恵まれてるのに満たされないのはなぜか
「周りから見れば、何の不満もないはずなのに」
「こんなことを言ったら、ぜいたくだと言われる」
仕事も、家庭も、健康も、これといって欠けているものはない。
不満を言えば罰が当たりそうな暮らしをしている。
それなのに、心のどこかが満たされません。
むしろそう感じている自分のほうを
これだけ恵まれていて、何が不満なのかと責めます。
人には言えません。
言えば「ぜいたくな悩みだ」
で終わってしまうからです。
幸せなのに満たされない。
充実しているのに、満たされない。
不満はないけれど、満たされない。
言い方は違っても、同じ心です。
では、恵まれているのに満たされないのは、心がけの問題なのでしょうか。
そして仏教では、この満たされなさの理由と、
その解決法をどう説かれているのでしょうか。
ぜいたくでも感謝が足りないからでもない
思いきって誰かに話すと、たいてい同じ答えが返ってきます。
「恵まれているのに、ぜいたくだ」
「感謝が足りないんじゃないか」
「もっと大変な人はいくらでもいる」
どれも正しく聞こえます。
言われたほうは、黙るしかありません。
そして、もう誰にも言わなくなります。
ところが、感謝している人でも満たされません。
有り難いと思いながら、同じように満たされない心を抱えている人が、
いくらでもあります。
苦しいのは、満たされないこと自体よりも、
それを言う相手がいないことかもしれません。
困っている人には、同情する人がいます。
話を聞いてくれる人もいます。
ところが、恵まれている人の満たされなさには、聞き手がありません。
「そんなことで悩めるなんて、うらやましい」で終わってしまいます。
それで1人で抱えて、自分のほうがおかしいのだと思うようになります。
なお「足るを知る」については、以下の記事で解説しています。
➾足るを知るの本当の意味と誤解|足るを知る生き方とは?
ところが、満たされなさは、実は恵まれている人ほど感じるのです。
なぜ恵まれている人ほど、これを感じるのでしょうか。
足りないものがあるのなら、説明がつきます。
お金がないからだ。
時間がないからだ。
それが手に入れば満たされるはずだ、と思えます。
ところが、一通り手に入れてしまっても、
何だか満たされない。
満たされない理由を、外に求められなくなったということです。
恵まれている人は、ぜいたくなのではありません。
みんなが目指している所を、先に通り過ぎてしまっただけです。
不足はないが充足がない
かつてあるシンクタンクが、現代を「未足の時代」と呼びました。
不足はないが、充足がない。
どこまでも、まだ足りない。
100年前の暮らしと比べれば、私たちは王様のような生活をしています。
冬は暖かく、夏は涼しく、
食べたいものはすぐに食べに行けます。
天下を統一した秀吉でも家康でも、
今日はイタリアのパスタ、
今日は中国のチンジャオロース、
今日はアメリカのハンバーグ、
みたいなことはできません。
一番速い乗り物は馬で、車も新幹線もありません。
会いたい人の顔を、画面ごしにいつでも見られます。
その1つ1つは、昔の人が一生かかっても手に入らなかったものです。
ところが、手に入れた私たちは、満たされた気がしません。
手に入るようになると、同時に、
もっといいものがあると知ってしまうからです。
知らなければ、不足もありませんでした。
知ってしまえば、手に入れたその先が見えます。
それに、こちらの基準のほうも上がっていきます。
初めて自分で働いて、お金を受け取った日のことを覚えているでしょうか。
金額は大したことがなくても、あの日は嬉しかったはずです。
親に何か買って帰った人もあります。
あの時の1万円と、今の1万円は、同じ1万円です。
ところが、同じようには嬉しくありません。
お小遣いも、給料も、上がることはあっても下がることは滅多にありません。
それにつれて、欲しいものの値段も、一緒に上がっていきます。
手に入れた分だけ、そこが当たり前の線になるからです。
豊かになるというのは、満たされることではなく、
満たされなさが見えるところまで来るということだったわけです。
逃げようとすると速くなるだけ
中国の古典『荘子』に、こんな話があります。
自分の影と、自分の足あとが、どうしても嫌な男がいました。
振り切ろうとして、走り出します。
ところが、速く走るほど、足あとは増えていきます。
影のほうも、少しも離れません。
まだ遅いからだと思った男は、もっと速く走り、
とうとう力尽きて倒れてしまいました。
木陰に入れば、影は消えていました。
立ち止まれば、足あとは増えませんでした。
満たされなさにも、同じところがあります。
この満たされなさは、今の環境のせいだと思います。
それで、もっといい仕事をしよう、
もっといい所に住もう、
もっといい持ち物を持とうとします。
それが達成できた時は、しばらく変わった気がします。
ところが半年もすると慣れてしまって、
また同じ満たされない心が戻ってきます。
もっといいものを求めるというのは、走るスピードを上げることです。
速くなった分だけ、また同じところへ戻ってきます。
それでも走るのをやめられないのは、走っている間は感じずに済むからです。
予定を入れ、用事を作り、
画面をのぞいて、時間を埋めます。
忙しくしている間は、たしかに忘れていられます。
ところが、ふと手が空いた時に、そっくりそのまま戻ってきます。
足が速い人ほど、静かな時間が怖くなるわけです。
求め方が悪いのではない
絶対零度という温度があります。
マイナス273.15度。
それより下には下がりません。
冷やし方が下手だから、そこで止まるのではありません。
熱というのは分子の振動ですが、
振動がゼロになってしまうと、
それより温度は下がらないのです。
私たちの満足も、これと似ています。
求め方が悪いから満たされない、のではありません。
構造として、どんなに求めても満たされないようにできています。
なぜかというと、私たちが求めているものは、
どれも比べて成り立っているからです。
昔、中国の揚子江のほとりに、城をかまえた王がいました。
川を見下ろして、家来にたずねます。
「見よ。たくさんの船が行き来しているが、何そうあるか?」
家来はこう答えました。
「2そうでございます」
「何を言うか。私が見ても、30や40ではきかぬぞ」
「どれだけ船がありましても、名利の2そうでございます」
名利とは、名誉と利益のことです。
数えきれない船が行き交っているようでいて、
人が乗っているのは、この2そうしかない、ということです。
恵まれた人も、そうでない人も、乗っているのは同じ2そうです。
現代なら、どんなにたくさん車が走っていても、それは名利の2台です。
だから、車を乗り換えても、行き先は変わりません。
結局、具体的な対象が変わっていくだけで、求めているものは
名誉と利益ばかりだということです。
しかも名誉も利益も、比べて生まれます。
比べて生まれたものは、比べられた時に消えます。
子供の頃、テストで100点を取れば嬉しかったはずです。
ところが、クラス全員が100点だったと分かった瞬間に、その嬉しさは消えます。
点数は1点も減っていません。
減ったのは、差のほうです。
大人になっても、やっていることは同じです。
上には上があり、その上にはまた上があります。
差で立っているものは、差がなくなれば立っていられません。
これが、構造として満たされない、ということです。
恵まれているのに満たされない人は、この構造の先のほうまで来て、
行き止まりが見えてしまった人だといえます。
問題は並んだごちそうではない
熱が出ている時のことを思い出してみてください。
どんなごちそうを並べられても、味がしません。
好物を出されても、においをかいだだけで、箸が進みません。
ところが、熱が下がると、おにぎり1つでも美味しいのです。
この時、変わったのは料理のほうでしょうか。
並んでいたものは、何も変わっていません。
変わったのは、味わう側です。
熱が出て寝込んでいると、家族が心配して、次々といいものを出してくれます。
それでも食べられません。
すると今度は、もっといいものを探しに行きます。
恵まれているのに満たされないというのは、これとよく似ています。
目の前には、一通りそろっています。
それなのに味がしないので、もっと美味しいものがあるはずだと探します。
探している間、熱のことは誰も言いません。
そして探し方が下手なのだと思って、自分を責めます。
お釈迦さまは、こう説かれています。
心悩むが故に衆生悩み、心浄きが故に衆生浄し
(漢文:心悩故衆生悩,心浄故衆生浄)(出典:『雑阿含経』)
「衆生」とは、私たちのことです。
心が悩んでいるから、私たちは悩む。
心が澄んでいるから、私たちは澄む。
悩みも喜びも、外から来るのではない、と説かれています。
満たされないのは、恵まれ方が足りないからではありません。
熱病にかかってしまうと、どんなごちそうにも味がなくなるようなものです。
病が治れば、どんな料理にも味があります。
味わう側に、熱があるということです。
熱があると分かれば、食べられないことで自分を責めずに済みます。
料理のせいにして、作った人を傷つけることもありません。
探すべきものが、変わります。
その熱が下りたとき
では、その熱病とは何なのでしょうか。
仏教では、人間の苦しみのたった1つの元凶を、突き止められています。
そういう苦悩の根元があります。
欲が深いからでも、感謝が足りないからでもありません。
そこを直そうとしてきたから、直らなかったわけです。
では、苦悩の根元がなくなった時、何が起きるのでしょうか。
持ち物が増えるのではありません。
恵まれ方が変わるのでもありません。
同じ毎日が、そのまま味を変えます。
同じ家族、同じ仕事、同じ部屋です。
何1つ手放さず、何1つ買い足さずに、
大満足できるようになります。
熱が下がれば、おにぎりでも美味しいのと同じです。
これを仏教では無碍の一道と説かれています。
何があっても、それがさわりにならない、たった1つの世界ということです。
不足が埋まるのではありません。
不足のままで、さわりにならなくなります。
恵まれている人が有利なのでも、恵まれていない人が不利なのでもありません。
熱は、どちらにも同じようにあるからです。
そして、これだけは比べて手に入るものではありません。
誰かに勝って得るものでも、誰かに負けて失うものでもありません。
では、その苦悩の根元とは何なのか、
それが、どうすればなくなるのか。
それについては、仏教の真髄なので、
メール講座と、電子書籍にまとめてあります。
どちらも無料ですので、一度見てみてください。
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この記事を書いた人
長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)
東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細・お問い合わせ
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著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)
京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作に引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。


