苦しくても我慢して、辛い思いをしてまで生きる意味はあるのか
「こんなに我慢してまで、なぜ生きなければならないのか」
「辛い思いをしてまで、生きる意味があるのだろうか」
歯を食いしばって、なんとかやり過ごしてきた。
言いたいことも飲み込んで、笑ってやり過ごしてきた。
そんな日が続いた夜に、ふとそう思われたのではないでしょうか。
周りに言えば、たいてい返ってくる言葉は決まっています。
「みんな我慢してるよ」
「そのうち報われるから」
ですが、その「そのうち」は、いつ来るのでしょうか。
我慢しても、我慢しても、終わりが見えない。
それどころか、1つ乗り越えると、次がやってくる。
そう感じておられるなら、その感じ方は間違っていません。
ではなぜ、我慢しても我慢しても終わらないのでしょうか?
そして仏教では、この苦しみをどう説かれているのでしょうか。
苦しいのは、あなただけではない
「あなただけじゃないよ」
そう言われても、慰めにはならないと思います。
ですから慰めではなく、事実として見ていきます。
恵まれた人ほど「苦しかった」と書き残している
私たちは、苦しいのは自分の境遇が悪いからだと思いがちです。
お金があれば、
才能があれば、
認められていれば、
きっと、こんなに我慢しなくてすむのに、と。
ところが、それを全部持っていた人たちが、何と書き残しているでしょうか。
芥川龍之介人生は地獄よりも地獄的である。
(出典:芥川龍之介『侏儒の言葉』)
地獄とは、苦しみの絶えない世界のことです。
その地獄でさえ、苦しみと苦しみの間には、ひと息つく間があると芥川は考えていました。
ところが人生はどうか。
1つの苦しみが終わったと思ったら、すぐ次がやってくる。
やれやれと一息つく間もない。
だから人生のほうが、地獄よりもひどいではないか、というわけです。
夏目漱石人間は、生きて苦しむための動物かもしれない。
(夏目漱石)
これは、妻にあてた手紙に書かれた言葉です。
人間は何のために生まれてきたのか、
何のために生きているのか。
それは苦しむためだ、と。
お札に肖像が使われるほどの人が、そう書いています。
お金にも名誉にも不自由しなかった人が、私の人生は苦しみの連続だった、と言っています。
林芙美子花の命は短くて 苦しきことのみ多かりき
(林芙美子)
自由奔放に生きたといわれる作家の言葉です。
やりたいことを思う存分やった人が、
振り返ってみれば苦しいことばかりだった、と言っています。
自由に生きた人でこれなら、
思い通りにならないことばかりの私たちは、どうなるでしょうか。
仏教でも「人生は苦なり」と説かれている
そしてこれは、2600年前から言われていることでもあります。
お釈迦さまは「人生は苦なり」と説かれました。
生まれてから死ぬまで、苦しみが絶えないのが人間である、と。
そしてその苦しみを、8つに分けて教えられています。
どんな苦しみがあるのかは、以下の記事で詳しく解説しています。
➾四苦八苦とは?8つの苦しみの意味一覧|苦しみが尽きない根本原因
つまり、あなたが感じておられることは、
気のせいでも、心が弱いからでもありません。
人間はそういうものだと、はじめから説かれているわけです。
我慢しても終わらないのはなぜか
では、なぜ我慢しても我慢しても、終わりが来ないのでしょうか。
有っても苦しみ、無くても苦しみ
お釈迦さまは、その理由を漢字4字で説かれています。
「有無同然」です。
田あれば田を憂え、宅あれば宅を憂う。
(漢文:有田憂田 有宅憂宅)(出典:『大無量寿経』)
田んぼがあれば、田んぼがあることを憂う。
家があれば、家があることを憂う。
無ければ無いで苦しみ、有れば有るで苦しむ。
だから有っても無くても同じだと説かれています。
思い当たることはないでしょうか。
マイホームが欲しいと思っている間は、無いことが苦しい。
ところが手に入れば、今度はローンが重くのしかかる。
簡単に引っ越せないので、隣に苦手な人がいても逃げられません。
子供がいない人は、いないことで苦しみます。
子供ができれば、今度はその子のことで苦しみます。
結婚しなければ、寂しくて苦しい。
結婚すれば、相手のことで苦しい。
どちらを選んでも、苦しみからは逃れられません。
ですから、あなたの我慢が足りないのではありません。
我慢の量を増やしても、そもそも出口がないということです。
求めているものは、手に入らない
もう1つ、理由があります。
生きるということは、何かを求めるということです。
何も求めずに生きている人は、1人もありません。
寝たきりの方は、健康を求めておられます。
何もする気が起きない人も、楽になることを求めています。
政治も、経済も、科学も、医学も、何かを求めてのことです。
ところが、求めているものが手に入ることは、めったにありません。
入りたい学校に入れない、
なりたい役職になれない、
振り向いてほしい人が振り向いてくれない。
しかも、たとえ手に入っても終わりません。
手に入れた瞬間に、思っていたほどではなかったと気づく。
そしてまた、次のものを求め始めます。
求めても得られず、得ても満たされない。
これが死ぬまで続きます。
世間は「死ぬまで求め続けるのが立派」という
ここに、大きな落とし穴があります。
世間では、この終わらない状態を美しいことだといいます。
剣道でも、柔道でも、書道でも、どんな道でも同じです。
日本一になっても、世界一になっても、
「まだまだだ」「道は奥が深い」といわれます。
そして、死ぬまで極めようとし続ける人が、
立派だ、尊いと評価されます。
これを「死ぬまで求道」といいます。
科学も同じです。
これで終わったということがありません。
医学も、どこまで進歩しても終わりが来ません。
ですが、少し立ち止まって考えてみてください。
求めているのに、死ぬまで得られない。
得られないものを求め続けるのは、苦しいことです。
その苦しみが死ぬまで続くことを立派だというなら、
それは死ぬまで苦しみ続けるのがよいことだと言っているのと同じではないでしょうか。
では、私たちは苦しむために生まれてきたのでしょうか。
苦しむために働いているのでしょうか。
医学が命を延ばすのは、苦しむ時間を延ばすためでしょうか。
そんなはずはありません。
ではなぜ世間は、終わらないことを美しいというのでしょうか。
理由は、はっきりしています。
終わらせる答えを、誰も持っていないからです。
答えがないのであれば、求め続けること自体を尊いことにするしかありません。
そうすれば、答えが見つからないことは失敗ではなくなります。
「まだ努力が足りない」
「まだ道半ばだ」
そう言い続けていられます。
よくできた仕組みだと思います。
ですが、その中で耐えている人は、いつまでも報われません。
「我慢してまで生きる意味があるのか」
あなたが行き当たった問いは、ここに触れています。
世間の常識どおりに我慢し続けても、行き先がないのです。
「我慢すればいつか報われる」は本当か
「みんな我慢している」
「そのうち報われる」
よく言われる言葉です。
言っている人に悪気はありません。
実際、その人もそう言い聞かせて耐えてきたのだと思います。
ですが、この言葉には肝心なものが抜けています。
いつ、何をもって報われるのかが示されていません。
ゴールの見えないマラソンを走らされている人に、
「もう少しだから頑張れ」と声をかけるようなものです。
「もう少し」が何キロなのかを誰も知りません。
報われる保証のない我慢は、我慢ではなく、ただの消耗です。
そして消耗しきった時に出てくるのが、
「ここまでして、なぜ生きなければならないのか」という問いです。
ですからこの問いは、弱音ではありません。
真面目に耐えてきた人だけがたどり着く場所です。
仏教では「苦しみがなくなる」と説かれていない
では、仏教を聞けば苦しみがなくなるのでしょうか。
ここははっきり言います。
なくなりません。
仏教では、人生を海にたとえて説かれています。
これを「難度海」といいます。
渡るに渡れない、苦しみの波の絶えない海、ということです。
愛する人と別れる波、
嫌な人と顔を合わせる波、
求めても手に入らない波、
年をとり、病気になり、やがて死んでいく波。
その波は、次から次へと打ち寄せてきます。
仏教を聞いたからといって、この波が静まるのではありません。
がっかりされたでしょうか。
ですが、苦しみが消えると言われて、消えなかったらどうでしょう。
そのほうが、よほど残酷です。
仏教は、そこをごまかしません。
波はそのままで明るく渡れる
では、苦しみが消えないなら、何が変わるのでしょうか。
仏教では、その苦しみの海を渡す大きな船があると説かれています。
大きな船に乗ったからといって、波が静まるのではありません。
波の大きさが小さくなるのでもありません。
波は、乗る前も乗った後も、まったく同じです。
変わるのは、波ではなく、その波の上をどう渡るかです。
小舟で荒波にもまれている姿を思い浮かべてみてください。
波が来るたびに、沈むのではないかと身をすくめます。
入ってきた水をかき出し、必死に船べりにしがみつく。
次の波が来ないうちに、と息を整える間もありません。
景色を見る余裕など、あるはずもない。
これが、今の我慢の姿ではないでしょうか。
沈まないように耐えているだけで、精一杯になっている。
ところが大きな船に乗れば、同じ波が来ても沈みません。
揺れはします。
ですが、沈む心配がないので、身をすくめる必要がない。
甲板から、四方の景色を眺めながら渡っていけます。
波が小さくなったから楽になったのではありません。
乗っているものが違うから、同じ波の意味が変わったのです。
同じ波が、同じ強さで打ち寄せているのに、
明るく楽しく渡っていける。
仏教で説かれているのは、そういう世界です。
我慢して耐えるのではない世界
この世界を、仏教では「無碍の一道」と説かれています。
「碍」とは、さわり、さまたげのことです。
「無碍」とは、さわりがない、ということ。
ただし、さわりが無くなるのではありません。
さわりはそのままあって、それがさわりにならないのです。
ですから、歯を食いしばって耐えるのとは違います。
耐える必要がなくなる、といったほうが近いかもしれません。
苦しいことは、そのままあります。
嫌な人とも会いますし、思い通りにならないことも起きます。
ところが、それが幸せを壊さない。
苦しみが絶えないまま、幸せになれる。
これが仏教に教えられている、人間に生まれた目的です。
「我慢してまで生きる意味があるのか」
そう問われたあなたが、本当に探しておられたのは、
我慢の続け方ではないはずです。
では、どうすればその大きな船に乗れるのでしょうか。
仏教では、私たちの苦しみを生み出している大もとがあると教えられています。
「苦悩の根元」です。
この苦悩の根元がなくなった時、無碍の一道に出ることができます。
そしてこれは、死んでからの話ではありません。
生きている今、出ることのできる世界です。
では、その苦悩の根元とは何なのか、
それが、どうすればなくなるのか。
それについては、仏教の真髄なので、
メール講座と、電子書籍にまとめてあります。
どちらも無料ですので、一度見てみてください。
関連記事
この記事を書いた人
長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)
東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細・お問い合わせ
X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)
京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作に引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。


