人生の目的とは何か
「人生の目的とは、何なのだろう」
「死ぬまでにこれ1つ果たせば満足、といえるものはあるのか」
そう思って調べてみると、どこを見ても似た答えが並んでいます。
自分が幸せになること。
好きなことを見つけること。
人の役に立つこと。
自分らしく生きること。
なるほど、とは思います。
ところが、読み終わってもすっきりしません。
「それで、私は何をすればいいのか」が、やはり分からないままです。
実は、これには理由があります。
世間で「人生の目的」と呼ばれているものは、ほとんどが生きがいだからです。
ではなぜ、生きがいと人生の目的は違うのでしょうか?
そして仏教では、人生の目的をどう説かれているのでしょうか。
調べても腑に落ちないのはなぜか
まず、世間の答えを並べてみます。
自分が幸せになること。
好きなことに打ち込むこと。
誰かの役に立つこと。
後悔しないように今を生きること。
どれも、間違いだと言いたいのではありません。
大切なことばかりです。
ですが、これらには1つの共通点があります。
どれも「人それぞれ」で終わるということです。
幸せの中身は人によって違います。
好きなことも人によって違います。
役に立ち方も人によって違います。
ですから「あなたにとっての答えを見つけてください」で話が終わります。
探しに来た人が、探す宿題を渡されて帰ることになります。
特に多いのが「自分が幸せになること」という答えです。
調べていくと、ほとんどがここに行き着きます。
ですが、これは答えになっているでしょうか。
不幸になろうとして生きている人は、1人もありません。
みんな、はじめから幸せを求めて生きています。
ですから「目的は幸せになることです」と言われても、何も足されていません。
最初から分かっていることです。
「お腹が空いたら、どうすればいいですか?」と聞いて、
「食べればいいです」と返されたようなものです。
それは分かっています。
知りたいのは、何を食べれば満たされるのかのほうです。
同じように、私たちが本当に知りたいのは、
どんな幸せであれば「人生これ1つだった」と言いきれるのか、です。
これは生きがいの話であって、人生の目的の話ではありません。
この2つは、まったく違うものです。
ところがほとんどの人が、この2つを同じものだと思っています。
だから、いくら調べても答えにたどり着けません。
方向が分からなければ力は入らない
そもそも、なぜ人生の目的が必要なのでしょうか。
「目的なんてなくても、生きていけるじゃないか」
そう言われる方もあります。
ここで、こんな場面を思い浮かべてみてください。
あなたは今、海の真ん中に放り出されています。
助かるには、陸まで泳ぐしかありません。
ところが、見渡す限り水平線です。
陸がどちらにあるのか、まったく分かりません。
さて、力いっぱい泳げるでしょうか。
泳げないと思います。
必死に泳いだ1かきが、陸から遠ざかる1かきかもしれないからです。
頑張れば頑張るほど悪くなるかもしれないと思えば、腕に力は入りません。
この人にとって本当に必要なのは、泳ぎ方の工夫ではありません。
陸はどちらか、それ1つです。
私たちの人生も同じです。
政治も、経済も、科学も、医学も、法律も、
どうすればうまく生きられるかという、泳ぎ方の工夫です。
どれも大切なことですが、
どちらへ向かって泳ぐのかが決まっていなければ、上手に泳ぐ意味がありません。
「一生懸命生きなさい」といわれても、
どこへ向かって一生懸命なのかが分からなければ、
力の入れようがないわけです。
生きがいと人生の目的の3つの違い
では、生きがいと人生の目的は、どこが違うのでしょうか。
大きく3つあります。
人それぞれか、万人共通か
1つ目の違いです。
生きがいは、人それぞれで構いません。
むしろ、人それぞれであるほうが自然です。
将棋が好きな人もあれば、釣りが好きな人もあります。
孫の成長が生きがいという方もあります。
人によって違って、まったく問題がありません。
ところが人生の目的は、たった1つです。
日本人でも、アメリカの人でも、インドの人でも変わりません。
男性でも女性でも、昔の人でも今の人でも、同じです。
「人生の目的は人それぞれ」といわれた時点で、
それは生きがいの話になっています。
生きがいそのものについては、以下の記事で詳しく解説しています。
➾生きがいがない・生きがいが欲しい人へ生きがいの意味を解説
仏教には、こう説かれています。
(如来)世に出興する所以は道教を光闡し、群萌を拯い恵むに真実の利を以てせんと欲してなり。
(出典:『大無量寿経』)
「如来」とは仏ということで、地球上ではお釈迦さまのことです。
「世に出興する所以」とは、この地球上に現れられた目的は、ということです。
「道教を光闡し」とは、導くための教えを説き開いて、ということです。
「群萌を拯い恵むに真実の利を以てせんと欲してなり」とは、
苦しみ悩むすべての人を本当の幸せに導くためであった、ということです。
お釈迦さまが地球上に現れて、仏教を説かれたのは、
ただ1つの目的のためである、ということです。
真実といったら、仏教では2つも3つもありません。
たった1つの真実です。
それをただ1つの目的を説いて、一人でも多くの人に果たさせるために、
お釈迦さまが地球上に生まれられたのであり、
それを聞いて達成するのが、私たちが人間に生まれた目的なのです。
完成があるか、ないか
2つ目の違いです。
生きがいには、完成がありません。
剣の道、書の道、花の道、茶の道。
どんな道にも「これで卒業」ということがありません。
剣豪として名高い宮本武蔵は、
生涯無敗で、巌流島で佐々木小次郎を破り、日本一になりましたが、
それでゴールではありません。
剣の道に完成はないからです。
むしろ、極めれば極めるほど、
「私など、まだまだ未熟だ」
というものです。
そして世間は、それを立派なことだといいます。
ですが、少し考えてみてください。
求めているのに、死ぬまで手に入らない。
それは、死ぬまで満たされないということです。
仕事でも、趣味でも、子育てでも同じです。
1つ達成すれば、次が見えてきます。
「人生これ1つだった」と言いきれる地点が、どこにもありません。
ところが、人生の目的には、完成があります。
「これで果たせた」というゴールがあります。
そこから先は、求め続ける必要がありません。
この違いは、決定的です。
完成のないものをいくら積み上げても、
完成にはたどり着かないからです。
臨終でも達成して満足できる
3つ目の違いです。
生きがいは、臨終には楽しめません。
人間ドックで検査したら、悪性の腫瘍が見つかり、
余命1カ月の宣告を受けたとします。
そういう時に限って、宝くじで3億円当たります。
マイホームも買えますし、高級車も買えます。
一流料亭で豪遊できます。
もちろん起業してもいいですし、株式投資もできます。
しかし、楽しいでしょうか。
あと1週間の命となった時に、
文化勲章を受章したとします。
冥土の土産に勲章をもらったら、嬉しいですか?
趣味や生きがいは、臨終にならなくても、時間が経つと色あせます。
喜びは続きません。
たいてい病気になれば、いとも簡単に喜びは失われて、
趣味や生きがいどころではなくなります。
体が動かなくなれば失われます。
そして最後は、死ぬ時に総崩れです。
すべてこの世に置いて、ただ1人で旅立たなければなりません。
ところが人生の目的には、臨終に達成しても満足できます。
若いから有利、年を取ったから不利、ということがありません。
臨終でも完成できますし、死が来ても崩れません。
臨終に完成しても、
「人間に生まれてよかった」と大満足できるのが
人生の目的です。
天下を取った人が晩年に残した言葉
ここまでの話が、実際にはどういうことなのか、
生きがいを極めた人の言葉を見てみます。
徳川家康は、戦国の世を終わらせて天下を統一しました。
これ以上ない大事業を成し遂げた人です。
その家康が、自分の一生をこう振り返っています。
徳川家康人の一生は 重荷を負うて 遠き道を行くが如し
(徳川家康)
重い荷物を背負って、果てしない道を歩き続けるようなものだった、
と言っています。
よく読んでみてください。
これは、荷を下ろした人の言葉ではありません。
天下を取れば、この重荷は下ろせるはずでした。
将軍になれば、楽になるはずでした。
ところが最後まで、下ろせなかったのです。
そして「遠き道を行くが如し」と言っています。
遠い道とは、着いたということがない道ということです。
完成がない、果てしない道を歩き続けなければならなかった、
ということです。
天下を取った人が、行き着けなかった。
それなら、私たちが今追いかけているものはどうでしょうか。
マイホーム、昇進、子供の独立、老後の蓄え。
スケールは違っても、同じ道の上にあります。
「この坂を越えたら楽になる」
そう思って登ってみると、そこに待っているのは次の坂です。
そしてまた、次の坂を登り始めます。
これが、完成のない道を歩くということです。
仏教に説かれる人生の目的
では、万人共通で、完成があって、臨終に完成しても満足できる目的とは何でしょうか。
仏教では、私たちの苦しみを生み出している大もとが1つあると説かれています。
「苦悩の根元」です。
失恋や、病気や、人間関係といった、1つ1つの苦しみのことではありません。
それらを次から次へと生み出している、大もとのことです。
この苦悩の根元がなくなった時、
何が起きても崩れない世界に出ることができます。
仏教では無碍の一道と説かれています。
そこに出ることこそが、人生の目的であると教えられているのです。
苦悩の根元は、国や時代や性別に関係なく、すべての人にあります。
ですから、それがなくなることは万人共通です。
なくなればそれで終わりですから、完成があります。
そこから先を求め続ける必要がありません。
そしてそれは、生きている時に、臨終でも完成できます。
その世界に出ると、何が変わるのでしょうか。
「人間に生まれてよかった」という心からの安心、満足があります。
今までは、1つ手に入れれば次を探していました。
坂を越えれば、また次の坂が見えていました。
その繰り返しが、終わります。
まだ足りないのではないか、という心が微塵もなくなります。
そして、今までの人生の見え方が変わります。
報われなかったと思っていた苦労も、
誰にも言えずに耐えてきた悲しみも、
これ1つを果たすまでの道のりだったと喜びに変わります。
家康が下ろせなかった重荷が、そこで下ろせるということです。
そしてこれは、死んでからの話ではありません。
生きている今、果たせることです。
では、その苦悩の根元とは何なのか、
それが、どうすればなくなるのか。
それについては、仏教の真髄なので、
メール講座と、電子書籍にまとめてあります。
どちらも無料ですので、一度見てみてください。
関連記事
この記事を書いた人
長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)
東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細・お問い合わせ
X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)
京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作に引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。

