「現代人の仏教教養講座」

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生きる意味を、知ろう。

死ぬ前に後悔すること

「死ぬ前に後悔することって、何だろう」
「最期に後悔だけはしたくない」

葬式から帰ってきた夜や、
精密検査の結果を待っている数日の間に、
自分の人生最期の日のことを考えることがあります。
その日、自分は何を悔やんでいるのだろうか。
今やっていることは、その日に、やってよかったと思えることなのだろうか。

調べてみると、出てくることは大体決まっています。
もっと自分に正直に生きればよかった。
あんなに働かなければよかった。
会いたい人に会っておけばよかった。

どれも、そうなのだろうと思います。
思いますが、それで明日の予定が変わるわけでもありません。

死ぬ時に後悔することは、本当にこの通りなのでしょうか。
そして、それは今から減らせるものなのでしょうか?

「死ぬ前に後悔すること」で必ず挙げられる5つ

人生の最期に何を悔やむのかを先に知っておきたい、というのは、
現代人が考え始めたことではありません。
中国に古くから、「棺(かん)を蓋(おお)いて事定まる」という言葉があります。
生きている間は、うまくいっているようにも、しくじったようにも見える。
一生の値打ちが決まるのは、棺の蓋が閉じた時だ、という意味です。

最期の日が答え合わせの日になるのなら、
その日に何を悔やむのかが分かれば、
今、何をしておけばいいのかも分かる。
そう考えるのは、自然なことだと思います。

死ぬ前に後悔することを調べてみたくなるのは、
毎日がこれでいいと分かるものが、どこにもないからだと思います。
収入も、役職も、周りの評判も、その都度、上がったり下がったりするだけで、
これでよかったのかどうかは、いつまで経っても分かりません。
最期の日になれば分かるのではないか。
そう思って、先に答えのほうを見にいきます。

そこで一番よく挙げられるのが、次の5つです。
オーストラリアで、亡くなっていく人の側に付き添う仕事をしていた、作家のブロニー・ウェアが、
最期の数週間に何度も聞かされた言葉を、5つにまとめています。

自分に正直に生きる勇気があればよかった。まわりが期待する人生ではなく。
あんなに働かなければよかった。
思っていることを言う勇気があればよかった。
友だちと連絡を取り続けていればよかった。
もっと自分を幸せにしてやればよかった。

読んでいくと、どれか1つで手が止まります。
周りの期待に合わせて進路を決めた覚えがあれば、1つ目です。
今週も休みの日に仕事の連絡を返していたなら、2つ目です。
思っていることを言えないまま終わってしまった相手があれば、3つ目です。
名前も顔も知らない人たちが最後に悔やんだことが、
そのまま自分の今の生活を言い当てています。

そして、ここから出てくる答えも決まっています。
後悔しないように、今のうちにやっておきなさい。
やりたいことを書き出して、1つずつ片づけていきなさい。
終活の本にも、旅行の広告にも、同じことが書かれています。

後悔とはそもそも何か、悔いとはどう違うのかについては、
以下の記事で解説しています。
➾後悔の意味と悔いのない生き方・人生とは何か心理学と仏教で解説

では、この5つを今のうちに片づけておけば、
死ぬ前に後悔することは、なくなるのでしょうか。

この5つはできる期間が決まっている

5つを並べて見ると、まず気づくことがあります。
どれにも、特別な才能も、まとまったお金も要りません。
自分に正直になるのも、働く時間を減らすのも、
思っていることを言うのも、友だちに連絡するのも、
その気になれば、今日からできることばかりです。

今のうちにやっておきなさい、という答えは、
そういう意味では正しいと思います。
実際、これで消える後悔はあります。

ところがこの5つには、リストに書かれていない共通点があります。
どれも、できる期間が決まっているということです。

友だちと連絡を取り続けられるのは、相手が生きているうちです。
思っていることを言えるのは、その人に会えるうちです。
働きすぎをやめられるのは、働いているうちです。
行きたかった所へ行けるのは、自分の足で歩けるうちです。
親にお礼を言えるのは、親の耳が聞こえているうちです。

年を重ねるというのは、この期限が1つずつ切れていくことです。
40代で切れるものがあり、60代で切れるものがあり、
入院した日に、まとめて切れるものもあります。

死ぬ前に後悔することが年々増えていくのは、
やらずにさぼってきたからではありません。
やれることのほうが、だんだん減っていくからです。

親にお礼を言おうと思いながら、言えずにきた。
忙しかったのもありますし、面と向かうと照れくさかったのもあります。
ところが、いよいよ言おうと決めた時には、
相手のほうが、受け止められなくなっていることがあります。
やらなかったから、間に合わなかったのではありません。
やれる期間のほうが、先に終わっていたのです。

「今のうちに」という言葉が役に立つのは、
「今」が残っている間だけです。
そうでない相手に向かって言えば、それは責める言葉に変わります。
最期の床についてから、この5つを読まされるのは、
締め切りの過ぎた宿題を渡されるようなもので、
できることは、もう1つも書かれていません。

身のまわりの片づけやお金のことを、いつから、どんな順番で始めるかについては、
以下の記事で解説しています。
➾終活の意味とは?7つの項目とメリット・始める時期・多くの人が後悔すること

では、期限が切れてしまった後悔は、どうなるのでしょうか。
死ぬ時に後悔することを考えるなら、ここを分けておかなければなりません。

間に合う後悔と間に合わない後悔

後悔と一口にいっても、中身は2つに分かれます。
今からやれば消えるものと、何をしても戻らないものです。
同じ言葉で言い表されるので、普段は一緒くたにされています。

今からやれば消える後悔

「あの人にお礼を言っておけばよかった」
この後悔は、その人が生きていれば、
今日の電話1本で消えます。
「あのお店に行っておけばよかった」も、
お店が開いていれば、今週末にでも消えます。
「もっと勉強しておけばよかった」も、
目が見えて手が動くなら、明日から始められます。

世間で挙げられる後悔の大半は、こちらの後悔です。
思い出すたびに胸は痛みますが、
痛むだけで、行き止まりではありません。
やれば消えるという逃げ道が、まだ残っているからです。
「こうすればよかった」と言えているうちは、まだ軽いほうです。

最期まで残るのは戻らないほうだけ

ところが、同じ言葉が、相手の葬式の帰り道に出てきたらどうでしょうか?

「あの人にお礼を言っておけばよかった」と思っても
今度は、電話をかける相手がありません。
手紙を書いても読む人がなく、頭を下げても見てもらえません。
お金を渡しても、時間を作っても、どうにもなりません。

取り返しがつく間は、後悔は宿題の形をしています。
取り返しがつかなくなった時、はじめてそれは、傷の形になります。
同じ「しておけばよかった」なのに、重さが違うのは、
中身が違うからではなく、やり直せる道が残っているかどうかが違うからです。

この2つは、言葉の上では見分けがつきません。
どちらも「しておけばよかった」としか言いようがないからです。
分かれるのは、動いてみた時です。
片方は、動けば消えます。
もう片方は、何をしても、そのまま残ります。

死ぬ前に後悔することを並べたリストが、
読んでいてそれほど重く感じられないのは、
まだやり直せるほうのものばかりが並んでいるからです。
自分がまだ元気なうちだから、そう読めるということです。

そして、最期の床につく頃には、やり直せるほうは、ほとんど残っていません。
旅行に行けるうちに行けなかったというのは、
行けなくなった時点で片が付いています。
伝えられるうちに伝えられなかったものも、
相手が先に亡くなれば、そこで終わっています。
臨終まで持ち越されるのは、間に合わないほうの後悔だけです。

今、死ぬ前に後悔することを調べているということは、
まだ間に合うほうの側に立っているということです。
ここで手を打てるものと、打てないものを分けておけば、
残りの時間の使い方が変わります。

では、どれだけ手を打っても最期まで残る、
間に合わないほうの後悔とは、どういうものなのでしょうか。

「後に悔ゆとも、何ぞ及ばんや」と説かれたお経

お釈迦さまは、今まさに死んでいく人の心境を
『大無量寿経』に説かれています。
まず、その人がいかに重要なことを知らないまま一生を過ごしてきたか、
というところから説かれています。

生の従(よ)りて来(きた)る所を知らず、死の趣(おもむ)き向かう所を知らず。
(漢文:不知生所従来,死所趣向)

「生の従(よ)りて来(きた)る所」とは、私たちの生命はどこからやってきたのか、ということです。
「死の趣(おもむ)き向かう所」とは、死んでどこへ行くのか、ということです。

何のために生まれてきたのかを知らず、
死んだらどうなるのかも分からないまま、
それでも色々の希望を抱き、まぐれ当たりの幸せを求め、
長生きしたいと願って毎日を過ごしているけれども、
やがて必ず死んでいかなければならないと説かれています。

そういう一生の、最期に何が起きるのか。
同じお経の少し後に、こう説かれています。

あらかじめ善を修せずして、窮(きわ)まるに臨(のぞ)みて方(まさ)に悔ゆ。
これを後に悔ゆとも、将(まさ)に何ぞ及ばんや。

(漢文:不予修善,臨窮方悔。悔之於後,将何及乎)

「あらかじめ」とは、前もって、ということです。
「窮(きわ)まるに臨(のぞ)みて」は、命尽きる時に来てしまってから、臨終にという意味です。
「方(まさ)に悔ゆ」の「方(まさ)に」は、そこでようやく、初めて、という意味です。
「将(まさ)に何ぞ及ばんや」の「及ぶ」は、間に合う、追いつくということです。

前もってしておかなければならないことをせずに、
もう引き返せない所まで来てから、やっと悔やむ。
その悔いが、どうして間に合うのか、と説かれています。

ここで説かれているのは、間に合わない後悔です。

では、前もってしておかなければならないこととは、どういうことなのでしょうか。

それが、先に説かれていた「生の従(よ)りて来(きた)る所」です。
何のために生まれてきたのかという、その答えをハッキリ知ることです。

これは、行けなかった旅行とは重さが違います。
旅行なら、行けなかったという1つの心残りで終わります。
ところが、何のために生まれてきたのかが分からないままだと、
やってきたすべてのことの意味がなくなります。

働いた年月も、育てた子どもも、築き上げた立場も、
何のためだったのかが分からないまま、置いていくことになります。
棺の蓋が閉じる時に定まる「事」とは、このことなのです。

日々の後悔なら、1つずつ数えられます。
行けなかった所、言えなかった言葉、会えなかった人。
数えられるということは、その数だけ取り返す道もあるということです。

ところが、何のために生まれてきたのかという問いには、
取り返すための項目がありません。
死ぬ前にやっておくことのリストに、はじめから入っていないので、
上から順に片づけていっても、最後まで手つかずで残ります。

そして、これだけは、最期の床で気がついても、
お金を払って誰かに代わってもらうことはできません。

では、前もって果たしておけば、最期に悔やまずに済むこととは、何なのでしょうか。

「やらなければよかった」と誰も言わない、たった1つのこと

世間でいわれる後悔を消そうとすると、やることが増えていきます。
やりたいことを書き出し、予定を入れ、連絡を取り、時間を作る。
そのどれにも期限があって、片づけている間にも、1つずつ期限が切れていきます。

仏教に説かれているのは、たった1つのことだけです。
何のために生まれてきたのか、
何のために生きているのかという人生の目的を知り、
その目的を果たすことです。

そうすれば、生きている今、
「人間に生まれてよかった」
という変わらない幸せの身になれると教えられています。
それは、作るのでも、集めるのでも、間に合わせるのでもありません。
どんな人でも、それを知り、果たすことができます。

そして、これを果たすために使った時間を、
「あんなことはやらなければよかった」
というものは、1つもありません。

やっておけばよかったと悔やむことなら、誰にでもあります。
一切の後悔はなくなります。

もし果たさないまま最期を迎えれば、
残るのは、後から悔やんでも間に合わない後悔だけです。

その本当の生きる目的を達成するには、
苦しみ悩みの根元を知り、
それを断ち切らなければなりません。

では、その苦悩の根元とは何か、
どうすれば断ち切れるのか。
それについては仏教の真髄なので、
メール講座と、電子書籍にまとめてあります。
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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)

東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細・お問い合わせ

X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。

著作

京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作に引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。