縁起とは?
よく初夢に富士山が出てくると、「縁起がいい」といいますよね。
何かの数字がたまたま「7」だと「縁起がいい」とか、
逆に「4」だと「縁起が悪い」という人もいます。
ここでいう「縁起」とは、何か良いこと、悪いことが起こる前兆やきざしのことです。
「縁起がいい」といえば、良いことが起こる前兆や、幸運をもたらすと信じられているものを指します。
初夢の富士山のほかにも、例えば、鶴や亀などの長寿の象徴を見ること、招き猫を購入するということは、縁起がいいことであったり、縁起物だったりします。
反対に「縁起が悪い」とは、不運や災いをもたらすと信じられている兆候をいいます。
例えば、仏滅の日に結婚式を挙げること、枕を北枕にすること、夜に爪を切ることなどは、不吉で縁起が悪いとされます。
今日では、縁起が良い悪いと言った時、迷信を指すことが多いようです。
しかし縁起は、仏教に由来する言葉です。
仏教には迷信は一切教えられていませんので、
縁起の本来の意味は、迷信とは全く関係ありません。
もとの意味と全く違う意味で使われています。
では、縁起の本当の意味はどのようなものなのでしょうか?
そして、縁起を説かれた目的はどのようなものでしょうか?
それが分かれば、よりよい生き方が出来るようになりますので、
分かりやすく解説していきます。
縁起とは
縁起について、まず参考に国語辞典に出ている意味を見てみましょう。
えんぎ 【縁起】
〔仏教で、すべての事柄は因縁によって起こるとされる、その始まりの意〕
物事の起こり。
〔狭義では、お寺や神社の創立の由来や、それを書いた本を指す。例、「信貴山」〕
〔何かをし始める際に経験する〕ちょっとした出来事で、いい結果になるかどうかを判断する材料となるもの。
「―が悪い〔=その物事のせいで、何か悪い事が起こりそうな感じがする〕/―をかつぐ[=何をする場合にも、縁起のいい・悪いを気にする]を祝う〔=それにあやかっていい結果になるように祈る〕でもない[=そんな縁起の悪いことを言うな〕」(引用:『新明解 国語辞典』第八版)
この国語辞典に書かれているのが世間で使われている縁起の意味だとすれば、
縁起の意味は、仏教の意味と大きく変わっています。
縁起物といった迷信などにも使われており、本当の意味を理解しないのは、生きる上で大変もったいないことになります。
縁起は、本当は一体どういう意味なのでしょうか。
縁起の言葉の意味
「縁起」とは、「縁って起きる」ということです。
サンスクリットだと、プラティーテャ・サムウトパーダで、
プラティーテャが縁、サムウトパーダが起です。
「縁って」とは、「原因によって」ということです。
「起こる」は、サムウトパーダを分解すると、サムが集まって、ウトパーダが起きるなので、「集まり起こる」という意味があります。
この世のことすべては、様々な原因が集まって生じています。
世界のあらゆるものごとは、どんな小さな結果でも、様々な原因がそろって生じていることを縁起といいます。
これを因縁生起ともいいます。
因縁とは原因ということです。
一言でいえば、縁起とは、「すべてのことには原因がある」ということです。
この縁起を根幹として仏教は説かれています。
仏教の根幹は縁起です。
仏教の教えで縁起に反するものは一切ありません。
縁起は、お釈迦様の教えがすべて書き残された経典である「一切経」のすべてに通じる、基本原理です。
縁起の正しい意味を知らなければ、仏教を理解することはできません。
縁起は仏教を理解する上でも、それほど重要です。
因縁果の道理
その原因を大きく分けると、因と縁の2つになります。
原因を因と縁の2つに分けた場合、
「因」とは直接的原因、
「縁」とは間接的原因のことです。
直接的とか間接的というのはどういうことかというと、
例えばお米でいえば、モミ種が「因」、太陽や水、空気、土、労働力などが「縁」です。
因だけでも結果は現れませんし、縁だけでも結果は現れません。
必ず因縁がそろってはじめて、美味しいお米が結果として生じるのです。
因縁がそろうことを因縁和合といいます。
図に書くとこうなります。
┌─┐
│因│モミ種
└┬┘ ┌─┐
├──┤果│米
┌┴┐ └─┘
│縁│太陽・水・空気・土……
└─┘
ですから縁起は別名を、「因縁果の道理」ともいわれます。
このように、色々な原因が集まって結果が生じるので、
衆縁生起ともいわれます。
この場合は、縁を間接原因だけではなく、直接原因も含めて、原因のことを縁といわれています。
縁起の正しい理解
縁起は仏教の根幹なので、必ず縁起に立脚して仏教は説かれるのですが、
縁起には、さまざまな別名があるので、出てきていても気づかないことがあるかもしれません。
ですが、例えばこれらも縁起と同じことを表しています。
特に、縁起と同じ内容を表していて、縁起よりも分かりやすいのが「因果」です。
因果の道理とよくいわれます。
では、因果というのはどういうことなのでしょうか。
どんな結果にも必ず原因がある
「因果」とは原因と結果ということです。
仏教では、「どんな結果にも必ず原因がある」と教えられています。
このことを、お経にはこのように説かれています。
一切法は因縁生なり。
(漢文:一切法因縁生)(引用:『大乗入楞伽経』)
「一切法」とは、この世のことすべてです。
この世のことすべては、因縁から生じている、ということですから、
すべての結果には必ず原因がある、ということです。
原因なしに起きる結果は絶対にありませんし、
どんなに小さな原因でも必ず結果を生じます。
これは科学でもそうです。
仏教においても、科学においても、
この原理には一切の例外はありません。
原因が「分からない」ということはあっても、
原因が「ない」ということはないのです。
では、原因と結果はどのような関係があるのでしょうか。
原因と結果の関係
原因と結果の関係は、このように端的に示されています。
もしこれ有れば、すなわち彼有り、もしこれ無ければ、すなわち彼無し。
もしこれ生ずれば、すなわち彼生ず、もしこれ滅すれば、すなわち彼滅す。
(漢文:若有此則有彼 若無此則無彼 若生此則生彼 若滅此則滅彼)(引用:『中阿含経』)
「これ」は、原因を意味し、「彼」は、結果を意味します。
ここには、2つのことが教えられています。
空間的な相互依存関係・諸法無我
まず1つ目の、
「もしこれ有れば、すなわち彼有り、
もしこれ無ければ、すなわち彼無し」
というのは、空間的な相互依存関係を教えられています。
日常的な例をあげてみると、
「太陽があれば植物が育つ、太陽がなければ植物は育たない」
という関係がある時、太陽が因で、植物が育つことが結果です。
「酸素や水があれば人間は生きられる、酸素や水がなければ人間は生きられない」
という関係がある時、酸素や水が因、人間が生きられることが結果になります。
すべてのものは、たった一つのものとして存在しているのではなく、
他の様々な関わり方の中で、原因が集まって存在しています。
このような原因と結果の間には「空間的な相互依存関係」があります。
すべてのものには必ず原因がありますので、
すべてのものは、他のものとの様々な関係の中でのみ存在する
ということになります。
永遠不変の「自分」や「もの」は存在せず、
すべては関係性の中で一時的に形作られているだけです。
これは仏教の特徴である三法印の一つ、「諸法無我」となります。
時間的な因果関係・諸行無常
2つ目の
「もしこれ生ずれば、すなわち彼生ず、
もしこれ滅すれば、すなわち彼滅す」
は、時間的な因果関係を教えられています。
簡単な例で考えてみると、
「雲ができると雨が降る、雲がなくなると雨が止む」
という関係がある時、雲が原因で、雨が結果です。
また、「種をまくと芽が出る、種をまかないと芽が出ない」
という関係がある時、種が原因で、芽が結果です。
このような原因と結果には、「時間的な因果関係」があります。
このように因縁がそろってできたものは、必ず因縁が離れて滅する時がきます。
時間が経つにつれて、ものごとが生じたり、滅したりする
激しい変化があるわけです。
これは仏教の特徴である三法印の一つ、「諸行無常」となってきます。
諸行無常について詳しくは、こちらの記事をご覧ください。
➾「諸行無常の響きあり」の意味と甚大な影響力
このような「諸法無我」も「諸行無常」も真理ですし、そのような仏教の教えが立脚する、「すべての物事には必ず原因がある」という縁起の法も真理です。
仏教の真理=縁起
仏教で説かれる内容は「法」です。
「法」はサンスクリット語で「ダルマ」ともいい、「真理」という意味です。
仏教では、真理(法)が教えられているので、
仏教のことを「仏法」ともいいます。
真理の特徴
世間でいう真理と、仏教で説かれる真理には、大きな違いがあります。
仏教の真理は、「いつでもどこでも変わらない」ものです。
これを「三世を貫き、十方を普く」といいます。
世間でいわれる真理は、人によって変わったり、国によって変わったり、時代によって変わったりします。
例えば、昔は天動説が真理だと思われていたのですが、
やがて地動説がとって変わりました。
そしてニュートンが万有引力の法則を発見し、ニュートン力学が科学的真理だと思われるようになります。
ところが今では、ニュートン力学は光の速度に近いスピードだったり、高重力場では成り立たないことが分かっています。
このように、世間でいわれる真理は時が経つと真理ではなくなってしまうことがあります。
このように非常に強く真理だと思われている科学的真理でさえも、
その時は科学的真理でも、時間が経ってパラダイムシフトが起こり、
真理といわれなくなるものがあります。
ましてや好き嫌いや価値観、考え方や思想など、
人それぞれ違うことは、仏教では真理とは言いません。
いつでもどこでも変わらないような真理は、世間では全くありませんので、
仏教にしか説かれていないことです。
仏教では、縁起のような三世を貫き、十方を貫く真理に立脚してこそ
本当の幸せになれると教えられているのです。
縁起=法
お釈迦様は、いつも「真理を学べ」「真理を悟れ」と言われていました。
お釈迦様が「真理を学べ」と言われる真理とは、縁起であるといえます。
「縁起」は、縁起の法とか、因縁の理と言われ、
仏教は縁起の法を教えられているのです。
お釈迦様は、こう教えられています。
若し縁起を見れば、すなわち法を見る。
若し法を見れば、すなわち縁起を見る。
(漢文:若見縁起便見法 若見法便見縁起)(引用:『中阿含経』)
これは、仏教で教えられる法とは縁起である、ということです。
縁起はいつでもどこでも変わらない真理なのです。
そもそも、仏教を説かれたお釈迦様は、
どのようにして縁起の法を知ることができたのでしょうか。
縁起を発見されたお釈迦様
世間では、縁起を仏教思想だと思っている人がありますが、
縁起は思想ではありません。
なぜなら縁起の法は、真理であって、
お釈迦様が創り出したとか、編み出したものではないからです。
真理とは、もともとあるものなのです。
これをお釈迦様は次のように教えられています。
縁起の法は我が所作に非ず。
また余人の作にも非ず。
しかるに彼の如来出世するも、
及び未だ出世せざるも法界常住なり。
(漢文:縁起法者 非我所作 亦非餘人作 然彼如来出世及未出世 法界常住)(引用:『雑阿含経』)
この意味は、
縁起の法(真理)は、私が作ったものではない。
また誰かが作ったものでもない。
仏のさとりを開いた者が、地球上に現れたとしても現れなかったとしても、
常に存在しているのである、ということです。
例えるなら、ニュートンが万有引力の法則を発見したようなものです。
ニュートンは、万有引力の法則を作り出したのではなく、発見し、公表したのです。
ですから万有引力の法則は、ニュートンの思想ではありません。
もともと万有引力の法則は世界に存在し、ニュートンが最初に発見したのでした。
お釈迦様も修行によって、大宇宙に存在していた縁起の法を発見されたのです。
これは、地球上でお釈迦様にしかできなかった、偉大な発見の一つです。
お釈迦様は、この縁起を発見されたことで、仏のさとりを開いたと説かれています。
上記で紹介した『雑阿含経』のお言葉の後に、
次のように教えられました。
縁起の法は我が所作に非ず。
(中略)
彼の如来は自らこの法を覚して等正覚を成ず。
(漢文:縁起法者 非我所作(中略)彼如来自覚此法成等正覚)(引用:『雑阿含経』)
「この法」とは縁起のことですので、お釈迦様をはじめすべての仏は、
縁起をさとって、仏のさとり(等正覚)を開かれた、ということです。
仏のさとりについて詳しくは、以下の記事をお読みください。
➾阿耨多羅三藐三菩提(仏のさとり)とは?大宇宙最高の真理
このように、お釈迦様は縁起をさとって仏のさとりを成就し、
縁起を根幹に仏教の教えを説かれているのです。
仏教の特徴である「諸行無常」や「諸法無我」も縁起に基づいています。
縁起=空
やがて大乗仏教を大成し、八宗の祖師といわれる龍樹菩薩は、お釈迦様が説かれた「空」も、縁起によって理論づけました。
「空」というのは、実体がない、ということです。
仏教では「一切皆空」と説かれ、すべてのものは実体を持たないと教えられています。
なぜかというと、すべてのものは因縁がそろって生じているからです。
因縁がそろうことを「和合する」といいます。
すべては因縁和合して生じているため、因縁が離れると、その物事や現象は別のものに変化してしまいます。
それで、すべてのものは「仮に成り立っている」だけで、実体がないのです。
このことを古歌に分かりやすく教えられています。
「引き寄せて 結べば柴の 庵にて
とくればもとの 野原なりけり」
意味は、野原に落ちている小枝や葉っぱを集めて、それらを紐で結んで組み立てると、簡単な小屋(庵)ができます。
その中で休むこともできますが、離せば小屋はすぐになくなってしまい、元の野原に戻ります。
つまり小屋には、「固定不変の変わらない小屋」という実体はないのです。
小屋は一時的に現れているだけで、因縁(小枝や葉)が集まったり離れたりすることで
小屋になったり、小屋ではなくなったりするのです。
このことを「一切皆空」といいますが、諸法無我と同じ意味です。
龍樹菩薩はこう教えられています。
諸法は因縁より生ぜざる無く、因縁より生ずるが故に無我なり。
(漢文:諸法無不従因縁生従因縁生故無我)(引用:龍樹菩薩『大智度論』)
すべては因と縁によって生じる以外にはなく、因と縁によって生じているから無我である
という意味です。
縁起はイコール「空」であり「無我」ですので、こちらの記事もお読みください。
➾仏教の無我の意味、諸法無我と無我の境地との違い
龍樹菩薩は、色々な言い方ですべては空であることを明らかにしましたが、
それは体系的ではなかったので、後に阿頼耶識を中心に、物質も心も運命も、この世の森羅万象が体系化されました。
それによれば、この世のすべては依他起性といわれます。
「他(原因)に依って生起する存在」だからです。
このように、仏教は縁起に立脚してあらゆる教えが説かれています。
縁起の中心はあなたの運命
普通、縁起というと、世間ではこの辺りまでのことで終わってしまいます。
ですがこれだけでは、まだまだ縁起のごく浅い部分にしか触れていません。
それというのも、色々な原因と結果の関係の中でも、
私たちが最も知りたい原因と結果は、自分の運命の原因と結果の関係です。
自分には将来、幸せな運命が来るのか、不幸や災難が来るのか、
それがどんな原因で決まるのかが一番気になります。
縁起をお釈迦様が教えられた目的は、
正しくすべての人を本当の幸せへ導くためですので、
仏教では、この世の現象についても少しは教えられていますが、
特に詳しく教えられているのは、私たちの運命についての原因と結果の関係なのです。
縁起を教えられた中心は、実は運命の因果にあります。
そもそもお釈迦様が仏のさとりを開かれた時、
苦しみの原因を12回さかのぼられて、
その原因が滅することによって苦しみが滅することを観察されたと説かれているほどです。
これは十二縁起といわれますが、あとで解説します。
まずは、縁起に基づいて、不幸や災難が減り、幸せがより多くなる生き方ができるようになる、運命の法則が教えられています。
運命の原因と結果には、どのような関係があるのでしょうか。
運命の縁起
人の運命の縁起、つまり運命の原因と結果の関係について、お釈迦様は
善因善果
悪因悪果
自因自果(お釈迦様)
と教えられました。
「因」とは、自己の行為のことです。
これを、分かりやすくいえば、
善いタネをまけば、幸せな運命(安心や満足)となり、
悪いタネをまけば、不幸な運命(苦難や困難や災難)が引き起こされる。
自分のまいたタネは、自分が刈り取らなければならない
ということです。
つまり、自分の善い行為や悪い行為によって、運命が決まるということです。
ですからお釈迦様は、この縁起の法則に基づき、徹底して
幸せが来るから、善い行為に心がけなさい、
幸せになりたければ、善いことをしなさい、
と教えられています。
運命に関する迷信や誤解
このことは、お釈迦様が初めて明らかにされたことです。
幸い日本には1500年前に仏教が伝えられ、
昔話や説話を通して多くの人がこのことに親しんでいます。
ですが、迷いの深い私たちには、なかなかこの縁起の運命の法則が信じられません。
それで、こんなに科学が進歩しても、運命を知ろうとする占いもなくなりませんし、
タタリや呪い、迷信もなくなりません。
正しいとはいえない運命の迷信を信じ込んでいる人が多くあります。
それを大きく分けると3つになります。
神意論、宿命論、偶然論の3つです。
神意論とは、運命は神が決めたもので、自分ではどうにもならないという考え方です。
宿命論とは、運命はすべて決まっている、というものです。
偶然論とは、運命に原因はなく、偶然決まるというものです。
- 神意論:神様の意思で運命が決まるという考え方
- 宿命論:生まれた時から運命が決まっているという考え方
- 偶然論:運命には原因がなく、偶然で決まるという考え方
この迷信に対して、縁起を知れば、どういう生き方になるでしょうか?
神様の意思ですべてが決まる「神意論」
もしすべてが神の意志で決まるとすれば、
自分では悪いことをしたくないと思っていても、悪いことをしてしまいます。
世の中に殺人者がいたり、強盗がいるのも、そのためです。
悪いことをするのは、自分ではなくて神が決めるので、
自分の意志も努力も関係ありません。
法律や道徳を教えても、殺人を犯すかどうかは本人の意志と関係ないので、
意味がありません。
教育も無意味になります。
ですが、すべての現象は様々な原因(因)と条件(縁)が絡み合って生じていることが分かれば、神を信じられなくなります。
神ではなく、自分の行為によって運命が決まっていることを確信して、
行為を変えようと努力します。
生まれた時から運命が決まっている「宿命論」
もし、運命が決まっているとすれば、
自分では悪いことをしたくなくても、宿命によって悪いことをしてしまいます。
世の中に凶悪犯がいたり、特殊詐欺が絶えないのも、運命です。
悪いことをするのは、自分ではなくて宿命によって決まっているので、
自分の意志や努力は関係ありません。
この世でどんなに法律や道徳を教えても、
犯行に及ぶのは運命なので、意味がありません。
教育も無意味なので、教育投資は無益です。
ですが、大宇宙の真理である縁起によって、
自分の運命には必ず原因があり、それは自分の行いが生み出したものだと分かれば、
今から行為を善くするよう、努力精進するようになります。
すべては偶然で起こる「偶然論」
もし運命に原因がなく、偶然起きるとすれば、
自分では悪いことをしたくないと思っていても、悪いことをしてしまいます。
通り魔や、ストーカー殺人も、偶然の産物です。
もちろん自分の意志や努力ではどうにもなりません。
ストーカー規制法のような法律を制定しても、小学校で道徳教育をしても、
意味がありません。
通り魔やストーカーは、偶然生じるもので、本人の意志と無関係だからです。
教育も意味がないので、そんなことに税金を投入すべきではない、ということになります。
ですが、縁起の法によって、すべての現象には原因があり、その原因と結果には関連性があると分かれば、
結果に対して必ず原因を考え、より改善していこうという生き方になります。
また、周囲の縁によって今の自分があることも分かるので、感謝の心で生きられます。
縁起を知らされた人の生き方
このような、神意論、宿命論、偶然論など、
縁起に外れた教えを、仏教では外道といいます。
真理に外れた教えだからです。
このような外道を信じていると、善いことをしようという意欲が減退し、自分を苦しめることになります。
このような善い種まきをせず、迷信に迷う人が多いので、
お釈迦様は、縁起の法を明らかにすることで、
まずは正しい生き方を教えられました。
縁起の法則によって、どんな結果にも必ず原因があることを知り、
自分の運命は、善いのも悪いのも自分の行いが決めていることを知らされれば、
迷信・外道の教えに迷い、苦しむことはなくなります。
自分の運命を変える、大事な教えが「縁起」なのです。
このように縁起を知らされた人は、
順境のときには、自分はろくな行いをしていないのに、こんな幸せな運命が来るのは周囲のおかげだと縁に感謝し、もっと頑張ろうと努力になります。
逆境のときには、自分の行為に原因があるのだからと、自分の行いを反省し、行いの改善に努力します。
- 順境:感謝
- 逆境:反省と努力
このように、私たちの幸福や不幸という運命は、自分の行いによって決まることを教えられているのが縁起です。
私たちが幸福な結果を得られるように、お釈迦様が生涯かけて教えられたのが縁起の法なのです。
ではなぜ行為が運命を決めるのでしょうか。
目に見えない原因:業力
私たちの行為を、仏教の昔の言葉で、「業」といいます。
この業には力がありますので、「業力」といわれます。
私たちの行いは、目に見えない業力となって、
非常に強い力で、私たちの運命を生み出します。
目に見えない業力が、どのようにして目に見える運命を生み出しているのかは、
昔からこのような古歌で分かりやすく教えられています。
年毎に 咲くや吉野の 山桜
木を割りて見よ 花のありかは
「吉野」というのは奈良県の吉野山です。
吉野山は、昔から桜の名所として知られており、
毎年春になると、美しい桜の花が咲き誇ります。
ある人が冬に吉野山を訪れてみると、
春にはあんなに満開だった桜の木が枯れ木のようになっており、
花が咲く様子は全くありませんでした。
不思議に思った彼は、木を割ってみましたが、
花やつぼみの形跡は全くなかった、という歌です。
しかしそれは、枯れ木ではありませんので、
目には見えない花を咲かせる勢力が備わっています。
その勢力が、春の暖かい日差しに触れると、
縁に触れ折に触れ、美しい桜の花が咲き乱れるのです。
これと同じように、私たちが心や口、体で何かを行うと、
目には見えませんが、その行いは消えることなく「業力」となって蓄えられます。
この「業力」は「業種子」ともいい、
「阿頼耶識」という私たちの心の奥底にある本心に蓄えられ、
いつまでも消えることはありません。
そして、縁が巡ってきたときに、目に見える運命となって現れるのです。
この業力について、詳しくは以下の記事をご覧ください。
➾カルマ(業)の法則の仏教的意味を分かりやすく解説
縁を選ぶ大切さ
ここで注意しなければならないところがあります。
確かに、目に見えない業力が、目に見える運命に変わるには、縁が必要ですが、
それは、縁によって結果が生じたのではない、ということです。
仏教ではあくまで自業自得で、自分の行いが運命となります。
その蓄えられた業力が、運命に変わるきっかけになったのが縁というだけに過ぎません。
春になっても、枯れ木であれば、花が咲かないように、
実力がない人は、どんなチャンスに恵まれても、花開くことはありません。
実力のある人が、チャンスに恵まれて成功をおさめるようなものです。
一番大事なのは、自分の行いです。
ですが、縁が自分の行いに影響を与えることもまた事実です。
よく勉強をする人を友人に持てば、その友達の縁で自分も勉強するようになり、
毎日遊んでばかりいる人を友人にしたら、その友達の縁で自分も遊びが多くなります。
縁によって行いまで影響を受けてしまうので、
慎重に縁を選ぶことが重要になります。
このような縁起の法により、お釈迦様は苦しみの原因を12回さかのぼられて、それを順観し、逆観して仏のさとりを開かれたと説かれています。
それが「十二縁起」です。
十二縁起
十二縁起は、十二因縁ともいわれ、
私たちが苦しみ悩む原因を、12の段階に分けて説明したものです。
これによって私たちの「苦しみの原因は何か」を明らかにされています。
12の原因は、『倶舎論』によれば、以下の通りです。
- 無明
迷いの根本のこと。 - 行
前生で行った業。これが原因となり、次の「識」を生み出す。 - 識
前生の業が初めて精神的な結果としてあらわれたもの。
眼、耳、鼻、舌、身体、意識の6つの感覚器官による認識のこと。 - 名色
識が具体的な形となったもの。
「名」は心の働き、「色」は物質的な存在(特に身体)のこと。 - 六処
眼、耳、鼻、舌、身、意の六感ができて、六識ができるまで。 - 触
初めて外界の事物を感覚し始める小さい頃。 - 受
外界から種々の言語や知識を受け取る時代。 - 渇愛
精神が発達して色欲が強くなり、愛憎の思いを感ずる青春時代。 - 取
欲望がますます激しく起きる時代。 - 有
業のこと。業は未来の結果を有するということで「有」という。 - 生
現世に造った業によって、次の世に生を受けること。 - 老死
年を取り、死ぬこと。生きている人にとって最大の苦しみ。
十二因縁は、過去・現在・未来の三世にわたります。
1番目〜2番目までは過去世のこと、
3番目〜10番目までは現在世のこと、
11番目〜12番目は未来世のことです。
苦しみの原因の追求は、仏のさとりを開かれたお釈迦様しかできませんでした。
そのためお経には、次のように説かれています。
この十二因縁は、見難く知り難し。
(漢文:此十二因縁難見難知)(引用:『長阿含経』)
十二縁起について、詳しくはこちらの記事をご覧ください。
➾十二因縁(十二縁起)とは?その意味を分かりやすく解説
縁起の法を信じ難い理由
このように運命の真理を教えられた縁起は、実はなかなか信じ難いものです。
縁起が成り立たない場合も多いのではないか、とか、
人のせいで不幸になることもあるのではないか、とか、
他の人には縁起は成り立つかもしれないけど、自分の場合は成り立たない、
という人もあります。
なぜ縁起はこうも受け入れ難いのでしょうか?
お釈迦様は、縁起が信じられないのは、欲や執着が原因だ、
と教えられています。
この衆生は実に執を好み、執に愛著し、執を歓喜す。
しかして執を好み、執に愛著し、執を歓喜する者には、このこと、すなわち是に縁ること、縁生〔の法〕は見難し。(引用:『南伝大蔵経』第9巻)
これはどういう意味かというと、
すべての人たちは、まことに執着することを好み、執着に深い愛着を持ち、
執着することを喜ぶ。
そして、執着することを好み、執着に深い愛着を持ち、
執着することを喜ぶ者たちにとって、
このこと、すなわち、原因によるという縁起の法を見ることは難しい、
ということです。
なぜ欲によって縁起が信じられないのかというと、
私たちは欲が深いので、種まきをせずに幸せになりたいと思います。
なるべく勉強せずに、いい成績が取りたいとか、
できるだけ働かずに、お金が欲しいと思います。
その欲の心が、種まきに応じた結果が生じるという縁起の法と相容れないのです。
確かに、善をすることは、欲との戦いです。
ボランティアをするには、自分の時間や労力、お金を我慢する必要があります。
最初の約束よりも、条件の良い約束が後からきても、
最初の約束を優先させるのも欲との戦いです。
ボランティアや約束を守ることは、布施や持戒という善行なので、
やれば必ず幸せになれます。
善いことをしたら、善い結果が返ってくるのは分かっています。
ですが、このような時、欲の心がムクムクと見えてきます。
そして、簡単に欲の心に負け、目先の欲のために散財したり、約束を破りたくなったり、遅刻したりしないでしょうか。
縁起の法を頭では知っていて、善因善果は分かっていても、
ついつい負けてしまうことが多くなります。
さらに私たちには、愚痴という煩悩があります。
これは、真理に迷う愚かな心で、縁起の法が分からない心です。
縁起の法の実践は、欲や怒り、愚痴の煩悩との戦いです。
この煩悩に負けず、縁起の法を実践すれば、必ず幸福になれます。
ちなみに、煩悩について詳しくはこちらの記事をご覧ください。
➾煩悩とは?意味や種類、消す方法を分かりやすく網羅的に解説
煩悩によって、縁起の法をなかなか信じられない私たちが、
どのようにしたら幸せになれるのか。
本当の幸福とはどこにあるのか。
お釈迦様は、縁起の法に立脚して、本当の幸福とそこに至る道、
つまり本当の幸福の因果について明らかにされたのです。
本当の幸福とは何か
今回は、縁起について詳しく解説しました。
縁起が、何かいいことや悪いことが起きる兆候ではないことが
よくご理解いただけたかと思います。
縁起は、「縁りて起こる」という意味で、
「因縁に縁って集まり生じること」です。
お釈迦様は、どんな結果にも必ず原因があると明らかにされましたが、
それはすべての人を本当の幸せに導くためなので、
特に運命の因果を教えられています。
それは、
善因善果
悪因悪果
自因自果
善い行いによって幸せな運命が生じ、
悪い行いによって不幸や災難が引き起こされるという縁起の法則です。
この縁起の法は、仏教に説かれる真理であり、
お釈迦様が仏のさとりを開かれなければ絶対に分からなかったものです。
これによって、運命の因果が分からずに迷信に迷いがちな私たちに、
幸福な運命を得たければ善いことをしなさいと、
真剣な善を勧められ、正しい生き方に向かわせられました。
私たちを本当の幸福に導くための軌道に乗せるためです。
そして、お釈迦様が縁起を説かれた目的は、本当の幸せへ導くためです。
では、苦しみの根本原因をなくして、本当の幸福になるためにはどうしたらいいのか。
それは仏教の真髄ですので、電子書籍とメール講座にまとめておきました。
ぜひ読んでおいてください。
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この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)