解脱とは?
「解脱」は仏教や、広くいえばインド哲学全般の究極の目的です。
従って、解脱の意味が分からなければ、仏教を学んでも、その他のインド哲学を学んでも、少しも分かりません。
解脱とは一体どんなことなのでしょうか?
解脱の意味
解脱について、まず百科事典を参照しておきましょう。
すると以下のように出ています。
解脱
げだつ
インド思想一般および仏教用語。
一般にはサンスクリット語の名詞ビムクティvimukti(パーリ語はビムッティvimutti)の訳語。
これは動詞ビ・ムチュvi-muc(解き放す)からの派生語である。
また受身形ビムチュヤテーvimucyate(パーリ語はビムッチャティvimuccati。解き放される)が動詞として「解脱する」の意味に用いられる。
また解脱のサンスクリット語として、ムクティmukti、ビモークシャvimokṣa、モークシャmokṣaなどが用いられることも多い。
インド思想一般において、解脱は、現世、迷いの世界、輪廻などの苦しみから解き放された理想的な心の境地と考えられ、この解脱を得ることが人生最大の目的とされた。
解脱の詳細な内容や、そこへ至る方法は、各学派によってさまざまであるが、とくにわが国では、この語は仏教と結び付いて用いられてきた。引用:『スーパーニッポニカ 日本大百科全書』(第二版)
このように「解脱」というのは、もともとインドの言葉(サンスクリット語)で、mokṣa、mukti、vimuktiでした。
mokṣaは、ゆるめるとか放つという意味の動詞語根ムチュ(√muc)から派生した名詞で、「解放」とか「自由」という意味です。
(語根とは、√記号で表されるサンスクリット語の動詞の最も基本的な部分)
百科事典にあるように、解脱は、インドの多くの思想において、人間の究極の目的として求められた境地です。
ですがこのように、語源の解説が大半で、
意味は簡単に、「解脱とは輪廻などの苦しみから解き放たれたこと」
という感じでは、詳しい内容は分かりませんので、
それについて詳しく解説していきます。
解脱を求める理由
人は誰でも、お金や財産、地位、名誉などのこの世の幸せを求めます。
それなのになぜ解脱を求める必要があるのでしょうか?
それは、この世の幸せは続かないからです。
たとえどんなにお金を手に入れても、財産を築いても、
どんなに高い地位に上り詰めたとしても、
光陰矢の如しで人生はあっという間に終わります。
人生の最期、死んでいく時には、
せっかく手に入れたお金も財産も一円も持ってはいけません。
地位も名誉も何の役にも立ちません。
手に入れたものはすべて置いて、
愛する家族とも別れて、
たった一人で死んでいかなければなりません。
この世の幸せは、生きている間限定の、一時的な幸せなのです。
そんな儚い幸せではなく、未来永遠に変わらない幸せが欲しいと思います。
その未来永遠の幸せを実現するのが、解脱なのです。
では、「解脱とは輪廻から解き放たれること」と辞書にもありましたが、
「輪廻」とは何でしょうか?
輪廻とは
「輪廻」とは、「輪がまわる」と書きますが、
車の輪が回るように、生まれ変わりを繰り返すことです。
仏教では、因果の道理に従って、人は死ねば、それまでの行いによって、次の世界に生まれ変わると教えられています。
因果の道理とは「すべての結果には必ず原因がある」ということです。
これは、いつでもどこでも変わらない真理です。
どんな場所でも、過去、現在、未来を貫いて成立します。
ところが人間には、生まれた時点で色々な違いがあります。
見た目も違えば性格も違います。
能力も才能も人それぞれです。
そのような生まれた時点での違いも結果ですので、必ず原因があります。
原因は結果よりも前にありますので、生まれた時の結果の原因は、生まれる前にあることになります。
もちろん、肉体については親の遺伝子が原因となっていることも多いと思います。
ところが問題は心です。
同じ親から生まれても、全然性格は異なります。
そして、心は物質から生み出すことはできませんので、物質である肉体以外の原因があります。
ですから今生に人間に生まれる前に、過去世があったのだと仏教で教えられています。
その過去世の自分が原因となって、今生に生まれてきたのです。
前世にも、その前の前世があります。
その前の前世にも、前前前世があります。
仏教では、すべての結果には必ず原因がありますので、どこまでもさかのぼることができます。
果てしのない遠い過去から、生まれ変わり死に変わりを繰り返しているのです。
それと同じように、今人間に生まれている人も、死ねばまた次の生が始まります。
それは人間に生まれるとは限りません。
来世は死ぬまでの行いに応じて、因果応報で決まるのです。
こうして、始まりのない始まりから、永遠の未来に向かって、
車の輪が同じところをぐるぐる回るように、
生まれ変わり死に変わり、生死を繰り返しているのです。
これが輪廻です。
このように、同じところをぐるぐる回り続けるのは、迷いであり、苦しみですので、
この苦しみ迷いの輪廻から離れて、未来永遠の幸せになることが解脱です。
仏教以外の色々な解脱
ところが、解脱とはどんなものかについて、色々な意見があります。
六派哲学といわれる『ヴェーダ』に基づくインド哲学の各学派でも、それぞれ異なります。
六派哲学については、詳しくは以下をご覧ください。
➾インド哲学(六派哲学や仏教)をまとめて分かりやすく解説
また、『ヴェーダ』を認めないジャイナ教など六師外道でも異なります。
このように解脱には、色々な種類があるのですが、
それぞれ一体どんな解脱を説いているのでしょうか?
サーンキヤ学派の解脱
サーンキヤ学派では、純粋精神プルシャと根本物質プラクリティによってすべてができています。
純粋精神はアートマンです。
純粋精神が根本物質を観照することによって統覚器官や自我意識が生まれ、あらゆる現象を生み出します。
そして根本物質が純粋精神を繋縛して苦しみを感じ、輪廻します。
繋縛が解けないのは無知と愛欲が原因なので、純粋精神と根本物質、そこから生じた現象の区別を明らかに知ると、純粋精神は本来の状態を回復して解脱すると説きます。
ですがそれは生前解脱といって、肉体がある間は完全ではありません。
生前解脱した人が死んで肉体が滅びると、離身解脱して、輪廻から解き放たれる完全な解脱が得られます。
ヨーガ学派の解脱
ヨーガ学派では、業によって、次に生まれる世界や寿命などが決まります。
その業を生み出すのが煩悩です。
このあたりはとても仏教に似ています。
ヨーガ学派の煩悩には、無明、自己意識、貪欲、憎悪、生存欲の5種類がありますが、その中でも無明が根本的です。
そのため、ヨーガの修行によって無明がなくなれば、輪廻は消滅します。
そして無明がなくなった人が、死ねば完全な解脱が実現します。
ニヤーヤ学派の解脱
ニヤーヤ学派では、人間が苦しむのは、人間が生まれることによります。
人間が生まれるのは活動に基づきます。
活動は、貪欲や嫌悪などの欠点に基づきます。
欠点は誤った知識に基づいています。
だから正しい知識を得て、誤った知識がなくなれば、苦から離れ、解脱が得られます。
ヴァイシェーシカ学派の解脱
ヴァイシェーシカ学派では『ヴェーダ』に従った行動をすればダルマが蓄積し、反した行動をすればアダルマが蓄積します。
それによって輪廻します。
つまり『ヴェーダ』に従っただけでは天界に生まれるだけで解脱はできません。
また、行動は貪欲から起きますが、貪欲は過去世からの不可見力からも起きます。
そこで、解脱のためには、ヨーガの実践によって不可見力を滅する必要があります。
そして、解脱は特別のダルマから生ずる真理の認識から起きます。
特別のダルマは、実体・性質・運動・普遍・特殊・内属という
6つの原理の共通性と違いに基づいてえられるので
この六原理を研究して真理の認識を得る必要があります。
ミーマンサー学派の解脱
ミーマンサー学派はもともと『ヴェーダ』の祭式を研究していました。
そのため、祭式を行って天界に生まれることを目的としていましたので、
この学派の根本聖典の『ミーマンサー・スートラ』に解脱については説かれていません。
ですが、やがて祭式の研究は、解脱を得るのが目的とされるようになりました。
それにはアートマンを見いだす必要があるといいます。
ヴェーダーンタ学派の解脱
ヴェーダーンタ学派では、解脱は個人の本質であるアートマンと、宇宙の原理であるブラフマンの合一です。
これを「梵我一如」といいます。
それにはブラフマンの明知を得なければなりません。
明知が得られなければ輪廻します。
明知が得られれば、死後にブラフマンと合一して解脱します。
後にかなり仏教を取り入れたシャンカラの不二一元論が優勢になると少し変わってきます。
シャンカラによると、アートマンとブラフマンは元々一つで唯一の実在ですが、無明によってそれが正しく認識できていないとします。
そのために輪廻をしてしまうので、輪廻の原因は無明です。
従って、無明を滅して明知を得れば、自己のアートマンがブラフマンであることを知って解脱すると説きます。
ジャイナ教の解脱
ジャイナ教は、お釈迦様と同じ時代に生まれ、今も続いている宗教の一つです。
ジャイナ教では、業は物質的なものです。
悪いことをすると、その悪業は物質的に霊魂に付着して繋縛されます。
そのために霊魂が上昇できなくなり、輪廻するとされています。
そのため厳しい苦行をしてすでに付着している業の作用を止め、新たな業が霊魂に流入するのを防ぎます。
厳しい苦行の末、霊魂に付着した業が滅すると、霊魂は本性を発揮して、生前に解脱し、死後に真の解脱が得られます。
それは霊魂が上昇して世界の頂上にある非世界に到達し、涅槃の境地に至るといいます。
それがジャイナ教の解脱です。
ジャイナ教について、詳しくは以下の記事をご覧ください。
➾ジャイナ教の開祖や食事などの特徴、仏教との違いを簡単に解説
アージーヴィカ教の解脱
アージーヴィカ教は、インドでお釈迦様の時代にあった六師外道の一つです。
それは徹底的な運命論です。
輪廻も解脱も無因無縁で、自分の意志による行いは何一つありません。
すべては運命です。
そして、生きとし生けるものはすべて輪廻していますが、840万大劫という長い時間が経過すると、自然に迷いが終わり、解脱するといいます。
その間、どんなに修行しても解脱には近づきませんが、解脱に近づいた人は修行をし始めるといいます。
ただただ長い時間が経つと苦しみ迷いが終わるというのがアージーヴィカ教の解脱です。
このように、「解脱」といっても色々あります。
その解脱の内容も、正しい認識をするものや、宇宙の原理と一体になるもの、霊魂が非世界に出るものなど、それぞれ大きく違います。
一方、仏教の影響を受けているものも多々あることに
気づかれた方もあると思います。
では、仏教では解脱をどのように教えられているのでしょうか?
仏教の解脱
仏教は、まず私たちが苦しんでいるという現実から出発します。
仏教の基本的な教えである四聖諦では、4つの真理が教えられていますが、
その1つ目が、人生は苦なりという真理です。
では、人生が苦しみに染まる原因は何かというのが2つ目の真理です。
なお、四聖諦について、詳しいことは以下の記事をご覧ください。
➾四聖諦・仏教に説かれる4つの真理
輪廻の原因
仏教では、私たちが苦しみ悩んでいる原因は、
社会のせいでもなければ他人のせいでもありません。
自分の心に原因があると教えられています。
それが、煩悩です。
四聖諦の2番目、苦しみの原因を明かした真理に教えられているのは、煩悩です。
私たちが苦しんでいるのは、欲や怒りや愚痴などの煩悩が原因だと教えられています。
私たちが輪廻する原因も同じく煩悩です。
輪廻の原因が煩悩ですから、
原因である煩悩がなくなれば結果である輪廻もなくなり、
解脱することができます。
ですから仏教では、煩悩をすべて断ち切れば、解脱できます。
解脱とは
それが、四聖諦の3番目にあげられる「涅槃」です。
涅槃というのは、ニルヴァーナともいって、吹き消すという意味です。
煩悩の火を吹き消すということで、煩悩がなくなった境地です。
『涅槃経』にはこのように説かれています。
涅槃をば名づけて解脱となす。
(漢文:涅槃者名爲解脱)(引用:『涅槃経』)
このように、解脱とは、煩悩のなくなった涅槃の境地のことです。
そのことをパーリ経典の『スッタニパータ』第4章には、このように説かれています。
諸々の欲望を顧慮することのない人、──かれこそ<平安なる者>である、とわたしは説く。
かれには縛めの結び目は存在しない。
かれはすでに執着を渡り了えた。(引用:『スッタニパータ』857)
「平安なる者」とは、涅槃の境地に至った人のことです。
涅槃の境地に至った人は、欲を起こしません。
そして、その人に存在しない「縛めの結び目」というのは、
束縛する煩悩ということです。
結び目は、十結といって、貪欲、瞋恚、慢、見、疑、戒禁取、有貪、嫉、慳、無明の10の煩悩が教えられています。
このような煩悩がなくなっている、ということです。
執着も煩悩なので、涅槃というのは煩悩がなくなった境地だということです。
では、解脱したらどうなるのでしょうか?
解脱したらどうなるの?
解脱したらどうなるのかについては、小乗仏教と大乗仏教で違いがあります。
そのことを龍樹菩薩は『大智度論』にこのように教えられています。
此の解脱の味に二種あり。
一つにはただ自らの身の為にし、二つには兼ねて一切衆生の為にす。
ともに一解脱門を求むといえども、しかも自利と利人の異あり。
是の故に大小乘の差別あり。
(漢文:此解脱味有二種 一者但自爲身 二者兼爲一切衆生 雖倶求一解脱門 而有自利利人之異 是故有大小乘差別)(引用:龍樹菩薩『大智度論』)
龍樹菩薩によれば、解脱のまことの味わいに2つあります。
1つ目は、自分が幸せになるための解脱です。
2つ目は、すべての人のための解脱です。
どちらも同じく解脱を求めるといっても、自分が幸せになる自利と、他の人を幸せにする利他の違いがあります。
だから大乗仏教と小乗仏教の区別がある、ということです。
これは一体どういうことなのでしょうか?
小乗仏教の解脱
小乗仏教の場合は、煩悩がなくなると、阿羅漢の悟りが開けます。
小乗仏教で最高の悟りが阿羅漢です。
阿羅漢の悟りを開いた人は、死ぬと消滅するといいます。
これを灰身滅智といわれます。
身を灰にして心を滅するということです。
消滅しますので二度と輪廻することはありませんが、それは自分だけのことです。
これが小乗仏教の解脱です。
大乗仏教の解脱
一方、大乗仏教では、煩悩がなくなると、仏のさとりが開けます。
仏のさとりというのは、数あるさとりの中でも最高のさとりのことです。
仏のさとりを開かれた方が亡くなることを「涅槃の雲に隠れられる」といいます。
ですが涅槃の雲に隠れられた仏様が、涅槃の境地で一人完全な悟りを楽しまれているのかというと、そうではありません。
仏様は慈悲の塊のような方です。
娑婆世界ではまだ苦しんでいる人がたくさんいるのに、じっとしておられることはできません。
すぐに苦しみ悩むすべての人を救うために、衆生済度の大活躍をなされます。
ですから、自分だけで終わらず、すべての人の救いにつながります。
このことを『涅槃経』にはこのように説かれています。
もろもろの衆生を化度せんと欲すると為すが故に、真解脱はすなわちこれ如来なり。
(漢文:爲欲化度諸衆生故 眞解脱者即是如來)(引用:『涅槃経』)
「もろもろの衆生」とはすべての人、「化度する」とは救うということです。
すべての人を救おうとするから、真の解脱は「如来」だと説かれています。
「如来」とは仏のことです。
解脱したら自分だけ幸せになるのではなく、すべての人を救う大活躍をする。
これが大乗仏教の解脱です。
ちなみに、仏のさとりについて、詳しくは以下の記事をご覧ください。
➾阿耨多羅三藐三菩提(仏のさとり)とは?大宇宙最高の真理
では、仏教ではどうすれば解脱できるのでしょうか?
解脱の方法
仏教で解脱するには、煩悩をなくさなければなりませんから、煩悩を抑え、断ち切る修行をする必要があります。
修行をするには、まず出家して、たくさんの戒律を守らなければなりません。
その上で、長い間、厳しい修行をして、煩悩をなくしていきます。
悟りを開くには、出家は必須です。
ですが、必ず出家をする必要があるとなると、現代人のほとんどはスタート地点にも立てないと思います。
仏教を説かれたお釈迦様は、そのようなほとんど誰も救われない教えを説かれたわけではありません。
苦しむ人は特に憐れまれ、なおさら大きな慈悲をかけられるのが仏の慈悲です。
ですから、煩悩あるがままで解脱できる道も教えられています。
その場合、煩悩は苦しみ悩みの原因ですが、さらに苦しみ悩みの根本原因をなくさなければなりません。
その苦しみの根本原因とその解決については、
仏教の真髄ですので、電子書籍とメール講座にまとめておきました。
ぜひ知っておいてください。
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この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか一人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。インターネットの技術を導入して日本仏教学院を設立。著書2冊。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者3千人、メルマガ読者5万人。ツイッター(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)