布施とは?
お布施
『ハーバードの人生を変える授業』で、こんな言葉が紹介されていました。
「一本のろうそくから何千本ものろうそくに火をつけることができる。
かといって、それで最初のろうそくの寿命が短くなることはない。
幸福は、分かちあうことで決して減らない」ー仏陀
これが布施の功徳です。
「布施」とは、お釈迦様があらゆる善を6つにまとめられた「六波羅蜜」の中でも、一番最初にあげられる重要な行いです。
六波羅蜜(六度万行)についてはこちらの記事もお読みください。
➾六波羅蜜とは?内容6つと実践方法を簡単に分かりやすく解説
「布施」とはどんなことなのでしょうか。
布施とは
「布施」とは、ほどこしをすることです。
参考までに、仏教辞典の意味を見てみましょう。
布施
ふせ[s:dāna]
出家修行者、仏教教団、貧窮者などに財物などを施し与えること。
施すものの内容により、衣食などの物資を与える<財施>、教えを説き与える<法施>、怖れをとり除いてやる<無畏施>に分けられ、これらを<三施>という。
大乗仏教では、菩薩が行うべき六つの実践徳目(六波羅蜜)の一つとされ、施す者も、施される者も、施物も本来的に空であるとして(三輪体空・三輪清浄)、執着の心を離れてなされるべきものとされた。
転じて、僧侶に対して施し与えられる金品をいう。
なお、漢語<布施>も人に物を施し与えることで、先秦諸子の書に用例は多く見える。(引用:『岩波仏教辞典』第三版)
これも間違いではありませんが、大変簡潔ですので、もっと詳しくわかりやすく解説します。
お寺に払うお布施
「お布施」というと、お寺に払うお金だと思っている人があります。
お布施の金額の相場は、だいたい以下程です。
有名なお寺程お布施の金額が高かったり、地方だと地域毎に相場が決まっていたりします。
- 葬儀のお布施:10万〜50万
- 初七日、四十九日法要のお布施:1から5万
- 納骨式のお布施:1~5万円
- 一周忌法要:3~5万円
- 三回忌以降の法要:1~5万円
- 月参り:3,000円~1万円
- 初盆(新盆)の法要:3~5万円
- 2年目以降のお盆の法要:5,000円~1万円
- 彼岸の法要:3~5万円(個別法要)3,000円~1万円(合同法要)
しかし、お布施は必ずしも寺に払うお金ということではありません。
仏教の布施の意味
まず、お釈迦様は『増一阿含経』に、このように説かれています。
如来は二種の施しを説く。
法施および財施なり。
(漢文:如來説二施 法施及財施)(引用:『増一阿含経』)
布施を大きく2つに分けると、法施と財施の2つだ、ということです。
まず、「財施」とは、財を施すことです。
「財」というのは、お金はもちろん財ですが、
お金以外にも物、労力も入ります。
お金だけでなく、お米や野菜、衣類やその他、
何かをプレゼントしたりするのも財施です。
また、お金や物がなくても、あたたかいまなざしや優しい笑顔、
何かのお手伝いも財施となりますので、
布施を一言で言えば、親切のことです。
布施の功徳
布施の功徳について、『根本説一切有部毘奈耶薬事』にこのように教えられています。
ある時王舎城におられたお釈迦様は、多根樹村に托鉢に行かれました。
そこにはお釈迦様の出身のカピラ城から嫁いで来ていた釈迦族の女性がいました。
その女性がお釈迦様が乞食して歩かれるのを見て
「お釈迦様は、釈迦族で最も尊い方だ。
国王の位や財宝をなげうって出家され、乞食をしておられる。
何と尊いことだろう」と思い、お釈迦様にむぎこがしを布施しました。
するとお釈迦様は、お弟子の阿難に、
「この女性は、この布施の善根によって天上界に生まれ、やがて悟りを開くであろう」
と言われました。
それを聞いた女性の夫が腹を立て、
「お前はおれの妻からむぎこがしをもらうために、ありもしない大きな嘘をついて騙しただろう。
そんな少しの布施で、そんな大きな果報が得られるものか」
とくってかかります。
お釈迦様は静かに、
「私の問いに遠慮なく答えるがよい。
そなたは珍しいものを見たことがあるか」
と尋ねられます。男は
「もちろんだ。おれは世の中で色々な珍しいものを見てきたが、やはりこの多根樹村にある多根樹が一番珍しい。
この村の東に生えている多根樹は、一本の木陰に500台の馬車をつないでもまだ余裕がある。
この村の名前もその樹からとったくらいだ。
どうだ珍しいだろう」
「そんな大きな木なら、種も大きいのだろう。
ひき臼か、それとも飼葉を入れて牛馬に食わせるための飼葉桶くらいはあるものか」
「そんなことはないね。芥子粒よりはるかに小さい。
そんな小さな種からあんなに大きくなるから珍しいのだ」
「そんなことは誰も信じないだろう」
「たとえお前が信じなくても、おれはこの目でよく見たから信じるね」
そこでお釈迦様は、こう言われました。
「どんなに小さな布施でも、やがてそれが因縁となって、ついには悟りへと導かれることがあるのだ」
あまりに当意即妙のお釈迦様の説法に、男は恐れ入って仏教を聞くようになったといいます。
(出典:『根本説一切有部毘奈耶薬事』)
小さな布施から、非常に大きな幸せが生み出されるということです。
布施の功徳は雪だるま式に大きくなる
さらにお釈迦様は、『雑譬喩経』に同じような小さな種が大木になるたとえを出され、布施による幸せが、雪だるまのように、複利で大きくなることを教えられています。
ある時、舎衛城の郊外に住んでいた仏縁深い女性が、托鉢に訪れたお釈迦様に食べ物を布施しました。
するとお釈迦様は、
「1つの種をまけば10の種が生じる。
その10の種をまけば100の種になる。
その100の種をまけば1000の種になる。
このように、善いたねは、万にも億にもなっていく」
と言われ、どこかに去って行かれました。
女性は心から喜んだのですが、その夫は、
「そんなことあるはずがない。そんな嘘に騙されるな」
と言います。
やがてその夫が、近くの村でお釈迦様を見かけたので、くってかかります。
するとお釈迦様は、こう尋ねられました。
「あなたはニグローダ樹の高さはどのくらいあると思うか?」
「四十里ほどあると思います。
あれは数年で数え切れないほどの実がなります」
「その実はどのくらいの大きさか?」
「ケシくらいです」
その時お釈迦様はこう言われています。
「一粒の小さな種から、やがて四十里の木が生えて、数十万の種が収穫できる。
それと同じように、仏教のために布施をすれば、その福徳は計り知れない」
それを聞いた男は、仏教を信じるようになって夫婦仲良く仏教を聞くようになったと伝えられています。
(出典:『雑譬喩経』32)
このように、財施には、計り知れない大きな功徳があるのです。
では、こんなすごい布施は、いつ行えばいいのでしょうか。
布施のタイミング
お布施のタイミングについて、お釈迦様は『百喩経』にこう説かれています。
昔、ある愚かな男が大切なお客さんを招いてご馳走しようと考えました。
さて何を馳走しようかと色々と考えた末、乳牛を飼っているので牛乳でもてなそうと決めました。
でも一頭の牛では、とても大勢のお客をもてなすことはできない。
だからといって、前から乳をしぼってためておいたら腐ってしまいます。
さてどうすればいいものかと考えた結果
「そうだ、乳をしぼっておいたら腐ってしまうが、牛の腹の中に蓄えておけばその心配がない。
これは実に名案だ」
と思いつきます。
その日から子牛が母牛の乳を飲めないように、別々のところにつないでおき、招待の日を待っていました。
やがて当日、大勢のお客さんがやって来ます。
そこで男は、乳牛の小屋へゆき、蓄えていたはずの乳を一挙にしぼろうとしましたが、もはや牛の乳はしぼんでしまって一滴も出ませんでした。
お客さんたちは、怒ったり、嘲笑したりして帰っていったといいます。
それと同じように、
「いまにお金がたまり、余裕ができたら大いに布施をしよう」
という人は、この男と同じで布施など到底できるものではありません。
お金も財産もできないうちに、税金で持って行かれたり、洪水で流されたり、火事で焼けたり、盗賊に奪われたりして、ついには自分も死んでしまう、と教えられています。
(出典『百喩経』)
子牛が飲まないと、母牛は乳が出なくなってしまいます。
だから布施は今持っているところからしなければならない、ということです。
よく「他人を幸せにするには、まず自分が幸せにならなければならない」といって
自分ばかりを優先し、なかなか他人を幸せにしようとしない人がいますが、
今の自分が他人に施しをしないと、自分の幸せが生じないのです。
パーリ仏典の『相応部経典』にはこのように教えられています。
広野の旅の善き道連れのごとく、乏しきを分かち与える人は、
滅ぶものの中にありて滅びず、これ永久の法なり。
ある人は乏しきをも与え、ある人は冨みても与えるを好まず。
乏しきを与えるは[その功徳]千倍に等しと計らる。(引用:『相応部経典』)
乏しいお金や物を分け与える人もいれば、お金や物がたくさんあるのに少しも与えようとしない人もあります。
たくさんある時に、その中から少しだけ施すよりも、自分も乏しいのにその中から分け与えることは、千倍もすばらしいと教えられています。
乏しき時与えるは、富みて与えるにまさるのです。
ところで、財施は与える相手が大事です。
財施の3通りの相手
普通は、どんな人にも分け隔てなく接するのるが大切、と思っている人が多いと思います。
それも一理あるのですが、施しの場合は違います。
なぜなら例えば、悪人にほどこしをすれば、
ますます世の中が悪くなるかもしれません。
また、怠け者に施しをすれば、その本人がますます堕落してしまい、
遊び人に施しをすれば、ますます身の破滅だからです。
ではどんな相手に施しをすればいいのでしょうか?
お釈迦様は、財施の相手として「福田」を説かれています。
「福田」の田とは、田んぼのことです。
田畑に種をまくと、いったん自分の財産が減ったように感じますが、
やがて秋になって何倍もの収穫があります。
田畑は私たちの命をつなぐ米や麦を生み出す土地ですが、
私たちの心の糧となる福徳を生み出す「福田」を、
お釈迦様は3通り教えられています。
例えば『優婆塞戒経』にはこのように説かれています。
世間の福田におおよそ三種あり。
一に報恩田、二に功徳田、三に貧窮田なり。
報恩田とはいわゆる父母・師長・和上なり。
功徳田とは煖法を得るより乃至阿耨多羅三藐三菩提を得るまでなり。
貧窮田とは一切の窮苦困厄の人なり。
(漢文:世間福田凡有三種 一報恩田 二功徳田 三貧窮田 報恩田者所謂父母師長和上 功徳田者從得煖法乃至得阿耨多羅三藐三菩提 貧窮田者一切窮苦困厄之人)(引用:『優婆塞戒経』)
これは、福田には、大きく分けると3つある。
報恩田、功徳田、貧窮田の3つである。
報恩田とは、父母、先生、仏教の師匠である。
功徳田とは、高い悟りを開いた聖者、仏のさとりを得た如来である。
貧窮田とは、貧しい人、災難で苦しんでいるすべての人である、ということです。
これを、色々な経論を総合して、普通は「 敬田」「恩田」「悲田 」といわれます。
「敬田」とは、敬うべき徳を備えた人のことです。
具体的には、まずは仏様、その教えを正しく伝える仏教の先生です。
「恩田」とはご恩をこうむった人です。
仏さま以外にも両親や学校の先生などです。
「悲田」とは、お気の毒な人です。
病気になった人や妊婦の人など大変な状況の人です。
これ以外の人に何かをほどこしても布施になりませんが
これらの3通りの相手にほどこしをすれば、
大きな幸せがかえってくると教えられています。
心をこめた親切は、親切をした人に報われます。
幸せになるのは、施しを受けた人よりも、
むしろ、施しをした人です。
次に、このような福田に対して、同じお金や同じ物を与えていても、
布施の功徳が大きく変わってくる、重大なポイントがあります。
布施の重要ポイント
それは布施をするときの心です。
布施は、お金や物の量よりも、心が大事なのです。
ある時、ツルゲーネフという、ロシアの作家の門の前に、
乞食が立ったことがありました。
しかし、ツルゲーネフも、その時
自分がその日食べるものがない状態で
何とか何か分けてやりたいと思っても、何もありませんでした。
それで、乞食の手を握って「兄弟」と言ったそうです。
あとからその乞食は、
「長い間乞食をしていたけれども、
あのとき以上にうれしい頂きものをしたことはなかった」
と述懐したそうです。
一体、ツルゲーネフは何をほどこしたのでしょうか。
何もなくとも心からの親切が、どんなに周りを明るく、
和やかにするか分かりません。
逆に、100円くれたとしても、乱暴に投げつけられたら
嬉しくないのではないでしょうか。
ではここで、
「それなら友達に100円おごろうと思っていたけど、
ツルゲーネフのように心だけにして、100円はやめておきます」
という人があれば、この内容を正しく理解しているでしょうか?
もし、お金がある人が心がある場合、ほどこしが増えるはずだからです。
お金や物の「量」よりも、一番大事なのは、「心」
だということです。
貧者の一灯
お釈迦様の時代にも、こんなことがあったと
『阿闍世王授決経』や『賢愚経』に説かれています。
当時、祇園精舎のあったコーサラ国の首都、舎衛城での出来事です。
ある所に、ナンダ(難陀)という女性が、貧しく孤独に、ものもらいをして暮らしていました。
すでに仏の尊さは広く知られており、諸国の王侯をはじめ、たくさんの人々が
それぞれ仏さまと、そのお弟子にお布施をしていました。
それを見たナンダは、
「私は過去にどんな業があったのか、貧しいところに生まれてしまい、尊い福田を前にしても、まくべき種がありません」
と深く悲しんで、何とか少しでもお布施をしたいと、
終日休まず乞食にまわり、わずかに一銭を得ることができました。
そこでようやく手に入れた一銭を握りしめて油を買いに行くと、油屋の主人から、
「一銭分の油を買ったって、ほとんど何も使えないよ。
一体何に使うんだい」と尋ねられます。
「はい、仏さまに灯明をお布施したいと思いまして……」
それを聞いた油屋の主人は深く感銘を受けて、倍の油をくれました。
喜んだナンダは、その油で灯火を一つ作ると、祇園精舎へ持って行き、世尊に奉り、仏前のたくさんの灯火の中にお供えし、
「私は貧しいので、この小さな灯火のお布施になりますが、これによって来世は智慧を得て、人々の心の闇が除かれますように」
と誓いを立てました。
やがて夜になり、他の灯火がみんな消えてしまっても、
ナンダの布施した灯火だけが燃え続けています。
夜が明けてきた頃、当直だった目連がその灯火を発見します。
それはまるで新しい灯火のように、少しも減らずに未だに明々と燃え続けています。
目連は「昼間に灯火をつけているのは無駄だから、一旦消して、暗くなってからまた灯そう」
と手で扇ぎますが、火は消えません。
さらに衣で扇いでみても、まったく消えません。
それをご覧になったお釈迦様が、こうおっしゃっています。
「その灯火は、そなたの力で消せるものではない。
そなたが四大海水をかけたとしても消えぬであろう。
たとえ嵐が来ても、その風の中で消えることはない。
なぜならその灯火は、広く世の人々を救いたいという大きな願いから布施されたものだからだ」
(出典:『賢愚経』)
この話は大変有名で、「貧者の一灯」ということわざにもなっています。
「長者の万灯より貧者の一灯」
といわれることもあります。
ここでいわれている灯火は、油に芯を入れて火をつける灯火です。
王侯貴族やお金持ちが万の灯火をお布施したのは、大変尊いことです。
因果の道理により、すばらしい幸せを生み出します。
貧しいナンダがお布施したのは、1つの灯火ですから、1つ分しか幸せを生じません。
ところがそれは灯火だけの場合です。
「長者の万灯より貧者の一灯」というのは心のことです。
心から人々の救いのために布施をした心が非常に功徳が大きい
ということを教えられています。
そして海の水をかけても、嵐が来ても灯火が消えないというのは、
その尊い功徳は、決して消えることはない、ということです。
このように、仏教では、心が大切なのです。
このような心で万灯を布施すれば、もっとすばらしい功徳があるのは言うまでもありません。
布施の心構え:三輪空
ところが、せっかく何かを施しても、
布施にならなくなってしまう心がけがあります。
それは、
「これだけ親切したから、これくらいは見返りがあるのではないか」
という心です。これは、商売であって、親切ではありません。
「これだけやっているのに何もしてくれない」
などと思ったら、よけい腹が立って、自分が不幸になってしまいます。
そこでお釈迦様は『金剛般若経』や『大般若経』、『涅槃経』等に、布施の心構えを教えられています。
例えば『金剛般若経』にはこのように説かれています。
菩薩はまさにかくの如く布施して相に住せざるべし。
何を以ての故に。
もし菩薩、相に住せずして布施せば、その福徳は思量すべからざればなり。
(漢文:菩薩應如是布施不住於相 何以故 若菩薩不住相布施 其福徳不可思量)(引用:『金剛般若経』)
これは、菩薩は観念に執着せずに布施をしなければならない。
なぜならもし菩薩が観念に執着せずに布施をすれば、その幸せを生み出す働きは想像もできないほど大きいからである、ということです。
つまり見返りを期待しないほど、見返りが大きくなるという逆説的な性質が布施にはあります。
さらに『大般若経』には執着してはならないものを特に3つ挙げて、このように説かれています。
それは「三輪清浄」または「三輪空」といって一つには、我、施者たるに執せず。
二つには、彼、受者たるに執せず。
三つには、施、及び施果に著せず。
これを菩薩摩訶薩、布施を行ずる時の三輪清浄と為す。
(漢文:一者不執我爲施者 二者不執彼爲受者 三者不著施及施果 是爲菩薩摩訶薩行布施時三輪清淨)(引用:『大般若経』)
他人に親切した時、施者、受者、施物の3つを空じなさい、忘れなさい。
ということです。
施者とは私が、
受者とは誰々に、
施物とは何々を
ということです。
これは、世間でも「かけた情けは水に流せ、受けた恩は石に刻め」と言われることです。
布施は、心が大事ですから、
このような心がけで親切をしてこそ、
本当の布施なのです。
無財の七施:お金や物がなくてもできる布施
お金や物がなくてもできる布施があります。
それを無財の七施と言われます。
このように、自分の財産を失わずにできる布施と教えられています。
仏説に七種施有り。財物を損なわずして大果報を獲。
一に眼施と名づく(省略)
二に和顔悦色施(省略)
三に言辭施と名づく(省略)
四に身施と名づく(省略)
五に心施と名づく(省略)
六に床座施と名づく(省略)
七に房舍施と名づく(引用:『雑宝蔵経』第七六・七種施因縁)
簡単に説明すると、以下のとおりです。
- 眼施:やさしい眼差しで、人々に接すること。
- 和顔悦色施:やさしいほほえみを湛えた笑顔で、人に接すること。
- 言辞施:やさしい言葉を人々にかけていくこと。
- 身施:身体を使って、他人や社会のために奉仕すること。
- 心施:心から感謝の言葉を述べること。
- 床座施:場所や席を譲り合う親切。
- 房舍施:訪ねて来る人、求めて来る人があれば、一宿一飯の施しをして、その苦労をねぎらうこと。
この無財の七施もすばらしい布施ですので、心がけていきましょう。
法施とは
次に、布施に2つある「財施」と「法施」のうち、
「法施」とは何でしょうか?
「法施」は、「法」を「施」すと書きますように、
仏法を施すことで、仏教の話をすることです。
冒頭の『ハーバードの人生を変える授業』の
「一本のろうそくから何千本ものろうそくに火をつけることができる。
かといって、それで最初のろうそくの寿命が短くなることはない。
幸福は、分かちあうことで決して減らない」
も、法施の功徳のことです。
出典は、以下の『四十二章経』です。
人の道を施すをみて、これを助けて歓喜すれば、また福報を得ん。
たずねて曰わく、
「彼の福まさに減ずべからざるか」
仏の言わく、
「なおし炬火の、数千百人、おのおの炬をもって来たり、その火を取りて去り、食をたき、冥を除くも、彼の火はもとの如し。福もまたかくの如し」
(漢文:猶若炬火 數千百人 各以炬來 取其火去 熟食除冥 彼火如故 福亦如之)(引用:『四十二章経』)
「人の道を施すをみて、助けて歓喜する」というのは、法施をしている人を助けて喜ぶということです。
法施をするだけでなく、会場を準備するとか、その手助けをするのも尊い布施行です。
このお釈迦様の説法を聞いたある人が、
「せっかく聞いた貴重な情報を人に伝えてしまったら価値が減るのではありませんか?」
とお尋ねすると
「そんなことはない。それはちょうど、一本の灯火の火から、たくさんの人が来て灯火を分けてもらって持ち帰り、料理をしたり、暗闇を明るくしても、最初の灯火は少しも減らないようなものだ。
幸せもそのように、分かち与えるほどよいのだ」
ということです。
しかも、法施の相手は、三田に限られませんので、対象は全人類です。
お釈迦様が一生涯説き明かされた仏教を、
私たちも一生懸命話をするのがいいのです。
人間のできる最高の善
財施もすばらしいのですが、
法施はさらにすばらしい善です。
『ダンマパダ』(『法句経』)には、このようにあります。
教えを説いて与えることはすべての贈与にまさる。
(引用:『ダンマパダ』354)
これは、法施は一切施中に勝る、ということです。
でも、法施は話をすることですが、それよりもお金や物をあげたほうがいいのではないでしょうか。
お釈迦様の当時もそう思った人がいたようで、
同じようなことをお釈迦様に直接尋ねた人がいると、
パーリの『スッタニパータ』や『相応部』、漢訳の『雑阿含経』に説かれています。
ある時、お釈迦様が托鉢に行かれると、大勢の農夫が食事の準備をしていました。
お釈迦様が彼らの前に立たれると、その中の一人のバラモンが、
「これはこれはお釈迦様。
私は今、田んぼを耕して、種をまいているところです。
お釈迦様もたまには何か生産されたらどうですか?」
と言うと、お釈迦様はこのように答えられています。
我もまた田を耕し、種を下ろすなり。
(漢文:我亦耕田下種)(引用:『雑阿含経』)
これは、私もまた、田んぼを耕して、種をまいている、ということです。
でも、お釈迦様が農作業をされているのを見かけた人は誰もいません。
農夫は
「はあ?じゃあお釈迦様、お釈迦様の田んぼはどこにあるんですか。
農作業に必要な牛とか鋤とかはどこに持ってるんですか?」
とツッコミを入れると、
お釈迦様は毅然として、こう答えられています。
「私は、忍辱という牛と、精進という鋤を持って、人々の心田を耕し、真の幸福になる種をまいている」
それを聞いたバラモンは、この言葉の意味が分かり、
なるほどお釈迦様はすばらしい種まきをされている、と納得し、
仏弟子になったといわれます。
(出典:『雑阿含経』)
このように、お釈迦様の田んぼは人々の心田であり、牛は忍辱、鋤は精進です。
そして、すべての人が本当の幸せになれる種をまいておられるのです。
お金や食べ物の喜びは一時的で、本当の幸せにはなれませんから、
真の幸福を説かれた仏教を伝えるのは、それよりももっとすばらしい種まきなのです。
このことを『大般若経』には、こう説かれています。
財施はただよく世間の果を得るのみ。
人天の楽果はかつて得るも還た失し、
今しばらく得といえどもしかも後必ず退す。
もし法施をもってせば未だかつて得ざるものを得、
いわゆる涅槃なり。
(漢文:財施但能得世間果 人天樂果曾得還失 今雖暫得而後必退 若以法施得未曾得 所謂涅槃)(引用:『大般若経』)
これは、財施もすばらしいけれども、その結果は世間的な幸せを得るだけである。
たとえ人間界や天上界の楽しみを得たといっても、また失われてしまい、しばらくあってもやがて必ず色あせる。
もし法施をすれば、いまだかつて得たことのない幸せを得られる。
それは、涅槃である、ということです。
これを分かりやすく言った言葉に、こんな言葉があります。
財は一代の宝 法は末代の宝
「財は一代の宝」とは、
お金や物を与える財施は、
相手を生きている間だけ
喜ばせるものだということです。
お金をもらうと喜びますが、
お金は、死んでいくときは持っていけません。
生きている間だけの宝ですから、
しばらくの間、一時的に私を喜ばせるものです。
ところが「法は末代の宝」といわれるのは、
法施を受けて、仏教を聞くと、
絶対の幸福に生かされますから、
不滅の幸せを頂くことになります。
永遠に変わらない幸せを頂くということは、
末代の宝を施されるということです。
そんな50年や100年の宝ではありません。
火事にあって焼けることもなければ洪水に流されることもない、
泥棒にとられる心配もない、
死によっても崩れない絶対の幸福です。
ですから、仏教を聞かせて頂くということは、
何千万円のお金をもらうよりも、
もっともっと幸せなことなのです。
ですから法施は財施よりもケタ違いにすばらしい
布施行なのです。
ただ、法施をするには、本当の仏教には何が教えられているのか
知らなければなりませんので、絶対の幸福になれる教えを分かりやすく
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ぜひ読んでみてください。
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この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか一人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。インターネットの技術を導入して日本仏教学院を設立。著書2冊。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者3千人、メルマガ読者5万人。ツイッター(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)