人生このままでいいのか
「このままでいいのか」
「人生このままで、よかったと言えるだろうか」
仕事の帰りに、電車の窓に映った自分の顔を見た時。
日曜日の夜に、明日の予定を確かめている時。
同級生の近況を、ネットで何気なく見かけた時。
ふと、思います。
「このままでいいのだろうか」
何か大きな不満があるわけではありません。
仕事はそれなりにこなしていて、暮らしにもさほど不自由がありません。
それでも、この先の10年が、今日と同じように過ぎていくのかと思うと、
どこか落ち着かない感じがします。
なぜこういう気持ちが起きるのか、
調べてみると、答えは大体2つに分かれます。
「そのモヤモヤは、現状を変えたいという前向きなサインです。
自分の価値観を知って、行動を変えましょう」
「人と比べるから不安になるのです。
今の自分を認めてあげましょう」
どちらも、もっともだと思います。
ところが、どちらかを選んで、しばらくは落ち着いても、
何年かすると、また同じところに戻ってきてしまいます。
なぜそのようになってしまうのでしょうか。
そして、「人生このままでいいのか」という問いには、
どうすれば答えが出るのでしょうか?
「このままでいいのか」は20代にも50代にも来る
「このままでいいのか」という気持ちは、ある年代だけのものではありません。
きっかけは年代によって違いますが、
同じような感情が、姿を変えて何度もやってきます。
20代・30代の「このままでいいのか」
20代では、就職して3年ほど経ち、仕事を一通り覚えた頃にやって来ます。
覚えることがなくなると、先が見えてきます。
隣の席の先輩が5年後の自分に、上司が10年後の自分に見えてきます。
「自分も、あの席に座って、同じ話をしているのだろうか」
そう思った時に、最初の「このままでいいのか」が顔を出します。
30代になると、周りが動き始めます。
転職した同期、家を買った友人、起業した知り合い。
そうすると、自分だけが同じ場所に立っているような気がしてきます。
30代でこう思うのは、どこかおかしいのだろうかと心配になるかもしれません。
ですが、少しもおかしなことではありません。
この先の40代にも、50代にも、同じ気持ちがやって来ます。
40代・50代の「このままでいいのか」
40代になると、自分の行き着く所が見えてきます。
役職も年収も、大体このあたりで止まる、という見当がつきます。
階段を上がる時の息の切れ方で、若い頃とは違うことも分かってきます。
「この先は、もう大きな変化はないのか」
そう思った時の「このままでいいのか」は、20代の時よりも重くなります。
50代になると、定年までの年数を、指で数えられるようになります。
親を見送ったり、同級生の訃報を聞いたりすることも増えてきます。
今までの人生もあっという間だったので、
「このまま、あと何年かで終わっていくのか」
問いの向きが、少しずつ、自分の人生の終わりのほうへ向いてきます。
40代で急に人生を見直したくなる、いわゆる中年の危機については、
以下の記事で解説しています。
➾ミッドライフクライシス(中年の危機)とは?原因・症状と乗り越え方
思い返してみると、前にも一度、同じことを考えたことはないでしょうか。
その時は、何かを決めて、それで片が付いたはずでした。
異動を願い出たり、資格の勉強を始めたり、
「今はこれでいい」と自分に言い聞かせたりして、
しばらくは落ち着いたような気がしました。
それなのに、何年かすると、また同じ問いが戻ってきています。
では、一度片が付いたはずの問いが、なぜ何度も戻ってくるのでしょうか。
変えても受け入れても、また戻ってくる
「このままでいいのか」と思った時に、世間でよくいわれる答えは、
正反対の2つのことです。
まず1つは、「変えなさい」というものです。
自分の価値観を書き出し、理想の自分を思い描いて、
そこから逆算して、転職や副業や引っ越しに踏み出しなさい、というものです。
これは、確かに一理あります。
実際に仕事を変えて、見違えるように生き生きとした人もいます。
場所を移せば、景色が変わり、会う人も変わります。
新しい職場での1年目は、覚えることに追われて、
「このままでいいのか」と考える暇もありません。
ところが、3年もすると、新しい職場にも慣れてきます。
仕事を一通り覚えて、先が見えてきた頃、
帰りの電車の中で、あの気持ちが同じように戻ってきます。
変えたのは、問いが出てくるまでの時間であって、
問いそのものは、少しも変わっていませんでした。
もう1つの答えは、「このままでいいと思いなさい」というものです。
人と比べるから不安になるのであって、
今あるものに目を向ければ、十分に恵まれていることが分かる、というわけです。
これにも、頷けるところがあります。
比べるのをやめると、確かに気持ちは楽になります。
手に入らないものを追いかけて疲れるより、ずっと穏やかに暮らせます。
ところが、例えば同窓会の帰り道はどうでしょうか。
自分より少し先を歩いている同級生の話を聞くと、
「今のままで十分だ」と言い聞かせてきた気持ちが、
思っていたより簡単に揺らぎます。
中くらいで満足していると言いながら、
自分よりちょっと上の人を見ると、自分もそうなりたいとか、
さらに追い越したくなるのが私たちです。
「足るを知る」という言葉の本当の意味については、
以下の記事で解説しています。
➾足るを知るの本当の意味と誤解|足るを知る生き方とは?
この2つは、正反対に見えます。
ですが、よく見ると、同じところで止まっています。
変えるのは、今いる所から移ることです。
受け入れるのは、今いる所に腰を落ち着けることです。
どちらも、「このまま」の中身を、今の仕事や暮らしのことだと思っている点では同じです。
そして、どちらを選んでも、問いはしばらく落ち着きます。
落ち着くので、答えが出たように感じます。
しかし、落ち着いたのと、答えが出たのとは違います。
何年かして戻ってくるのは、
落ち着いただけで、まだ答えを見つけていないからです。
何度も同じ問いが戻ってくるのは、
選び方が良くなかったからではありません。
変える道を選んでも、受け入れる道を選んでも、
同じように戻ってきていたはずです。
では、「このままでいいのか」という問いは、
本当は何を聞いている問いなのでしょうか。
「このままでいいのか」を最後まで言うと
「このままでいいのか」というのは、途中で止まっている問いです。
何を「このまま」にしておいていいのか、が抜けています。
抜けているところを、最後まで言い切ってみると、中身が見えてきます。
そうやって問いを先へ先へと進めていった人に、
ロシアの文豪、トルストイ(1828-1910)という人がいます。
『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』を書いて、世界中にその名を知られ、
広い領地と、大勢の家族に囲まれていた頃、
何を考えていても、ふと、こんな問いが割り込んでくるようになりました。
「よろしい、お前はサマラ県に6000デシャチーナの土地と、300頭の馬を持つことになるだろう。それで、その先は?」
子どもたちをどう育てようかと考え始めると、「何のために?」と自分に言うのだった。
自分の作品がもたらす名声のことを考えると、
「よろしい、お前はゴーゴリよりも、プーシキンよりも、シェイクスピアよりも、モリエールよりも、世界中のどの作家よりも有名になるだろう。それがどうしたというのだ」と言うのだった。(出典:トルストイ『懺悔』)
6000デシャチーナは、およそ65平方キロメートルで、
東京の山手線の内側と同じくらいの広さになります。
トルストイは、世間でいう「理想を思い描いて、そこへ向かって進む」を、
行けるところまで行った人です。
土地も、名声も、家族も、望んだものはほとんど手に入れていました。
それでも、「その先は?」と問いをもう一歩先に進めた途端に、
何も答えられなくなったのです。
私たちの「このままでいいのか」も、同じように、一歩ずつ先へ進めてみます。
「このまま、この仕事を続けていていいのか」
これなら、転職するか、しないかで答えが出ます。
「このまま、この暮らしのままで年を取っていいのか」
これも、どこかを変えるか、今のままでいいと受け入れるかで、
ひとまず答えが出ます。
「このまま、何のために生まれてきたのか分からないまま、一生を終えていいのか」
ここまで来ると、変えても、受け入れても、答えが出ません。
仕事を変えても、暮らしを受け入れても、
何のために生まれてきたのかは、分からないままです。
ふとした時に心に浮かぶのは、手前の2つではありません。
一番奥の、この3つ目の問いです。
手前の2つにいくら答えても、しばらくすると同じところに戻ってくるのは、
はじめから、奥の問いを聞いていたからです。
そう考えると、年代ごとにバラバラに見えていたものが、1本につながります。
20代で先輩の姿を見た時の問いも、
30代で周りが動き始めた時の問いも、
40代で行き着く所が見えた時の問いも、
50代で定年までの年数を数えた時の問いも、
転職して3年目に戻ってきた問いも、
すべて、同じ1つの問いの、別の入り口でした。
世間の答えが「変える」か「受け入れる」かの2つしかないのは、
手前の2つの問いには答えがあって、
3つ目の問いには答えを持っていないからです。
転職の本にも、自己分析の本にも、
何のために生まれてきたのかは書かれていません。
書けるところまで問いを短くすると、「変えるか、受け入れるか」になります。
生き方をどう選べばいいのかについては、以下の記事で解説しています。
➾どんな生き方をすればいいか知る方法|仏教が教える生きる目的と生き方の関係
トルストイは、その問いを振り返って、こう書いています。
はじめは、ばかばかしい、子どもじみた問いに思えた。
ところが、答えを出そうと手をつけた途端に、
それは子どもじみた問いなどではなく、
人生で最も大切で、最も深い問いだと思い知らされた、と。
では、その最も大切な問いは、なぜいつも後回しになってしまうのでしょうか。
何よりも急ぐべきことを説かれたお経
「このままでいいのか」と思っても、次の日の朝には
また仕事が待っています。
暮らしが落ち着いたら、ゆっくり考えようと思うのですが、
そういう日は、なかなか来ません。
お釈迦さまは、そんな私たちの毎日を、
『大無量寿経』にこう説かれています。
世人、薄俗にして、共に不急の事を諍う。
この劇悪極苦の中において、身の営務を勤めて、もって自ら給済す。
(漢文:世人薄俗,共諍不急之事。於此劇悪極苦之中,勤身営務,以自給済)(出典:『大無量寿経』)
「世人」とは、世の中の人々のことです。
「薄俗」とは、考えが浅く、目先のことにとらわれているということです。
何のために生まれてきたのか少しも考えず、目の前の仕事に気を取られて、
「共に不急の事を諍う」とは、みんな急がなくてもいいことを争っている、
今の生き方を変えようか、受け入れようかと、どう生きるかばかり考えている、
ということです。
「劇悪極苦」とは、激しい悪と、極まりない苦しみのことです。
極めて激しい悪や苦しみの世の中を厭いもせずに、
「身の営務を勤めて」とは、身を養うために働いて、
「もって自ら給済す」とは、それで自分の暮らしを立てている、
ただ生きるために生きている、ということです。
朝起きて、働いて、暮らしを立てる。
そのために、評価を争い、昇進を争い、少しでもいい条件を争う。
どれも、その日その日は大事なことです。
ですが、その中で、一番急がなければならない問いだけが、
いつも「落ち着いたら」と後回しにされています。
後回しになるのは、怠けているからではなく、
毎日が、急がなくてもいいことで埋まっているからです。
では、急がなければならないこととは、何なのでしょうか。
お釈迦さまは、『大無量寿経』の最後に、こう説かれています。
歓喜踊躍し、乃至一念すること有らん。
当に知るべし。
この人は大利を得と為す、すなわちこれ無上の功徳を具足するなり。
この故に弥勒、設い大火有りて三千大千世界に充満せんに、要ず当にこれを過ぎてこの経法を聞き、歓喜信楽すべし。
(漢文:歓喜踊躍,乃至一念。当知。此人為得大利,則是具足無上功徳。是故弥勒,設有大火充満三千大千世界,要当過此聞是経法,歓喜信楽。(出典:『大無量寿経』)
これは、躍り上がって喜ぶ一念の瞬間がある。
まさに知らねばならない。
この人は、変わらない幸せを得たのであり、
最高無上の功徳と一体になったのである。
だから弥勒よ、大きな火が大宇宙に充満しても、
必ずこの火の海原を突き抜けてこの教えを聞き、
変わらない幸せになりなさい、といわれています。
この無上の功徳と一体になり、変わらない幸せを得た瞬間、
「人間に生まれてよかった」という大満足の身になれます。
これはだんだん幸せになるとか、じわじわ幸せになるのではありません。
水際立って躍り上がって喜ぶ一念の瞬間があります。
それからは何があっても変わらない、
死がきても崩れない幸せになれます。
だから、大宇宙が火の海になっても、
必ずそこを突破して、この教えを聞けと言われるのです。
この幸せの身になることが、
人間に生まれてきた目的なのだと仏教では教えられています。
このままで「生まれてきてよかった」と言える
「このままでいいのだろうか」という問いに対して、
世間でいわれる答えは、「変えなさい」か「このままでいいと思いなさい」という2つでした。
仏教に説かれているのは、そのどちらでもありません。
仏教では、今の仕事を変えなくても、今の暮らしに無理に満足しようとしなくても、
そのままで、「人間に生まれてよかった」と
心から大満足できる世界があると教えられています。
先の見えた仕事も、年を重ねていく体も、
消えてなくなるわけではありません。
ところが、そういう一切の苦しみ悩みがありながらも、
それがそのまま苦しみとならない世界があり、
その世界へ出れば、変わらない幸せの身になれます。
世間でいう「このままでいい」というのは、
答えが出ないまま、ひとまず問いをおさめる言葉です。
仏教でいう「このままで」は、答えが出た時の言葉です。
同じ「このまま」でも、中身はまったく違います。
何度も「人生このままでいいのか」という問いを発してきた心は、
本当は、この答えを求めていたのではないでしょうか。
そうなるのに、条件はありません。
どんな人でも、この本当の幸せになることができます。
そしてこれは、死んでからの話でもありません。
生きている今、今の仕事を続けながら、今の生活のままで、
明るく楽しい人生を生きられるようになります。
では、その身になるにはどうすればいいのかというと、
果てしない過去から私たちを苦しめ続けている
苦悩の根元があるので、それを知り、
それを断ち切らなければなりません。
では、その苦悩の根元とはどんな心なのか、
どうすれば断ち切れるのか。
それについては仏教の真髄なので、
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この記事を書いた人
長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)
東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細・お問い合わせ
X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)
京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作に引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。

