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大乗仏教と小乗仏教(部派仏教)の違い

仏教には、小乗仏教と、大乗仏教の2つがあります。
では、ブッダは小乗仏教と大乗仏教の2つの教えを説かれたのかと言いますと
ブッダは1人ですから、2つの教えを説かれたのではありません。

ではなぜ仏教に2つの教えがあるのでしょうか?
大乗仏教と小乗仏教の違いはどのようなものでしょうか?

大乗とか小乗は誰の言ったこと?

まず、大乗とか小乗というのは、誰が言ったことなのでしょうか?
よく世間では、
小乗仏教というのは、大乗仏教の人が言い出したことだ」とか、
小乗仏教という言葉は、大乗仏教の人が言い出した貶称だから使うべきではない
と言う人があります。

本当にそうでしょうか?
「小乗仏教という言葉は、大乗仏教の人が言い出した貶称」ということに何か根拠はありますか?

小乗を貶称というのはどういう人?

こういう主張は、どんな人が言うことなのか少し調べてみると、
1932年に宇井伯寿が『印度哲学史』で
「自ら小乗仏教と称するものはないから大乗仏教が他を貶称した為に起った名称に過ぎぬ」
といっています。
この主張の理由として「自ら小乗仏教と称するはずがないから」と書いているので推測に過ぎません。
その後も、中村元や水野弘元など、パーリ語に造詣の深い学者が、根拠も挙げずに「小乗とは大乗仏教の人達が言い出した貶称だ」と言っています。

ですがパーリ仏典を主とする近代仏教学を擁護する立場の人がそれを言ってしまうと、自分達に都合のいいポジショントークになるばかりか、「人の悪口を言っている」と、大乗仏教の人たちを貶めることになってしまいます。

実際に、本当に大乗仏教の人達が言い出したのか、「小乗」の起源を調べてみると、
小乗とか大乗は、実際はお経に説かれていることです。
つまり小乗とか大乗といわれているのは、ブッダです。
大乗仏教の人が小乗仏教と言い出したのではなく、ブッダがお経に説かれていることだったのです。

小乗とか大乗の出典

ではどこに言われているのかというと、『法華経』や『涅槃経』、『般若経』や『維摩経』『華厳経』などの大乗経典にはもちろん、小乗経典といわれる『阿含経』にも説かれています。

例えば『増一阿含経』には、このように説かれています。

小乗のよく知るところにあらず。
(漢文:非小乗所能知)

また、このように説かれているところもあります。

世尊の所説おのおの異る。
菩薩は意を発して大乗に趣き、如来この種々の別を説く。
人尊く六度無極を説く、布施、持戒、忍辱、精進、禅、智慧力

(漢文:菩薩發意趣大乘 如來説此種種別 人尊説六度無極 布施持戒忍精進 禪智慧力)

世尊」というのは、釈迦牟尼世尊のことで、ブッダのことです。
ブッダの説かれるところはそれぞれ異なります。
そして「六度」とは、六波羅蜜のことです。
これは、あらゆるを6つに要約されたもので、具体的には、布施持戒忍辱にんにく精進禅定ぜんじょう智慧の6つです。
それをブッダが説かれているのです。

ちなみに、『増一阿含経』を漢訳したのは、僧伽提婆そうがだいばという西域出身の三蔵法師です。
僧伽提婆は、小乗仏教とされる説一切有部の僧で、中国では説一切有部の論に基づく 毘曇宗びどんしゅう の祖とされる人です。
それでもブッダの説かれたことなので、そのまま翻訳しているのです。

このように、小乗とか大乗と、色々なお経に一貫して説かれているのは、ブッダご自身なのです。

貶称=大乗への悪口?

ですから小乗とか大乗というのは、特定の人を言い表された固有名詞ではなく、別に貶称とか蔑称とか、尊称とか美称ということでもありません。
小乗よりも大乗のほうが望ましいような、一般名詞です。
そして、小乗とか大乗という言葉を使わなければ、その言葉が使われている仏教の教えに言及できなくなってしまいます。
お経に説かれている以上、仏法者は使わざるをえません。
それなのに「小乗」が、大乗仏教の人たちが言い出した「貶称」ということは、大乗仏教の人たちへの悪口になるので、あまり言わないほうがいいです。

さて、では小乗とか大乗とはどんなものなのでしょうか。

小乗仏教とは?

まず「小乗」とは、小さな乗り物ということですから、
小乗仏教といわれるのは、
小さな乗り物のような仏教ということです。

仏教の辞典にはこのようにあります。

小乗
しょうじょう[s:hīnayāna]
サンスクリット語は、劣った乗り物の意。
<下劣乗>と訳すこともある。
自利よりも利他を標榜ひょうぼうし強調する菩薩行ぼさつぎょうの仏教徒が自分たちの教えを<大乗>(すぐれた乗り物)と称し、声聞しょうもん縁覚えんがくの二乗に対して、自利を図ることしかしないとして名付けた貶称へんしょう
このうち声聞乗は、大乗興起時代の守旧的で、煩瑣はんさな教学に明け暮れた部派仏教を指していると考えられるが、彼等自身が自らを小乗と称したわけではない。

この仏教辞典では、「小乗」はブッダの説かれたお言葉であることが、考慮されていない記載になっています。
下劣乗というのは表現がすごいですが、ここでは一応小さな乗り物としておきます。
ではなぜ小さな乗り物といわれるのかというと、その理由は2つあります。

自分が幸せにならないと他人を幸せにできない?

まず1つ目は、小乗仏教の場合は、出家した人は、
まず瞑想などの自分の修行をすることを優先して、
自分が悟りをひらくまでは他人を救おうとはしないからです。

出家していない人は、僧侶の集まりに布施をして、僧侶修行をサポートします。
しかし自分も修行しない限り、救われるわけではありません。
出家して修行した人しか救われず、出家した人は自分の幸せを優先する、
小さい乗り物のような教え
なのです。

このように教え、実践するのは、部派仏教とか、上座部(テーラワーダ)仏教といわれる仏教の宗派です。
現在は、スリランカを中心に、タイやミャンマーなど、東南アジアに広まっています。

しかし、これは他人事ではありません。
このような自己中心的な考え方をしてしまえば、
大乗仏教の広まっている日本の私たちも同じです。
現代の日本でも、自己啓発やビジネスで、
自分が幸せではないのに、人を幸せにできるはずがないから、
まず自分が幸せになっていいのですよ

と教える人があります。
これは小乗仏教的な考え方ですが、説得力があるようで、
聞いた人の心にも心地よいので、信じてしまう人があります。
小乗仏教は私たちの心にとてもよく響き、受け入れやすいのです。

しかし、もしそうだとすれば、自分が幸せになったと思うまでは自分を優先することになります。
人間の欲望は無限なので、なかなか自分が幸せになったとは思いません。
結局、自己中心的な考え方で終わってしまいます。
これは私たちが非常に気をつけなければならないことなのです。

自分が幸せになった後、他の人は?

小乗仏教が小さな乗り物である2つ目の理由は、悟りを開いた後にもあります。

仏教では、すべての生きとし生けるものは、生まれ変わり死に変わり、輪廻転生りんねてんしょうしています。
輪廻というのは、車の輪が回ると書くように、どこまで行ってもゴールがありません。
この生まれ変わりは、永遠に終わることのない苦しみ迷いの旅なので、輪廻転生といわれます。

仏教の目的は、小乗か大乗かによらず、この輪廻転生から離れることです。
ところが、小乗仏教で最高の悟りである阿羅漢の悟りを開き、輪廻転生から離れた人はどうなるかというと、消滅してしまうと言います。
それが小乗仏教の教える涅槃ねはんです。

もしそうだとすれば、悟りを開いた自分は苦しみ迷いの旅が終わり、涅槃の境地で安らかになるかもしれませんが、まだ救われていない人はどうなるのでしょうか?

ブッダの説かれた仏教は、そんな自分だけ幸せになりなさいという教えではありません。
また、自分の幸せを優先しなさいという教えでもなければ、
出家して戒律を守り、厳しい修行のできる一部の人だけを救おうとする差別の教えでもありません。
どんな人でも救われる、大きな乗り物のような教えが仏教です。
これを「大乗仏教」と言います。
では、大乗仏教とはどんな教えなのでしょうか?

大乗仏教とは?

大乗」とは、大きな乗り物ということで、
すべての人が救われる教えを大乗仏教と言います。

日本に伝わって現在残っている宗派は、
華厳宗も、法相宗も、天台宗も、真言宗も、禅宗も、浄土宗も、浄土真宗も、
すべて大乗仏教です。

参考までに仏教辞典を見てみると、こう書いてあります。

大乗
だいじょう[s:mahāyāna]
原語を音写して<摩訶衍まかえん>ともいう。
大きな(mahat。複合語においてはmahā-)乗り物(yāna)の意で、小乗(hīnayāna)に対する語。
仏教の修行者は、声聞しょうもん(仏弟子。僧院に集団生活をする出家)、独覚どっかく(一人で山野において縁起を悟り、人に教えを説くことなくく出家。縁覚えんがくともいう)、菩薩ぼさつ(仏陀になることをめざす在家および出家の修行者)の3種に分けられたが、自利に専心する前二者の教えを<小乗>、利他にはげむ菩薩の道を<大乗>という。
大乗とは、あらゆる衆生を乗せて悟りに導く大きな乗り物(教え)のことである。

ここに「利他に励む」とありますが、それが大乗仏教の大きな特徴です。
利他に励むとは、一体どういうことなのでしょうか?

生きている時の実践

大乗仏教の教えに一貫する特徴は、「自利利他じりりた」です。

自利利他」の「」とは幸せになることですから、
自利利他」とは、自分が幸せになるままが他人も幸せになるということです。

分かりやすいように、儲かるとか得するということでいえば、
自分が儲かるままが、同時に他人が儲かることになる。
他人を儲けさせるままが自分の儲けになる、ということです。

最近よく言われるような、
「自分がまず幸せにならなければ、他人を幸せにすることはできない」
ということではありません。
自分が幸せになると同時に他人も幸せになるのです。

龍樹菩薩(ナーガールジュナ)は、『十住毘婆沙論じゅうじゅうびばしゃろん』に、このように教えられています。

他を利するはすなわちこれ自らを利するなり。
(漢文:利他者即是自利)

そして、自分が幸せになったら、こんな幸せになって
自分だけ独り占めしてしまったらもったいないと
人に伝えずにおれませんし、他人を幸せにするままが
自分が幸せになるということです。

自利のままが利他になる、
利他のままが自利になる、
これが自利利他
です。

それで、大乗仏教の人が行う「六波羅蜜」には、
小乗仏教の人たちが行う「八正道」にはない、
布施」が一番最初にあるのです。
布施とは、他人に親切することで、他人を幸せにするままが自分が幸せになるということです。

死んでからは?

そして自分だけ幸せになって終わりという教えでもありません。
死んで浄土へ生まれ、仏に生まれたら、自分だけ八功徳水の温泉につかって、百味の飲食をたらふく食べて、末永く幸せに暮らしましたとさ、で終わりません。
まだ娑婆世界には苦しんでいる人がたくさんあります。
仏さまには慈悲の心がある、というより慈悲のかたまりですから、苦しんでいる人がいるのに自分だけ幸せになって、
あーあ、苦しんでるなー。それもまあ自業自得だわー
とじっと見ていることはできません。
それではサイコパスです。
仏さまは冷酷なサイコパスではないので、苦しみ悩むすべての人を救わずにはいられなくなります。
すぐに娑婆世界にかえってきて、すべての人を救う大活躍が始まるのです。

それが本当の仏教です。

大乗仏教と小乗仏教の7つの違い

それだけではなく、大乗仏教と小乗仏教は、色々なところが違うといわれます。
代表的なのは以下の7つです。

最高の悟り

まず分かりやすいのが、到達可能な最高の悟りが
大乗仏教と小乗仏教で異なります。
大乗仏教では、最高のさとりは仏で、
すべての人が仏になれると教えられています。
それに対して小乗仏教では、すべての人が仏になることはできず、
最高でも阿羅漢という悟りまでです。
ただ、小乗仏教では、阿羅漢は仏のさとりとほとんど同じだとしています。

仏身観

仏についての理解も異なります。
小乗仏教では、例えば説一切有部では、
肉体のあるお釈迦様は煩悩ぼんのうのある有漏うろの仏身で、
仏の成就した仏徳は煩悩のない無漏むろの仏身とします。
また、大衆部では、諸仏はすべて有漏はないとします。

大乗仏教では、一般的に4つに分けられます。
法身ほっしん報身ほうじん応身おうじん化身けしんの4つです。
まず法身は、色も形もない、言葉も心も及ばない仏です。
ですが、それでは私たちと縁を結んで救うことができないので、
私たちに分かる姿を現されたのが報身です。
応身とは、お釈迦様のような人間の姿の仏です。
化身とは、人間以外に姿を変えた仏です。
大乗仏教では、一般的にこのような四種ししゅの仏身が教えられています。

また、小乗仏教では、お釈迦様以外に過去かこ七仏しちぶつが教えられています。
一方、大乗仏教では、三世十方の諸仏という
大宇宙の数え切れないほどの仏が教えられています。

無我・空

小乗仏教では、無我むがが教えられています。
無我とは、固定不変なものは何もないということです。
車を分解すれば、もう車とは言わないことなどにたとえて教えられています。
そしてさらに、部派仏教になると、この世の要素を75に分けて、それらの組み合わせであるこの世のすべては無我であることを論証しました。
ただ、その要素は有だとしてしまったので、我空法有といわれます。
法とは。ここでは構成要素のことです。

無我については、以下に詳しく解説してあります。
仏教の無我の意味、諸法無我と無我の境地との違い

大乗仏教でも無我は教えられていますが、
多くは「くう」と表現されます。
無我と同じ意味ですが、大乗仏教を大成した龍樹菩薩りゅうじゅぼさつが、因果の道理(縁起)によって理論的に裏付けています。

空については、以下に詳しく解説してあります。
龍樹菩薩(ナーガールジュナ)の大乗仏教と空とは?

大乗仏教では、この世の要素を100に分けて、それらも空であることを明らかにされていますので、小乗仏教の我空法有に対して我法二空といわれます。

実践

小乗仏教では、主として八正道はっしょうどうを実践します。
八正道とは8つの実践項目です。
それぞれどんなものかは、以下の記事をご覧ください。
八正道はっしょうどうを分かりやすく解説。六波羅蜜との違いについても

小乗仏教では、仏のさとりを求める菩薩は、仏のさとりを開く前のお釈迦様のことでした。
仏教を求める人は、仏のさとりは開けず、最高でも阿羅漢にしかなれませんので、
菩薩は仏のさとりを開く前のお釈迦様のことです。

それに対して大乗仏教では、すべての人が仏のさとりを開くことができるので、
それを目指す人は誰でも菩薩です。
そして、菩薩が実践すべきことは六波羅蜜ろくはらみつという6つの実践項目です。
それぞれどんなものかは、以下の記事をご覧ください。
六波羅蜜ろくはらみつとは?内容6つと実践方法を簡単に分かりやすく解説

経典

現在残っている部派仏教では、パーリ語の仏典が伝えられ、それに基づいています。
パーリ語の仏典は、もともとスリランカにシンハラ語で伝えられていた仏典を、
5世紀頃、ブッダゴーサがパーリ語に翻訳、編纂したものだといわれています。

大乗仏教では、1世紀頃から翻訳された漢訳経典、
8世紀頃からチベット語に翻訳された経典に基づいています。
これらは量から言っても、パーリ仏典の約10倍あります。

お経については、以下の記事をご覧ください。
お経をあげる(唱える)・読経の意味や効果は?お経の数、種類、宗派別のまとめ

別の呼び名

この伝えられた経路から、小乗仏教のことを南伝仏教、大乗仏教のことを北伝仏教といわれることもあります。
また、小乗仏教のことを部派仏教とか、部派仏教の一部である上座部仏教といわれることもあります。

伝えられた主な国

主として伝えられた国は、小乗仏教は、タイ、ミャンマー、カンボジア、ラオス、スリランカなどです。
大乗仏教は、中国、朝鮮、日本、チベット、モンゴルです。
インドでは一旦滅亡したといわれますが、日本の僧侶が大乗仏教を逆輸入のように伝えています。

このような、小乗仏教と大乗仏教の違いを一覧表にするとこうなります。

小乗仏教 大乗仏教
悟りの到達点 阿羅漢 仏覚
仏身観 有漏と無漏の仏身 四種の仏身
無我・空 車などにたとえて説明 縁起(因果律)によって理論づけ
実践 八正道はっしょうどう 六波羅蜜ろくはらみつ
経典 パーリ仏典 サンスクリットを翻訳した仏典
別の呼び名 上座部仏教・南伝仏教 北伝仏教
タイ
ミャンマー
カンボジア
ラオス
スリランカ等
日本
朝鮮半島
中国
インド
チベット
モンゴル等

これらの中で、教えの上では、小乗仏教の教えをより深めたのが大乗仏教の教えとなっています。
小乗仏教の延長線上にあるのが大乗仏教です。

ところが、ここにあげた以外で、
延長線上ではなく、正反対になっている教えがあります。
それが小乗仏教と大乗仏教の最大の違いです。

小乗仏教と大乗仏教の最大の違い

小乗仏教でも、もちろん利他は教えられています。
小乗仏教の最高のさとりである阿羅漢さとりを開いた人も、死ぬまでのしばらくの間は、人を救おうとします。

では、大乗仏教の自利利他とどこが違うのでしょうか。
それは大乗仏教の自利と利他は一体のもので、自分が幸せになると同時に他人も幸せなりますが、
小乗仏教の場合は、まず自分が幸せになってから、他人を幸せにしようとする点にあります。

これは大乗仏教が自分と他人を同時に幸せにするのに対して、
小乗仏教では自分の幸せが先で、他人の幸せは後ですから、
自分が幸せにならなかったら人のことはかまっていられない
他人よりも自分が幸せになるのが優先
ということになります。

世間でも、自分が儲かることばっかり考えて
人のことを全然考えていない人は、儲かるはずがありません。
自分のふところに入れることばっかり考えて
相手に喜んでもらおうという心がないのです。

自分のことばっかり考えている人は必ず破滅の道をたどりますので、幸せになれるはずがありません。

このような利己的で、自己中心的な考え方は、仏教ではありません。
これを「我利我利がりがり」といいます。
我利我利」とは、我が利益、我が利益と書きますように、
自分のことしか考えていないということです。

これが、ひっそりと小乗仏教の根底を流れている精神です。

つまり、
小乗仏教は、我利我利の教えであり、
大乗仏教は、自利利他の教えである、
ということです。

これ以外の教えは、小乗仏教の延長線上に大乗仏教の教えがあります。
例えば、仏身なら、小乗仏教では有漏と無漏の2種類ですが、大乗仏教では、四種の仏身が教えられていたり、
仏なら、小乗仏教では過去七仏が教えられていますが、大乗仏教では、数限りもない三世十方の諸仏が教えられています。
実践でも、小乗仏教は八正道で大乗仏教では六波羅蜜ですが、小乗仏教でも布施は教えられています。
また、小乗仏教で諸法無我と教えられていることを、大乗仏教では、空と教えられています。
大乗仏教は小乗仏教よりも深く教えられているだけで、小乗仏教を否定するわけではありません。

ですが、小乗仏教の我利我利というのはは利己的で、大乗仏教の自利利他は、利他的ですから、正反対です。
方向性を異にしますので、これが、小乗仏教と大乗仏教の最大の違いになります。

この利他に関する小乗仏教と大乗仏教の違いを表にまとめるとこのようになります。

段階 小乗仏教の教え 大乗仏教の教え
1.救われるまで 自分の修行優先 他人を幸せにするままが自分も幸せに近づく
2.救われた後 他人を幸せにしようとする 他人を幸せにしようとする
3.死んでから 消滅する 苦しみ悩む人々を救う

この3つの段階で、果てしない遠い過去から、今、人間に生まれて、また未来永遠に流れて行く時間の流れの中で、救われるまでと、救われた後がほとんどです。
救われてから死ぬまでは、それに比べたら瞬きする間もありません。
わずか一瞬のことです。

そういうことからすれば、救われるまで自分の修行に打ち込み、一瞬は人を救おうとするものの、救われた人は死ねば消えてしまう小乗仏教と、
一貫してすべての人と共に幸せになろうとする大乗仏教の違いは歴然としているのではないでしょうか。

龍樹菩薩の根拠

これを龍樹菩薩(ナーガールジュナ)は、『大智度論』に、このように教えられています。

声聞乗は狭小にして、仏乗は広大なり。
声聞乗は自利を自らの為にし、仏乗は一切を益す。

(漢文:聲聞乘夾小 佛乘廣大 聲聞乘自利自爲 佛乘益一切)

声聞乗」とは小乗、「仏乗」とは大乗のことです。
小乗の人は、自分の幸せばかり考え、大乗の人は、すべての人を幸せにする、ということです。

他にも、このように教えられています。

声聞法の中には皆自らの為にし、大乗法の中に広く衆生の為にす。
(漢文:聲聞法中皆自爲身大乘法中廣爲衆生)

「声聞法」というのは小乗の教えですから、
「声聞法の中には皆自らの為にし」というのは、小乗の教えでは、みな自分のために善を行うということです。
それに対して、「大乗法の中に広く衆生の為にす」というのは、
大乗の教えでは、すべての人のために善を行うということです。

また、このように説かれているところもあります。

ともに一解脱門を求むるといえども自利、利人の異なりあり。この故に大小乗の差別あり。
(漢文:雖倶求一解脱門 而有自利利人之異 是故有大小乘差別)

共に解脱げだつを求めるといっても、自分の解脱ばかり求めるのか、すべての人の解脱を求めるのかという違いがある。
これによって、小乗と大乗の違いが出てくる、ということです。

龍樹菩薩は、最初小乗仏教で出家され、後に大乗仏教に転向された方です。
どちらもよく分かられた上で、同じことを言葉を変えて繰り返し教えられています。
小乗仏教と大乗仏教の最大の違いは、自分の幸せばかり考えるか、他人を幸せにしようとするかにあるのです。

なぜこんな大きな違いが生まれたのでしょうか?

なぜ小乗仏教と大乗仏教の違いが生まれたのか

ブッダの教えは、本来、すべての人を幸せにする教えであり、
我利我利の教えでないのは当然のこと
です。

そのブッダのすべての人を幸せにするという真意が分かった人たちが
ブッダの本心を正しく伝えられた教えが大乗仏教」です。

ところが「まず自分が幸せにならないと、他人を幸せにできない
というのは、怒り煩悩に満ちた私たちの心にとても心地よく響きます。
そして、人を幸せにするというのも大変です。
そのために聞き誤って、ブッダの本心が分からずに、
小さな乗り物のようにしてしまった仏教を
小乗仏教」といいます。
迷いの深い私たちは、とても聞き誤りやすいのです。

ですから「小乗仏教」は、ブッダの本心を聞き誤って、
ブッダの本当の心を伝えていない仏教です。
特に、現在も残っているテーラワーダ仏教の伝えるお経は、残念なことに、ブッダが亡くなって千年も経った5世紀に、ブッダゴーサという人がすべて編集してしまっています。
救われるまで自分の修行を優先し、死ねば自分だけ消滅してしまうという教えが、ブッダの本心を伝えていないとしても何の不思議もありません。

私たちが気をつけるべきこと

ただここで気をつけなければならないのは、問題はどんな宗派なのかではありません。
心が重要です。

小乗仏教は、
自分さえ助かればよい」という我利我利の教えですから
仏教を聞いても、自分さえ聞いていればいいと思って、
あまり伝えようとしません。

それではすべての人が救われませんので、
私たちが大乗仏教で自利利他を教えられていたとしても、
自分の幸せを優先していては、
小さな乗り物にたとえられる「小乗仏教」のようなものです。

本来の仏教は、自分が聞いたら、必ず人に伝えずにはいられなくなるものです。

すべての人が救われる教えが真の仏教ですので、
大きな乗り物に例えて「大乗仏教」といわれるのです。

仏法を他人に伝えて幸せに導くままが、自分の幸せになる、
自利利他が大乗仏教の精神であり、それが仏教精神
です。

そして、自利利他の道を行くのが菩薩であり、
菩薩道というのは、自利利他の道
なのです。

菩薩道とは?

菩薩道とは、自利利他の道です。
本当の幸福を教えられた仏教の話を他の人にするままが
自分の仏縁になります。

実際、聞き学んだことを自分の口で話してみると、
相手が理解されるか分かりませんが、自分の理解が深まるのです。
また理解していないことは話ができませんので
分かっていなかったことが知らされます。

ですからまた仏教を聞いて人にお話しします。

そうすると他の人に本当の幸せを伝えるままが
自分が幸せになる
ことになります。

そして自分が幸せになったら、
他人にもその幸せを伝えずにおれない。
これが、自利利他の菩薩道なのです。

大乗仏教の精神は、自利利他です。

イギリスの有名な歴史学者、アーノルド・トインビーは、
人類の将来は?」と聞かれ、こう答えています。

アーノルド・トインビーアーノルド・トインビー

歴史家は過去のことは語るが、未来は語らない。
もし21世紀に、どのような人間が要請されるかという質問なら、答えられる。
それは大乗仏教の精神です。

(アーノルド・トインビー)

日本の仏教は、聞き誤って伝えられた小乗仏教ではなく、正しく伝えられた大乗仏教です。
他人を活かし、自分も生きる、自利利他の菩薩道を進ませて頂きましょう。

この本当の仏教に教えられる真の幸せについては、
以下のメール講座と電子書籍にまとめておきました。
ぜひ読んでみてください。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生

日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。

仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能

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