようとするでしょう。
それが「私とあなた」の関係です。
「私とそれ」の関係では心は通いませんが、
「私とあなた」の関係では心が通うのです。
このブーバーの2つの関係でいえば、
「私とそれ」の関係しか結べなければ孤独ですし、
「私とあなた」の関係が結べる存在ができれば、孤独が解消されます。
この2つの関係は、固定されたものではありません。
初対面の時は「私とそれ」の関係から始まりますが、例えば恋人になれば「私とあなた」の関係になります。
やがて結婚して空気のような存在になったり、倦怠期に入ったりすれば「私とそれ」の関係に戻る場合もあります。
ところが一方が重い病気にかかって、必死に看病して快復する間に、今までの態度を反省して愛情がよみがえれば、また「私とあなた」の関係になるかもしれません。
ですが「私とあなた」の関係は非常に終わりやすいものです。
こういうことからすれば、どんなにお金や財産、地位、名誉、趣味や仕事など、欲しいものをすべて手に入れて、好きなことを自由にやったとしても、孤独は解消されません。
「私とあなた」の関係になれる存在を見つけないといけないのです。
そしてブーバーは、人間が生きる目的は、いつまでも「私とあなた」という関係を続けていくことだと言っています。
ところがブーバーの哲学で、決して「私とそれ」になることのない「永遠のあなた」というものが実在するのかというと、ありません。
例えばそれを神だとすれば、その神を対象として客観的に考えたとたん、それは「私とあなた」ではなく「私とそれ」という関係になってしまいます。
みんなこの哲学が重要であることは分かるのですが、
「ああでもない、こうでもない」
と、さまざまな解釈を生むだけで、変わらない「私とあなた」の関係を実現し、この問題に終止符を打った哲学者はいないのです。
ブッダの明らかにされた孤独の解消法
みんな秘密の蔵を抱えた一人旅で、誰にも分かってもらえない孤独な人生で、「私とあなた」の関係になって自分を分かってくれる人を求めています。
人類は、秘密の蔵が誰にも開けることのできない扉に閉ざされて、誰にも分かってもらえず、真っ暗闇の中で苦しんでいます。
仏教では、その真っ暗な心の闇をぶち破ぶって、
秘密の蔵の扉を開いて、何もかも分かって、
それをそのまま救いとってみせるという仏様があります。
その仏教の教えの通りに、永遠の「私とあなた」の関係になった体験が、
日本で一番読まれている仏教書『歎異抄』に記されています。
『歎異抄』は、親鸞聖人の言葉をお弟子が書き残したものですが、
親鸞聖人はこのように言われています。
弥陀五劫思惟の願をよくよく案ずればひとえに親鸞一人がためなりけり。
されば若干の業をもちける身にてありけるを、たすけんと思召したちける本願のかたじけなさよ。(引用:『歎異抄』後序)
「弥陀」とは阿弥陀如来という仏様のことです。
「五劫」は、一劫は4億3200万年なので、その5倍という果てしない期間です。
「弥陀の五劫思惟の願」というのは、阿弥陀如来が、五劫という途方もなく長い間考え抜かれて誓われた、本当の願いのことです。
「よくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」
とは、阿弥陀如来が、五劫もの大変な長期間、思惟に思惟を重ねて本願をたてられたのは、親鸞のこの心を知ってくだされるためでありましたかー、ということです。
ひとえに私一人のための本願でありました、と阿弥陀仏と直結して、阿弥陀仏と一対一で心が通じるようになります。
一度直結してしまえば、二度と崩れることも色あせることもありません。
「私とあなた」というよりも、私の心と仏の心が一つになります。
次の「若干の業」というのは、はかりしれない悪業のことです。
「されば若干の業をもちける身にてありけるを、助けんと思召したちける本願のかたじけなさよ」というのは、
阿弥陀如来はとうの昔に、私とはどんなものかをよくよくご存じで本願を建ててくださった。
真っ暗がりに覆われている秘密の蔵の中に、ぎっしりつまっている数限りもない悪業を何もかも照らし抜いた上で、そのまま救う本願であった。
なんともったいない、なんとかたじけない、と親鸞聖人は泣いて喜んでおられます。
このように仏教では、他に人がいるとか、いないとかに一切左右されない、
一人いて一人喜べる本当の幸せになれるのです。
それは自分のすべてが完全に理解されて、そのまま救われますので、何によっても縛られない完全に自由な世界です。
ではどうすれば、その本当の幸せになれるのかについては、心の闇を知って、それをなくさなければならないのですが、それは仏教の真髄ですので、メール講座と電子書籍にまとめてあります。
一度目を通しておいてください。
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この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか一人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。インターネットの技術を導入して日本仏教学院を設立。著書2冊。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者3千人、メルマガ読者5万人。ツイッター(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)