諸行無常の響きあり
「祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり」
平家物語の冒頭の言葉は、日本人ならたいてい一度は学校で覚えたりして知っています。
「祇園精舎の鐘」の意味は、下記をご覧ください。
➾祇園精舎とは?場所と鐘の意味
「諸行無常」とは、
「諸行」はこの世のすべて、
「無常」は、常がない、続かないということですから、
この世の一切は続かないということです。
そしてこの「諸行無常」こそ、他の宗教にない仏教だけの旗印であり、
ほとんどの人は気づいていませんが、
あなたの人生に甚大な影響を及ばすのです。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり
この平家物語の最初にあるように「諸行無常」は、平家物語を一貫するテーマです。
それというのも、平家物語は、
保元の乱、平治の乱で勝利した平清盛が太政大臣となり、
平家一門が京都で栄耀栄華を極めてから、
山口県の壇ノ浦の海のもくずと消えるまで、わずか20年という
人の世のはかなさを描いているのです。
最初の「祇園精舎の鐘の声」の「祇園精舎」とは、
お釈迦さまご在世中の昔、
給孤独長者が布施したお寺の名前です。
そこで修行しているお釈迦さまのお弟子たちは、死が近づくと、
祇園精舎の中の無常堂という場所に移動し、
お弟子が亡くなるとその無常堂の鐘が鳴らされました。
何が続かないといっても、
人間の命が続かないことほど悲しいことはありませんから、
お弟子が亡くなって鳴らされる祇園精舎の無常堂の鐘の響きには、
一切のものは続かないという諸行無常の響きが聞こえるということを、
「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
」
と言われています。
このように、この世の一切が続かないことを、
「諸行無常」といわれるのです。
諸行無常とは
少し難しくなりますが、参考までに辞書を引用します。
引用文の下で解説していますので、読み飛ばしていただいても構いません。
諸行無常
しょぎょうむじょう[s:sarva-saṃskārā anityāḥ, p:sabbe saṅkhārā aniccā]
三法印の一つ。
あらゆる作られたものは無常である、の意。
<行>の原語 saṃskāra(p:saṅkhāra)は、作ること、形成することを意味するとともに、作られたもの、形成されたものをさす場合もある。
後者の場合は<有為>(saṃskṛta)と同義。
仏教では、われわれの認識するあらゆるものは、直接的・間接的なさまざまな原因(因縁)が働くことによって、現在、たまたまそのように作り出され、現象しているに過ぎないと考える。
ところが、いかなる一瞬といえども、直前の一瞬とまったく同じ原因の働くことはありえないから、それらの現象も同一ではありえず、時の推移とともに、移り変わってゆかざるをえない。
この理法を述べたものが<諸行無常>である。
すなわち、あらゆる現象は変化してやむことがないということ。
人間存在を含め、作られたものはすべて、瞬時たりとも同一のままでありえないこと。(引用:『岩波仏教辞典』第三版)
これはこれで間違いではないのですが、一番重要なところが抜けてしまっています。
そこで、順をおって仏教に説かれる無常について解明していきます。
諸行とは
諸行無常の「諸行」は、いろいろな行いではありません。
物事を行といいます。
ですからパソコンも諸行に入ります。
スマホも諸行、インターネットも諸行の一つです。
人間の体も心も諸行の一つです。
地球全体が諸行ですし、大宇宙全体が諸行です。
ですから諸行は、この世の森羅万象、すべてのものです。
無常とは
その諸行が無常であると教えられています。
「常」とは続くということですから、
「無常」とは、続かないということです。
みんな常があると思っています。
特に自分の大切なものは変わらずにずーっと続くと思っています。
今の状態が続くことを前提として、
明日はこれやって
来月はこれやって
来年はこれやって
と自分が死ぬのも忘れて未来の計画を立てています。
ところが仏教では、
「無常だぞ。今のまま続かないんだぞ」
と教えられています。
世の中はどんどん変わっていきますし、科学が進歩するほど変化は加速していきます。
自分もどんどん年を取っていきます。
この世の一切は続かない。
諸行は無常なのです。
仏教の掲げる旗印
この「諸行無常」については、
現代では、この世のすべての物質を構成する
素粒子でさえも寿命があることが、分かっていますから、
科学的にも間違いのないことです。
ところが諸行無常は、
日本人にとっては当たり前のように感じますが、
他の宗教には説かれていないことです。
キリスト教でも、イスラム教でも、
ヒンズー経でも、日本の神道でも、
必ず永遠に変わらない霊魂などが教えられ、
諸行無常ではないのです。
ですから諸行無常は、
その教えが3つの仏法であるかどうかの印である
「三法印」の最初にあげられています。
そして、諸行無常であるものは、2番目の「諸法無我」であると説かれています。
さらには諸行無常と諸法無我の現実をありのままに見つめ、正しく悟ることによって3つ目の「涅槃寂静」も達成されると教えられているため、無常は仏教の特徴である三法印の中でも根本的に重要です。
「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の三法印については下記をお読みください。
➾三法印(四法印)仏教の3つの旗印の意味をわかりやすく解説
もし仏教だといっていても、
諸行無常に反することを説いていれば、
それは仏教ではありません。
「諸行無常」は、仏教の掲げる旗印なのです。
お経に説かれる無常
この諸行無常は、仏教にしか説かれていないというだけでなく、私たちの人生にとって非常に大切なことなので、お釈迦さまは、お経の至るところに無常を教えられています。
例えば『涅槃経』には、ずばりこう説かれています。
諸行は無常なり
(引用:『涅槃経』)
これは、日本で「いろは歌」のもとになったお言葉です。
いろは歌については、以下の記事で詳しく解説してあります。
また、『雑阿含経』には、こう説かれています。
色は無常、受想行識は無常、一切の行は無常なり。
(漢文:色無常受想行識無常一切行無常)(引用:『雑阿含経』)
「色」というのは物質的なものですから、物質も私たちの肉体も続かない。
「受想行識」は心ですから、私たちの心も続かない。
だからこの世の一切は続かない、諸行無常である、と教えられています。
しかも、その変化は速いので、「無常迅速」であるとこう教えられています。
命行の遷変は彼の導日月神よりも疾し。
この故に諸の比丘よ、まさに勤め方便して命行の無常迅速なることかくの如しと観察すべし。
(漢文:命行遷變倍疾於彼導日月神 是故諸比丘 當勤方便觀察命行無常迅速如是)(引用:『雑阿含経』)
命はあっという間に消えて行く、ということです。
ではなぜこの世の一切は無常なのでしょうか?
諸行無常の理由
お釈迦さまは、諸行無常である理由を『涅槃経』にこのように教えられています。
我、諸行を観ずるにことごとく皆無常なり。
いかんが知るや、因縁をもっての故なり。
もし諸法の縁より生ずることあるものはすなわち無常なりと知る。
(漢文:諸行悉皆無常 云何知耶以因縁故 若有諸法從縁生者則知無常)(引用:『涅槃経』)
「諸行」はこの世のすべてですから、お釈迦さまは、この世のすべてを見つめられたところ、皆無常であると知られました。
どうしてすべてが無常だと分かるのかというと、因縁によって分かる、といわれています。
「因縁」というのは、因果の道理のことです。
因果の道理は因果応報とも言います。因果応報については、下記をご覧ください。
➾因果応報とは
仏教では、すべてのものは、因と縁がそろって生じると教えられています。
たとえば、『大乗入楞伽経』にはこう説かれています。
一切法は因縁生なり。
(漢文:一切法因縁生)(引用:『大乗入楞伽経』)
「一切法」というのは、万物のことですので、万物は、因と縁がそろって生じている、ということです。
因というのは、直接的な原因、縁というのは、条件とか、間接的な原因のことです。
「もし諸法の縁より生ずることあるものはすなわち無常なりと知る」
というのは、因縁がそろって生じたものは、やがては因縁が離れるから続かない、ということです。
この世のすべては因と縁がそろって生じているので、やがては因縁が離れ、一切は変化して行くのです。
このことをインドのナーガールジュナ(龍樹菩薩)は、『大智度論』に、こう教えられています。
有為法は一切因縁に属するが故に無常なり。
先に無くして今有るが故に、今有るも後に無なるが故に無常なり。
(漢文:有爲法一切屬因縁故無常 先無今有故今有後無故無常)(引用:龍樹菩薩『大智度論』)
「有為法」とは、因縁がそろってできているものです。
ですから、この世のすべての現象です。
それは、因縁がそろってできたのだから、やがて因縁が離れて、変化して行くので無常である、というのが、
「先に無くして今有るが故に、今有るも後に無なるが故に無常なり。」
ということです。
すべてのものは、因縁がそろってできたのだから、やがては因縁が離れる時がやってくる。
だから無常なんだ、と教えられています。
このように、この世のすべては、因縁がそろって一時的にあるので、続かないのです。
これを諸行無常といいます。
無常だから美しい?
よく、
「無常だから美しい」とか、
「無常だからこそいい」
という人がいます。
こういう意見は昔の文筆家なども言っています。
詩人にとって、自分が目にするしぼむ運命にある花よりも、あまりに早く終わりを迎える春よりも、世界ははるかに美しく見える。
5月の自然の愛らしさも、それを見ているうちにさえ色あせていくことを知っているからこそ、さらに深く彼をかきたてる。
それは普遍的な無常の道理が彼に喜びを与えるからではなく、その喜びは長い間存在しないと知っているから、より一層近くに抱き寄せるのである。(出典:ロバート・リンド『The Peal of Bells』)
著者は20世紀初頭のアイルランドの作家なので、
こういうことを言う人は、知識人であったり、詩人であったりするかもしれません。
その対象は何について言っているのかというと、
桜の花とか、線香花火のようなもののことでしょう。
そういうものなら確かにそうです。
一年中咲いている桜の花や、1時間燃え続ける線香花火では、飽きてしまいます。
そういうものは、続かないからこそいいという面があります。
ところが、仏教で教えられているのは、自分の人生のことです。
地震が来て津波で自分の家を流されたり、
会社を首になった人が、無常がいいと思えるでしょうか。
自分の腕にホクロができたと思ったら、どうも形が変わっている。
でも仕事や人付き合いが忙しいので医者に診せるヒマもなくて、しばらくすると、大きくなってきた。
心配になって病院に行くと、
「……皮膚癌です。どうしてこんなになるまで放っておいたんですか」
といわれた。
そんな時に、
「無常だから美しい」とか
「無常だからこそいい」
と言ってはいられないでしょう。
無常は無情に通じるのです。
情け容赦なく死はやってきます。
諸行無常の諸行は、すべてのものですが、他人事ではありません。
だからお経には無常をこのようにわかりやすく教えられています。
もしは昼に、もしは夜中に、或いは行くに或いは住まるに、大河の迅く流るるが如く、念々に停止なし。
寝宿してこの夜を過ごさば寿命随って減少すること猶少水の魚のごとし。
これ何ぞその楽しみ有らん。
(漢文:若昼若夜中 或行或復住 如大河迅流 念念無停止 寝宿過是夜 寿命隨減少 猶如少水魚 斯何有其楽)(引用:『金色童子因縁経』)
昼も夜も、何かしている時も、休んでいる時も、大河が速やかに流れゆくように、刻一刻と時は流れ、寸刻も止まることはない。
投宿して夜を過ごしても、寝ている間に命が減っていくことは、ちょうど「小さな水たまりにいる魚」のようなものだ。
まもなく死んで行かなければならないのに、どんな楽しみがあるというのか。
水たまりにいる魚が、「無常だからこそ美しい」などと言っている場合でしょうか。
そんな余裕があるとすれば、自らの死が差し迫っている事実を忘れているのです。
お釈迦さまがもともと、老いと病と死によって無常に驚かれて仏道を求められたように、
仏教に説かれていることは、自分のことなのです。
あなたの人生に及ぼす影響
ですからこの諸行無常は、単なる人生に無関係な
科学的な事実というわけではありません。
自分の人生に関係のない素粒子が無常で、
何か別のものに変化するのであれば、
別に何とも思わないのですが、
自分と関係のあるものは違います。
自分の大切にしているものは、
ずーっと自分のものであって欲しいのに、
必ず壊れたり、離れたりしていきます。
たとえば、お肌の美しさを大切にしている人は、
お肌のみずみずしさが失われ、かさかさになって、
しわしわになっていくと、苦しみます。
諸行無常ですから、お肌も無常なのです。
それで私たちは苦しんでいるのです。
たまに
「諸行無常なら、苦しみも続かないんですよね」
という人があります。
確かに今苦しんでいる人には、そう言ってあげるべき場面もあります。
しかし、続かないというのは、そのこと自体が苦しいのです。
ちょうど、安定していれば安心できますが、不安定だと不安になるようなものです。
すべてが不安定だということは、不安も不安定ですね、とはなりません。
すべてが不安定だと、不安の内容は変わりますが、あれもこれも不安なだけです。
このことをお釈迦さまは、『増一阿含経』にこう教えられています。
色は無常なり、無常なればすなわち苦なり。
(漢文:色者無常 無常者即是苦)(引用:『増一阿含経』)
無常だから私たちは苦しむのです。
これを分かりやすくお肌でいえば、
「諸行無常なら、シワシワも続かないんですよね」
と言っても、またお肌にはりとうるおいが戻るというわけではありません。
今のシワシワが、もっとシワシワになるのが諸行無常です。
苦しみが続かないというのは、もっと苦しくなるということです。
基本的には悪いほうへ悪いほうへ変化していきます。
諸行無常ということは、どんどん苦しくなっていくということです。
大切な人も続かない
諸行無常で変化していくのは、大切な物だけではありません。
大切な人も同じです。
会者定離、会うは別れの始めといわれます。
自分の愛する人や大切な人とはずーっと一緒にいたいのに、
やがて気持ちが変わったり、分かれる日がやってきます。
出会った人と必ず別れなければならないのは避けられません。
これも無常です。
たとえしばらく続いたとしても、
最後には必ず死んでしまうのです。
それをお釈迦さまはこのように説かれています。
夢で一緒になった者を、目覚めた人が〔もはや〕見ないように、また、このように、〔かつて〕愛された人もまた、命を終えた亡者となっては、〔誰も〕見ない。
(『スッタニパータ』807)
夢に出てきた人は、目が覚めれば二度と会うことがないように、
愛した人も、死んでしまえば二度とあうことができません。
大切な人も無常なのです。
自分の命も続かない
そして、諸行無常の中で、最も深刻かつ甚大な影響を与えるのは、
自分の命も無常であることです。
仏教では、これが最も重要です。
有部律では、このように説かれています。
積聚せるものは皆銷散す
崇高なるものは必ず墮落す
合会せるものはついに別離す
命あるものはことごとく死に帰す
(漢文:積聚皆銷散 崇高必墮落 合會終別離 有命咸歸死)(引用:『根本説一切有部毘奈耶』)
これは、因縁がそろってできているものは皆、因縁が離れて消える。
高きにあるものは必ず落ちる。
出会ったものは最後は別れねばならない。
命あるものはすべて死ぬ、ということです。
これを「無常法頌」といわれ、繰り返し繰り返し教えられています。
人間誰しも、結局は死んでいくということです。
この無常をお釈迦さまは「無常の殺鬼」といわれたり、
飢えた虎にたとえてこのように教えられています。
無常は念念に、餓えた虎の如し。
(漢文:無常念念如餓虎)(引用:『心地観経』)
すべての人は、生まれた時から、背後に一匹の虎を飼っているようなものです。
その無常の虎は、虎視眈々と、かぶりつこうと背後から狙っています。
それがいつかはまったく分かりません。
一瞬一瞬、飢えた獰猛な虎にかぶりつかれる時が近づいているのです。
このように、仏教で無常は、桜の花が続かないとか、楽しみが続かないというよりも、自分の死のことを無常といわれています。
生まれたからには、必ず死なねばなりません。
仮に平均寿命が80歳だとすれば、約80年の命です。
日数でいえば、約3万日です。
あなたは平均寿命まであと何日でしょうか?
計算してみてください。
もう過ぎてしまった人もいるかもしれません。
平均寿命まで生きられたとしても、意外と少なく感じます。
ましてやそれまで生きられるかどうか、まったく分かりません。
残りの人生があとどれくらいあるのか考えれば、
自分は何のために生まれて来たのか、
今やっていることは、そんなことをやっている場合なのか、
自分の人生を振り返らずにおれなくなります。
これを仏教では、「無常を観ずるは、菩提心のはじめなり」といわれます。
無常を観ずるは菩提心のはじめなり
「無常を観ずる」とは、無常を見つめるということで、
死を見つめるということです。
「菩提心」とは、さとりを求める心ですから、
本当の幸せになりたいという心です。
自分もやがて死んでいかなければならないと、
現実を見つめることが、自分は何のために生まれて来たのか、
本当の生きる目的を求める第一歩なのだということです。
お釈迦さまが仏道を求められるきっかけになったのも、
自分もやがて死んで行かなければならないことに
驚かれてのことでした。
そして、死が来ても崩れない本当の幸福になれる道を
発見されたのです。
人生で、死ぬほどの重大で決定的な事件はないのに、
みんな死を忘れて生きていますから、
「諸行無常」は、
あなたの人生最大の重大事を思い出させてくれるのです。
ではどうすれば、死が来ても崩れない本当の幸福になれるのかについては、
メール講座と電子書籍にまとめてあります。
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この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか一人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。インターネットの技術を導入して日本仏教学院を設立。著書2冊。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者3千人、メルマガ読者5万人。ツイッター(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)