悪の意味
「悪」といえば、子供の頃から知っている言葉です。
人生に大きな影響を与える問題ですが、
その意味となるとなかなか分かりません。
キリスト教と仏教でもまったく異なります。
悪とは何でしょうか?
この記事では、
・キリスト教の悪
・仏教の悪とは
・代表的な10の悪とは
・もっと恐ろしい5つの悪とは
・最も恐ろしい悪とは
・悪人が救われる方法
について分かりやすく解説します。
キリスト教の悪
キリスト教では、悪の根源がただ1つあります。
それは「原罪」です。
「原罪」とは、キリスト教で神が創った
最初の男女とされるアダムとイブが、
神が食べてはならないという知恵の木の実を食べたことです。
その神に背いた罪悪により、
人間は死ななければならなくなった
と教えられています。
そして、その他の世の中にある色々の悪は、
この原罪から派生してきたものだと教えられています。
ところが、キリスト教では、悪は魂の犯すものなのに、
なぜ遺伝するのかは、大変な影響を与えたローマ時代の神学者、
アウグスティヌス(354-430)でもわかりません。
そもそも「なぜ神は、全知全能で、かつ愛の神なのに
世の中に悪が存在するのか?」
という疑問が起きてきます。
啓蒙主義の時代、
この「なぜ悪が存在するのか」という
キリスト教の一貫性や信頼性への問いから
神を弁護するために生まれた神学が
「弁神論」です。
これにはみんなが納得できる答えが出せず、
現代の神学でも続いています。
次に仏教では、悪をどのように教えられているのでしょうか?
仏教の悪とは?
仏教で悪とは、「不善」ともいい、
「苦しい結果を生み出す原因」です。
例えば『ダンマパダ』にはこのように説かれています。
悪いことをした人は、この世で憂え、来世でも憂え、ふたつのところで共に憂える。
(引用:『ダンマパダ』15)
このように仏教では、この世も未来も苦しい運命を生み出す行いを悪といいます。
このような自分の行いが自分の運命を生み出すという因果の道理に立脚して、仏教の教えは説かれています。
仏教の根幹は、因果の道理です。
因果の道理というのは、このようなシンプルな法則です。
善因善果
悪因悪果
自因自果(ブッダ)
善い行いは、幸せな運命を生みだし、
悪い行いは、不幸や災難を生み出します。
自分の行いの報いは自分が受けなければなりません。
この2行目の「悪因悪果」で、悪い行いが、苦しい結果を生み出すと教えられています。
その苦しい結果を生み出す、心と口と身体の行いがすべてが悪です。
この世も未来も苦しい運命を引き起こします。
ところが現実を見ると、悪いことをして金儲けをしていたり、悪ばっかりやっているのに不幸や災難にあわずに、うまいことやっている人がいるように思えます。
それについては、仏教ではこのように教えられています。
まだ悪い報いが熟しないあいだは、悪人でも幸運に遭うことがある。しかし悪の報いが熟したときは、悪人はわざわいに遭う。
(引用:『ダンマパダ』119)
悪い行いは、悪いカルマとなって、決して消えることなく、その人の心に蓄えられます。
そしてやがて縁がきた時に、結果となって現れるのです。
例えばテスト前なのに遊んでばかりいる人は、その時は楽しそうに見えますが、テストという縁が来た時に苦しむようなものです。
悪い行いは、目に見えない悪業力となって蓄えられ、やがて縁が来た時に不幸や災難となって現れるのです。
知らなかったじゃ済まされない?知っているのは氷山の一角
普通世間では、そうとは知らずに悪いことをしてしまっても、
「いけないとは知りませんでした、初めて知りました」といえば、
「知らなかったんなら仕方がない。次から気をつけなさい」
と見逃してもらえる可能性があります。
ところが仏教では、悪と知って犯す罪よりも、
悪と知らずに犯す罪のほうがもっと恐ろしい結果になると教えられています。
例えば、感染症にかかっている人が、感染症にかかっている自覚があれば、
マスクをしたり、なるべく人と接しないようにしたり、心がけることができます。
ところが、自分が感染している自覚がなければ、普段通りに人に接して、感染を拡大してしまうようなものです。
その自覚がない時の影響は、自覚がある時よりも、広範囲にわたり、期間も長くなります。
このことを漢訳の『那先比丘経』や、バーリ仏典の『弥蘭王問経』にはこう説かれています。
ある王様がこのように尋ねます。
「知って悪い行いをする人と、知らずに悪い行いをする人で、生じる不幸や災難はどちらが大きいでしょうか」
すると、ある僧侶が
「大王よ、知らずに悪い行いをする人のほうが大きな不幸や災難が引き起こされる」
ときっぱり答えています。
そしてその理由として
「大王よ、灼熱した鉄球を、一人が知らずにつかみ、もう一人が知ってつかんだ場合、どちらがひどい火傷をするだろうか」
と尋ねると、王は
「知らずにつかむ人のほうがひどい火傷をするでしょう」と答えます。
「大王よ、そのように知らずに悪を行う者のほうが、不幸が大きいのだ」
「よく分かりました」
(弥蘭王問経)
このように、仏教では知らなかったじゃ済まされません。
知らないほうが恐ろしい結果を引き起こすのです。
もちろん、悪いことを分かっておりながら、あえて悪を行うのは論外ですが、
普通は悪いことだと自覚しているのは氷山の一角で、
自覚なしにやっていることが不幸や災難を生みだしていることがたくさんあります。
仏教は真実をうつしだす鏡、「法鏡」といわれます。
法とは真実のことで、
仏教は私たちの姿を映し出す鏡のようなものだということです。
私たちは、自覚なくどんな悪を造っているのか、
仏教の法鏡に照らし出されないとなかなか分かりません。
一体どんな悪を造っているのでしょうか。
そのような不幸や災難を生み出す悪い行いは無数にありますが、
仏教では、人間の犯す色々の悪を10にまとめて「十悪」が教えられています。
代表的な10の悪・十悪とは
十悪とは、以下の10の罪です。
最初の3つの「貪欲」「瞋恚」「愚痴」は心で犯す罪悪です。
それが口に現れれば、
「綺語」「両舌」「悪口」「妄語」としかなりません。
さらに身体では、「殺生」「偸盗」「邪淫」の罪を造っています。
これらが悪であり、
苦しい運命を生み出す
心と口と身体の行いの代表です。
そのことをプッダは、このように説かれています。
何等の非法行、危険行を行ぜば、身壊し命終して地獄の中に生ずるや。
仏婆羅門長者に告げたまわく、殺生、乃至、邪見の十不善業の因縁を具足するが故なり。(引用:『雑阿含経』)
この「十不善業」というのが十悪のことです。
「殺生ないし邪見」というのは、殺生から邪見までの10の罪ということで、身体、口、心という順に説かれています。
ここで「邪見」というのは、因果応報の因果の道理が分からずに善悪を無視する考え方で、愚痴ともいいます。
このような十悪を造れば、死ねば地獄に堕ちるとブッダは教えられています。
ところが仏教には、
もっと怖ろしい悪があります。
それが、五逆と謗法です。
十悪より怖ろしいのが五逆、
五逆より怖ろしい、
仏教で最も怖ろしい罪が謗法罪です。
恐ろしい5つの悪・五逆罪とは
五逆の「逆」とは、恩を仇で返す、
逆恩の恐ろしい罪です。
ですから五逆とは、5つの恐ろしい罪のことです。
地獄の中でももっとも恐ろしい無間地獄へ堕つる
「無間業」と教えられています。
以下の5つです。
- 父殺し
- 母殺し
- 羅漢殺し
- 和合僧を破る
- 仏身より血を出す
最初の「父殺し」と「母殺し」の2つは、
大恩ある親を殺す罪です。
仏教では心を重視しますから、
手にかけて殺さなくても、
心で「邪魔だなぁ、死んでくれたら」
と思うだけで五逆罪です。
また「こんなに苦しいのなら自殺したほうがましだ」
と思うのも「生みさえしなければ
こんなに苦しまなくてもよかったのに」
と親を恨んでいるのですから、五逆罪です。
3番目の「羅漢殺し」の「羅漢」は、
「阿羅漢」ともいわれます。
仏道修行をして相当高いさとりを開いた人です。
その羅漢を殺す罪です。
4番目の「和合僧を破る」の「僧」とは、
仏教を正しく伝える人ですから
「和合僧」とは、真実の仏教を伝える人たちの
団結や集まりのことです。
その団結を乱す行為を「和合僧を破る」といいます。
これによってすべての人が救われる
たった一本の道である仏教が
伝わらなくなりますから
大変恐ろしい罪です。
5番目の「仏身より血を出す」とは、
仏さまのお身体に傷をつけ、血を流させる罪です。
提婆達多は、ブッダの御足を傷つけ流血させました。
彼は狂死したとも、生きながらにして、
大地が割れて無間地獄に堕在した、
とも伝えられています。
これらは、全部やったら五逆罪ではなく、
どれ1つ造っても五逆罪です。
そして、五逆罪よりも怖ろしい罪が謗法罪で、
五逆罪と同じく、無間地獄に堕ちる無間業です。
五逆罪と謗法罪の重さの違い
五逆罪と謗法罪は、どちらも無間地獄に堕ちる無間業ですが、
五逆罪よりも、謗法罪のほうがもっと苦しい結果を引き起こす
恐ろしい悪です。
『大品般若経 』には、このように説かれていると、『浄土論註』に教えられています。
経にいわく、五逆の罪人、阿鼻大地獄のなかに堕して、つぶさに一劫の重罪をうく。
誹謗正法のひとは、阿鼻大地獄のなかに堕して、この劫もしつくれば、
また転じて他方の阿鼻大地獄のなかにいたる。
かくのごとく展転して、百千の阿鼻大地獄をふる。(引用:『浄土論註』)
「阿鼻地獄」とは、無間地獄のことです。
五逆罪の人は、無間地獄で一劫という長い間、
苦しみを受けなければならないと教えられています。
次の「誹謗正法の人」というのは謗法罪の人のことです。
謗法罪の人は、無間地獄を生まれ変わり死に変わりして、
無間地獄を出られる期間が説かれていません。
謗法の罪が、ありとあらゆる罪の中で最も重いからです。
一体謗法罪とはどんな罪なのでしょうか?
最も恐ろしい悪・謗法罪とは
「謗法罪」とは、
真実の仏法を謗ったり非難する罪をいいます。
多くの人を殺したり、
大恩ある親を殺すのも怖ろしい罪ですが、
私たちに最も苦しい結果をもたらす罪は、謗法罪です。
なぜかというと、例えば、橋が架かっていて、こちらの岸が苦しい世界だとします。
その橋を渡って向こう岸に行かないと、誰も助かりません。
まだみんなこちらの岸にいるのに、その橋を叩き壊したら、みんな永久に苦しみ続けなければなりません。
何をたとえられているかというと、
こちらの岸というのが、私たちが生きている迷いの世界です。
向こう岸が、迷いのなくなった世界です。
こちらの岸から向こう岸への橋というのが仏教です。
仏教は、全人類が救われるたった一本の道なのですが、
その仏教を謗るということは、その橋をぶち壊し、幾億兆の人を地獄へ落とす
ことになるから恐ろしい罪なのです。
世間の法でもそうです。
例えば交通法規なら赤信号は止まれです。
「交通ルールなんて迷信だ、証明できない、架空の物語だ」
と言って、交通法規を無視して、赤信号で進んだらどうなるでしょうか。
すぐに事故に遭って、苦しむことになります。
世間の法でさえ、謗ったり無視したりすれば、自分も傷つけ、他人も苦しめることになります。
ましてや大宇宙の真理を教えられた仏法を謗ると、大変なことになるのです。
仏法を謗るといっても、口で
「仏教なんて迷信だ」
「邪教だ」
とののしるだけではありません。
仏法をおろそかにしたり、軽んずるのも謗法罪です。
悪人とは
仏教ではこのように、悪とはどんなことかについて、
主として十悪、五逆、謗法が教えられています。
このような悪を造っている人が悪人です。
では悪人とは誰のことでしょうか?
仏教ではすべての人は心と口と体で悪を造り続ける悪人だと教えられています。
そのことについて『大無量寿経』にはこのように説かれています。
心常念悪(心は常に悪を念じ)
口常言悪(口は常に悪を言い)
身常行悪(身は常に悪を行じ)
曽無一善(かつて一善無し)(引用:『大無量寿経』)
これは、すべての人は、心では悪を思い続け、口では悪を言い続け、心では悪を思い続けている、ということです。
どうでしょうか。
欲の心を起こしたり、思い通りにならない時には腹を立てたり、他人を見てはねたんだり恨んだりしていないでしょうか。
それが、親に向かえば五逆罪、仏教に向かえば謗法罪となります。
すべての人が、悪人だと仏教では教えられています。
『涅槃経』には、ブッダの時代、親を殺した阿闍世王を引き合いに出して、より明白にこう教えられています。
「阿闇世の為に涅槃に入らず」。
是の如きの密義、汝未だ解すること能わず。
何を以ての故に、我が「為」というは、一切凡夫なり。
「阿闇世」とはあまねく一切の五逆を造る者に及ぶなり。
又復「為」とは、即ち是れ一切有為の衆生なり。
(中略)
「阿闍世」とは、即ち是れ煩悩等を具足せる者なり。
(中略)
「阿闍世」とは、即ち是れ一切の未だ阿耨多羅三藐三菩提を発さざる者なり。(引用:『涅槃経』)
阿闍世というのは、親である頻婆娑羅王を殺して王位を奪った五逆罪の悪人です。
ブッダがお亡くなりになる直前、『涅槃経』を説かれた時、
「私は阿闍世のために生命を延ばして涅槃に入らないのである」
と言われました。
この秘密の意味がそなたには理解できないようだが、
「為に」というのは、すべての人の為に、ということである。
阿闍世というのは、すべての五逆罪を造っている者を代表しているのである。
そしてまた、「為に」というのはすべての苦しみ悩む人の為にである。
(中略)
「阿闍世」というのは、煩悩でできている人をいうのである。
(中略)
「阿闍世」というのは、まだ仏のさとりを開いていない人すべてをいうのである。
このように教えられていますので、
すべての人は、五逆罪を造っている悪人だといわれているのです。
悪人が変わらない幸せになれる?
その阿闍世が、変わらない幸せに救われた時、阿闍世はこう言っています。
我今始めて伊蘭子より栴檀樹を生ずるを見る。
「伊蘭子」とは、我が身是なり。
「栴檀樹」とは、即ち是れ我が心の無根の信なり。
「無根」とは、我初より如来を恭敬することを知らず、法・僧を信ぜす、
是を「無根」となづく。(引用:『涅槃経』)
「伊蘭子」とは悪臭を放ち、花を食べると発狂して死ぬ猛毒を持った植物の種です。
「栴檀」とは、病を治す香木です。
これは阿闍世の言葉ですので、変わらない幸せに救われて、
「この阿闍世は、初めて猛毒のある種から香木が生えたのを見た」
と言っています。
猛毒の種である「伊蘭子」が自分の体で、
「栴檀樹」が変わらない本当の幸せです。
その本当の幸せを「無根の信」といわれています。
「無根の信」の「無根」とは、仏を敬うことを知らず、
仏法もそれを伝える僧侶も信じなかった、
と言っているので、阿闍世は謗法の者です。
ですから阿闍世は親を殺した五逆罪の者であり、仏教を信じない謗法罪の者です。
その五逆罪を造り、謗法罪を造っている阿闍世を、すべての人の代表としてブッダは教えられています。
ブッダは、すべての人は、五逆、謗法の悪人だと教えられているのです。
そんな者が、そのまま本当の幸せになれるのが仏教なのです。
悪人の救われる方法
このようにすべての人は、五逆謗法を造っている極悪人だと仏教で教えられています。
このような十悪、五逆、謗法の
深くて重い罪悪によって、未来永遠の苦しみ迷いの輪廻を
続けなければならないと仏教では教えられています。
ところが、迷いの根元を絶ちきれば、
このような悪を造るまま、迷いを離れ、
未来永遠の幸せになれるとも教えられています。
では、その迷いの根元とは何かということは、
仏教の真髄ですが、メール講座と電子書籍に分かりやすくまとめました。
ぜひ一度読んでみてください。
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この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)