幸せの青い鳥とは?
「幸せの青い鳥、といわれても」
「探しても探しても、見つからない」
「幸せの青い鳥」という言葉は、
誰でも一度は聞いたことがあると思います。
幸せは遠くにあるのではなく、
気がついていないだけで、すぐ近くにあった。
そう受け取られています。
確かにそうかもしれない、とは思います。
ところが、近くにあると言われても、
それがどこにあるのかは分かりません。
言われた次の日も、その次の日も、
毎日は昨日と同じように過ぎていきます。
幸せを探して、仕事を変えた人があります。
住む場所を変えた人も、
付き合う相手を変えた人もあります。
それでも「これだ」と言えるところまで行き着いた人には、
滅多に会いません。
そこで、元の物語を確かめてみると、
おかしなことに気がつきます。
この話は、「幸せは身近にあった」では終わっていないのです。
青い鳥は、最後にどうなったのでしょうか?
そして仏教では、私たちが探しているものを、どう説かれているのでしょうか?
幸せの青い鳥はどんな話か
『青い鳥』は、ベルギーの作家メーテルリンク(1862−1949)が書いた戯曲です。
6幕12場のお芝居で、
1908年にモスクワで、
1911年にはパリで初めて上演されました。
主人公は、木こりの小屋に住む貧しい兄妹、
チルチルとミチルです。
クリスマスの晩、
2人は向かいの家の明るい窓を、
うらやましそうに眺めています。
あちらでは、ごちそうを並べてお祝いをしています。
そこへ、みすぼらしい老婆の姿をした妖精が訪ねてきて、
青い鳥を探してきてほしいと頼みます。
ここで、この物語の勘所になるやり取りがあります。
チルチルは、すでに鳥を1羽飼っていました。
その鳥を見せたところ、妖精は、
「これでは青さが足りない、自分の要る鳥を探してきてほしい」
と断ります。
この鳥のことは、覚えておいてください。
どこにいるのかと聞くと、
妖精は、「自分も知らない、だから探さなければならないのだ」と答えます。
頼んだ本人も、居場所を知りません。
そして、なぜ青い鳥が要るのかというと、
自分の娘が病気だからだと言います。
どこが悪いのかと聞かれて、妖精はこう答えます。
「はっきりとは分かりません。
あの子は、幸せになりたがっているのです」
(出典:メーテルリンク『青い鳥』)
幸せになりたがっている。
それが、病名です。
作者は、物語の一番はじめに、これを置きました。
幸せを求める心そのものを、
治さなければならない病として書き出しているわけです。
妖精はチルチルに、ダイヤのついた帽子を渡します。
回すと、物の本当の姿が見えるようになる帽子です。
回してみると、
パンも、火も、水も、牛乳も、砂糖も、
それに犬と猫までが、それぞれの魂の姿を現して口をききはじめます。
そして、そのままみんなで旅に出ることになりました。
どこにも持ち帰れる青い鳥はいなかった
兄妹が最初に行くのは、思い出の国です。
そこには、亡くなった祖父母や、
先に死んだ弟や妹が、生きていた時のまま暮らしています。
久しぶりの食事をして、別れを惜しんで、
その家で見つけた鳥をかごに入れて持ち帰ります。
その鳥は、確かに青く見えていました。
ところが、思い出の国を出たところで、チルチルがかごを覗くと、
鳥はもう青くありません。
黒くなっていました。
思い出は美しいものですが、今を幸せにする力はない、ということです。
次に行くのが、夜の御殿です。
夜が、開けてはいけないと止めるのを押し切って、
いくつもの扉を開けていきます。
最後の大きな扉の向こうには、青い鳥が何千羽も飛んでいました。
2人は夢中でつかまえます。
いくらでもいる、と喜んで、光のあるところまで運び出しました。
ところが、手の中を見ると、
鳥はどれも死んでいます。
首は垂れ、翼は折れていました。
チルチルは、死んだ鳥を投げ捨てて泣き出します。
未知の領域で見つけたたくさんの夢や空想も、
現実には持ち出せないのです。
その先で立ち寄るのが、幸福の庭です。
ここには、金と宝石で飾り立てた、
太って赤ら顔の幸福たちが集まっています。
食べて、飲んで、わめいて、歌って、
食卓の上に転がって眠っています。
案内役の光は、これが地上で一番大きな幸福たちで、
肉眼で見えるのはこれだけだ、と説明します。
贅を尽くした幸福、満腹の幸福、何も知らない幸福。
どれも、私たちが幸せと呼んでいるものです。
そこにも、青い鳥はいませんでした。
単なる快楽は、本当の幸せではないということです。
森、墓地、未来の王国と回っていきますが、
持ち帰れる青い鳥は、1羽もいません。
ここまでに共通していることがあります。
どの場所でも、その場では、鳥は確かに青かったということです。
思い出の国にいる間、鳥は青く見えていました。
夜の御殿の扉の中では、何千羽も青い鳥が飛んでいました。
見間違いでも、思い込みでもありません。
ところが、そこから持ち出そうとすると、
色が変わるか、死んでしまいます。
その場では幸せなのに、持って帰れない。
それが、この旅の間ずっと起きていることです。
では、青い鳥はどこにいたのでしょうか。
家にいた、というところまでは有名な話
旅から帰って目を覚ますと、そこはいつもの小屋です。
ただし、同じ部屋が、出かける前とはまるで違って見えます。
壁も、空気も、光も、
比べものにならないほど明るく、楽しげに見えるのです。
そしてふと鳥かごに目をやると、
前から飼っていた鳩が、
出かける前よりもずっと青くなっています。
「ぼくの鳩だ。
出かける前より、ずっと青いじゃないか。
これが、ぼくたちの探していた青い鳥だ。
あんなに遠くまで行ったのに、ここにいたんだ」
(出典:メーテルリンク『青い鳥』)
妖精が、「青さが足りない」と言って断った鳥です。
あの鳥が、青い鳥でした。
ここで注意しないといけないのは、
鳩が青くなったのではない、ということです。
鳩は、出かける前と同じ鳩です。
小屋も、同じ小屋です。
壁も家具も、1つも取り替えられていません。
それなのに、帰ってきた兄妹の目には、
前とは比べものにならないほど明るく見えている。
変わったのは、見ている側のほうです。
たいていの場合、話はここで終わったことになっています。
幸せは遠くにあるのではなく、すぐそばにあった。
気がつかなかっただけだった。
そう受け取られています。
ちなみに幸せとは何かについては、以下の記事で解説しています。
➾幸せとは?幸せになる方法|心理学で解明された3つの幸せと本当の幸せ
ところが、原作には続きがあります。
その青い鳥も逃げていった
チルチルは、その鳩を、
隣の家の病気の女の子にあげます。
その子は、鳥をもらって元気になりました。
ここで、チルチルは妙なことを言います。
「もっと青いのを見たことがあるよ。
でも、本当に青い鳥のほうは、
どうやったって、つかまえられないんだ」
(出典:メーテルリンク『青い鳥』)
そして、この鳥がどうやって食べるのかを見せようとして、
女の子の手から鳥を取ろうと、手を伸ばします。
女の子は、とっさに鳩をかばいました。
2人の手が一瞬ためらった、その隙に、
鳥は手をすり抜けて、飛んでいってしまいます。
女の子は泣き出します。
チルチルは、またつかまえるからと言って、
客席のほうへ歩み出て、こう頼みます。
「もしどなたか見つけられたら、
返していただけませんか。
これから幸せになるために、それが要るのです」
(出典:メーテルリンク『青い鳥』)
そこで幕が下ります。
幸せは身近にあった、では終わっていません。
身近にあったと気がついた、
その青い鳥まで逃げていくところで終わっています。
しかも、逃がしたのは誰かというと、
取り上げられまいとして、とっさに抱え込んだ手です。
離すまいとした手が、逃がしているわけです。
そしてもう1つ、見落とせないことがあります。
作者は、解決を舞台の上に置きませんでした。
チルチルが鳥を取り返す場面も、
兄妹が幸せになりました、という場面もありません。
最後の頼みごとは、客席に向かって言われます。
つまり、まだ誰も見つけていない、というところで終わっています。
100年以上前に書かれた話ですが、
「幸せは身近にありました」と言って読者を安心させ、
そこで筆を置かなかったところに、この作品の値打ちがあります。
では、なぜ青い鳥はつかまえられないのでしょうか。
なぜ、つかまえられないのか
お釈迦さまは、『大無量寿経』にこう説かれています。
尊と無く卑と無く、貧と無く富と無く、少長・男女共に銭財を憂う。
有無同じく然り。
(中略)
田あれば田を憂え、宅あれば宅を憂う。
牛馬・六畜・奴碑・銭財・衣食・什物、また共にこれを憂う。
(漢文:無尊無卑,無貧無富,少長、男女共憂銭財。有無同然。(中略)有田憂田,有宅憂宅。牛馬、六畜、奴婢、銭財、衣食、什物,復共憂之)(出典:『大無量寿経』)
身分の高い人も低い人も、お金がない人もお金持ちも、
子供も大人も、男も女も、お金や財産がなければないで欲しいと思い、
あればあったで、なくならないかと思い悩む。
土地があれば、その土地のために苦しみ、
マイホームがあれば、マイホームの維持や管理で苦しむ。
「牛馬・六畜」とは、牛、馬、羊、犬、豚、鶏の6種類の家畜です。
「奴碑」とはお手伝いさん、
「銭財」はお金や財産、
「衣食・什物」は服や食べ物、家財道具です。
そのようなものがあれば、それらが苦しみ悩み、不安や心配の種になる。
有っても無くても、満たされないことには変わりがない。
「有無同然」である。
有っても無くても幸せになれないとすれば、
つかまえられない理由は、幸せの青い鳥にあるのではありません。
つかまえようとする、こちら側にあります。
私たちが青い鳥と呼んでいるものを、
思い浮かべてみてください。
健康であったり、
気の合う相手であったり、
子供の成長であったり、
仕事の手応えであったりします。
どれも確かに、あれば幸せです。
ところが、どれ1つとして、
手に握って動かないでいてくれるものがありません。
大事にすればするほど、
失うことが怖くなります。
怖くなるから、握ります。
そして、握った手が、それを壊していきます。
子供をかわいがるほど、離れていかれるのが怖くなります。
怖いから、口を出します。
口を出すから、離れていきます。
あの女の子の手と、同じことをしているわけです。
健康も同じです。
大事にするほど、数値が気になります。
気になるほど、調べます。
調べるほど、心配の種が増えていきます。
手を放せばいい、という話でもありません。
放せる人なら、はじめから握っていません。
大事なものができれば、握らずにいられない。
それが人間です。
お釈迦さまは、それをこう説かれています。
愛欲・栄華は、常に保つべからず。
皆まさに別離すべし。楽しむべきもの無し。
(漢文:愛欲栄華,不可常保。皆当別離,無可楽者)(出典:『大無量寿経』)
愛されていることも、権勢や富で派手な暮らしをすることも、
変わらず続けることはできない。
すべては必ず別れ、離れていく。
楽しめるものではないのだ、ということです。
私達の幸せは続かない。
つかまえたと思っても、夢幻のように消えていく、
握ったと思っても、指先からこぼれ落ちていく。
そのたびに悲しい、寂しい思いをする。
ですから、探し方が下手だから見つからないのではありません。
つかまえ方が悪いから逃げるのでもありません。
つかんでおけるものを、私たちは1つも持っていないのです。
『青い鳥』が、探し終わった人を出さずに、
まだ探しています、というところで幕を下ろしたのは、
正直だからだと思います。
人類はまだ、変わらない幸せを探し終わっていません。
そんな逃げてしまう青い鳥のような続かない幸せではなくて、
逃げることもない、色あせることもない、
変わらない幸せはどこにあるのでしょうか。
仏教には、
そんな逃げることも、変わることもない幸せが説かれています。
それは、上手につかまえておかなければならない幸せではありません。
決して逃げないから、つかまえておく必要のない幸せです。
握らなくてよいので、握って壊すこともありません。
死が来ても、崩れることはありません。
その決して変わらない幸せを、日本で最も読まれている仏教書『歎異抄』には、
「摂取不捨の利益」といわれています。
「利益」は、世間では「りえき」と読みますが、
仏教では「りやく」と読みます。
幸福のことです。
「摂取」とは、ガチッと摂め取るということです。
逃げ回っている者を、追いかけて、追いかけて、
もうどうしようもないという所まで追い詰めて、救い摂る。
不捨とは、捨てず、ということで、
絶対に捨てない、決して逃げることはない。
絶対変わらないということです。
妖精の娘の病名は、幸せになりたがっていることでした。
その病が治るのは、
探していたものが手に入った時ではありません。
摂取不捨の利益になってしまえば、
幸せになるために探すことなどあるはずがありません。
幸せの青い鳥を探しているのは、病にかかっている証拠です。
では、摂取不捨の利益はどうすれば得られるのでしょうか。
それには、幸せになれずにいる根本原因を知らなければなりません。
それが苦悩の根元です。
では、その苦悩の根元とは何なのか、
それはどうすればなくなるのか。
それについては、仏教の真髄なので、
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この記事を書いた人
長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)
東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細・お問い合わせ
X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)
京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作に引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。

