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歎異抄とは?本の内容をわかりやすく説明

歎異抄って誰が書いたの?
歎異抄って何が書かれているかわからない……
最近このような質問が多くなりましたので、『歎異抄』について、全体像が10分で理解いただけるように解説します。

この記事はこんな人におすすめ

  • 歎異抄』が書かれた背景を知りたい人
  • 歎異抄』の疑問を解消したい人
  • 歎異抄』に関心があって10分ほど時間がある人
  • おすすめの解説書を知りたい人

歎異抄』の魅力に迫ります。

歎異抄とは?概要を解説

歎異抄』は、日本で1番多くの人に読まれている仏教の本です。
岩波文庫5400種類の本の中でもベスト8にランキングされるほど多くの人を惹きつけ、
日本で最も読まれている仏教書」である『歎異抄』の概要を簡単に説明します。

  1. 歎異抄の作者は不明
  2. 歎異抄の内容
  3. 歎異抄の評判を紹介

歎異抄の作者は不明

歎異抄』の作者(著者)は、わかっていません。
原本が残っていないこともありますが、1番古い『歎異抄』本が「写本」(原本から書写したもの)に作者名が書かれていないからです。

歎異抄』の作者については、以下の説があります。

  1. 覚如上人かくにょしょうにんとする説
  2. 如信聖人にょしんしょうにんとする説
  3. 唯円ゆいねんとする説
  4. 上記の説について詳しく知りたい方はこちらの記事をご覧ください。
    「歎異抄」入門講座「歎異抄の著者を推定する根拠」

    現在では、親鸞聖人のお弟子の一人「河和田かわだ『唯円』」が作者だとされます。
    根拠は以下の部分です。

    『歎異抄』に出てくる人は唯円だけで、第9章と第13章に出てきます。
    第9章の「念仏申し候えども、踊躍歓喜の心おろそかに候こと、また急ぎ浄土へ参りたき心の候わぬは、いかにと候べきことにて候やらん」 と申しいれて候いしかば、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房、同じ心にてありけり」とあります。
    これは、親鸞聖人と唯円の問答を、別の著者が横で聞いていたか、後で唯円から又聞きして書いた第3者の文章ではありません。
    自分が申し上げたという文章です。
    第13章の「あるとき、『唯円房はわが言うことをば信ずるか』と仰せの候いし間、『さん候』と申し候いしかば」というのも本人が書いたときの書き方です。

    ではなぜ唯円は自分の名前を『歎異抄』の作者として書き残さなかったのでしょうか?
    憶測ですが、自分の先生の親鸞聖人から聞いたことのみを『歎異抄』の中に書き残し、自分の考えをいれなかったからでしょう。

    『歎異抄』の著者は大変謙虚な人だったというものです。
    「自分の先生の親鸞聖人のお言葉を書き残すのだから、とても自分が著者というわけにはいかない」
    ということで、名前を記さずに、親鸞聖人のお言葉そのままだということを表そうとしたのではないか、という人もあります。

    先生のみ教えのみに生きたことが窺えます。

    親鸞聖人についてはこちらのサイトをご覧ください。
    記事はこちら「親鸞.com」

    原本と写本の成立時期

    歎異抄』はいつ頃の著作物か、原本の成立時期も不明のままです。
    原本もなく、写本にも執筆年月日が書かれていないためです。
    ただ『歎異抄』の内容から推察すると、親鸞聖人がお亡くなりになって20数年後、鎌倉時代中期頃の成立ではないかと言われています。

    一方、写本の一番古いものは「蓮如本」と言われ、8代目本願寺法主(本願寺で1番の責任者)、蓮如上人れんにょしょうにんが書写したものです。
    写本(蓮如本)の成立時期は1461年前後、室町時代だとされます。
    有名な僧侶として一休宗純がいる時代です。

    一休宗純についてはこちらの記事を参考にしてください。
    一休さん(一休宗純)

    歎異抄が書き残された理由

    唯円が『歎異抄』を執筆したのは「異なるを嘆(歎)き教えを解説(抄)した」(歎異抄)からです。

    親鸞聖人が浄土にお還りになられると、その直後から、親鸞聖人の教えと異なることを親鸞聖人の教えだと言う者が続々と現れてきたのです。
    親鸞聖人の直弟子の一人が、それらの異説を嘆き、親鸞聖人のお言葉をものさしとして正そうとした本が『歎異抄』です。
    それで「異」なるを「歎」く、『歎異抄』と著者自らが名づけています。

    つまり「誤って広められた親鸞聖人の教えを正すため」に書かれたのです。
    聖人がお亡くなりになった後はさらに拍車がかかって間違った内容が広まっていたのでしょう。
    以下が原文です。

    ひそかに愚案を回らしてほぼ古今を勘ふるに、先師(親鸞聖人)の口 伝の真信に異なることを歎き、後学相続の疑惑有ることを思ふに、 幸ひに有縁の知識によらずんば、いかでか易行の一門に入ることを 得んや。まつたく自見の覚悟をもつて他力の宗旨を乱ることなかれ。
    よつて故親鸞聖人の御物語の趣、耳の底に留むるところいささかこ れをしるす。ひとへに同心行者の不審を散ぜんがためなりと云々。

    歎異抄の内容

    歎異抄』は親鸞聖人の教えの聞き書きです。
    親鸞聖人自身が執筆されたものではありません。
    あくまで先生から聞いたことを唯円が書き残した本なのです。
    「親鸞聖人の執筆された本が歎異抄」誤解している人も多いですので、正しく知っておきましょう。
    歎異抄』の簡単なあらすじは以下のとおりです。

    あらすじ紹介

    書かれている内容は、はじめの1章から10章は親鸞聖人のお言葉がそのまま記されています。
    続く11章から18章はそれらの親鸞聖人のお言葉をものさしとして親鸞聖人亡き後の誤った説を正しています。
    それぞれの章の意味は、タイトルをクリックすると見られます。

    (「歎異抄」入門講座より引用)

    上記タイトルをみてみると、難しそうに思われますが、とても魅力的な文体で書かれています。

    声に出してでも読みたい

    実際に拝読すると、難しいはずの内容が大変読みやすく書かれており、「声に出して読みたい」と言われます。

    この(歎異抄の)言葉そのものに出会うことができなかったとしたら、おそらく、日本人にとっては非常に大きな損失であったでしょう。

    声に出したいと言うだけでなく、以下の人たちが『歎異抄』の内容に感動し、影響を受けたと言っています。
    関心のある方は、名前をクリックして確認してみてください。

    次に『歎異抄』の内容について説明します。

    歎異抄の内容を解説

    有名な、以下の5つの内容を解説します。

    悪人正機

    善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや」(第3章)。
    歎異抄』で最も知られているお言葉です。

    意味は「善人でさえ助かるのだから、まして悪人はなおさら助かる」ということ。

    悪人正機あくにんしょうき」の言葉を一つ一つ説明すると、「悪人」こそが「」しく救いの「相手」(機)という意味になります。
    つまり「仏教は悪人こそが救いの相手」という意味です。

    では、悪人とは誰のことなのでしょうか?
    仏教では、すべての人は、怒り愚痴の心でできている煩悩ぼんのう具足の者だと教えられています。
    つまり、すべての人は、煩悩に穢れた悪人だ、ということです。
    どんな人も、本当の自己の心の姿を知らせて、そのまま本当の幸せにするというのが悪人正機なのです。

    悪人正機は有名な言葉ですが、意味を知ると全く納得できないでしょう。
    なぜならただ単に「善人にならないで、悪人になればなるほど助かる」と聞こえてしまうから。
    悪人は救われない
    悪いことをしたら幸福にならない
    というのが道理なのに、なぜ悪人が救われるのでしょうか?
    納得できない非常識な内容が、読み手に大きな衝撃を与え、関心を引きます。

    なぜ親鸞聖人はこんな事を言われたのか。
    目的は一つです。
    本願他力ほんがんたりきの意趣を明らかにするため」です。

    詳しくはこちらの記事をご覧ください。
    「歎異抄」入門講座「第3章 いわんや悪人をや 悪人正機」

    さるべき業縁の催せば

    さるべき業縁ごうえんの催せば、いかなる振る舞いもすべし」(第13章)
    この意味を知ると親鸞聖人を慕っている人ほど驚きます。
    直訳すれば
    そうなるべき縁が来たならば、どんなことでもする」という意味で、
    あのようなことだけは絶対にしないと、言い切れない親鸞である
    という告白です。

    詳しく言えば
    縁が来たなら、詐欺も、窃盗も、横領も、殺人でも、どんな悪いことでもやってしまうだろう
    ということです。

    もちろん親鸞聖人は多くの人に褒め称えられており犯罪をされたことはありません。
    井上靖氏は以下のように言っています。

    人類が、今日ほど、親鸞聖人を必要としている秋はない。

    そのため、親鸞聖人の告白を誰も信じられません。
    当時、親鸞聖人を妬む山伏に殺されそうになったときも、親鸞聖人は数珠のみをもって対話されたほどです。
    (この山伏は後にお弟子になりました。)

    親鸞聖人が「どんなことでもやる」と言われた理由についてもう少し考えてみましょう。

    譬えで殺人を勧めた話

    さるべき業縁」のお言葉の真意を
    親鸞聖人は、唯円に対してこう教えられています。

    親鸞「唯円よ、私の言葉は信じるか?」
    唯円「もちろんでございます!」
    親鸞「本当に私の言葉に背かないか?」
    唯円「つつしんでお受けいたします。」
    親鸞「では、唯円よ、人を千人殺してきなさい。そうすれば、そなたの極楽往生は確実となるだろう」
    唯円「せっかくのお師匠さまのご命令ではありますが、私の器量では、千人どころか一人も殺すことができそうにもありません。」
    親鸞「ではなぜ私の言葉に背かないと言ったのか?」

    このように親鸞聖人は殺人命令のような強烈な質問をしつつ、真意を教えておられます。

    親鸞「これでわかっただろう。自分の心がけしだいで善でも悪でもできるのなら、千人殺せただろう。
    しかし、一人も殺せないのは今は殺すべき強いきっかけ(業縁)がないだけなのだ。
    自分が善人だから殺さないのではない。
    逆に、殺したくない場合でも、きっかけさえあれば百人、千人を殺すこともあるのだよ」

    様々なきっかけで変わってしまう人間の心の不確実さを教えられた場面でした。

    摂取不捨の利益

    すなわち摂取不捨せっしゅふしゃ利益りやくにあずけしめたまうなり」(第1章)

    最初の章に、「摂取不捨の利益」が書かれます。
    意味は、「おさめとって捨てられない、絶対の幸福」のことです。
    絶対の幸福」、つまり「本当の幸福とは何か」について『歎異抄』の一番最初の章に書いてあります。

    幸せについて普段どのようなことを考えるでしょうか。

    • 今は幸せでもこの幸せいつまで続くのだろう?
    • 夫(妻)も子どももいて不自由はないけど、幸せかと言われるとどうだろう?
    • 毎日が家事と仕事の往復、今やっていることって幸せなのかな?
    • 親の介護で疲れた、このまま幸せになれるのかな?
    • だんだんと年老いてこのまま死んでいくとき、幸せだったと言えるのかな?

    私たちはふとした瞬間に、本当の幸福がなにかわからないことに気づきます。
    その本当の幸福を『歎異抄』では「摂取不捨の利益」と教えられています。

    摂取不捨の利益がどんな幸福なのかについてはこちらで書いていますのでご覧ください。
    歎異抄第1章「摂取不捨の利益」

    無碍の一道

    念仏者は無碍むげ一道いちどうなり」(第7章)

    念仏者」は、単に口で念仏を称えているだけの人ではありません。
    仏教の教えによって本当の生きる意味を知らされた人のことです。
    詳しくは次の見出し「歎異抄のただ念仏して」で説明しますので、ここでは「無碍の一道」について解説します。

    無碍の一道とは、
    」とはさわり。
    一道」とは世界。
    さわりのなくなった世界ということです。
    つまり「念仏者はどんなものにも妨げられない幸福な世界に出るのだ」とおっしゃられています。

    人生を振り返ってみると、さわりだらけではないでしょうか。
    昨今の新型コロナで外出できないだけでく、働けなくなった人も多いでしょう。
    外出が減ってストレスがたまり家庭内の喧嘩が増えたとか、常に家の中で走りまわる子どもへの対応でヘトヘトなど、口にはださないだけで様々なさわりで苦しんでいます。
    それなのに親鸞聖人は「さわりがない世界に出なさい」と言われています。
    どんな世界なのでしょうか。
    どうしたら出られるのか。
    このことについて『歎異抄』で書かれているのです。

    しかし「無碍の一道」は多くの誤解を生んでいる言葉でもあります。
    ひどい誤解になると「念仏称えれば悪の報いを受けずにすむだろう」と思う人もいます。
    詳しくはこちらにも書いていますのでお読みください。
    歎異抄 第7章 念仏者は無碍の一道

    歎異抄の「ただ念仏して」

    ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」(第2章)

    歎異抄』には、「念仏」がたくさん書かれており、特に誤解されているのが「念仏」です。
    念仏(南無阿弥陀仏)さえ称えたらだれでも極楽浄土に行ける」という誤解です。
    親鸞聖人は主著の『教行信証きょうぎょうしんしょう』に以下のように書かれています。

    涅槃ねはんの真因は唯信心を以てす。

    これは、「浄土往生の真の因は、ただ信心一つである
    ということです。

    また、親鸞聖人の主著の『教行信証』に含まれ、浄土真宗では朝晩拝読されている『正信偈しょうしんげ』には、こうあります。

    正定の因は唯信心なり。

    仏になれる身になる因は、信心一つだ
    ということです。

    」ですので、二つも三つもありません。
    信心一つで救われるとおっしゃっています。
    念仏を称えなくても救われます。
    歎異抄』の「ただ念仏して」の「ただ」が信心を表されているのです。

    この「ただ念仏して」について詳しくは下記をご覧ください。
    歎異抄第2章 地獄は一定すみかぞかし

    歎異抄についてQ&A

    ここからは『歎異抄』について、下記3つの質問についてお答えします。

    歎異抄と教行信証の違い

    親鸞聖人の著作で最も大事な本が『教行信証』です。
    なぜなら親鸞聖人の教えのすべてが書き残されているからです。

    しかし『歎異抄』の方が有名でしょう。
    理由は、『歎異抄』はとても読みやすく、親しみやすいから。
    教行信証』は専門用語が多く、かなり勉強している人にしか読めません。
    とはいえ、教行信証についても知っていただきたいので、ここでは、『教行信証』と『歎異抄』の違いをここで簡単にまとめておきます。

    タイトル 教行信証 歎異抄
    作者 親鸞聖人(師) 唯円(弟子)
    成立 1224年頃 不明(1260年頃?)
    特徴 親鸞聖人の直筆 唯円の聞き書き
    巻数 6巻 1巻
    内容 親鸞聖人の教えのすべて 教行信証の一部の内容

    歎異抄』は、唯円が聞いた親鸞聖人の衝撃的なお言葉が生々しく記されています。
    そのため、親鸞聖人の教えを知らない人が読むと、致命的な誤解をしてしまうところがたくさんあります。

    そこで『歎異抄』を正しく理解するためには、親鸞聖人の『教行信証』をものさしとして理解しなければなりません。
    ですから『歎異抄』の解説書を読むときに大事な姿勢は、
    『教行信証』の内容と合っている解釈なのか
    照らし合わせて読むということです。

    歎異抄』単独では理解できないところばかりですので、注意しましょう。
    『歎異抄』の解説書を知りたい方は、『教行信証』をもとに解説された本を手にとってください。

    歎異抄と親鸞聖人の教えは異なるのか

    結論、親鸞聖人と『歎異抄』の教えは同じです。
    なぜなら、『歎異抄』は前半は親鸞聖人のお言葉をそのまま記し、後半は当時流行していたよくある間違いを正したものだからです。

    親鸞聖人の教えを知っている人の中に、
    歎異抄は親鸞聖人の教えと異なる
    という人があり、解釈が分かれる部分があります。

    もし親鸞聖人の教えと違うのではないかと思うところがあれば、
    歎異抄』は親鸞聖人のお言葉を書き残されたものですので、
    親鸞聖人が直に書かれた著作を確かめなければなりません。
    親鸞聖人がご自分で書かれたものの中に、同じことが説かれていれば、
    それは間違いなく親鸞聖人のお言葉だと分かります。

    教行信証』をもとに『歎異抄』を読めば、『歎異抄』の本当の意味がわかります。
    歎異抄』を書いた人の意図としては、親鸞聖人の教えを明らかにすることですので、
    そもそも『歎異抄』=親鸞聖人の教えです。

    歎異抄はなぜ封印されたの?

    歎異抄』を読みすすめると、蓮如上人が『歎異抄』を封印された(一般的に公開されなかった)という記述が奥書おくがきにあり、驚くことでしょう。

    右この聖教しょうぎょうは、当流大事の聖教たるなり。
    無宿善むしゅくぜんの機に於ては左右無く之を許すべからざるものなり。
    釈蓮如

    これが『歎異抄』の最後に書かれた蓮如上人の直筆の奥書です。

    歎異抄の蓮如上人の奥書
    歎異抄の蓮如上人の奥書

    歎異抄』は浄土真宗の大切な本ではあるけれど、ご縁の浅い人には見せてはならないと封印されたのです。
    拝読させてはならない理由は、『歎異抄』の内容が非常に繊細に書かれており、真意を間違いやすい箇所がたくさんあるから。
    上述した「悪人正機」「無碍の一道」「ただ念仏して」の章は、かなり多くの人が内容を誤読してしまっています。
    そのため親鸞聖人のみ教えが間違って伝わらないよう、蓮如上人は先回りして封印されたのです。

    もちろん『歎異抄』の内容はすばらしく、一般の人には公開されなかっただけで、浄土真宗の学者のあいだでは研究され続けられていました。

    封印が解かれた理由

    しかし封印されたはずの『歎異抄』ですが、現在多くの人に読まれ親しまれているのはなぜでしょうか?
    それは明治時代に浄土真宗の学者が『歎異抄』に目をとめ、仏教改革運動の一環として世間に公表したからです。

    そして知識人たちの目に止まったことで、当時一大『歎異抄』ブームとなりました。
    多くの人たちに感動と影響を与えたことは、上述した著名人の感想をみてもわかります。
    日本の思想界を変えたような出来事で、『歎異抄』を学ぶ人達も増えましたが、反面
    念仏さえ称えたら往生できる
    悪いことをしても救われる
    といった間違った解釈も多くなってしまいます。

    歎異抄』は間違いやすいところが多いことを再度確認しておきましょう。

    読まないほうがいいのでは?

    封印された理由を聞くと、
    間違いやすいのであれば『歎異抄』を読まないほうがいいのでは?
    と思う人もいるかもしれません。

    しかし『歎異抄』は、日本で最も読まれている仏教書と言われるように、
    すでに大変多くの人に知られている魅力的な本であり、非常に大事な話がたくさん収まっています。
    そのため『教行信証』をもとに、正しく『歎異抄』を理解するならば、親鸞聖人の深い教えを知ることができます。
    歎異抄』を正しく学び、『歎異抄』の魅力を1人でも多くの人に味わっていただきたいと思います。

    歎異抄の全体像

    今回は『歎異抄』について全体像を解説しました。
    ここで簡単に振り返ってみましょう。

    まとめ
    • 歎異抄の作者:唯円と言われている。
    • 歎異抄の特徴:親鸞聖人がお話しされたことを書き残す
    • 書き残された内容:「念仏」「善悪」「幸福」「慈悲」「弟子」など仏教の深い教え
    • 封印された理由:知識がない人が読むと間違いやすいところが多い
    • 歎異抄を正しく理解する方法:親鸞聖人の主著『教行信証』をもとに解説されたもので学ぶ

    歎異抄』の意味を理解するには、仏教の基本的な理解が大切になります。

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    この記事を書いた人

    長南瑞生

    長南瑞生

    日本仏教学院 学院長
    東京大学教養学部卒業
    大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか一人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。インターネットの技術を導入して日本仏教学院を設立。著書2冊。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと奮戦している。

    仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者3千人、メルマガ読者5万人。ツイッター(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能

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