「現代人の仏教教養講座」

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生きる意味を、知ろう。

人生は暇つぶしなのか?

「人生なんて、しょせん暇つぶしだ」
「何をしても、虚しさが埋まらない」

朝起きて、仕事に行って、
帰ってきて、動画を見て、寝る。
休みの日には、何か予定を入れます。
予定の入っていない日曜日は、
お昼を過ぎた頃から落ち着かなくなります。

そうやって1日が終わり、
1週間が終わり、
気がつけば、また同じ月が来ています。
何かに追われているようでいて、
では何をしていたのかと聞かれると、答えに困ります。

「人生は暇つぶしだ」と言ってしまうと、少し楽になります。
意味などない、と決めてしまえば、
意味を探して空振りすることもありません。
そう思っている人は、決して投げやりな人ではなく、
むしろ一度、まじめに探した人です。

ところが、そう決めた後も、
虚しさのほうは、なくなってくれません。
埋めても、埋めても、埋まりません。

私たちは、何をつぶしているのでしょうか。
そして、埋めようとしているものは、何なのでしょうか。

上等な暇つぶしなら満たされるのか

「人生は冥土(めいど)までの暇つぶし」
という言葉があります。
作家で、お坊さんでもあった今東光(こんとうこう)(1898−1977)の言葉として知られています。
今東光は、そこで終わりにはしませんでした。

今東光今東光

人生は冥土までの暇つぶしだ。
だから、上等の暇つぶしをしなければならない。

(今東光)

世間で言われることも、大体ここに集まります。
いい趣味を持ちなさい。
時間を忘れて没頭できるものを見つけなさい。
学び直しなさい。
人とつながりなさい。
どれも、暇つぶしを上等にしなさい、という意味です。

確かに、上等なほうがいいに決まっています。
1日中スマホを触るだけで終わった日曜日と、
美術館へ行って帰ってきた日曜日とでは、
夜の気分がまるで違います。

ところが、そのどちらも、夜になれば終わってしまいます。
時間がうまく過ぎたか、ただ過ぎたかの違いであって、
過ぎたことに変わりはありません。
これでは、人生が単なる暇つぶしでなくなったわけではないので、
「上等な暇つぶしになったから人生よかった」と言えるのでしょうか?

もう1つ、「暇つぶし」には、必ず「次」が要るという特徴があります。

面白かったドラマを最終回まで見終わった夜、
私たちは何をしているでしょうか。
余韻にひたっているのは10分ほどで、
そのあとは、もう次の作品を探しています。
旅行から帰ってきた日に、次の連休の日程を考えます。
上等にすればするほど、
次も上等でなければ間がもたなくなります。
これもやはり、いたずらに時間が過ぎただけで、
「上等に暇をつぶしてよかった」とは言えないのではないでしょうか。

ちなみに、打ち込めるものを持つことについては、
以下の記事で解説しています。
➾生きがいがない・生きがいが欲しい人へ生きがいの意味を解説

なぜ私たちは、そうまでして、
何かをしていないといけないのでしょうか。

部屋の中に、じっとしていられない

このことを、何百年も前に書き残した人があります。
フランスの数学者で哲学者のパスカル(1623−1662)です。
『パンセ』という書き置きの中に、
「気晴らし」と題をつけた一群の断章があります。
そこで、パスカルはこう書いています。

パスカルパスカル

人間の不幸は、たった1つのことから来ている。
部屋の中で、じっとしていられないということだ。

(出典:パスカル『パンセ』)

おおげさに聞こえるでしょうか。
横断歩道で止められて、待ち時間が30秒と出ます。
その30秒の間に、手がポケットに入っていきます。
エレベーターに乗った10秒、
レジに並んだ1分、
電子レンジが回っている2分。
何もしていない時間が少し続くと、
考えるより先に、指のほうが動くのです。

パスカルが書いているのは、行儀の話ではありません。
何もしないでいられない、その理由のほうです。

ウサギが欲しいのではない

パスカルは、狩りの例を出しています。

1日中、野を駆けてウサギを追いかける人がいる。
そのウサギを買ってきてあげようと言われたら、いらないと言う。
それを見て、人間というのは不合理なものだと笑う人は、
人間というものを知らないのだ、とパスカルは言います。

パスカルパスカル

そのウサギは、死や不幸を目に入れずにすませてはくれない。
ところが狩りのほうは、それをさせてくれる。

(出典:パスカル『パンセ』)

ここで「死や不幸」といわれているのは、
ウサギの死や不幸ではなく、自分の死や不幸です。
私たちが生きていると色々なトラブルに巻き込まれ、最後には死んでいきます。
ウサギをもらっても、あまり気は紛れません。

ところが狩りをしている間は、色々なトラブルや自分の死を忘れることができる、ということです。
追いかけている間は、考えずにすみますから、
欲しいのは獲物ではなく、追いかけている間の状態だ、
ということです。

誰でも思い当たることがあると思います。
例えば中学校の時、中間テストや期末テストが迫って憂鬱になっても、
部活動に打ち込んでいる間だけは忘れられるようなものです。
それが気晴らしであり、暇つぶしです。

ですが、中間テストや期末テストは予定通りに行われますので、
何の解決にもなっていません。
むしろ勉強時間が減って状況は悪くなっただけです。

手を止めた時に出てくるもの

では、追いかけるのをやめて、じっとしているとどうなるか。
パスカルは、そこも書いています。

パスカルパスカル

まったくの休息の中にいることほど、人間にとって耐えがたいものはない。
情熱もなく、用事もなく、気晴らしもなく、打ち込むものもない状態である。
その時、人は自分の無を、見捨てられていることを、足りなさを、頼りなさを、無力を、自分の空虚を感じる。
たちまち心の底から、退屈、暗さ、悲しみ、憂い、うらみ、絶望が出てくる。

(出典:パスカル『パンセ』)

パスカルの見立ては、はっきりしています。
気晴らしは、楽しいからやっているのではありません。
やめると出てくるものがあるから、やっているのです。

つまり私たちは、暇をつぶしているのではなく、
心の底から出てこようとするものに、ふたをしています。
ふたが薄いと、出てきます。
夜中にふと目が覚めた時や、予定のない日曜日の夕方に、
少し顔を出すのは、それです。

虚しさの正体については、以下の記事でも解説しています。
➾「虚しい気持ち」「虚しい人生」になる理由と対処法

では、ふたをしている間、
時間のほうはどこへ行っているのでしょうか。

浦島太郎の箱に入っていたもの

昔話の浦島太郎を、原作で読んだことがあるでしょうか。
江戸時代の初めに出た『御伽草子(おとぎぞうし)』に入っている「浦島太郎」です。
絵本とは、ずいぶん違います。

まず、浦島太郎は子供ではありません。
「年の齢二十四五の男有りけり」とありますので、
24、25歳の若者です。
そして竜宮城(りゅうぐうじょう)での暮らしは、こう書かれています。

かくておもしろき事どもに、心を慰み、栄華に誇り、明し暮し、年月をふる程に、三年になるは程もなし。

面白いことに心を慰め、ぜいたくを誇り、明かし暮らしているうちに、
3年経つのはあっという間だった、ということです。
これ以上の暇つぶしは、なかなかありません。

ところが、故郷へ帰ってみると、
知っている家が1軒もありません。
土地の老人に尋ねると、
浦島という者がいたのは「はや七百年以前のこと」だと言われます。
自分のお墓を見つけて、太郎は泣き崩れます。

そして、開けるなと言われていた箱を開けます。
「此箱をあけてみれば、中より紫の雲三すじ上りけり。
是をみれば、二十四五の齢も、忽ちに変りはてにける
」

ここまでは、絵本でも同じです。
原作が書いているのは、この後です。

そもそも此浦島が年を、亀がはからひとして、箱の中に畳み入れにけり。
さてこそ七百年の齢を保ちける。

箱の中身は、浦島太郎の「年」でした。
亀が、太郎の年月をたたんで、箱にしまっておいたのです。
だから太郎は、700年の間、年を取らずにいられました。
ここが、この話の一番怖いところです。

竜宮で遊んでいた間、年を取らなかったのではありません。
年のほうは、消えたのではなく、預けてあっただけでした。
そして箱を開けた時に、それがまとめて返ってきます。
楽しくつぶした年月はあっという間でも、
それは重くのしかかってくるのです。

私たちの暇つぶしも、同じことをしています。
動画を2時間見れば、2時間、命が減っています。
面白かったか、つまらなかったかにかかわらず、減ります。
上等の暇つぶしでも、減る命の長さは同じです。

英語では、暇つぶしを「キルタイム(kill time)」といいます。
時間を殺す、と書きます。
随分な言い方ですが、正確でもあります。

ただし、殺されているのは時計の針ではありません。
時計は、つぶしてもつぶさなくても同じように進みます。
減っているのは、私たちの命のほうなのです。

「人生は暇つぶしだ」と言った時、
どうせ意味などないという程度では、
まだ本質が分かったとはいえません。
浅い理解です。
それは実は、計り知れない価値を持つ自分の命を自らつぶしているのです。
命には限りがあって、人生に制限時間があることが、
あまりよく分かっていないからです。

では、私たちに、つぶせるほどの暇はあるのでしょうか。

つぶせるほどの暇があるのか

お釈迦さまは、私たちの毎日を『大無量寿経』に
こう説かれています。

世人(せにん)薄俗(はくぞく)にして、共に不急(ふきゅう)の事を諍(あらそ)い、この劇悪極苦(ぎゃくあくごくく)の中において、身の営務を勤めて、もって自ら給済(きゅうさい)す。
(漢文:世人薄俗,共諍不急之事,於此劇悪極苦之中,勤身営務以自給済)

「薄俗(はくぞく)」とは、薄っぺらで、俗っぽい、ということです。
「不急の事」とは、急がなくてよいことです。
世の中の人は薄っぺらで俗っぽくて、
急がなくてよいことばかりを、互いに争っている。
激しい苦しみの中にいながら、身を粉にして働いて、
その日その日をしのいで、儚い暮らしを立てている、
ということです。

これは遊んでいる人のことを言われたのではありません。
「身の営務を勤めて」とありますから、
まじめに働いている人です。
遊びが悪いとも、働くのが無駄だとも説かれていません。
急がなくてよいことに一生懸命だと説かれています。

急がなくてよいことがあるということは、
急がなければならないことがある、ということです。
それは何でしょうか。

今晩、一息切れたらどうなるか。
これだけは、後回しにできません。
明日や来年に回せないのは、
死がいつ来るか、誰にも分からないからです。
30年先と決まっているなら、29年は好きに使えます。
決まっていないから、今日が最後の日かもしれません。

死んだ後どうなるかについては、以下の記事で解説しています。
➾後生の意味・すべての人の未来にある恐るべき大事とは?

そして、人生が暇つぶしになってしまう理由も、ここにあります。

それは生きている間に、急いでやらなければならないことが分からない、
ということです。
これ一つ果たせば、いつ死んでも人生悔いなしといえるものは何か。
生まれてから死ぬまでに何をすれば、
人間に生まれてよかったと言えるのか。
死ぬまでにすべきことが分からないから、
人生は暇つぶしだと思ってしまうのです。

そしてさらに、暇つぶしが虚しくなるのは、
急がなくてもいい、死ぬまでに果たさなくてもいいことをしても、
それと命を引き換えにして、制限時間が減るから、
暇つぶしが虚しくなるのです。
何をやっても、何を手に入れても、
心からの安心も満足もないのは、
そこに原因があります。

暇だから虚しいのではありません。
虚しいから、暇が怖いのです。
パスカルが、じっとしていると「自分の空虚を感じる」と書いたのは、これです。
生まれてから死ぬまでに果たさなければならない、
人生の目的が分からないのです。
仏教では、この空虚を生み出している心が、
苦しみ悩みの根本原因だと説かれています。

では、私たちが生まれてから死ぬまでに果たさなければならない
人生の目的とは何なのでしょうか。

紛らわさなくてよくなる

仏教では、人間に生まれてきた目的は、
死の問題を解決して、未来永遠の幸せになることだと教えられています。
それは死んでからのことではありません。
生きている今、解決できます。

そうなると、どうなるのでしょうか。

暇つぶしとしてやっていた、
趣味も、遊びも、旅行も、そのままで、
心から充実したものになり、暇つぶしとは言わなくなります。

それで紛らわしていなければじっとしていられない、ということがなくなるのです。

予定の入っていない日曜日が、怖くなくなります。
1人で、何もしていない時間が、そのまま満たされています。
手を止めた時に出てくるものがなくなり、
1日1日が尊くなります。
1分1秒はもっと有り難くなります。
今の瞬間が不思議なこの上ない幸せな身となって、
時間がつぶすものではなくなります。

では、その死の問題は、どうすれば解決できるのでしょうか。
心を暗くしている、苦悩の根元とはどんな心で、
どうすれば断ち切れるのか。
それについては仏教の真髄なので、
メール講座と、電子書籍にまとめてあります。
一度見ておいてください。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)

東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細・お問い合わせ

X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。

著作

京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作に引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。