仏教の開祖とは?
世界の三大宗教のトップにあげられる
仏教の開祖は誰なのでしょうか?
この記事では、仏教の開祖についておおまかなことを分かりやすく解説した後、詳しいことは、最後にこのカテゴリの記事を紹介しますので、そこからご覧頂くことができます。
ところで、仏教の開祖を研究する人の中には、一部、キリスト教徒が混じっています。
仏教の開祖をどう呼ぶかによって判別することもできるようになります。
気をつけるようにしてください。
仏教とは仏の説かれた教え
仏教とは、仏の説かれた教えということです。
仏というと、日本では死んだ人や先祖のことを
仏といわれたりしますが、それはよくある間違いです。
もし死んだ人が仏であれば、
仏教は死んだ人の教えとなってしまいます。
死んだ人に教えは説けませんから、
仏は死んだ人ではありません。
では、仏とはどんなことかといいますと、
大宇宙最高のさとりを仏のさとりといいます。
そして仏のさとりを開かれた方を仏様といわれます。
ちょうど、王というのは地位のことですが、
その地位にある人を王様というようなものです。
では、仏のさとりを開かれたのは誰でしょうか。
仏とは誰のこと?
地球上で仏のさとりを開かれたのは、約2600年前、インドで活躍された
お釈迦様ただ一人です。
お釈迦様のことを、
釈迦とか、
釈迦牟尼とか
釈迦牟尼世尊とか
世尊とか
釈尊と言われます。
釈迦牟尼とは、釈迦族の聖者ということです。
「牟尼」は「無二」ともいって、
地球上に二人とない尊い方ということです。
地球上では仏のさとりを開かれたのは
お釈迦様ただお一人ですから、
「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」
といわれます。
釈迦族とは?
以前、お釈迦様はどこの人か聞いたら、
「広島県」と答えた人がありましたが、
釈迦族というのは、日本人の一族ではありません。
インドの北、現在のネパールにあたるところのヒマラヤ山麓の民族です。
約2600年前、釈迦族は、10人の長を選んで、
さらにその中から1人の王を選んで首都のカピラ城で
政治をしていた共和国です。
お釈迦様は、この釈迦族の王である浄飯王と、
その妃である摩耶夫人の子供として誕生されました。
お父さんもお母さんも存在する、歴史上、実在の人物です。
お釈迦様とは?
お釈迦様の名前をゴータマ・シッダールタとか、
瞿曇・悉達多ともいいます。
そのゴータマ・シッダールタが、29歳で出家され、
私たちの想像も及ばない厳しい修行を6年間された後、
ついに35歳で、仏のさとりを開かれて、
80歳でお亡くなりになるまで、
仏として説かれた教えを仏教といいます。
この仏のさとりを開かれた方のことを仏陀ともいいます。
英語でブッダともいいます。
手塚治虫の『ブッダ』?
ブッダと聞いて思い出すのが、有名な手塚治虫のマンガ『ブッダ』ですが、
『ブッダ』も、お釈迦様をモデルにした物語です。
手塚治虫の『ブッダ』についてはこちらの記事に詳しく解説してあります。
➾手塚治虫のブッダのあらすじとテーマ・仏教との違いと共通点
手塚治虫は、『火の鳥』では、
仏教に教えられる輪廻転生を描いており、
仏教に深い関心を寄せていたようです。
お釈迦様についてこのように言っています。
ぼくには何よりも率直に言ってすごい哲学者だということです。
いわゆる仏教の教えを説いた宗教的カリスマであるというよりも、
哲学者として偉大である。その深い広大な思想は、歴史を超え、
むしろ現代にこそ生かされなければならない、
実はもっとも新しい思想だと思うのです。
ブッダを書いて、ぼく自身いい勉強になりました。
(毎日新聞1984,6,26)
しかしながら、『ブッダ』については、
創作が多すぎるなどの非難をあび、手塚治虫自身は、こう言っています。
「あくまで子供向けのマンガで
仏伝そのものを描こうとしたものではない」
ですから、手塚治虫の『ブッダ』については
一つのファンタジーとして受け止めておく必要があります。
ところで、お釈迦様をブッダと呼ぶ人の中には、
気をつけなければならない人があります。
キリスト教徒の仏教研究者の呼び方
仏教の研究者でお釈迦様をブッダと呼ぶ人の中で、
特に「人間ブッダ」という学者の人があります。
これは明治時代に西洋の学問が入ってきたときに、
仏教の研究に西洋の文献学を使おうとしました。
そのお手本にしたキリスト教の文献学では、18世紀の終わり頃から
新約聖書は、キリスト教の開祖のイエスを完全に誤解しているとして、
歴史上の人間としてのイエスを探求していました。
「史的イエスの探求」と言ったりします。
100年ほど研究が続けられた結果、現在残っている文献で
歴史上のイエスの真の姿を明らかにすることは不可能という結論に達し、
無駄な苦労だったことが分かりました。
ところが、日本の仏教研究でも、
それをまねして、特に西洋のキリスト教徒の仏教学者が、
仏教のキリストを探そうとしたという経緯があります。
そんな人たちが「人間ブッダ」という言葉をつかいますが
仏教の教えは分かっていなかったり、
キリスト教徒だったりしますので、
気をつけてください。
仏教の開祖は?
そういうことで、仏教の開祖は、お釈迦様ですが、
別名には以下のように色々あります。
- 釈迦
- 釈迦牟尼
- 釈迦牟尼世尊
- 世尊
- 釈尊
- ゴータマ・シッダールタ
- 瞿曇・悉達多
- 仏陀
- ブッダ
これらは同一人物で、お釈迦様のことです。
そのお釈迦様が、仏教を説かれたのです。
では、お釈迦様は、どのように仏教を伝えて行かれたのでしょうか?
仏のさとりを開いただけで、現在のように何億人もの人に仏教が広まり、
世界の三大宗教といわれるわけではありません。
やはりお釈迦様ご自身が、35歳で仏のさとりを開かれてから80歳でお亡くなりになるまで、仏教の教えを急速に広められたのです。
35歳・仏のさとりを開かれて
悟りを開かれたといわれる
菩提樹
菩提樹の下で仏のさとりを開かれたお釈迦様は、まず1週間の間、さとりの境地を味わわれました。
ところが、それがあまりに素晴らしい、言葉を離れた絶対の世界であったために、
「これを語っても、誰も分からないだろう。
いや、話をしても無駄であるばかりでなく、むしろ、この真実をそしらせて罪を造らせてしまうかもしれない。
私はこのまま誰にも話さずに涅槃に入ったほうがいいのではないか」
と一度はこのまま自殺しようかと思われました。
もしここでお釈迦様が誰にも話すことなくお隠れになられたら、現在は、仏教はなく、キリスト教とイスラム教が世界二大宗教という世界でした。
ところがそれを察知された梵天というインドの最高神がやってきて、
「お待ちください、お釈迦様。
あなたはこの真っ暗な世界についたたった一点の光です。
もしあなたがこのまま涅槃に入ってしまわれたら、人類は闇に包まれてしまいます。
話をしても分からないものが、話をしなければ絶対に分かりません。
どうか人類のために法をお説きください」
とお願いします。
それを聞かれたお釈迦様は、言葉を離れた世界へ言葉によって導かんとする、絶望への挑戦を始められたのです。
36歳・初めての説法
現在の鹿野苑
ニレゼン河のほとりの菩提樹の下で仏のさとりを開かれたお釈迦様はまず、菩提樹の下で『華厳経』を説かれた後、波羅奈国(ヴァーラーナシー)の鹿野苑(サールナート)へ向かいます。
途中で2人の商人に法を説かれ、初めての在家の帰依者となります。
鹿野苑で、憍陳如たち5人に説法をされ、初めてのお弟子が現れます。
これを五比丘といいます。
次に波羅奈国の耶舎
がお弟子になり、その友達54人もお弟子になります。
この頃、後の十大弟子の富楼那と迦旃延もお弟子となります。
マガダ国へ戻られたお釈迦様は、ニレゼン河の近くの三迦葉(カッサパ3兄弟)とその1000人の弟子をお弟子にします。
これに3カ月くらいをかけられていますが、この時点でお釈迦様の教団は1000人を超えます。
現在の王舎城跡
それからお釈迦様はマガダ国の首都の王舎城へ赴かれ、ビンバシャラ王と会います。
ビンバシャラ王は竹林精舎を建立して布施したのでした。
40歳・生まれ故郷で法を説く
現在の祇園精舎の跡
お釈迦様が36歳から39歳位までの間に、後に十大弟子の筆頭となる舎利弗と目連が250人の弟子と共にお弟子になります。
その後には、お釈迦様が亡き後教団を率いた大迦葉もお弟子になります。
その翌年、給孤独長者と祇多太子が、舎衛城に祇園精舎を建立します。
それからお釈迦様は、出家前に従者だった迦留陀夷に呼ばれて、
生まれ故郷のカピラ城に行かれます。
現在のカピラ城跡
そこでお釈迦様は、仏教を説かれ、後に十大弟子となる阿難、阿那律、子供のラーフラや、難陀、提婆達多 などの王族が出家します。
また、ウパーリもこの時に一緒に出家します。
後からお釈迦様の育ての親のマカハジャバダイ夫人と、妻のヤショダラ姫も出家し、女性のお弟子ができます。
各地で仏教を説かれるお釈迦様
それからお釈迦様はインド中に仏教を広められます。
インドの方々はあまり年代に関心がないためか、お経には、「ある時、仏は……」と説かれているため、いつそれが説かれたのかはほとんど分かりません。
大体分かるのは、35歳で仏のさとりを開かれてからしばらくと、80歳でお亡くなりになる直前くらいです。
その間の45年間、お釈迦様が、一生涯に説かれた内容を今日仏教といわれ、それは一切経七千余巻といわれるお経に書き残されています。
その中で、いくつかの事件については、お釈迦様が何歳頃の時か推測できるものもあります。
例えば56歳の時には、殺人鬼のアングリマーラに仏教を説かれ、お弟子にされたといわれます。
また、お釈迦様が72歳の頃から『法華経』を説き始められます。
73歳の時にマガダ国でアジャータシャトル(阿闍世)王子がビンバシャラ王を殺して王位を奪い、王舎城の悲劇が起きます。
その時に『観無量寿経』を説かれています。
78歳・釈迦族の滅亡
お釈迦様が78歳の時、釈迦族がコーサラ国の毘瑠璃王に攻め滅ぼされます。
毘瑠璃王のお父さんは波斯匿王、お母さんは、釈迦族の勝鬘夫人
(マッリカー)でした。
もともと勝鬘夫人は、お父さんが死んで借金が返済できないためにバラモンに仕える召使いでした。
ところが非常に美しく優秀で、すばらしい花飾りを作ったことでバラモンに気に入られ、すぐれた花飾りという意味の勝鬘と呼ばれていました。
『毘奈耶雑事』によれば、その勝鬘が働いていた庭園に、ある日、波斯匿王がやってきて、「足を洗いたい」と言います。
そこで勝鬘は、温かい水を用意しました。
次に波斯匿王が「顔を洗いたい」と言うと、今度は冷たい水を用意します。
最後に「水を飲みたい」と言うときれいな水を用意します。
美しい上に心配りがすばらしいため、波斯匿王はすっかり気に入ってしまいました。
バラモン教のカースト制度では身分差別が厳しく、王族と召使いでは結婚できないため、波斯匿王は、勝鬘はバラモンの召使いではなく、娘であると決めつけて、妃に迎えてしまいました。
まもなく生まれたのが毘瑠璃王子です。
毘瑠璃王子は、8人の乳母に育てられ、やがて文武両道に通じ、学ぶもののないほど熟達しました。
ある時、毘瑠璃王子が狩りに出かけると、馬が勝手に走り出し、カピラ城の庭園に迷い込みました。
それまでコーサラ国をあまりよく思っていなかった釈迦族の人々が、毘瑠璃王子を殺そうとして失敗し、
「召使いから生まれた子だ」
と口々に悪口を言ったので、毘瑠璃王子は釈迦族に大きな恨みを懐き、
「王位についたら必ず滅ぼしてやる」
と心に決めたのでした。
やがて波斯匿王が年をとってくると、毘瑠璃王子は王位を奪おうと考え始めました。
波斯匿王の腹心の大臣は、波斯匿王の命を守るには、王子を王位につかせるしかないと思い、
波斯匿王がお釈迦様のご説法を聞きに行っている時に毘瑠璃王子を王位につかせたのでした。
お釈迦様のご説法が終わって、帰ろうとする波斯匿王の所に、勝鬘夫人ともう一人の妃がやってきて、毘瑠璃王子が王位に就いたと言うので、波斯匿王は衝撃を受けました。
しかしながら勝鬘夫人は毘瑠璃王子の母親なので城へ返し、波斯匿王はもう一人の妃とマガダ国の王舎城にいる阿闍世王に助けを求めて歩いて行きました。
もうかなりの年ですが、約500キロあるので、一日20キロ歩いても25日かかります。
ようやく王舎城に到着すると、疲れ切った王は、妃に阿闍世王に伝えるように言って、近くの林で休憩します。
すっかりお腹がすいたので、近くにあった大根を5本食べて、水たまりの水を飲み、お腹を壊して死んでしまいました。
波斯匿王はコーサラ国という、当時マガダ国に次ぐ大国の大王でしたが、最後は野垂れ死にでした。
王位を奪った毘瑠璃王は、釈迦族をせん滅すべく、カピラ城に進軍します。
すると国境の小さな木陰にお釈迦様がたった一人で座っておられました。
お釈迦様を尊敬していた毘瑠璃王は、
「近くによく葉の茂った木が多いのに、なぜ小さな木陰におられるのですか?」
と尋ねます。お釈迦様は、
「親族の陰にあれば心が安らぎます。涼しい木陰など問題になりません」
と答えます。
これによって毘瑠璃王は釈迦族は、尊いお釈迦様の一族だから攻めるのは辞めておこうと退却したのでした。
しかしながら毘瑠璃王の釈迦族に対する恨みは消えず、大臣にも再三促されて、改めてカピラ城へ進軍します。
毘瑠璃王と戦えば、釈迦族が全滅するかもしれないと思われたお釈迦様は、カピラ城で仏教を説いたのでした。
お釈迦様の十大弟子の一人、神通力第一の目連尊者は、
「神通力でカピラ城を守らせてください」
とお願いしますが、お釈迦様は、
「釈迦族が滅ぶのは過去の業の報いだから、避けることはできない」
と言われます。
釈迦族は、殺生をしてはならないという仏教の教えに従って、
「相手を傷つけてはならない」
という命令を発し、攻め込んでくるコーサラ国の兵士を傷つけることなく、護り続けるのでした。
ところが隣国にいた釈迦族の将軍が援軍にかけつけ、コーサラ国を蹴散らします。
毘瑠璃王は、とても釈迦族を征服することはできないと思い、退却を考え始めました。
ところが、援軍にかけつけた将軍は、カピラ城に入城しようとすると、相手を傷つけてはならない命令に背いた者としてカピラ城に入れてもらえず、追放されてしまいます。
それでもカピラ城の守りは固いため、毘瑠璃王はカピラ城に使いを送り、騙して開門させて城になだれ込み、釈迦族の人々を殺し始めたのでした。
その知らせを聞いた、勝鬘夫人がもともと仕えていたバラモンが毘瑠璃王の所にやってきます。
「私は勝鬘夫人の父だ。どうか殺戮をやめてもらいたい」
「いや釈迦族を許すことはできぬ。そなたの一族だけ見逃してやるからすぐに立ち去れ」
「それでは、私はこれから池に潜るから浮かんでくるまでの間だけ、釈迦族を逃がしてくだされ」
波斯匿王とも親しかったバラモンの言うことなので、毘瑠璃王は願いを聞き入れました。
するとそのバラモンは池に潜り、底の木の根っこに自分の髪の毛を縛りつけて二度と浮かび上がることなく、釈迦族の身代わりになって死んだのでした。
ところが、毘瑠璃王は、なかなか浮かび上がってこないので、池を調べさせると、バラモンは池の底で死んでいたので、その時残っていた釈迦族を皆殺しにし、残ったのは、女子500人だけでした。
このことを阿難から聞かれたお釈迦様は、
「釈迦族は、昔、漁でたくさんの魚を殺し、村人を傷つけたことがあった。
その因果応報である。
罪を犯した者は、いつか必ず報いを受ける。
釈迦族を殺した毘瑠璃王も、7日後には死んで無間地獄に堕ちるだろう」
と言われました。
こうしてお釈迦様がお亡くなりになる2年前、釈迦族は滅亡したのでした。
80歳・お釈迦様最後の旅
お釈迦様の最後の様子は、『長阿含経』やパーリの長部経典に詳しく説かれています。
ここでは主に『長阿含経』によります。
法鏡の教え
霊鷲山の先端
お釈迦様は最後、マガダ国の霊鷲山におられました。
その時マガダ国の阿闍世王はヴァイシャーリー(毘舎離)という町のあるヴァッジ国に攻め込もうと思い、お釈迦様に使いを送って、注意点をお尋ねします。
それに対してお釈迦様は、ヴァッジ国の人々の行いの善い点を色々と挙げ、攻め込んでも征服することはできないとお答えになります。
そのため、阿闍世王は攻め込むのを断念したのでした。
それからお釈迦様は、北に約90キロ離れたパータリプトラ(巴陵弗
)に向かいます。
現在ではビハール州の州都パトナにあたります。
到着されたお釈迦様は、パータリプトラの人々に法を説かれます。
その後、近くの那陀村でも村人たちに教えを説かれます。
その後、お釈迦様は、阿難に対して、法鏡の教えを説かれたのでした。
法鏡というのは真実の鏡ということで、それによって仏弟子は未来に生まれるところを知るものです。
その内容は、喜んで仏法僧の三宝を信じ、戒律を信じること、すなわち仏教のことを法鏡といわれています。
ヴァイシャーリーへ
パータリプトラから更に北、約60キロ離れたヴァイシャーリー(毘舎離)の町に向かわれます。
ヴァイシャーリーでは、アンバパーリー(菴婆婆梨)という遊女がかけつけ、教えを聞きます。
アンバパーリーはこれからは一生涯五戒を守ることを誓ってお釈迦様に帰依し、その招待を受けられたお釈迦様は、アンバパーリーの庭園に滞在されます。
次に貴族の一団がやってきて、アンバパーリーに、
「お釈迦様を最初に招待する権利を売ってくれ」
と頼みます。
ところがアンバパーリーは、
「国中のお金をもらっても譲ることはできない」
と断ります。
そこで貴族の一団は、お釈迦様の所へ行って教えを聞き、一番に招待をしたいと申し出ます。
お釈迦様は、申し出ただけで招待したことになるといわれ、やはり先に申し出たアンバパーリーの招待を受けられたのでした。
涅槃の予言
その年は飢饉で食糧難でした。
お釈迦様は、食糧がこれ以上少なくならないように、国中の僧侶を集めて別の国へ行かせ、阿難ただ一人と
安居されます。
安居というのは、雨季の3カ月間、一カ所にとどまることです。
その時、お釈迦様は病で体調を崩されます。
そして阿難に
「自らを拠り所とし、法を拠り所とし、他を拠り所としてはならない」
と説かれます。
その時お釈迦様は80歳でした。
それから悪魔がやってきてお釈迦様に今すぐ涅槃するように言うと、
それを退けられたお釈迦様は、
「3ヶ月後にクシナガラで涅槃するであろう」
と予言されます。
クシナガラはヴァイシャーリーから北西に170キロの都市です。
次にお釈迦様は講堂に行かれると、お弟子を集めて説法をされます。
その最後に3ヶ月後に涅槃されることを宣言されます。
お弟子たちは、驚いて卒倒したり、悲しんで泣いたり、のたうちまわって泣き叫んだりしました。
その時お釈迦様は、
「泣き叫ぶのをやめなさい、悲しんではならない。
生まれたものは必ず死ぬ。
出会った者は必ず別れなければならない。
命は永遠ではない」
と説かれました。
やがてお釈迦様は、ヴァイシャーリーから北西へ、お釈迦様の生まれ故郷の方角にあるクシナガラへ向かわれます。
最後の布施者
お釈迦様は数カ村を巡って法を説かれ、クシナガラのあるマッラ(末羅)国の東の都市パーヴァー(波婆城)に到着されます。
ヴァイシャーリーから北西へ180キロほどの都市です。
そこでチュンダ(周那)という職人の子がお釈迦様を夕食に招待しました。
お釈迦様がお弟子に囲まれて到着されると、チュンダはたくさんの料理を出します。
そしてお釈迦様だけに、栴檀の木に生える珍しいきのこ料理をお出ししました。
するとお釈迦様は、
「このきのこは他の弟子にに与えてはならない」
といわれます。
食事が終わるとチュンダの求めに応じてお釈迦様は法を説かれます。
説法が終わってお釈迦様が帰途につかれると、途中で背中が痛み始めました。
お釈迦様はそこに休まれると、阿難に
「仏が最初に悟りを開いた時の布施と
最後に涅槃に入られる時の布施の功徳はまったく等しく、
チュンダは大きな幸せを得られる」
と説かれました。
葬式について
それからお釈迦様はしばらく進まれると背中が痛むのでまた休まれました。
その時、阿難が仏が滅度された後の葬式の方法についてお尋ねします。
それに対してお釈迦様は、
「在家の者がやってくれるだろうからお前は黙っていなさい」
と答えられます。
それでも阿難は3回繰り返して訪ねるので、お釈迦様は
「転輪王のようにしなさい」
と答えられたのでした。
それからお釈迦様は、南へ20キロのクシナガラへ向かわれます。
沙羅双樹の木の下で
お釈迦様はクシナガラに到着されると、沙羅園の2本の沙羅の木の下で、頭を北にして顔を西のほうに向けて横になられました。
この2本の沙羅の木が、平家物語の冒頭に出てくる「沙羅双樹」です。
すると季節外れの花が咲いて沙羅双樹は満開になり、花吹雪が散りました。
ところがお釈迦様は
「これは如来を供養することにはならない。
如来の法を受けて実践することが如来の供養になるのである」
と言われます。
それからお釈迦様は阿難に、
「今夜涅槃するから、教えに疑問があれば尋ねるようにマッラ国の人々に告げなさい」
といわれます。
それを聞いて集まって来た人々の中で、一人のバラモンが
お釈迦様から教えを聞いて悟りを開き、最後の仏弟子となったのでした。
その時、阿難はお釈迦様の後ろで、悲しみ、すすり泣きながら
「どうしてこんなに早くお釈迦様は亡くなってしまうのだろう」
と泣いていました。
それを聞かれたお釈迦様は、
「悲しむでない、泣いてはいけない。
そなたが私に仕えてくれた功徳はとても大きい。
過去の仏に仕えた弟子もそなたのようであったが、
言われなければ分からなかった。
しかしそなたは私が目を挙げただけで私が何を求めているかすぐ察する。
これは未だかつてない特徴だ」
と慰められたのでした。
それから阿難がいくつか質問するとお釈迦様はそれらに答えられ
「阿難よ。私の亡き後、そなたを守るのは教えと戒律である。
それがそなたの頼りとすべきものだ」
と説かれます。
(このあたりの最後のご説法の詳しい内容は『遺教経』に説かれています。)
それからお釈迦様は繰り返し
「もし仏法僧の三宝に何か疑問があればすぐ尋ねなさい。
如来はまれにしか世に現れない」
と言われます。
しかしもう質問する人は誰もありませんでした。
そこでお釈迦様は
「仏弟子たちよ、放逸になってはならない。
私は放逸でなかったから仏のさとりを得られたのである。
限りない善も放逸でないことによって得られる。
世の中のすべては無常でないものはない。
これが仏の最後の言葉である」
といわれてお亡くなりになります。
これを涅槃の雲に隠れられたといいます。
お釈迦様はこの80年のご生涯、仏教に何を教えられたのか
ということについては、電子書籍とメール講座に
分かりやすくまとめておきましたので、
見てみてください。
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この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)