三法印(さんぼういん)とは

三法印」とは、仏教の旗印であり、他の宗教から仏教を分ける、仏教が真理であるあかしです。それに3つあるので、「三法印(さんぼういん)」といわれます。1つ加えて「四法印(しほういん)」といわれることもあります。中には「一法印(いつほういん)」を言う人もあります。一体どんなことなのでしょうか?

法印(ほういん)とは?

法印」の「」は仏法の法で、真理ということです。
仏法とは、仏の説かれた真理のことです。
ですから「法印」とは、仏の説かれた真理の印ということで、仏教が真理であるあかし、ということです。

仏教以外の宗教から仏教を分ける真理のあかしが法印ですから、法印は仏教の旗印です。

旗印」というと、戦国時代、味方と敵を区別する目印として使われた旗です。例えば有名なものでいうと、
武田信玄なら「風林火山」、
豊臣秀吉なら「千成瓢箪(せんなりびょうたん)」
真田幸村なら「六文銭」です。
これらの旗印によって、誰の軍勢か、一目で分かったのです。

それと同じように、仏教にも、他の宗教と厳然と区別する旗印があります。

それが、「諸行無常(しょぎょうむじょういん)」「諸法無我(しょほうむがいん)」「涅槃寂静印(ねはんじゃくじょういん)」の3つの法印です。
これを「三法印(さんぼういん)」といいます。

これに「一切皆苦印(いっさいかいくいん)」を加えて「四法印」とすることもあります。

お釈迦さまは、この法印を、お経の至るところに説かれています。
例えば『雑阿含経』には「一切行無常、一切法無我、涅槃寂滅」と説かれています。
涅槃経』には、「一切行無常、諸法無我、涅槃寂滅、これ第一義なり」と教えられています。
蓮華面経』にも、「一切行無常、一切法無我、及び寂滅涅槃、この三はこれ法印なり」とあります。

八宗の祖師といわれるインドの龍樹菩薩は、このことを『大智度論』に、
仏は三法を説いて法印となす。いわく一切有為法無常印、一切法無我印、涅槃寂滅印なり
と解説されています。

(尚、天台宗を開いた智顗(ちぎ)は、『法華玄義』に、大乗仏教は諸法実相印の「一法印」であると言っていますが、三法印と別のことではありません。結局同じ意味です)

ちなみに「いろは歌」もこの仏教の旗印を歌われています。
前半の「色は匂えど散りぬるを 我が世誰ぞ常ならむ」は諸行無常印を、後半の「有為の奥山今日越えて 浅き夢見じ酔いもせず」は、涅槃寂静印を歌ったものです。

では、三法印とはどんなことなのでしょうか?
1つずつ見てみましょう。

1.諸行無常印

仏教の旗印である三法印の1つ目は「諸行無常印」です。
諸行無常という真理が説かれているのが仏教の1つ目の旗印なのです。

諸行無常」というと、平家物語の冒頭に「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」と出ていますので、非常に有名です。「諸行無常」という真理が教えられているのは仏教のみで、キリスト教神道など、他の宗教では死んでも変わらない霊魂など、必ず諸行無常に反することが教えられているのです。

では、諸行無常とはどんな意味かというと、「諸行」は、この世のすべてをいいます。
無常」とは常が無い、と書くように、続かないということです。この世に変わらないものは何一つなく、すべては変わり続けているということです。これは宗教というよりも、科学とも現実ともよく調和します。

例えば、科学は日に日に進歩して、自分の持っているスマホやパソコンは古くなっていきます。
自分の収入や立場も変わっていきます。仕事の同僚や家族との人間関係も毎日変わっていきますし、自分の年齢や健康状態も変わっていきます。地球や太陽でも変わり続け、やがては寿命を迎えます。
このように、すべてのものは変わり通しなのです。

諸行無常の私たちにとっての意味

それにもかかわらず私たちは、自分の大切なものや生きがい執着して、心の支えにしたり、生きる希望にしたりしているので、それらが崩れて苦しむのです。

禅宗一休さんが、まだ周建といわれる小僧だったとき、寺の和尚さんは、将軍からもらったという茶碗を、宝物のように大切にして、お客さんに見せて自慢していました。
ところが壊してしまったら大変なので、小僧達には一度も見せてくれません。
ある日、和尚が外出したすきに、一休さんの兄弟子の一人が和尚の部屋に忍び込み、しまってある茶碗を取り出してみました。
これが将軍からもらったお茶碗か」とまじまじと見ているうちに、手が滑ってしまいます。
しまった」と思ったときには時すでに遅し、床にぶつかり真っ二つになってしまいました。
和尚の宝物を壊してしまったので、どれだけ叱られるか分かりません。追い出されるかもしれないと思った兄弟子は、「エーン」と泣き出しました。

その泣き声に一休さんが駆けつけると、和尚が大切にしていた茶碗が真っ二つに割れているのを見つけて驚きます。
人生終わりだよー」と泣きじゃくる兄弟子から事情を聞くうちに、一休さんはかわいそうになってきます。
周建ー、どうしよー
どんなに泣いても割れた茶碗は元に戻りません。それなら私が割ったことにしましょう
すると兄弟子は途端に元気になります。
本当か?さすがは周建、お前は賢いから何とか和尚を丸め込んでれ
分かりました、じゃあそうしましょう
と一休さんは茶碗を懐にしまうと、またさっきのように遊びに行ってしまいました。

夕方になって和尚が帰ってくると、小僧達は玄関に迎えに出ます。
おうおうお前たち、私の留守中に何か悪戯でもしなかったか?
一休さんは、「いえいえ、悪戯などととんでもないことです。今日は一日公案を練っておりました
公案とは、禅宗で座禅をするときに考える問題のことです。
何、お前が一日公案とな?
はい、一日考えていたのですが、いまだに説けない難問があります
そうか、どんな公案だ?
はい、午前中は、『人の生死これ如何』でございます
これは、人間は、健康に気をつけていけば死なずにすむこともあるのかどうかという問題です。
なんと、お前は賢いように見えて、やっぱり子供じゃのう。生ある者は必ず死に帰す、お釈迦さまから提婆に至るまで、死を免れることはできないのじゃ
なんと、必ず死ななければならないのですか。これで午前の公案はわかりました。どうもありがとうございます

午後は別の公案を考えていたのか
はい、もう一つの難問は『物の消滅これ如何』です
これは、物は、大切にすれば、永遠に続くこともあるのかどうか、という問題です。
それは解けたのか?
いえ、和尚さまが思いのほか早くお帰りだったので、まだ途中でございます
そうか、やはり子供じゃのぅ。それならしっかりと教えておこう。
形あるものは必ず崩れる。これは諸行無常といって仏教の旗印じゃ。
仏道を求める者はよく知っておかねばならないぞ

はぁ、それはどんなに大事にしていても、命の次に大切なものでもでしょうか?
そうじゃ、この世の一切は、因果の道理にしたがって、因と縁がそろってできている。しかしそれは因縁和合している間だけの一時的なことじゃ。やがては必ず因縁が離れてどんなものもはやがては滅びる儚いものなのじゃ。これを時節到来という
そうでしたか。それで今日の難問がよく分かりました。この世は諸行無常ですから、生まれた人は必ず死ぬ。形ある物は必ず壊れる。これが仏教に説かれる真理でございますね
そうじゃ。それはいつでもどこでも変わらない真理なのじゃ
なるほど、ということは、その諸行無常の真理を体得して、愛する人が死んでも、大切な物が壊れても、悲しんだり腹を立てたりせず、時節到来とあきらかに見て、平静な心を保つのが悟りでしょうか?
その通りじゃ
ありがとうございます。和尚さま。そんなすばらしい悟りを開かれた和尚さまの弟子である私たちは何と幸せなことでしょう
おいおい、そんなに私をおだてても何もでないぞ
いえいえ、和尚さまに出して頂いては申し訳ないので、こちらから出させて頂きます
一休さんは懐から割れた茶碗をしれっと取り出すと
かくのごとく時節到来いたしました
それを見た和尚は目を見開いて驚きましたが、自分で言った手前、もう怒れません。目を白黒させて
うぐぐぐ……もう因縁が離れたか
と一言つぶやいたといいます。

このように、普段から諸行無常を人に教えている禅宗の僧侶でも、自分の大切にしている物が壊れると、苦しむのです。

最も激しい無常

儚く崩れる幸せは、大切にしている仕事や家族、お金や財産、地位、名誉、生きがいだけではありません。
最も大切な肉体も無常です。
どんなに大切にしていても、やがて必ず死んで行かなければなりません。
一日生きるということは、一日死に近づくということです。
しかも、いつ死ぬかは分かりません。
1年後に生きている保証はあるでしょうか?
1年後、この世にいない可能性もあります。
同じように1ヶ月後に生きている保証はあるでしょうか?
1週間後といっても、1日後、1時間後といっても、生きている保証はありません。
死は、いつやってくるか分からない、突然来る未来なのです。

死んでいくときには、この世のすべてを失います。
自分の執着している仕事や家族の1つを失っても苦しいのに、すべてを同時に失いますから、こんな一大事はありません。
仏教はこのように、諸行無常を旗印として、このほとんどの人が普段忘れている、死の大問題を知らせ、解決する教えなのです。

2.諸法無我印

仏教の旗印である三法印の2つ目は、「諸法無我印」です。
諸法無我印」とは、「諸法無我」という真理が説かれているのが仏教の旗印なのです。
諸法無我」とは、「諸法」とはすべてのもの、「無我」とは、固定不変な実体はない、ということです。この世の一切に変わらない実体はないということです。
これもキリスト教や神道などの他の宗教では、永遠不変の霊魂があって死後も続いて行き、やがて復活したり、神社に鎮座したりしていると教えられていますが、仏教では、不変の霊魂は認めません。

ではなぜ不変の実体はないのかというと、すべてのものは、因と縁がそろってできているからです。
因縁のそろっている間だけとどまっていますが、因縁が離れれば別の形になってしまいます。

これをわかりやすく教えられた歌に
引き寄せて 結べば柴の庵にて  とくればもとの 野原なりけり
という歌があります。

(いおり)」とは1部屋だけの簡単な草ぶきの小屋です。
(しば)」とは、野原にある小枝や草です。
野原で小枝や草を集めてきて、上を結べば簡単な小屋になります。
農作業の合間に休憩したり、世捨て人が住まいしたりできます。
ところがその庵がずっとあるかというと、そうではありません。
結んでいたところをほどけば、庵はなくなって、もとの野原になってしまいます。
因縁がそろっている間だけ、庵といわれるのであって、固定不変の庵というものはないのです。

このとき、因というのは、柴のことです。
柴の上が結ばれて集まっているという条件が縁です。
すべてのものは、因縁がそろってできているのだから、固定不変な実体はないのです。

たとえばパソコンなら、パソコンという固定不変な実体があるのではありません。
ディスプレイやキーボード、記憶媒体、演算処理装置など、たくさんの部品が集まって、一時的にパソコンと呼ばれているのです。分解すれば、パソコンではありません。固定不変のパソコンというものはないのです。

諸法無我といっても、一番私たちに影響するのは、私たち自身に不変の実体がないことです。
諸法無我」は「五蘊皆空」といっても同じですが、仏教で私たちは、五蘊といわれる心身が集まっているときだけ今の形にとどまっているのですが、それは一時的なことで、やがて必ず因縁が離れて死んでいかなければならないです。

では固定不変の霊魂を認めない仏教では、死んだらどうなると教えられているのでしょうか?

それは、人それぞれ死ぬまでの行いによって蓄えられた業力によって、因果の道理にしたがって、次の世界へ生まれ変わって行くのです。
ちょうどビリヤードで、一つの球が別の球にぶつかると、別の球が進んで行くようなものです。

こうしてすべての人は、自らの悪業の生み出す苦しみの世界を、生まれ変わり死に変わり、永遠に旅し続けなければならないと仏教で教えられています。これを輪廻転生とか、後生の一大事といいます。

仏教は、すべての人にこの後生の一大事のあることを教えられているのです。
しかし、仏教を悲観的だという人は、次の涅槃寂静印を知らない人です。
次に仏教には、この後生の一大事の解決が教えられています。

3.涅槃寂静印

仏教の旗印、三法印の3つ目は「涅槃寂静印」です。「涅槃寂静印」とは、「涅槃寂静」という世界があるという真理が説かれているのが仏教の旗印なのです。
涅槃寂静」とは、苦しみが滅して救われた世界のことです。

涅槃」とは、ニルヴァーナともいわれ、吹き消すということです。
苦しみの原因である怒り愚痴などの煩悩を燃え盛る火にたとえ、その火が吹き消された世界、煩悩がなくなった安らかな心のことです。「寂静」とは、苦しみのなくなった静かで穏やかな世界ということで、「涅槃」と同じことです。

他の宗教でいわれる金儲けや一家の繁栄、縁結びなどの現世利益は、お金が欲しいという財欲や、地位が欲しいという名誉欲、男女間の色欲などの煩悩を満たす幸せですから、まったく違います。
そんな苦しみ悩みを滅した心安らかな幸せの世界があると説かれているのは仏教だけなのです。

ところが私たちは、「煩悩熾盛」とか「煩悩具足」と仏教で教えられています。
煩悩熾盛」とは、欲や怒りや愚痴の煩悩が、激しい炎のように燃え盛っているということです。「煩悩具足」とは、「具足」はそれでできているということで、煩悩でできている煩悩の塊ということで、煩悩熾盛と同じ意味です。煩悩をとったら何も残りませんから、煩悩をなくすことはできません。

では私たちはどうすれば、涅槃に至ることができるのかといいますと、お釈迦さまは、煩悩よりもっと深い、苦悩の根元を教えられています。その苦悩の根元をなくせば、生きているときに煩悩あるがままで、煩悩即菩提の変わらない幸せになり、必ず涅槃をえられる身になれることを明らかにされています。

ではその苦悩の根元とは何か、どうすれば苦悩の根元をなくせるのか、ということについては、仏教の真髄ですので、滅多に知る機会はないと思います。
今回はそれをメール講座と小冊子にまとめましたので、今すぐ読んでみてください。

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