「現代人の仏教教養講座」

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生きる意味を、知ろう。

死ぬのが怖くて眠れない

「死ぬのが怖くて、眠れない」
「朝になると薄れるのに、また夜が来る」

電気を消して、布団に入ります。
「今日も1日終わった」と思った、その次の瞬間です。
自分はいつか、いなくなる。
それも、必ず。
そう思った途端に、目がさえてしまいます。

昼間なら、頭では知っていることです。
ところが夜、暗い天井を見ていると、
それが知識ではなく、自分に起きることとして迫ってきます。
心臓が速くなって、
体が熱くなって、
時計を見ると、まだ2時です。

人に言っても、
「考えても仕方ないよ」
「疲れてるんじゃない?」
と返ってきますので、
そのうち、誰にも言わなくなります。

なぜ、夜になるとこうなのでしょうか?
そしてこの怖さは、消してしまえばいいものなのでしょうか?

なぜ夜になると怖くなるのか

調べてみると、体の説明がたくさん出てきます。
疲れがたまっている。
自律神経が乱れている。
部屋が静かで、気が散るものがない。
寝る前に画面を見すぎている。
どれも、まったく関係がないとはいえません。

ところが、それで説明がつくなら、
よく寝て、よく運動して、規則正しく暮らしていれば、
夜に死が怖くなることはないはずです。

しかし、実際はそうではありません。
体調のいい日にも、ちゃんとやってきます。
体の話だけでは、答えになっていません。

では、昼と夜で何が違うのでしょうか。

昼間、私たちがしていることは、
ほとんどが「明日がある」という前提の上に成り立っています。
明日の会議の資料をそろえる。
来月の予約を入れる。
返信を書く。
どれも、明日の自分が受け取ってくれると思って、手を動かしています。

夜、布団に入ると、その仕事が全部片づきます。
そしてもう1つ、昼間にはないことが始まります。

眠るというのは、意識を手放すことです。

目を閉じて、力を抜いて、今日の自分を一旦終わらせます。
朝になったら、また続きが始まる。
そう思って、私たちは毎晩それをしています。

ところが、その「続きが始まる」という保証は、
どこにもありません。

「おやすみなさい」というのは、
また会えることにして交わしている挨拶です。
毎晩、私たちはその賭けをして、目を閉じているのです。
昼間は隠れているその事実が、
1日のうちで一番むき出しになるのが、電気を消した後の数分間です。
夜、怖くなるのはそのためです。

なお、眠れない日が何週間も続いて、
昼間の生活に差し支えるようなら、
一度医師に相談するのもいいと思います。
ただ、薬で眠れるようになったとしても、
夜中に出てきたあの問いそのものが消えるわけではありません。
眠れるようになった人が、死の問題を解決したわけではないからです。

では、眠れないのは、心が弱いからなのでしょうか?

トルストイが眠れなかった夜

ロシアの文豪トルストイ(1828−1910)にも、
同じような一晩の出来事があります。

1869年の9月、41歳の時です。
『戦争と平和』を書き上げた直後で、
名声も、財産も、妻も子供もありました。
その年、領地を買い足すために、馬車で旅に出ます。
その途中、アルザマスという町の宿に泊まりました。

通された部屋のことを、トルストイは後にこう書いています。
白く塗られた、四角い小部屋だった。
その部屋が四角いということが、どうにも耐えがたかったのを覚えている、と。

横になっても眠れません。
やがて、こんな気持ちになります。

トルストイトルストイ

眠ってしまいたい、忘れてしまいたい。
それができない。
自分から逃げることができない。

(トルストイ『狂人日記』)

部屋にいられなくなって、廊下へ出ます。
従者は、細い長椅子でぐっすり眠っています。
逃げ出したつもりでした。
ところが、その気持ちも一緒に廊下へ出てきて、
かえって、さっきよりひどくなります。

トルストイトルストイ

「何をばかなことを」と、私は自分に言った。
「私は何が苦しいのだ、何が怖いのだ」
「わたしだ」と、死の声が音もなく答えた。
「わたしはここにいる」

(トルストイ『狂人日記』)

トルストイは、ろうそくに火をつけます。
明かりをつけたところで、何も変わりませんでした。
買うつもりだった土地のことも、妻のことも、
考えようとしてみましたが、
どれも、その夜は何の値打ちもないものになっていました。

この一晩を、トルストイは「アルザマスの恐怖」と呼んで、
死ぬまで忘れませんでした。
50代になって書いた『懴悔(ざんげ)』は、
この夜の続きだといってもいい本です。

ここで見落とせないことがあります。
その時トルストイは、世界中に読者を持つ大作家で、
広い領地があり、帰れば家族が待っていました。
世間でいう幸せの条件は、ほとんどそろっていました。
それでも、宿の一室で、明かりをつけて朝まで座っていました。

眠れないのは、心が弱いからでも、
たまたま疲れていたからでもありません。
持っているものが足りないからでもありません。
むしろ、そろっているのに眠れないというところが、
この出来事の怖いところなのです。

ちなみにトルストイのこの時期については、以下の記事でも解説しています。
➾ミッドライフクライシス(中年の危機)への対処と克服法

では、この夜になると起きる心に、世間はどんな答えを用意しているのでしょうか。
大きく分けると3つあります。

よくある3つの答え

思い切って人に打ち明けた時、返ってくる言葉は、だいたい決まっています。

考えても仕方ない

一番多いのが、これです。
「考えても仕方ないよ」

確かに、答えの出ないことを考え続けても、疲れるだけです。
ところが、考えまいとしてみると、どうなるでしょうか。
考えないようにしている間中、そのことを考えています。
「思い出すまい」と思うのは、思い出しているということです。
これでは、消えません。

それに、考えても仕方がないと言えるのは、
答えがないと分かっている場合だけです。
答えがあるかどうかを確かめないうちに、
考えても仕方ないとは、本当は言えないのではないでしょうか?

誰でもいつかは死ぬんだから

思い切って打ち明けた時、返ってくる2つ目の言葉は、これです。
「誰でもいつかは死ぬんだから」

言われた時は、少し楽になります。
自分だけではないと思うと、人は落ち着くからです。
ところが、10分もすると元に戻ります。

なぜかというと、みんな死ぬということは、
自分が死ぬということの慰めにはならない
からです。

借金を抱えている人は、日本中にたくさんあります。
自分だけではないと聞かされても、
自分の返済期日は、1日も延びません。
数が多いほど楽になるのなら、
全人類が明日死ぬと決まった日は、
世界中が落ち着いているはずです。
やはり、答えにはなっていません。

死んだら分からなくなるんだから

3つ目は、少し理屈が通って聞こえます。
「死んだら意識がなくなるんだから、怖がる自分もいないよ」

これは、今から2300年ほど前に言われた理屈です。
古代ギリシアの哲学者エピクロス(紀元前341−紀元前270)が、
弟子へ送った手紙にこう書いています。

もろもろの悪のうちで最も恐ろしいとされる死は、
われわれにとって何ものでもない。
なぜなら、われわれが存在する間は、死は来ていない。
そして死が来た時には、われわれはもう存在しないからである。

理屈としては、きれいに通っています。
ただし、この理屈は、ある前提の上に立っています。
死ねば無になる、という前提です。

死んだらすべて無くなるのなら、確かに、恐れる相手がいなくなります。
ところが、その前提が正しいかどうかは、まだ誰も確かめていません。
科学的なようでいて、科学では証明できないことです。

死んだらどうなるかについては、以下の記事で解説しています。
➾後生の意味・すべての人の未来にある恐るべき大事とは?

それに、もしその前提を本当に信じ切っているのなら、
夜中に目がさえたりしないはずです。
信じ切れていないから、天井を見ているのです。

エピクロス自身も、この手紙を書かなければならなかったということは、
信じ切れていなかったということです。
書かなくても平気なら、書く必要がありません。

では、仏教では、この夜の心をどう説かれているのでしょうか。

お釈迦さまは、その心を否定されない

仏教では、夜に死が怖くなる心を、
病気だとも、気の弱さだとも説かれていません。
それどころか、仏教を求める人が自分に言い聞かせる言葉として、
お釈迦さまは『大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)』にこう説かれています。

人命は停(とど)まらず、山水(さんすい)よりも過ぎたり。
今日は存すといえども、明日もまた保ち難し。

(漢文:人命不停,過於山水。今日雖存,明亦難保)

「山水(さんすい)」とは、山を流れ下る水のことです。
人の命は止まらない。
山の水が流れ落ちるよりも、速く過ぎていく。
今日は生きていても、明日も生きていられるとは限らない、
ということです。

夜中に布団の中で思っていることと、同じことです。
こんなことは、2600年前から説かれています。

ですが、これは怖がらせるために説かれたのではありません。
この後には、
「どうして心をほしいままにして、悪いことにとどまっていられようか」
と続きます。
気がついた人には、しなければならないことがある、という流れです。

ここで、世間でいわれる「人は必ず死ぬ」との違いがあります。

「人はいつか死ぬ」と言った時、
いつかは自分もそうなるのだろう、という程度では、
まだ本質が分かったとは言えません。
浅い理解です。
その「いつか」を、30年くらいは先だろうと勝手に決めているからです。
30年先と決まっているのなら、29年は好きに使えます。

ところが、そんな約束をしてくれた人は、どこにもありません。
今日の夜が、その夜かもしれません。

夜中に目がさえてしまうというのは、
その「いつか」が、今夜かもしれないと気づいてしまった、ということです。
昼間みんなが忘れていることを、あなたは忘れられずにいるのです。
仏教で「無常迅速」と説かれているのは、まさにそこです。

そして、なぜそれがこれほど怖いのかというと、
死ぬこと自体よりも、
死んだらどうなるかが分からないからです。
分からない方向へ、確実に進んでいる。
その分からなさが、夜になると出てきます。

では、その分からなさは、どうすればなくなるのでしょうか。

夜を迎える心が別のものになる

仏教では、私たちが人間に生まれてきた目的は、
死の問題を解決して、未来永遠の幸せになるためだと教えられています。
それは死んでからのことではありません。
生きている今、解決できます。

そう聞くと、気休めのように思われるかもしれません。
そこで、世間でいう幸せと、どう違うのかを見てみます。

世間で幸せといわれるものは、
どれも誰かと比べて喜ぶものです。
人より収入がある。
人より健康である。
人より恵まれた家庭がある。
仏教では、このような比べて喜ぶ幸せを「相対の幸福」といわれます。

仏教に説かれている幸せは、それとは比べものになりません。
相対の幸福は、比べる相手がなければ成り立ちません。
ところが仏教に説かれる幸せは、
比べる相手がいるかいないかに、まったく関係がありません。
比べて喜ぶ幸せではなく、
1人居て喜べる、絶対の幸福です。

それは色あせることも壊れることもない、
絶対変わらない幸せです。
明かりを消した部屋で、たった1人になっても、変わりません。
死が来ても崩れません。

持っているものが多い人が有利なのでも、
少ない人が不利なのでもありません。
どんな人でも、生きている時に、この身になれるのです。

では、どうすれば死の問題を解決して、絶対の幸福になれるのでしょうか。
それには、私たちの心を暗くしている、
苦しみ悩みの根本原因を知り、それを断ち切らなければなりません。

その苦悩の根元とはどんな心で、どうすれば断ち切れるのか。
それについては仏教の真髄なので、
メール講座と、電子書籍にまとめてあります。
どちらも無料ですので、一度見ておいてください。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)

東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細・お問い合わせ

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