「現代人の仏教教養講座」

 

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生きる意味を、知ろう。

善とは?

よく小さい子供に
もう大きいんだから、何が善いことで、何が悪いことか分かるでしょ
といいます。
では、大人は本当に分かっているのでしょうか?
仏教で、善についてどのように教えられているのでしょうか?

自ら善を実践されるお釈迦さま

増一阿含経ぞういつあごんきょう』にはこのようなことが説かれています。

あるとき、お釈迦さま十大弟子の1人で、
目の見えない阿那律あなりつ尊者が、
衣のほころびを繕おうとすると、
針に糸を通すことができませんでした。

そこで阿那律尊者は、
誰か、善を求めようと思う人は、この針に糸を通して下され
と周囲に呼びかけました。

その時、
ぜひ私にさせてもらいたい
と申し出られたのは、なんとお釈迦さまでした。

阿那律はその声に驚いて
お釈迦さま!?
お釈迦さまは全ての善と徳を
成就なされたお方ではありませんか

と言いました。
お釈迦さまは、
仏のさとりを開いたからといって、
小さな善を疎かにしてよい道理がない。
世の中で、善を求めること私にすぐる者はない

と答えられたと言われています。
(出典:『増一阿含経ぞういつあごんきょう』)

阿那律あなりつ尊者の、
「仏のさとりを開かれたら、もう善いことをする必要はないのではないでしょうか」
という疑問は多くの人が持つと思います。
「仏様ならみんなから尊敬されるし、お布施ももらえるし、弟子に対してわざわざ針を通される必要があるのだろうか」と思います。
ところがお釈迦さまは、私ほど善を求めている者はないと言われて自ら積極的に善をされています。
これは一体どういうことなのでしょうか?

仏教は善のススメ

仏教は、約2600年前、お釈迦さまが、
35才で仏のさとりを開かれてブッダになられ、
80才でお亡くなりになるまでの45年間、
ブッダとして説かれた教えを仏教といいます。

この45年間の教えは、
七千余巻の一切経に書き残されています。

仏教の根幹」として、
この一切経のすべてを貫いているのは、
因果いんがの道理です。

因果の道理
道理」とは、
いつでもどこでも変わらない大宇宙の真理のことで、
因果」とは、
すべての結果には必ず原因がある
原因なしに起きる結果は万に一つもない、
ということです。

特に仏教では、私たちの一番知りたい
運命の原因と結果の関係
を教えられています。

そこには、このような関係があります。

善因善果ぜんいんぜんか
悪因悪果あくいんあっか
自因自果じいんじか

善いタネをまいたら、善い結果、
悪いタネをまいたら、悪い結果がきます。
自分のまいたタネは、全部自分が刈り取らなければならない
ということです。

この因果の道理の結論は「廃悪修善はいあくしゅぜん」です。
廃悪修善」とは、をやめて、善をしなさい、
ということです。

悪い結果は来てほしくないのなら、
悪因悪果なのだから、をやめなさい。
また、すべての人は、幸せな結果を求めて生きているのですから、
善因善果なのだから、善をしなさい、
と教えられているのが、お釈迦さまの一切経です。

仏教を一言で言うと?

あるとき、大きな木の枝で、
座禅をしている僧侶がいました。

そこに大変有名な儒教の学者の
白楽天が通りかかりました。

白楽天は、木の上の僧侶を見つけると、
一つ冷やかしてやろうと声をかけました。
坊さんよ、そんなところで
 目をつぶっていたら危ないぞ

ところが、その僧侶は厳かに、
そういうそなたこそ危ないぞ
と答えます。

普通は、木の上で目をつぶっているほうが危ないのに、
しっかり大地に立っている自分を危ないとはどういうことか。
白楽天は「これは相当の高僧かもしれない」とピンときました。

そこで、
私は白楽天という名もなき儒者だが、
 貴僧の名前を聞かせて欲しい

と尋ねると、木の上の僧侶
私は名もなき鳥の巣だ
と答えます。

当時、白楽天も有名な学者なら、
鳥の巣も大変有名な高僧でした。

白楽天は、もし機会があれば
仏教の教えも知りたいと思っていたので、
これはいいところで会ったと思い、
仏教というのがどういう教えなのか、
 一言でお教え願いたい

と尋ねました。

どんな仏にも共通する教え

そのとき鳥の巣は、こう答えます。

諸悪莫作しょあくまくさ(もろもろのをなすことなかれ)
衆善奉行しゅぜんぶぎょう(もろもろの善を行じたてまつれ)
自浄其意じじょうごい(自らそのこころをきよめよ)
是諸仏教ぜしょぶっきょう(これ諸仏の教えなり)

これは「七仏通戒偈しちぶつつうかいげ
といわれ、どんな仏にも共通する教えを
歌で表されたものです。

それを聞いた白楽天は、
なんだ、そんなことを教えたのが仏教なのか。
 仏教というのは、どんな大層なことを教えたものかと思ったら、
 そんなをやめて善をせよという程度のことは、
 3歳の子供でも知っている

と冷ややかに笑うと、鳥の巣禅師は、
3歳の童子もこれを知るが、
 80歳の翁もこれを行うはかたし

と一喝しています。

三歳の孩兒がいじい得るといえども 八十の老人も行い得ず。
(漢文:三歳孩兒雖道得 八十老人行不得)

仏教では、知識として知っていればいいというわけではありません。
教えを知らなければ実践はできないので、
教えを知ることはもちろん大切ですが、
それは実践するためです。
仏教では、知識よりももっと大切なのは、教えの通りの善の実践なのです。

それにもかかわらず、悪いことをやめたほうがいいと、
わかっちゃいるけどやめられないのです。

知っていることとできることは違う

お釈迦さまが教えられていることは
知った分かったで終わりということではありません。
知っていることとできることとは、まったく違います。

『ダンマパダ』(『法句経ほっくきょう』)には、このように教えられています。

たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである。──牛飼いが他人の牛を数えているように。かれは修行者の部類には入らない。

これは、漢文調でいえば
「意味の深い教えを口に語っても、
放逸にして正しく教えに従わなければ、
牛飼いが他人の牛を数えるがごとし。
沙門の結果を得ること難し」
ということです。

知っただけでなく、やってみなさい、
がやめられて、善ができるかどうか、
教えの通りやってみなさい、
ということです。

善はいつやるべき?

では、善はいつやるべきなのでしょうか?
お釈迦さまは、このように教えられています。

善をなすのを急げ。
悪から心を退けよ。
善をなすのにのろのろしたら、心は悪事をたのしむ。

日本のことわざにも、「善は急げ」といわれますが、
善はなるべく早くしたほうがいいのです。
思い立ったらすぐです。

これを歌った歌が、こちらです。

善い因は 時期を選ばず すぐに蒔け

善はいつやってもいいのです。

では、善とは何でしょうか?

善とは

善とは善因善果の因果の道理によって、
幸せ運命を生み出す行い」のことです。

お釈迦さまは、こう説かれています。

善いことをした人は、この世で喜び、来世でも喜び、ふたつのところで共に喜ぶ。

このことを『 成唯識論じょうゆいしきろん 』には、こう教えられています。

この世、他世の順益をなすが故に名づけて善となす。
(漢文:此世他世順益故名爲善)

この世から死後にわたって幸せ運命を生じるものを善というのです。
ですからお菓子を食べるとか、レジャーに行くとかは、そのときは幸せかもしれませんが、
死後幸せになるわけではありませんので、仏教で善とはいいません。
この世も未来も幸せにするたねまきを善といいます。

そんな善を、お釈迦さまは、七千余巻の一切経に、
具体的にこんなことをしなさい、
とたくさん説かれていますので、
これを「諸善万行しょぜんまんぎょう」といいます。

諸善」とは、もろもろの善のことです。
万行」とは、よろずの行と書きますが、
」とは善のことですから、色々の善のことで、
諸善も万行も同じ意味です。

ところが、あまりたくさんあると、
どれをしようかと目移りして、
結局やらなくなってしまいますので、
お釈迦さまは、あらゆる善を6つにまとめて、
六波羅蜜ろくはらみつ」を教えられています。

これは、中国の言葉では「 六度万行ろくどまんぎょう」ともいわれ、
以下の6つです。

六波羅蜜
  • 布施ふせ……親切
  • 持戒じかい……言行一致
  • 忍辱にんにく……忍耐
  • 精進しょうじん……努力
  • 禅定ぜんじょう……反省
  • 智慧ちえ……修養

この6つの善い行いをしなさい
お釈迦さまは教えられているのです。

善い行いとは?

行いには、心と口と身体の3通りあります。
行いのことを「ごう」といいますので、
この3つの行いを「三業さんごう」といいます。

お釈迦さまは、口と身体で善いことをしなさい、
そして口や身体で立派な振る舞いをしても、
心でを思っていてはいけませんよ、
心もそれにあわせていきなさい、
と教えられています。

ところが、お釈迦さまは、
一切経七千余巻の中でも、
私がこの世に生まれて仏教を説いたのは、
このお経を説くためだといわれている
大無量寿経だいむりょうじゅきょう』というお経があります。

そこには、すべての人の姿をこのように教えられています。

心常念悪(心は常にを念じ)
口常言悪(口は常にを言い)
身常行悪(身は常にを行じ)
曽無一善(かつて一善無し)

すべての人は、心も口も身体も、しかできない極悪人だ、
ということです。

ではなぜお釈迦さまは、すべての人は、
一つの善もできないと言われながら、
善を勧められたのでしょうか?

善をするとどうなるの?

なぜお釈迦さまは、すべての人は
善のできない悪人だと知られながら、
善を勧められているのかというと、
私たちが自惚れているからです。

自惚れて、自分の姿が分からなければ、
本当の幸せになることはできませんので、
その自惚れを打ち砕くために、
善を勧めて導いておられるのです。

実際、善をするとどうなるかというと、
善因善果で、幸せ運命がやってきます。

それと同時に、のやめがたく、
善のできがたいことが知らされます。

私は一日一善を心がけています、毎日善をやっていますよ
という人は、口や身体で善いことをしているようでも、
心ではどんなことを思っているでしょうか?

心ではとても他人に言えないようなことを思っていては、
善とは言えません。
実際に善をやってみると知らされてくるのは、
今まで気づかなかった心の姿です。

廃悪修善につとめればつとめるほど、知らされるのは自分の心の姿です。
実際やってみると知らされてくるのは、しかできないことです。
やらない人には知らされませんが、やってみると知らされます。

知らされた真実の自己

中国の唐の時代の高僧、善導大師ぜんどうだいしでさえ、
このように言われています。

一人一日のうちに八億四千の憶いあり。
念々になすところ、これみな三塗のなり。

一人」とは善導大師のことです。

善導大師のような立派な方でも、
1日8億4千回心が変わると言われています。

しかも「三塗の」とは「」のことです。
八億四千回思うことは、ばかりだということです。

このように、心に思うことがばかりなら、
心に動かされている口も身体も、
常にばかり言ったりやったりしますから
一つの善もないのです。

日本の親鸞聖人は、『歎異抄』に、
こういわれています。

いずれの行も及び難き身なれば、地獄は一定すみかぞかし。

」とは「」のことですから、
お釈迦さまが「かつて一善なし」といわれた通り、
一つの善もできない、地獄しか行き場のない私でした、
ということです。

これがすべての人の本当の姿なのですが、
私たちは自惚れて、
本気になれば、何でもできる
と思っています。

この心がある間は、本当の幸せになれませんので、
お釈迦さまは、私たちに自分の真実のすがたを知らせて、
本当の幸せまで導くために、
善の実践を勧められているのです。

では、どうすれば本当の幸せになれるのかについては、
仏教の真髄なので、電子書籍とメール講座にまとめておきました。
一度見てみてください。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生

日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか一人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。インターネットの技術を導入して日本仏教学院を設立。著書2冊。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと奮戦している。

仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者3千人、メルマガ読者5万人。ツイッター(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能

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