死ぬのが怖い
「死ぬのが怖い」と思う人は、約5割あるといわれます。
実際、アンケートをとると、104名中49名で、47.1%でした。
約半数です。
いつもありがとうございます。
— おさなみ(長南瑞生)生きる意味&ブッダの教え@仏教ウェブ入門講座 (@M_Osanami) February 21, 2022
以下、仏教に関する意識調査にご協力ください。
Q.どんな人もやがて必ず死ななければなりません。
実のところ、死ぬのは怖いと思いますか?
その他の方は返信で自由にお書き下さい。
回答は本日中でお願いします。
死ぬのは怖い 47.1%
死ぬのは怖くない 52.9%
104票·最終結果
死ぬのが怖い人の中でも、死ぬのが居ても立ってもいられないくらい怖い人は、
タナトフォビア(死恐怖症)といわれます。
そこまでなくても、大人も子どもも「死が怖い」と思うことは多いです。
「死ぬのが怖い」とはどのような心で、
どのような接し方・対処法をすればいいのでしょうか?
死ぬのが怖いと思うのはどんな時?
死は全ての人にとって確実な未来なのですが、
常に死ぬのが怖いと思っているわけではありません。
死ぬのが怖いと思うのはどんな時でしょうか?
それは2通りあります。
1つ目は子供の頃、2つ目は死に直面した時です。
1.子供の頃
1つ目は小さい頃というのは、
「死」の存在を知り、
ある日「死んだらどうなるの」と考えて、
怖くなります。
特に小学校の頃です。
6歳から10歳くらいで死ぬのが怖くなります。
夜寝る時「このまま死んだらどうなるんだろう」
と考えたり、
死んで何もかも消滅するのかと思うと、
心臓が凍りつきそうな気がしたりします。
これは、その時からずっと残り、
大きくなっても、死について考えると、
存在が無くなる恐怖、結論の出ない恐怖を
感じることがあります。
2.死に直面した時
2つ目は、死に直面した時です。
たとえば地震にあって、
家から別の場所に避難しなければならない位になると、
余震で死ぬのではなかろうかと怖くなります。
また、年をとって病気などにかかり、
もう長くはないとわかった人が
「死ぬのが怖い、死ぬのが怖い、
死にたくない死にたくない……」
と言っていることがあります。
介護施設などでも、みんな死ぬのが怖くって、
必死に生にしがみついています。
死ぬのが怖いと言った有名人
実際、近代哲学の父といわれるルネ・デカルトは、死ぬ時にこう言っています。
さあ、私の魂よ、おまえは長いあいだ閉じ込められていた。
いまこそ牢獄を出て、この肉体のわずらわしさを脱しなければならない。
喜んで、また勇敢に、この分離に耐えねばならない。
(デカルト)
デカルトは、物心二元論といって、物質と精神は別物だと分けました。
それで、精神的な心が、物質的な肉体に閉じ込められていたといいます。
ところが、わざわざ勇敢にならないといけないと自分で自分を励ますということは、やはり死ぬのが怖いのです。
フランスの哲学者ヴォルテールは、無神論者でしたが、臨終にこう言っています。
それそこに悪魔がいる。オレを連れにやってくる。
あれ奈落が見えてきた。
恐ろしい恐ろしい。
誰か助けてくれ!
(ヴォルテール)
死が近づいてきて、いよいよ自分が死ぬと自覚すると、理性はどうあれ死が怖くて仕方がなくなるのです。
ドイツの政治家で、文筆活動では世界的文学者となったゲーテも晩年に病気になると、こんなことを言い始めます。
死神がわたしを取り囲んで部屋のすみずみに立っている。
(ゲーテ)
そして、死ぬ数分前にはこう言って死んでいます。
ああ暗い。
光がほしい、光がほしい。
(ゲーテ)
日本でもそうです。
『蒲団』で有名な自然主義文学の作家・田山花袋は、最後は脳溢血になり、喉頭癌も患って、こう言います。
独り往くのかと思うと寂しい。
(田山花袋)
文豪・夏目漱石は、普段は「則天去私」と言っていました。
天に則して私を去る。
自分の都合と関係なく、自然に従うという意味に聞こえます。
ところが最後、胃潰瘍になります。
体が熱くなって、体をかきむしって苦しみます。
そして最後はこう言って死んでいきました。
ああ苦しい。
今死んでは困る。
(夏目漱石)
このように、どんな人でも死んで行く時には、死が怖くなり、死にたくないと思うのです。
ところが、夏目漱石も元気な時は則天去私と言っていたように、普段から死ぬのが怖いと思う人はあまり多くはありません。
死ぬのが怖いと思うのは正常
「死ぬのが怖い」と思うのは約3割ですから、
大半の人は「死ぬのが怖い」と思いません。
日常は死を忘れて生きていますし、
「そんなこと考えていたら生きていけないよ」
と死から目を背けて生きています。
また、死ぬのが怖い心の対処として、
「死ぬことを考えずに、生きることに目を向けましょう」
というものがあります。
しかし人は誰でも100%確実に
死んでいかなければなりませんから
死について考えるのは大切なことです。
もし飛行機で太平洋上空を飛んでいる時に、
「この飛行機は目的地の飛行場がわかりません。
燃料は5時間ほどでございます。
その間、運行に支障はございませんので
空の旅をごゆっりお楽しみください」
というアナウンスがあったらどうでしょう?
燃料に限りがありますから、
しばらくすれば100%確実に墜落します。
墜落を忘れて空の旅を楽しむこともできなければ、
「そんなこと考えていたら飛んでられないよ」
という人もないでしょう。
人生においても、死は確実な未来です。
そんな死へ向かう旅路を心から楽しむことはできません。
どんな生き方をしても必ず死んでいくことに気づけば、死が怖くなって当然です。
それに気づいたのが、フランスの哲学者、パスカルでした。
この世に真の堅固な満足はなく、われわれのあらゆる楽しみは虚しいものにすぎず、われわれの不幸は無限であり、そしてついに、われわれを一刻一刻脅かしている死が、わずかの歳月の後に、われわれを永遠に、あるいは無とされ、あるいは不幸となるという、恐ろしい必然のなかへ誤りなく置くのであるということは、そんなに気高い心を持たなくとも理解できるはずである。
(引用:パスカル『パンセ』)
必ず墜落する飛行機の中で、どんな機内映画も虚しく、楽しめません。
どんな機内食も味わえません。
そんな飛行機に乗ってしまった人の不幸は無限大です。
そんなことは頭のいい人でなくても分かるはずですが、すべての人は、そんな飛行機に乗っているのと同じなのです。
目的地の分からない飛行機に乗っていた場合、墜落が怖いと感じない人はそのまま墜落していきますが、
墜落が怖いと感じる人は、何かの対処を考えます。
それと同じように、死ぬのが怖いと感じない人は、
そのまま何の対策もなく死んで行きますが、
死ぬのが怖いと感じる人は何か対処を考えますから、
より本当の幸せに近い人なのです。
死が確実なのであれば、現実から目を背けず、
直視しなければなりません。
死は受け入れられる?
「もちろん死についてはすでに考えたことがある」
という人でも、
「死は怖くない」
「自分はいつ死んでもいい」
「死は受け入れられる」
という人がほとんどです。
その代表は、世界的ベストセラー『死ぬ瞬間』という本で、
「死の受容」を説いたエリザベス・キューブラー=ロスです。
キューブラー=ロスについて詳しくは下記をご覧ください。
➾キューブラー・ロス『死ぬ瞬間』死の受容モデルと仏教の臨終の3段階
彼女はアメリカで活躍したスイス人精神科医で、
1万人以上の死に行く人によりそい、
「死は人生で最もすばらしい経験になりうる」
と語りました。
ところが、キューブラー=ロスが69歳になった時、
脳卒中で倒れ、今度は自分が死を待つばかりとなってしまいます。
6年間寝たきりで過ごし、75歳の時、
日本のNHKから死に関するインタビューを受けて、
こう答えた記録が残っています。
NHK:「苦しむ患者を助けてきたのに、なぜ(死の苦しみから)
自分を救えないのですか?」
キューブラー=ロス:
「いい質問ね。
私はおかしくなっているんではなくて、
ただ現実を直視しているだけ。むしろ頭はさえてるわ。
だって今の自分に満足なんて、そんなフリはできないわ……」
NHK:「あなたは(死にゆく)自分を愛するべきと本に書かれてますね」
キューブラー=ロス:
「いや、それにはふれないで。愛の話なんてしたくないわ」
NHK:「なぜですか?」
キューブラー=ロス:
「気分が悪くなる。(死にかけの)自分自身を愛せって?
よく言ったもんだ。大嫌い。私の趣味じゃない」
死の専門家として、「死の受容」を説いてきた
キューブラー=ロスも、いよいよ自分の番になった時、
死は受け入れられませんでした。
このインタビュー映像は以下のビデオで見られます。(2:30から)
このように、なぜ自分が死ぬとなると死の受容ができないのかというと、
「他人の死」と「自分の死」はまったく違うからです。
キューブラー=ロスは、他人の死は受容できたのですが、
自分の死に直面した時は、
今まで頭で考えていた死とまったく違い、
とても受け入れることはできなかったのです。
やりたいことをやればいつ死んでも悔いなし?
よく「自分はこれをやって死ねるなら本望だ、
これさえ成し遂げればいつ死んでも悔いはない」
という人がありますが、それは、
死を遠くに見ている間だけのことです。
1年以上の努力と忍耐によって
ついに主君の仇討ちを成し遂げた英雄、
大石内蔵助は、討ち入りの後、主君の墓前でこう歌いました。
「あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる
浮き世の月に かかる雲なし」
(大石内蔵助)
仇討ちは切腹に決まっているが、
念願を果たして、何と楽しいことか、
澄み渡る月のようにすがすがしく、
この世に思い残すことは何もない、
あとはいつ死んでも後悔はない
という意味です。
ところが2カ月後、実際に切腹するに際して、
死ぬのが怖くて切腹ができませんでした。
名誉に傷がつくのを見かねた介錯人が
首をはねたと言われます。
大石内蔵助ほどの豪傑でも、
いざ自分が死ぬとなると、
怖くて死ねないのです。
ビートたけしも事故に遭って生死の境をさまよった時、
死の前には、これまでの経験は全く関係ないと言っています。
今度の事故(原付での大事故)
というのは凄いショックだったね。
物理的ショックのみならず、精神的ショックが
マグニチュード8という感じだった。
(中略)
死というものの凄さというのは、自分の人生振り返って
何をしたとか何をしてないとかいうのは全然関係ない。
そんなことはビタ一文かすんないんだよ(引用:ビートたけし『たけしの死ぬための生き方』)
いざ死ぬ時には、やりたいことをやったから何の後悔はないとはとても思えないのです。
死ぬのが怖いのが人間の本音
江戸時代に、仙崖という禅宗の僧侶がありました。
たくさんの弟子がある有名な僧侶でした。
やがて88歳で生涯を閉じる時、
弟子の一人が
「先生、どうか今の心境を表すようなお言葉を
一筆お願いできないでしょうか」
とお願いしました。
すると、そこに書かれていたのは、
驚くべき言葉でした。
「死にともない、死にともない」
びっくりした弟子たちは、
お師匠様の辞世にふさわしくないと話し合い、
「先ほどのお言葉も結構なお言葉ではございましたが、
もう一言頂けないでしょうか?」
とお願いすると、そこには
「ほんまに ほんまに」
と書いてあったそうでした。
仙崖は大変正直な人でした。
それが人間の本音なのです。
では、この「死ぬのが怖い」という心は、
どのように対処すればいいのでしょうか?
それにはまず死ぬのが怖い心の
本質を知らなければなりません。
死ぬのが怖い心の本質は?
死ぬのが怖いというと、
死ぬ時に痛いから怖いとか、
苦しむのが怖いと思っている人がありますが、
そうではありません。
現代の医療技術では、
モルヒネをはじめ、
死ぬ時の苦痛は簡単に消すことができます。
自殺するにしても、
睡眠薬の場合は、
苦痛を心配する必要はありません。
それでも死にたくないのです。
鼻の奥に膿がたまる蓄膿症という病気があります。
昔、蓄膿症の手術は、あらゆる手術の中で最も痛いといわれていました。
当時は、脳に近いので、麻酔ができません。
麻酔なしで、口から上の部分をはいで
外科手術しなければなりませんでした。
大の大人が泣きわめく、最も痛い手術だったといいます。
それでも、蓄膿症は脳に転移すると、最悪の場合、死にます。
この手術を経験された方は、このように語ってくれました。
当日怖るおそる手術室に入ると、メスを磨ぐ先生の姿。
台の上にはノミやら、よく見かける木槌やペンチのようなものが。
手術台につくと、手足を固定されて白布を被され何も見えない。
麻酔はないまま、右上唇を掴まれ口の中にメスが入り、顔の内皮が刺し引かれ鼻がめくられた。
と同時に看護士の「臭い!?」、
先生の「これは酷い」の声が耳に入る。
いきなりガガゴーンの音と共に脳裏に稲妻が走った。
木槌音と悲鳴が何回も続き、瞼の映像は地獄で見る花火のようだった。
副鼻腔の底骨を平に削り、膿を取った空洞に包帯を詰め、切り口を縫って終了した。
さらに翌日、包帯をとらなければなりません。
それにも激痛が走るそうです。
翌朝、副鼻腔に詰めた長い包帯を引き抜くと聞いて震え上がった。
右鼻穴より包帯の端をひっぱるが、肉にからまり動かない。
痛さが極限に達する頃、鮮血と共に包帯も弛んで受器に納まった。
しかもこれは右の鼻の穴だけのことで、日を改めて左の鼻の穴もしないといけません。
それでもこの方は、手術で死ぬことはないけど、手術をしなければ死ぬということで、思案の末、もう片方も麻酔なしで外科手術を受けたそうです。
手術しなければ死ぬとなれば、
あなたも麻酔なしの手術をするのではないでしょうか?
ということは、「死ぬのが怖い」というのは、
肉体的な痛みが怖いのではないのです。
精神的な恐怖なのです。
これは、現代では「スピリチュアル・ペイン」ともいわれる
心の痛みです。
死ぬのが怖い本当の理由
ではなぜ死ぬのが精神的に怖いのかというと
「死んだらどうなるか」が
分からないからです。
哲学者も同じようなことを言っています。
人は「無になる」ことを恐れているのではなくて、
「わからない」ことを恐れているのです。
死んだらどうなるか分からない、本当はこのことが怖いのです。(引用:池田晶子『暮らしの哲学』)
仏教では、自分が死ぬことを自覚すると、
「それまでの人生に対する後悔」と
「未来(死後の世界)に対する怖れ」が、
かわるがわる起きてくる
と教えられています。
その「死んだらどうなるかわからない心」を
根本的に断ち切って、「死の恐れなし」という
死が来ても崩れない幸せになる方法を教えられのが仏教です。
それは大安心大満足の未来永遠の幸せです。
では、どうすれば死が来ても崩れない
永遠の幸せになれるのかというと、
それは仏教の真髄ですので、
電子書籍とメール講座にまとめておきました。
一度見ておいてください。
関連記事
この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか一人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。インターネットの技術を導入して日本仏教学院を設立。著書2冊。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者3千人、メルマガ読者5万人。ツイッター(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)