仏教の歴史
仏教は現在、世界で5億人以上の人が信奉する、世界宗教です。
仏教は、いつどのように始まって、現在、日本に伝わったのでしょうか。
その概要を簡潔に分かりやすく見てみましょう。
詳しいことは、主に仏教を伝えた高僧の生涯を通して解説します。
最後に、このカテゴリの記事をすべて掲載します。
仏教の始まりは?
お釈迦さまの仏のさとり
仏教は、約2600年前、インドで活躍されたお釈迦さまが、始まりです。
お釈迦さまのことをブッダともいわれます。
お釈迦さまは、釈迦族の王子として生まれられました。
三大宗教では、キリスト教のイエスは大工のせがれ、イスラム教のマホメットは貧しい商人でしたが、お釈迦さまは欲しいものは何でも手に入り、将来は王様の地位が約束されている恵まれた社会階層でした。
ところが、お金にも地位にも恵まれているが故に苦しいことがありました。
それは、何のために生きているのか、生きる意味が分からないということです。
これは、現代の日本の私たちでも同じことがいえます。
食べる物がなく、餓死者がたくさん出るような貧しい暮らしなら、生きるのに必死で、生きる意味を考えている余裕などないのですが、生活が安定してはじめて起きてくる悩みがあるのです。
お城の中で何不自由なく暮らしておられたお釈迦さまは、ある日、初めて城から出てみると、そこには荒廃した世界が広がっていました。
病気で苦しむ人や、年を取って体が動かない人、そして死んだ人を見られたお釈迦さまは、
「これが人生の現実だ」
とショックを受けます。
「必ず死ぬのになぜあくせく生きなければならないのだろう?」
深刻に悩まれたお釈迦さまは修行者に出会い、
「自分もこの生と死の問題の解決を求めたい」
と思ったのでした。
この間の経緯については、以下の記事に詳しく解説してあります。
➾ブッダの誕生から悟りを開き入滅までの生涯と教え・ブッダと釈迦の違い
人は生きるために生きているのではないので、生きる目的に悩まれたお釈迦さまは、29歳で出家して、本当の生きる目的を求めたのでした。
6年間の壮絶な修行の末、お釈迦さまは
35歳で、ついに仏という大宇宙最高のさとりを開かれます。
それから80歳でお亡くなりになるまでの
45年間、説かれた教えを仏教といいます。
お経の結集
お釈迦さまがなくなると、その教えが消えてしまわないよう、数ヶ月後にお弟子の大迦葉を中心とした500人の高い悟りを開いたグループで会議が開かれ、お経がまとめられます。
この会議を「第一結集」といいます。
まずICレコーダーレベルの驚異的な記憶力を持つ阿難がお経を暗唱し、集まった人たちが全員間違いないといえば、お経となりました。
次に戒律に詳しいウパーリが戒律を暗唱し、全員が承認すれば戒律としてまとめられました。
こうしてお経は繰り返し確認されながら口伝で伝えられて行きます。
やがてお釈迦さまが亡くなって約100年経った頃に、戒律について意見が割れてきたので、毘舎離に長老700人が集まり、「第二結集」が行われます。
紀元前3世紀になると、お釈迦さまに帰依していたビンビサーラ王やアジャータシャトル王のマガダ国に、アショーカ王が現れます。
アショーカ王は最初は残忍な王で、現世の楽しみを求めてインドをほとんど統一します。
ところがそれでも幸せにはなれず、大きな犠牲を払ったことを後悔して仏教に帰依します。
それから全インドに仏教を広め、碑文を建てます。
アショーカ王の石碑には仏教のマークが記されています。
(ちなみに現在のインドは、ヒンドゥー教ですが、国旗の真ん中には、アショーカ王の仏教のマークが使われています)
また、スリランカにも弟を派遣して仏教を伝えます。
アショーカ王は、千人の僧侶を集めて「第三結集」を行います。
この時は、経と律に加えて、お経の教えを僧侶が解説した論も結集され、経、律、論の三蔵ができました。
やがて紀元前1世紀頃には、口伝で伝えられていたお経が文字に書き残され始めます。
2世紀頃になると、カニシカ王が現れ、「第四結集」が行われました。
このようにして、お経ができて仏教が伝えられていきます。
お経については、以下に詳しく解説してあります。
➾お経の数と種類、宗派別のまとめ・お経をあげる意味とは?
小乗仏教の部派が分かれる
仏教は大きく分けると小乗仏教と大乗仏教のグループがあります。
小乗仏教と大乗仏教の違いについては、以下の記事に詳しく解説してあります。
➾大乗仏教と小乗仏教(部派仏教)の違い
ちなみに小乗とか大乗というのはもともとお釈迦さまの説かれた言葉ですが、一部の人が、小乗というのは大乗の人がけなして言っているという説を唱え、最近は学校で習う歴史の授業などでは小乗仏教とは言わず、部派仏教などといわれます。
ただし仏教で教えの内容を論じる時は、今でも小乗仏教や大乗仏教という言葉がつかわれます。
小乗仏教のグループではお釈迦さまが亡くなって100年頃に根本分裂という大きな分裂が起きます。
革新的な弟子たちが戒律の一部に除外例を認めたほうがいいという意見と、保守的な弟子たちのすべての戒律は厳格に守るべきという対立によるものです。
こうして革新的な弟子たちは「大衆部」という部派を作り、保守的な弟子たちを「上座部」と呼びました。
やがて大衆部は9つの部派に分かれ、上座部は11に部派に分かれます。
日本で小乗仏教といわれる「説一切有部」は上座部から分かれた部派です。
また、東南アジアに現在も残るテーラワーダ仏教も、上座部の「分別説部」という一つの部派です。
現在残っているのは、その分別説部だけになってしまいました。
大乗仏教の盛り上がり
一方、大乗仏教は、紀元前2世紀頃に盛り上がり始めます。
小乗仏教は、出家しなければ助からないという教えでしたが、大乗仏教は、どんな人も救われる教えです。
日本の仏教はすべて大乗仏教です。
やがて2世紀頃、龍樹菩薩(ナーガールジュナ)が『般若経』『華厳経』『法華経』『無量寿経』などの大乗仏教の教えを理論的にまとめます。
龍樹菩薩のグループを「中観派」といいます。
やがて4世紀頃になって、『涅槃経』『勝鬘経』『解深密経』『楞伽経』などの教えを体系的にまとめたのが弥勒(270-350頃)、無著菩薩、天親菩薩です。
このグループを「唯識派」といいます。
5世紀には、当時の世界最大の大学であるナーランダー僧院が建てられ、たくさんの僧侶が仏教を学んで盛り上がります。
唯識派の護法や戒賢も学長をつとめ、三蔵法師の玄奘はここで唯識を学び、中国にたくさんのお経を持ち帰ります。
インド仏教の衰退
ところが、教えの研究が難しく専門的になると、一般庶民には近寄りがたいものとなります。
教えの分かりやすいバラモン教から起きたヒンドゥー教に押されるようになり、仏教は衰退し始めます。
やがて7世紀頃『大日経』『金剛頂経』などの教えによって密教がおこります。
8世紀になるとインドの仏教は、ほとんどヒンドゥー教に似た密教になってしまいます。
そうなると加持祈祷による現世利益が盛んになり、仏教の独自性が失われて行きます。
チベット仏教は8世紀頃から伝えられたので密教です。
やがて12世紀にイスラム教徒が攻め込んでゴール朝が起こり、13世紀にはゴール朝のアイバクが奴隷王朝を建て、仏教のお寺が破壊されます。
ナーランダー僧院も、1193年にアイバクの配下によって破壊されてしまいました。
僧侶たちは殺されたり、チベットやネパールに逃れてインドの仏教は滅亡したのでした。
インドの仏教が衰退した本当の理由は、以下の記事に詳しく解説してあります。
➾インドの仏教はなぜ衰退したの?本当の理由
仏教はインドから中国へ
中国伝来の始まり
仏教がインドから中国へ伝えられたのは、前漢末期の紀元前後です。
三国時代の『魏略』には、前漢第十三代の哀帝が、元寿元年(紀元前2年)に景盧という人が、大月氏王の使者から仏教を口伝で伝えられたと記されています。
それから中国への仏教公伝といわれるのは、67年です。
後漢の第二代皇帝の明帝が、夢に金色に光り、後光の差した神のよう人が西のほうから飛んできたのを見て非常に喜び、
「この夢の神はどんな神か分かる者はないか?」
とたくさんの大臣たちに尋ねたところ、すでに仏教を知っていた人が、
「私は西のほうの天竺の国に、道を得た人があると聞いたことがあります。
名づけて仏といわれます。飛ぶそうです。
お話を伺いますと、まさしく仏さまであることはほとんど間違いないでしょう」
と答えました。
明帝は「そうか」と、すぐに西方に使者をつかわします。
やがて大月氏国から2人の僧侶を招いて、『四十二章経』が翻訳されたといわれます。
『四十二章経』というのは、よく海外のビジネス書などでとりあげられるこの有名な言葉が説かれているお経です。
一本のろうそくから何千本ものろうそくに火をつけることができる。
それでも最初のろうそくの寿命が短くなることはない。
幸福は分かちあうことで決して減らない。(ブッダ)
漢訳ではこのように説かれています。
人の道を施すをみて、これを助けて歓喜すれば、また福報を得ん。
たずねて曰わく、
「彼の福まさに減ずべからざるか」
仏の言わく、
「なおし炬火の、数千百人、おのおの炬をもって来たり、その火を取りて去り、食をたき、冥を除くも、彼の火はもとの如し。福もまたかくの如し」
(漢文:猶若炬火 數千百人 各以炬來 取其火去 熟食除冥 彼火如故 福亦如之)(引用:『四十二章経』)
「故の如し」というのは、元通りということです。ろうそくの火は、他のろうそくに火を移しても消えません。
幸せも他の人に分け与えても減らないのです。
それは仏教の教えも同じです。伝えたら減るということはありません。どんどん幸せが増えていきます。
一本のろうそくの火が数千本のろうそくの火となるように、仏教の教えもこうして中国に広まり始めたのでした。
誤解されて受け入れられる
仏教をインドから中国へ伝えた人達が、「三蔵法師」といわれる翻訳家たちです。
「三蔵」というのは、仏教の教えを説かれた経・律・論のことです。
「経」とはお経、「律」とは戒律、「論」とは菩薩によるお経の解説書です。
インドの言葉で書かれている経・律・論を、中国語に翻訳するので、仏教に明るい上に、語学に堪能でなければなりません。
しかも、インドから中国までの旅をする体力も必要です。
そのような優れた三蔵法師たちによって、仏教は中国へ伝えられていくのでした。
三蔵法師については、以下の記事で詳しく解説してあります。
➾西遊記の玄奘で有名な三蔵法師の仏教の本当の意味は?
後漢末期には、もと安息国(バルティア)の王子で出家して僧侶となった安世高が洛陽に訪れ、『四諦経』『八正道経』『転法輪経』などの小乗経典を翻訳します。
ところが同じ頃洛陽にやってきた大月氏国出身の支婁迦讖が、『平等覚経』『般舟三昧経』『道行般若経』『首楞厳経』などの大乗経典を翻訳します。
このように、中国には小乗経典と大乗経典が同時に次々に入って来ます。
三国時代になると、魏にやってきた康僧鎧が『無量寿経』を翻訳します。
『無量寿経』は後に浄土仏教に大きな影響を与えます。
三国時代の呉では、支謙が『大阿弥陀経』『大般泥洹経』『維摩経』などの大状況展、小乗経典のスッタニパータに相当する『義足経』などを翻訳します。
西晋の時代になると、敦煌生まれの竺法護
が長安にやってきて、法華経の異訳である『正法華経』、『光讃般若経』『維摩詰経』『大宝積経』お盆の由来となった『盂蘭盆経』など154部309巻というたくさんのお経を翻訳します。
鳩摩羅什が現れるまでの最も偉大な翻訳家で、竺法護の翻訳を「古訳」といわれます。
この時代の仏教は、中国にもともとあった老荘思想の言葉を遣って解釈していました。
これを格義仏教といいます。
特に、『道行般若経』や『光讃般若経』などの般若経に説かれる「空」を老荘思想の無と同じようなものだと解釈したのでした。
しかしながら仏教の空は、老荘思想の無とは違うので、誤解です。
仏教の空については、以下のページで分かりやすく解説してあります。
➾色即是空の恐ろしい意味を分かりやすく説明
般若経を研究した道安(312-385)は、仏教の空と老荘思想の無の違いに気づいて、格義仏教を批判しましたが、それが明らかになるには、鳩摩羅什を待たなければなりませんでした。
こうして、老荘思想と似たようなものとして、仏教はとりあえず中国に受け入れられていったのでした。
鳩摩羅什の活躍
鳩摩羅什は、もともと西域の亀茲国の王族でしたが、出家して小乗仏教と大乗仏教をどちらも学び、大乗仏教を主に伝えていました。
その名声が中国にも伝わったため、前秦の国王が将軍呂光を使わせて鳩摩羅什を招こうとします。
ところがその間に前秦が滅びてしまい、紆余曲折を経て58歳の時、後秦の二代目の姚興に長安に迎えられました。
それから70歳で亡くなるまで、74部384巻を翻訳したのでした。
鳩摩羅什の翻訳は、文章が美しくて意味が分かりやすいだけでなく、『法華経』『阿弥陀経』『維摩経』『梵網経』『坐禅三昧経』などの重要なお経や、龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』『中論』『百論』『十二門論』『大智度論』などのお経の解説、成実宗が依り所とする『成実論』など、その後の中国の仏教の発展に大きな影響を与え、仏教の教えが研究できる土台を作りました。
鳩摩羅什の翻訳は、「旧訳」といわれます。
龍樹菩薩の空の教えが明らかになったことにより、仏教の空と老荘思想の無の違いが明らかになり、格義仏教も終わりました。
鳩摩羅什の弟子達の中から、龍樹菩薩の『中論』『百論』『十二門論』の3つの論を研究する三論学派、『成実論』を研究する成実学派が起きます。
『涅槃経』の重要性も説かれていたため、鳩摩羅什の死後に法顕が『涅槃経』の前半の『大般泥洹経』を持ち帰ると、鳩摩羅什の弟子達が涅槃経を研究する学派を形成しました。
宗派が生まれる
その後、南朝の宋で畺良耶舎が『観無量寿経』を翻訳して浄土仏教に影響を与え、求那跋陀羅は、『雑阿含経』『勝鬘経』『過去現在因果経』など52部134巻を翻訳しました。
やがて北魏では菩提流支が『金剛般若経』『入楞伽経』『解深密経』『浄土論』『十地経論』など39部127巻を翻訳し、梁では、真諦が、『金光明経』『倶舎釈論』『摂大乘論』『大乗起信論』『唯識論』『仏性論』など76部315巻を翻訳して大きな影響を与えました。
日本へも、梁と国交のあった朝鮮半島の百済から仏教が伝えられ始めます。
このようにたくさんのお経が翻訳されて、色々な教えが説かれると、お釈迦さまは一体何を説こうとされたのか分かりにくくなってきます。
そこで、お経のすべてを分類整理して、お釈迦さまの真意を知ろうとした結果、意見が分かれて色々の宗派が生まれてきました。
隋の時代には、智顗(538-597)によって天台宗、吉蔵(549-623)によって三論宗などが開かれます。
唐の時代に西遊記で有名な玄奘
三蔵がインドへ行き、『大般若経』『般若心経』『瑜伽師地論』『倶舎論』『唯識二十論』『唯識三十頌』『成唯識論』など、76部1347巻を翻訳しました。
玄奘は、翻訳する時の意味の正確さを心がけており、自ら「新訳」と呼びました。
しかしながら文章は鳩摩羅什のほうが美しいので、旧訳の言葉やお経が使われることもあります。
また、玄奘の弟子の
窺基(632-682)によって法相宗が開かれます。
唐の時代には他にも、法蔵(643-712)によって華厳宗などが開かれました。
また、北魏の曇鸞大師(476-542)、隋の道綽禅師(562-645)、唐の善導大師(613-681)によって浄土教がおこります。
梁にやってきた達磨は禅宗を伝え、唐の時代の第五祖弘忍
の弟子の神秀が北宗禅、慧能が南宗禅を開きます。
この南宗禅から臨済宗や曹洞宗が分かれます。
また、唐の中頃には、善無畏(637-735)、金剛智(671-741)、不空(705-774)によって、密教が伝えられます。
ちなみに鑑真が日本に渡って来て戒律を伝えたのは、唐の第9代、玄宗皇帝の頃、753年でした。
中国仏教の衰退
その後の中国では、唐の18代皇帝、武宗が道教に傾倒して会昌5(845)年、仏教を弾圧します。
これを「会昌の法難」とか「会昌の廃仏」といいます。
長安と洛陽には4か寺、各州に1か寺だけ残して4600か寺が廃止され、26万人の僧侶が強制的に還俗させられました。
翌年、武宗が33歳で死去したため、弾圧は終わりましたが、仏教は大きく衰退します。
南宋頃までは禅浄一如といわれて念仏禅が流行します。
それから諸宗が融合する傾向に向かいます。
清の時代には、儒教が重んじられたのでますます仏教は衰退し、アヘン戦争の後に起きた太平天国の乱で、中国全土のお寺が破壊されます。
それから共産党が政権をとり、中国の仏教はなくなってはいませんが、低迷しています。
仏教は日本へ
飛鳥時代(氏族仏教から国家仏教へ)
仏教伝来と氏族仏教
日本には、もう少し前から渡来人によって個人的に仏教が伝えられていましたが、公式には538年に百済の聖明王から欽明天皇へ仏教が伝えられます。
百済から伝えられた仏像は、蘇我稲目に与えられ、蘇我氏が仏教を受け入れます。
やがて蘇我馬子が排仏派の物部氏を滅ぼし、仏教が発展を始めます。
翌年の588年、崇峻天皇へ百済から僧侶や技術者が送られ、それをもとに蘇我馬子が日本初の本格寺院の飛鳥寺(法興寺)を建立します。
それから日本の文化の中心は仏教になります。
その最初が飛鳥文化です。
594年、聖徳太子が摂政をつとめた推古天皇が仏教興隆の詔を出します。
それによって氏族仏教が始まります。
豪族が氏寺を作り、それぞれ一族の繁栄を願って個人的に仏教を崇拝していました。
例えば蘇我馬子の飛鳥寺、聖徳太子の法隆寺や四天王寺、秦氏の広隆寺です。
仏教の目的は、祈祷によって繁栄することではないので、まったく誤解されて受け入れられたことになります。
聖徳太子の活躍
ところが聖徳太子は「世間虚仮 唯仏是真」と言われ、仏教の教えを深く理解されています。
そして604年の十七条憲法に
「篤く三宝を敬え」
と教えられています。
「三宝」とは仏教のことです。
仏教を「四生の終帰・万国の極宗」といわれています。
これは、生きとし生けるものすべてが最後に帰依するところであり、世界にどれだけの国があっても究極の教えである、ということです。
また、仏教と共に、重要な文化も伝わってきます。
例えば百済から来た渡来僧の
勧勒は暦をもたらし、高句麗から来た曇徴は紙や墨、絵の具を伝えました。
また、高句麗の慧慈、百済の慧聡は、聖徳太子に仏教を教えています。
聖徳太子は本格的に仏教を学び、『三経義疏』という『法華経』『維摩経』『勝鬘経』の注釈書を書き残されています。
国家仏教へ
645年、大化の改新で蘇我氏は滅びましたが、仏法興隆の詔が出され、中央集権的な政府に仏教が受け継がれて仏教は氏族仏教から国家仏教になって行きます。
国家仏教の役割は、国家安泰です。
672年の壬申の乱の後、天武天皇が即位すると、ますます仏教は国家の繁栄を祈る国家仏教となります。
官立寺院として大官大寺
、法興寺、川原寺、薬師寺の四大寺が作られました。
薬師寺の東塔は、34mの三重塔ですが、日本で一番美しいといわれ、フェノロサは、「凍れる音楽」と表現しました。
そしてたくさんのお経の中で、国を護る力があると思われて護国三部経といわれる『法華経』『仁王経』『金光明経』が、盛んに講義されたり読経されたりしました。
天武天皇の683年に僧侶を治部省の官職とする僧綱制度ができます。
これによって僧侶は国の組織に所属する官僚のようなものになります。
持統天皇の696年には、戒律を守り、修行を積んだ僧侶10名を毎年出家させる年分度者の制度が始まります。
この人たちは国から給料をもらい、国の指示に従う国家公務員になります。
さらに701年の大宝律令の時には、僧尼令が制定され、国家によって仏教が厳しく統制されます。
私度僧は禁止され、もう自分で僧侶になることもできません。
自由に寺を作ることも、仏教を伝えることもできなくなりました。
もともと仏教は世間を生きる手段ではなく、なんのために生きるのかという生きる目的を教えられているのですが、こうして生きる手段である政治の道具となり、人々を救うこともできなくなってしまったのです。
奈良時代
奈良仏教といえば、華厳宗、法相宗をはじめ、三論宗、成実宗、倶舎宗、律宗です。
これを「南都六宗」といいます。
奈良時代の仏教は、国家仏教です。
聖武天皇は深く仏教に帰依して、741年に国分寺建立の詔を出します。
各国に国分寺と国分尼寺を建立して、『金光明最勝王経』と『法華経』を10部ずつ安置して国家の安泰を祈願します。
そして743年には大仏造立の詔を出します。
749年に奈良の大仏が完成して、大仏殿が完成した752年に大仏開眼の法要がなされ、総国分寺と位置づけられました。
こうして奈良の東大寺が各国の国分寺の中心となり、仏教は日本の国教となったのです。
この時代に行基
が現れて、僧尼令を破って民間に仏教を伝えたり、橋を架けたりして、民間からの支持を得ていました。
そのため再三処罰を受けましたが、人気が高いことから大仏造立の時に中心人物に抜擢され、745年には大僧正になります。
ですが、その後も僧尼令と関係なく人々に仏教を伝え続け、749年に82歳で亡くなりました。
754年には中国から鑑真を招いて戒壇を作り、初めて日本で授戒して正式な僧侶になれるようになりました。
奈良の東大寺と下野の薬師寺、筑前の観世音寺に3つの戒壇が設けられ、これを本朝三戒壇といわれます。
その後、僧侶は必ずどれかの戒壇で授戒しなければならなくなります。
奈良時代以前の四大寺は、この頃には南都七大寺になっています。
平城京の近くの、西大寺、薬師寺、大安寺、元興寺
、興福寺、東大寺、法隆寺のことです。
また、聖武天皇の后の光明皇后も仏教に帰依して、悲田院、施薬院を設立し、貧しい人々を救いました。
和気清麻呂の姉、和気広虫は出家し、みなしごをひきとって養育することに力を入れました。
ちなみにこの時代の『過去現在絵因果経』は、絵巻物の祖と言われています。
また『百万塔陀羅尼』というお経は世界最古の印刷物といわれています。
平安時代
国家からの独立を目指す
奈良時代に仏教寺院の力が強くなりすぎてしまい、
七大寺や国分寺と僧侶の経費が国の財政破綻を招き、道鏡などは太政大臣にまでなり、
僧侶が政治に口を出すようになってしまいます。
それを嫌った桓武天皇は、まず794年に平安京遷都を行います。
その時、奈良仏教の寺院の移転は禁止です。
そして桓武天皇は、新しい国家仏教を導入して律令再建を目指そうとします。
そのため最澄や空海を遣唐使で唐に派遣して、帰国した2人が持ち帰ったのが密教です。
密教については、以下の記事で詳しく解説してあります。
➾密教とは何か・呪術や修行など仏教や顕教との違い
密教では、大日如来と直接通じ合うために、厳しい修行が必要です。
山に入って修行するので山岳仏教といわれます。
厳しい修行の末、それができるようになった人を阿闍梨
といい、阿闍梨は加持祈祷による現世利益の力を持つと信じられたのです。
その加持祈祷の力で政治家は国を治めようとし、貴族は繁栄を求めたため、密教が流行しました。
伝教大師といわれる最澄は、比叡山で延暦寺を開き、天台宗を広めます。
天台宗の密教を台密
といいます。
最澄は、新しく僧侶になるための本朝三戒壇が、奈良仏教の寺院に独占されていたため、比叡山に独自の大乗戒壇を設けようとします。
僧侶になる道を国から取り返そうとするものでもあります。
それは最澄が死んで7日目に、朝廷から4つ目の戒壇として認められたのでした。
最澄は、唐で密教を極めることができなかったため、密教を極めた空海の真言宗におされます。
そのため、弟子達がまた唐に渡り、本格的な密教を極めますが、分派してしまいます。
それが、延暦寺で山門派を開いた円仁と、三井寺として知られる滋賀県の園城寺で寺門派を開いた円珍です。
空海は、高野山の金剛峯寺や、東寺で真言宗を開いて、弘法大師といわれます。
真言宗の密教は、天台宗の台密に対して東寺の東をとって東蜜といわれます。
祈祷仏教として貴族に受け入れられ、急速に広まります。
奈良仏教は、国から統制された国家仏教でしたが、平安仏教になると、国から独立した教団を作ったのでした。
ちなみにこの頃、日本の山岳信仰と、密教が融合して修験道が起こります。
貴族仏教の腐敗と浄土仏教の興隆
平安時代の中頃になると、貴族の出身者を出家させると土地の寄進などのお布施が得られ、勢力を拡大できるので、積極的に受け入れるようになります。
やがて比叡山など各教団の重要なポストは、貴族出身の僧侶に独占されるようになります。
家柄が高ければ、厳しい修行をしなくても座主に就任して比叡山を支配するようになったのです。
また、比叡山や寺院には土地を守るための僧兵が生まれて争ったり、朝廷に強訴したりする、
仏教の教えに反した状態になっていきました。
また10世紀頃になると地方の政治が乱れます。
各地の国司が徴税権を持ち、関東では平将門の乱、瀬戸内海では藤原純友の乱が起きます。
またお釈迦さまは、亡くなってから1500年経つと末法になると予言されていますが、それは1052年からと思われていました。
10世紀の人たちは、その末法が近づいているので、自分が死んだ後の来世が心配になりました。
そこで、死んで浄土へ往く道を教えられた浄土仏教が広まったのです。
浄土教というのは、南無阿弥陀仏によって浄土へ往生できるという教えです。
浄土仏教が広まったからといって密教が衰えたわけではありません。
貴族は、浄土教に来世の救いを求め、密教に現世利益を求めたからです。
この時代に浄土教を広めたのは、空也(903-972)や源信僧都(942-1017)です。
浄土教の場合は、密教のような厳しい修行が必要ないため、庶民にも広まっていきます。
密教は貴族だけでしたが、浄土教の場合は、庶民にも広まりますので、密教以上に多くの人に広まっていきました。
そして往生したといわれる人を集めた「往生伝」が作られます。
慶滋保胤『日本往生極楽記』、
大江匡房『続本朝往生伝』、
三善為康『拾遺往生伝』『後拾遺往生伝』、
蓮禅(藤原資基)『三外往生伝』、
藤原宗友『本朝新修往生伝』の6つです。
この中には庶民も多くあります。
また貴族でも、藤原道長は源信僧都に帰依して極楽往生を願いながら1028年に亡くなり、末法に入った翌年の1053年には、10円玉の絵柄になっている阿弥陀堂の平等院鳳凰堂が、道長の長男の藤原頼通によって建立されます。
院政期
院政期になると、武士が力をつけ、戦乱が多くなります。
京都で源平の争乱が起きたりして、人々が地方へ逃げて行きます。
すると、浄土教の国風文化が文化が地方へ伝わっていきます。
例えば岩手県の平泉の中尊寺金色堂、大分県の富貴寺大堂、福島県の白水阿弥陀堂が建立されたり、地方に阿弥陀堂ができました。
また、貴族も地方の庶民の文化を受け入れて公家文化と庶民文化が融合します。
後白河上皇は、庶民の間に流行していた今様を集めて『梁塵秘抄』を編纂します。
そこには、例えばこんな歌が出ています。
弥陀の誓いぞ頼もしき 十悪五逆の人なれど
一度御名を称うれば 来迎引接疑はず
* * *
極楽浄土のめでたさは ひとつも虚なることぞなき
吹く風立つ波鳥も皆 妙なる法をぞ唱うなる。
(梁塵秘抄)
十悪や五逆については、以下に解説してあります。
➾悪の意味・キリスト教と仏教の違い
このような今様に阿弥陀如来や極楽浄土が歌われていることから、
庶民に浄土仏教が広まっていることが分かります。
インド、中国、日本の仏教説話を集めた『今昔物語集』もこの頃に成立しました。
また、空也もそうでしたが、大寺院に所属しない聖といわれるフリーの僧侶が増えてきて、鎌倉時代に向かって活躍します。
鎌倉時代
平安末期に奈良の寺院が源氏についたので、1181年、平重衡が、焼き討ちしました。
これを南都焼討といいます。
東大寺や興福寺が焼けたため、鎌倉時代には重源がリーダーとなり、東大寺を再建しました。
1175年、法然上人(1133-1212)が浄土宗を興し、それを深化させて弟子の親鸞聖人(1173-1262)が1247年、浄土真宗を明らかにしました。
禅宗では、栄西(1141-1215)が臨済宗を伝え、幕府の帰依を受けて関東や京都に臨済宗を広めます。
道元(1200-1253)は宋の如浄から曹洞宗を学び、日本に曹洞宗を伝えます。
鎌倉で北条時頼に菩薩戒を授けますが、政治との接近を嫌って、福井県の永平寺で曹洞宗を盛り上げることに努力しました。
室町時代
武士と結びついた臨済宗は、室町時代には京都と鎌倉にそれぞれ最高の格式を持つ五山の制度を確立して、五山を中心に発展します。
そのため室町時代の文化は、禅宗の影響を受けています。
それに対して臨済宗の大徳寺派と妙心寺派、曹洞宗は、禅宗を地方に伝えました。
一休さんが現れたのもこの頃です。
また、浄土真宗では蓮如上人が現れ、浄土真宗が仏教の最大宗派となる基礎を築きます。
室町時代くらいになると、一般民衆の子供がお寺で僧侶に読み書きを学ぶことが多くなってきました。
往来物という教科書を僧侶が作って教育を行っています。
江戸時代
江戸時代になると、幕府は寺院法度で仏教の教団を統制します。
寺院法度では、本寺と末寺の上下関係を明確にして、本山を頂点とする体制を確立します。
その本山を幕府が掌握することによって仏教の教団を封建制度に組み込みました。
また、仏教の学問を奨励して、他宗との論争は禁じられました。
また、キリスト教を禁じるために、寺請制を実施し、日本人は必ずどこかの寺院に所属しなければならなくなりました。
これによって戸籍の役割もかねて檀家制度ができました。
人々は信仰はなくても強制的にお寺に所属させられます。
また、僧侶としても布教はできなくなり、形式的な葬式や法事だけを行う仏教になっていきました。
それと同時に、仏縁を深めた人の中には、仏教によって救われたと喜ぶ妙好人といわれる強信な人々が多く現れます。
また、1654年には中国から隠元(1592-1673)がやってきて、黄檗宗を開きました。
尚、この頃、仏教はヨーロッパにも伝わっています。
江戸時代には、仏教は再び国家仏教になりましたが、葬式法事仏教となってしまったのです。
やがて体制に組み込まれて安住し、横暴に振る舞う僧侶に対して、神道の人々を中心とした批判が高まって行きます。
明治時代以降
明治時代になると、政府が国家神道を中心に国をまとめるため、明治元(1868)年神仏分離令を出します。
これによって今まで神も仏も同じようなものだと思われていましたが、明確に区別されました。
明治5(1872)年には「肉食妻帯蓄髪等勝手たるべき事」の太政官布告133号が出されます。
これは、僧侶も肉を食べても結婚しても、髪の毛を伸ばしてもいいですよ、と一見自由化しているようで、僧侶を平民と同じ身分にしたものでした。
さらに、仏教の大弾圧を行います。
これを廃仏毀釈といいます。
たくさんの貴重な仏像が破壊され、江戸時代には30万か寺あったお寺が、10万か寺に減ります。
たくさんの僧侶も還俗させられました。
明治22(1889)年には大日本帝国憲法が発布されて信教の自由が認められました。
明治時代に起きた2つ目の大きな問題は、西洋の学問の歴史学が導入されて、近代仏教学が作られたことです。
仏教の教えの骨格は「教行証」です。
「教」は教え、目的地である本当の幸せとはどんなことで、どうしたら本当の幸せになれるのかです。
「行」は教えに従って行くことです。
「証」は目的地に到着することです。
たとえるなら、教は宝の地図で、行は地図にしたがって行くこと、証は宝を手に入れることです。
ところが西洋の頭だけの学問で、宝の地図ばかりを問題にして、宝を手に入れることはなくなったのです。
そして西洋の歴史学を導入して、お経の成立過程ばかりを研究するようになってしまいました。
これは、宝の地図ができた歴史の研究に力を入れるばかりで、地図の内容は問題にされなくなり、ましてや宝を手に入れることは学問の対象外になってしまったのです。
さらに昭和の戦後の農地改革では寺は土地を失うと、葬式や法事、戒名で多額のお布施を要求するようになりました。
これによって人々から嫌われ、どんどん仏教離れが進んでいます。
本当の仏教を学べる時代
このように、お釈迦さまが説かれて以来、仏教は時代や地域を超え、多くの人に語り継がれてきました。
それは、いつの時代、どこの国でも、人々を本当の幸せにする力があるからです。
幾億の人が救われたか知れません。
ですが、歴史上、仏教の教えを正しく学ぶことができたのも極めて稀であったことも事実です。
お釈迦さまが「仏法聞き難し」と言われている通りです。
では、仏教に何が教えられているのかは、メール講座と電子書籍にわかりやすくまとめて起きましたので、以下のページから今すぐご覧ください。
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この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)