生きる希望がないのはなぜ?
朝、目が覚めても、起き上がる理由が見つからない。
これといって、楽しみにしていることもない。
何かを楽しみにして生きていた頃の自分が、
遠い他人のように思える……。
そんな時に「生きる希望がない」と調べてみると、
こんなアドバイスが出てきます。
「小さな楽しみを1つ見つけましょう」
「期待するのをやめて、今日1日を生きればいい」
「物事を前向きに考えましょう」
どれも、弱った心を労ってくれる、優しいアドバイスです。
ところが、その時は少し気持ちが軽くなっても、
しばらくすると、また同じ気持ちに戻ってしまう、
ということはないでしょうか。
実は、生きる希望がなくなるのは、
希望が見つからないからでも、心が弱いからでもありません。
では、この「生きる希望がない」という気持ちは、
一体どこから来るのでしょうか?
生きる希望はいつも「〜したら」の先にある
今は生きる希望がないと感じていても、
これまでの人生を振り返ってみると、
行く先に希望を持って生きていた時期があったと思います。
思い出してみてください。
子どもの頃は、「大人になったら」と思っていました。
学生の頃は、「試験が終わったら」「卒業したら」と。
働き始めてからは、「仕事に慣れたら」「結婚したら」「家を持ったら」と思い、
子どもが生まれると、「この子が大きくなったら」と思う。
そして、「定年になったら」「老後は」と続いていきます。
生きる希望は、いつもこの「〜したら」の先にありました。
今は辛くても、「これさえ終われば」「あれさえ叶えば」と思えたから、
毎日の大変さを乗り越えることができました。
例えば、受験勉強の追い込みの時期は、
毎晩遅くまで机に向かい、遊びたいのも我慢しました。
それでも頑張れたのは、合格すれば春が来ると思えたからです。
残業が何か月も続いた時も、
子どもの夜泣きで眠れない夜が続いた時も、
長い入院生活でも、
「ここを越えれば」
という先があったから、耐えることができました。
こうして振り返ってみると、
あなたはこれまでも、辛い時期をいくつも乗り越えてきたはずです。
人間は、決してそんなに弱いものではありません。
先に希望さえあれば、人はかなりの苦しみにも耐えていくことができます。
ところが、ある時から、その「〜したら」が思い浮かばなくなります。
生きる希望は、なぜなくなってしまうのでしょうか?
生きる希望は叶った時にもなくなる
生きる希望がなくなるといえば、
まず思い浮かぶのは、希望が叶わなかった時です。
例えば、何年も目指してきた試験に落ちた時。
信じていた人に裏切られた時。
大切な家族を亡くした時。
病気で、思い描いていた将来を諦めなければならなくなった時。
先にあった希望が、音を立てて崩れます。
こうした時に、生きる希望が持てなくなるのは当然のことです。
ところが、生きる希望がなくなるのは、叶わなかった時だけではありません。
叶った時にも、生きる希望はなくなります。
例えば、何年も努力して、念願の会社に入れたとします。
最初の数か月は、毎朝、会社に向かうのが嬉しくてたまりません。
それが1年もすると、すっかり当たり前になって、
「もっと評価されたら」
「あの部署に行けたら」と、
また次の「〜したら」が出てきます。
家を建てた時も、子どもが生まれた時も同じです。
叶った時の喜びは、やがて当たり前の毎日に変わっていきます。
希望というのは、まだ叶っていない間だけ、希望なのです。
叶わなければ失望に変わり、叶えば当たり前に変わります。
どちらに転んでも、いつまでも希望のままではいてくれません。
まだ手に入っていないものを追い求める時の心境を、
お釈迦さまは『大無量寿経』に、こう説かれています。
たまたま一有ればまた一を少く。
これ有ればこれを少きぬ。
有ること斉等ならんを思う。
まさに具さに有りと欲えば、すなわちまた糜散す。
かくのごとく憂苦して、まさにまた求索すれども、
時に得ること能わず。
思想益なく、身心ともに労れて坐起安からず。
(漢文:適有一復少一。有是少是。思有斉等。適欲具有,便復糜散。如是憂苦,当復求索,不能時得。思想無益,身心倶労坐起不安)(出典:『大無量寿経』)
「たまたま一有ればまた一を少く」とは、
たまたま1つ手に入ったかと思うと、
また他の1つを欲しいと思う、ということです。
「これ有ればこれを少きぬ」とは、
これを得れば、別のものに不足を感じて、ということです。
何かを手に入れると、他のものが足りないと感じます。
「斉等」とは、等しく揃っていることで、
「有ること斉等ならんを思う」とは、
色々並べそろえたい、あれもこれも、何もかも揃えたいと思うということです。
「まさに具さに有りと欲えば、すなわちまた糜散す」の「具さに」とは、
すべてが揃っていることで、
「糜散」とは、砕け散ることです。
偶然にも揃えられたかと思うと、それは一時的で、すぐになくなる、ということです。
たまたま揃っても、すぐになくなってしまいます。
「かくのごとく憂苦して、まさにまた求索すれども、時に得ること能わず」とは、
そうして心配し、悩みながら、また探し求めても、
元には戻らない、ということです。
「思想益なく」の「思想」とは、今でいう考えや物の見方の体系のことではなく、
単にあれこれと思い悩むことで、
いくら思い悩んでも何にもならない、ということです。
そして「身心ともに労れて坐起安からず」とは、
思い悩んでいるために体も心も疲れ果てて、座っていても立っていても、
心の安まる時がない、心配し続けている、ということです。
私たちが先に思い描いていた希望も、この通りではないでしょうか。
就職が決まったと思うと、今度は仕事や人間関係に悩みます。
仕事が軌道に乗ると、周りと比べて、収入や昇進、結婚が気になり始めます。
家族を持てば、生活費や教育にかかるお金が、どれだけあっても足りません。
ようやく住宅ローンの見通しが立ち、子どもが独り立ちして、
さあこれからという頃になると、
自分やパートナーが病気になったり、親の介護が始まったりします。
何度希望を持っても、1つ叶えばまた1つ足りないものが出てきて、
一瞬揃ったと思っても、すぐ崩れていきます。
それを手に入れては崩れ、手に入れては崩れと
そんなことばかりを何回も何回も繰り返していれば、身も心も疲れ果てて、
生きる希望が持てなくなるのも、無理はありません。
生きる希望がないという気持ちは、
お釈迦さまが「身心ともに労れて、坐起安からず」と説かれたように、
同じことが繰り返されて疲れが積み重なり、
今後よくなる見通しも立たない状態です。
それでも世間では、「新しい希望を持てばいい」といわれます。
では、もう一度希望を持とうとすると、どんなことが起きるのでしょうか?
希望を持ち直しても手放しても楽にならない理由
生きる希望がない時に、一番よく勧められるのが、
「小さな希望を持ちましょう」というものです。
大きな夢ではなくていい。
週末に美味しいものを食べる。
好きなドラマの続きを見る。
ベランダの花が咲くのを待つ。
そんな小さな楽しみを1つ見つければ、
そこから少しずつ、生きる希望が戻ってくる、というわけです。
確かに、小さな楽しみがあると、その日を過ごす力になります。
暗い気持ちの中でも、ホッと一息つける時間ができるのは、有り難いことです。
ですが、小さな希望も、希望であることに変わりはありません。
叶えば当たり前になり、叶わなければ、がっかりします。
楽しみにしていた週末が終われば、また月曜日がやってきて、
次の小さな楽しみを探さなければなりません。
希望を小さくしても、1つ叶えばまた1つ足りなくなることは同じです。
希望を持ち直すと何が起きるのかは、
明治時代に上田敏(1874−1916)が訳した、
ドイツの詩人カール・ブッセ(1872−1918)の
「山のあなた」という詩に、そのまま記されています。
山のあなたの空遠く
「幸」住むと人のいふ。
噫、われひとゝ尋めゆきて、
涙さしぐみ、かへりきぬ。
山のあなたになほ遠く
「幸」住むと人のいふ。(出典:カール・ブッセ作、上田敏訳「山のあなた」『海潮音』)
山の向こうの遠い空の下に、幸せが住んでいると人がいう。
それで、みんなと一緒に探しに行ったけれど、
見つからずに、涙ぐんで帰ってきた。
すると人は、山の向こうの、もっと遠くに幸せが住んでいるという……。
「新しい希望を持てばいい」というのは、この詩でいえば、
「山のあなたになほ遠く」と、もっと先を指さすことです。
言われた通りに探しに行っても、また涙ぐんで帰ってくれば、
人は、さらにその先を指さします。
希望を持ち直すたびに、幸せは、もう1つ向こうへ遠のいていきます。
ちなみに、生きる希望と似た言葉に「生きがい」がありますが、
生きがいとは何か、生きがいと生きる目的はどう違うのかについては、
以下の記事で解説しています。
➾生きがいがない・生きがいが欲しい人へ生きがいの意味を解説
一方で最近は、反対のこともいわれます。
「希望を持つから、裏切られて苦しくなる。
先のことに期待するのはやめて、今日1日を生きればいい」
というものです。
これも一理あります。
未来に希望を持たなければ、叶わずにがっかりすることもありません。
叶った後で、また次が欲しくなることもなくなります。
ですが、1つ見落としていることがないでしょうか。
受験や仕事、眠れない夜が続いた日々を乗り越えられたのは、
「ここを越えれば」という希望があったからでした。
希望を持たないというのは、未来に期待せずに、
今日の辛さをそのまま受け止めるということです。
楽しい日ならそれでもいいのですが、
辛い日が続いている時に、
何のために今日を乗り越えるのかが分からないまま、
辛さだけを受け止め続けるのは、あまりにも苦しいことです。
希望を持ち直すのと、希望を手放すのとは、正反対のように見えます。
よく見ると、どちらも、先に置く希望を増やすか、減らすかを考えているだけです。
持ち直せば、また叶っては消えていきます。
手放せば、辛い日を乗り越えていく支えまで、一緒に手放すことになります。
どちらも疲れた心を少しの間、休ませることはできても、
生きる希望がないという気持ちの解決にはなっていません。
では、生きる希望がなくなった時、
私たちの心は、どういう状態にあるのでしょうか?
生きる希望がないのは心が弱いからではない
生きる希望がないと感じると、
「自分の心が弱いからだ」とか
「もっと前向きにならなければ」と、
自分を責めてしまうことがあります。
周りからも、「考えすぎだよ」「疲れているんだよ」と言われるかもしれません。
もちろん、心や体が疲れ切っている時は、
ゆっくり休むことも、医師に相談することも大切です。
休んだり、人に頼ったりするのは、決して弱さではありません。
そして、生きる希望がなくなるのも、
あなたの心が弱いからではありません。
辛い時期をいくつも乗り越えてこられたことが、その証拠です。
今の辛さが小さいと言うのでもありません。
生きる希望がなくなるのは、何度も希望を持って、
叶っては消え、崩れては持ち直してきた末に、
希望というものは、どれもいつまでも心を支え続けてはくれないと、
身をもって知らされた時です。
洞察が深いのです。
このことを、1400年ほど前の、聖徳太子(574−622)は、
このように語られたと伝えられています。
聖徳太子が亡くなった後、当時の天皇が女官に命じて造らせた
『天寿国繍帳』に、刺繍されているものです。
世間虚仮 唯仏是真
(出典:『天寿国繍帳』)
「世間虚仮」とは、世間は虚仮である、ということです。
「世間」とは、私たちが生きているこの世の中のことで、
仕事も、お金も、地位も、健康も、若さも、
私たちがこの世で希望としているものは、みんな入ります。
「虚」とは、中身がないということで、
「仮」とは、一時的なもので、いつまでもそのままではないということです。
この世で希望にしていたものは、手に入れてみると、
思っていたほどの中身がありません。
しかも、どれもいつかは離れていく時が来ます。
「世間虚仮」とは、この世に本当に希望になるものは何もない、ということです。
『大無量寿経』に、1つ手に入っても、また1つ足りなくなり、
一時的に揃っても、なくなってしまうと説かれていたのも、
この世間虚仮の有様です。
生きる希望がないと感じるのは、この世間虚仮を、
本で読んで理解したのではなく、
自分の人生の中で知らされたからです。
何度も「〜したら」を追いかけてきたからこそ、
その先にもまた同じことが待っていると、
思えてしまったのではないでしょうか。
ところが、聖徳太子のお言葉は、「世間虚仮」だけでは終わっていません。
その後に、「唯仏是真」と続きます。
世間虚仮だけが分かって、唯仏是真を知らなければ、
誰でも生きる希望がないと思ってしまいます。
生きる希望がないという気持ちは、
この2つのうち、「世間虚仮」だけが知らされた時に起きるものです。
では、その後に続く「唯仏是真」とは、どういう意味で
どんな希望として教えられているのでしょうか?
叶っても消えない本当の生きる希望
「唯仏是真」とは、ただ仏のみ、これ真なり、ということです。
崩れていくものばかりのこの世の中で、
仏様の説かれた教え、仏教だけは、
どんなことがあっても崩れない真実であり、本当の幸せになれる道を説かれている
ということです。
私たちが本当に求めていたのは、
叶えばまた次を求める、そんな明かりではなかったはずです。
いつか、それまでの苦しみも悲しみも越えて、
「生まれてきてよかった」
「生きてきてよかった」と心から喜べる、
そういう時が来ることではないでしょうか。
仏教に説かれている人生の目的が、まさにそれです。
それは、叶っても消えてしまう、この世の一時の希望とは違います。
それが果たされた時、「人間に生まれてよかった」と大満足でき、
一切の苦しみが、そのまま苦しみとならない世界に出ることができます。
これが、死によっても崩れることのない、変わらない幸せです。
しかもそれは、死んでからなる幸せではありません。
若さも、健康も、家族も、仕事も関係なく、
生きている今、どんな人でもなることができます。
そういう目的があると知らされただけでも、
今の苦しみや悲しみに打ちひしがれることなく、生きる力が湧いてきます。
新しい希望を探して、山の向こうまで行く必要はありません。
希望を持たないようにと、心を押さえつける必要もありません。
人生の目的があると、まずは知ることが、
そのまま、本当の生きる希望になります。
では、その人生の目的はどんなもので、
それを果たすにはどうすればいいのか、
それについては仏教の真髄なので、
メール講座と、電子書籍にまとめてあります。
どちらも無料ですので、今すぐ見ておいてください。
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この記事を書いた人
長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)
東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細・お問い合わせ
X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)
京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作に引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。


